雪子
もう二点ほど言及したい箇所がある。一つは実質的な主人公の雪子だ。
雪子は姉妹の中で一番美しく、おとなしいが、秘められた意志が一番強いキャラクターとして設定されている。「細雪」という作品の中心にいるのは雪子だろう。彼女のお見合い話が作品の中心点だ。
雪子には何度もお見合いの話が来るがいつもうまくいかない。トラブルが起こったり、雪子の方で拒否したりする。雪子の見合いはズルズルと先延ばしになる。ラストでは、うまくいったかに見えるのだが、雪子は結婚式の直前で下痢になり、汽車の中でも下痢は止まらない…という所で作品は終わっている。
作品のこの終わらせ方は見事だと思う。源氏物語の終わり方に学んだのだろうと自分は見ているが、余韻を残しつつ、先の運命を暗示してそっと終わる。ここも、西洋の作品のようにはっきり結論を出すわけではない日本的な感性が入り込んでいる。絵巻物のように生活を広げておいて、その両端は淡くぼかさせて自然の中にそっと溶け込ませていく。ふーむ、見事な、と思う。
雪子に戻る。雪子は最後、汽車の中でも下痢が止まらない、となっている。ここでは、彼女の表層的な意識と無意識が乖離している、と見ていいかと思う。つまり、雪子は本心では嫁に行きたくないのだが、表面的には行きたいと思い込んでいる。
僕は、雪子というキャラクターは、「主体」に位置するような人物と見ている。イプセンの「人形の家」では、ノラは家を飛び出るのだが、雪子は飛び出たりしない。イプセンに影響を受けた漱石も、「それから」で主人公代助を安穏とした生活を捨てるように仕向けている。ここには主体としての活動が社会秩序と矛盾するというドラマが描かれている。
では雪子はどうなのだろう。そのあたりも微妙な均衡でもって作品は作られていく。この均衡がどちらの方向に転んでも、作品は違う雰囲気のものになってしまうだろう。
つまり、ただ生活を描いただけの、完全風俗描写に偏ったものか、それとも西洋近代文学のような、主体性ある個人の葛藤などが問題となっていく。谷崎はどちらにも行かず、真ん中に雪子というキャラクターを置き、雪子が遂に自分の主体を発揮する事はないが、その周囲に自然や人間の様々な生活相が置かれていく。フローベール「ボヴァリー夫人」などと比較するとそれははっきりする。ボヴァリー夫人は破滅まで行くが、「細雪」はそこまでは描かない。長く棚引く雲の行く末が地上の人間には遂に見極められないのと同じように、それぞれの運命は生活や自然の中に静かに巻き取られ、遂には淡いピンク色の中にぼやけて消えていく。
このあたりの微妙な均衡の上に作品は作られていく。ここに、作品に対する不満と満足が同時に発生する。ドラマをとことん突き詰めない所に不満が生じ、また、様々なものを包み込んだ自然の中に個人の運命を巻き取らせていく点に、我々の中の日本人的生理が満足する。