萌え
日本近代文学の大御所であるところの、川端・三島・谷崎に自分はあまり興味を覚えてこなかった。日本の近代文学を考える時、漱石・鴎外を頂点に徐々に下がっていく系列を自分の中で想像する。更に言えば、漱石を頂点として、太宰治と小林秀雄の三人で三角形を作り、その範囲が一番、文学の本質に響くと考えている。
これは何故そう思うのかと言うと長くなるので省くが、とにかく谷崎潤一郎も川端康成も、世評と違って自分の興味の網にかかってこなかった。しかしどういうわけか、谷崎潤一郎の「細雪」だけは別らしい。これは他の作品と違って愛好できるものになっている。これは不思議だが、事実だ。
「細雪」とはどういう作品か。まだ読んでいない読者に紹介するなら、『日常系萌えアニメ』と思ってもらえばよろしい。え? ふざけんな?と言われるかもしれないが、実際、美人の四姉妹を出して、そこに作者・谷崎が萌えながら書いているのは明白だ。文豪が我々に送ってくれた、立派な日常系萌えアニメとしての「細雪」。そういう見方をしてもそこまで悪くないと思っている。もちろん、それだけには収まらない部分もある。
例えば、序盤で、最重要キャラクターの雪子が足でうさぎの耳をパタンと閉じるシーンがある。このシーンなどは明らかに「萌え」的場面だと思う。美しい姉妹を出してその姿に作者(=おじさん=谷崎)が萌える、そういう書き方をしている。
ただ、その萌えがただのオタク的萌えなら、「細雪」が傑作にはなるはずはない、と誰もが思うだろう。これはそのとおりで、この一家のような安定したブルジョア的性質が失われていく事、その事に対する作者の鋭敏な感覚が背後で光っているから作品全体が象徴としての価値を帯びてくる。作者は、関西の富裕な家が次第に落ちていく様子を描きながら、そこに失われていく日本の美があるのだと感じていた。
ただ、偏狭なナショナリズムに陥らないように「日本の美」というものが確固としてあるものではないと思い返す必要があるだろう。「日本の美」というのも概念で弄んでいる内はいいが、中に入ってみると、西洋的なものがあったり、近代的なものがあったり古代的なものがあったり色々だ。そういうものが絶対的にあるわけではないだろう。
谷崎がこの作品に込めた思想というのは明瞭だ。この本に興味のある人は序盤の、みんなで桜を見に行くシーンに目を通せばいい。そこが気に入れば間違いなく買いだろう。谷崎は次のような感性を登場人物に代弁させている。
(桜の花について述べる)
「少女の時分にはそれらの歌を、何という月並なと思いながら無感動に読み過ごして来た彼女であるが、年を取るにつれて、昔の人の花を待ち、花を惜しむ心が、決してただの言葉の上の「風流がり」ではないことが、わが身に沁みて分かるようになった。」
最初月並に見えていた桜の花が、年を取って、真に美しいものに見えてきたーー言われている事はこれだけだし、作品の背後の哲学も究極的にはこれに尽きている。だから、これだけなのか、これだけで偉大な長編小説の骨格になるのかと問われれば首をかしげたくなるが、それが、なるわけである。ここには概念的に分析してもわからないものがあって、それは、谷崎潤一郎自身のエロスに対する偏愛が年を取って、良い加減に萎びて、「細雪」のような傑作に昇華するーーそこには樹木の成長を見守るような、不思議な枯淡な味わいへと年輪が変化していく自然の作用がある。
これが作者の思想なのか生理なのか、そのあたりが微妙にぼやけているのが日本的なものの良い部分であり、苛立たしい所でもあるが、とにかく「細雪」はそのように成ってしまった作品である。これは、美事に枯れた樹を見るような味わいがあり、概念で分析すると内容は乏しいようだが、生理的には馬鹿にできないものが沢山入っている。だから、吉本隆明のように「こういうものは認められない」という気持ちもわからないのではない、という事になるだろう。