93. ファム、絶叫
※ 2017/12/30 後書きにFA挿入
オレの体が下り坂を滑り降りていく。
剣を突いて滑り降りるのを止めようかという考えが頭を過ったが、既にファムとラヴィが滑り落ちてしまっている。
二人のところに行くためにも、このまま滑り降りてしまうべきだと考え直し、オレは剣を鞘に収めた。
いつの間にか横幅がかなり狭まっていることに気が付いた。
直径一メートルくらいの、まるで太いチューブの中を滑り降りているみたいだ。
あちらの世界でのウォータースライダーに近い感じがする。
ただし、もちろんまわりに水なんかない。
だた滑走面が非常につるつるしていて滑りやすくなっている。
傾斜角度も結構あるように思える。
そのせいか、あちらの世界でのウォータースライダーとは比較にならないくらいのスピードが出ている気がする。
これも、あの迷宮の主が用意したトラップの一つなのか?
鼠の集団に襲わせ、逃げた先で足を滑らせ、そのままこのスライダーもどきで急降下させるって仕組か?
やってくれる!
オレ達は、まんまとそれに引っかかってしまったわけだ。
オレはどうにか足を先にする体勢に直し、スライダーを滑り降りながら、少し頭を持ち上げて、先の様子を確認しようとした。
まだ出口は見えない。
だが、大きく左にカーブしているように思う。
――くっ! 長い! 出口はまだか!
そう思った時、ドボンという音と「きゃっ」という小さな悲鳴が聞こえた。
先に滑り降りたファムとラヴィが、水にでも落ちたような音だ。
もしかして、出口の下は水なのか?
もしそうなら、高い所から放り出されるよりマシだ。
そのほうが、助かる可能性が高くなるはずだから。
頼む。二人とも無事でいてくれよ。
――っ! 出口が見えた!
急速に近付く。
オレはタイミングを計り、スライダーの出口で高く跳んだ。
下にはファムが、池のようなところに落ちている姿が見える。
動いている。大丈夫だ。生きている!
そのことにまずはほっとした。
少し先にラヴィがいる。
あの池には入っていないようだ。
オレと同じように、スライダーの出口で跳んだのかもしれない。
オレは着地したと同時に、二人に向かって叫んだ。
「ファム、ラヴィ、無事か! 怪我は無いか!」
近くにいるラヴィに視線を向けた。
見た目は特に問題なさそうに見える。
「アタシは大丈夫です。でもファムが……」
その言葉にドキッとしてオレはファムのほうに視線を向けた。
まさか、落ちた時にどこか怪我でもしたのか?
さっきちらっと見た時には大丈夫かと思ったんだが……
「ぬるぬるして気持ち悪い。なによ、これ……」
そこには緑色の液体のようなものを頭からかぶって立ちすくむファムの姿があった。
「ファム。怪我は? 大丈夫なのか?」
「怪我とかは無いわ。それは大丈夫。でも、この気持ち悪いの、一体何?」
ファムのその返答にまずはほっとした。
怪我が無いのは何よりだ。
だけど、確かにあれは何だ?
普通の水なんかじゃないことは確かだ。それは見て分かる。
緑色したオイルのような、ドロドロとしたもののようだ。
「みんな、大丈夫?」
「リオ」
リオがスライダーの出口から出てきて、そのままオレの左肩に止まった。
「あの鼠はどうなった? まさか追ってきているのか?」
「それは大丈夫。追ってきてないよ。どうやらこの滑り台には近寄らないよう、躾けられているみたい」
なるほど。
やはりあの鼠は、襲うのと同時に、あのスライダーに追い込むために用意されているってことか。
「ところでリオ。あの液体はなんだか分かるか?」
気持ち悪そうに顔をしかめながら、液体の匂いを嗅いでいるファムに視線を向けて聞いてみた。
「……それ、たぶん一角山羊の胃液だね」
――胃液!? まさか!
オレは慌ててファムの傍に駆けよろうとした。
ファムは頭からこの緑の液体をかぶっている。
これが何らかの胃液なんだとしたら、強い酸性で皮膚を、身体を溶かしてしまうのではないかと思ったんだ。
これは、あの迷宮の主とやらが仕掛けたトラップであることは明白だ。
それ以外には考えられない。
ならば、それくらいの危険なトラップはありえそうな気がした。
リオを襲ったあの炎、何匹もの超大型の大砂蛇、先ほどの灰小玉鼠など。
もうこの迷宮は最初に思っていたような、安全な迷宮なんかじゃないと分かったんだから。
だが、それに対してリオが落ち着いた声で教えてくれた。
「大丈夫だよトーヤ。あれは人体には悪影響は無いから」
――え?
オレは一歩踏み出したところで立ち止まり、リオに視線を向けた。
「悪影響が無い? そうなのか?」
「うん」
リオがそう言うのなら間違いはないだろう。
そう思って、オレはほっとしたよ。
だとしたらあれは、もしかしてただの嫌がらせか?
迷宮の主の言動を思い出してみると、なんとなくだが、そういうこともやりそうな気がしてくる。
どこかでこの様子を見ていて、今まさに高笑いでもしているのかもしれない。
なんて意地の悪い、はた迷惑なヤツだ。
「ただ……」
ん?
オレは言葉を続けたリオのほうに振り向いた。
その時、ボトッと音がした。
何かが液体に落ちたような音。
それがファムのいるほうから聞こえた気がして、オレは反射的に再びそちらへ視線を向けた。
――へっ!?
それを見た時、オレの思考は一瞬止まった。
…………………………………………は?
いや、オレだけじゃない。
ラヴィもまた、足が止まり、ファムに向けられていた手の動きが止まっていた。
そんな中、リオの苦笑気味な言葉が聞こえてくる。
「ああ、やっぱそうなっちゃったか。これももちろん、迷宮の主の嫌がらせってことだろうね」
ちょっとリオさん?
なんでお前はそんな冷静なの?
って、人じゃないから?
頭の隅で、そんなことを考えている自分がいる。
だけど、オレの意識のほとんどは目の前のファムに向けられていた。
でも、一応言い訳させてくれ。
オレはただ、状況が飲み込めなかっただけなんだ。
今自分の目の前に起きていることが何なのか、理解できなかったんだ。
それだけなんだよ。
全く他意は無いんだ。
邪な気持ちじゃなかったんだ。
ホントの、ホントに、ホントなんだ。
信じて欲しい。
……特にファムには。
「どうしたの? ラヴィもトーヤも。何か変よ?」
いや、変なのは、お前なんだファム。
正確には、お前のその恰好なんだ。
だけど、オレはそれを声に出せなかった。
「トーヤ? いつまでも惚けていないで、そろそろ後ろを向いてあげたら?」
――っ!?
オレはリオのそのセリフにようやく我を取り戻した。
慌ててファムから視線を外し、後ろを向く。
「何? どういうこと?」
ファムはいまだに状況が飲み込めていないらしい。
「ラヴィもそろそろ正気になってよ。それとファム。自分の恰好を見てごらんよ」
「自分の、恰好……?」
「一角山羊の胃液は、確かに人体に悪影響は無いんだけど、植物繊維を急速に分解するんだ。だからね。そんなふうに、衣服が溶かされちゃうんだよ」
ファムの、息を呑む気配を感じた。
そして数秒後、迷宮の中に、これまで聞いたことが無い程大きな大きなファムの絶叫が響き渡った。