55. リンゴの酒を飲みながら[後篇]
オレは手にしていたグラスを思わず落としそうになってしまった。
それを見て、ファムの目が細まった気がする。
「……ふーん。動揺しているのね」
「ちょ、ちょっと待て。誤解だ。オレは何も……」
へ、変だ。いつものファムじゃない気がする。
ファムはこんな……って、酔っているのか!
もしかしてこの酒、飲みやすいけど、アルコール度数が高いんじゃないか?
「うふふ。冗談よ。ちょっとラヴィの真似をしてみただけ。でも、そんな動揺したトーヤは、初めて見れたわ」
「あ、悪趣味だぞ……」
「ふふふ。怒った?」
「いや、そういうわけじゃないが……」
やっぱり酔ってるな。絶対いつものファムじゃない。
「そうね。あなたはその程度じゃ怒らないわね……」
ファムが急に笑いを収めたと思ったら、再び目を伏せた。
「さっき、ラヴィとワタシの二人でトーヤの部屋に行ったのよ。でも貴方はベッドで寝ていたわ。だから、その場にいたリオにお願いしたの」
「お願い? リオに?」
「ええ、さっきあなた達が話していたことをしてくれって」
「話していたことって? 何のことだ?」
オレ達が話していたこと?
隣の部屋にいながら、オレ達の会話が聞こえたのか?
そんなにこの宿の部屋の壁は薄いのか?
それとも、獣人達の聞き耳スキルが高いのか?
いや、それより、あの時、オレ達は何を話していた?
……まさか。
「記憶操作……っていうの? ワタシ達から、狼人族に関する記憶を消してくれって」
――なっ!
オレは思わず立ち上がった。
「待って。していないわ。リオに断られたから。そんなことをしたら、トーヤは怒るし、悲しむからって」
「なんでそんなこと……」
なんで?
そんなの決まっている。
オレが困っていたからだ。
それ以外何があるっていうんだ。
迂闊だった。
聞こえているとは思っていなかったとはいえ、不用心すぎた。
もし聞こえていたらこうなるってこと、全然想像できていなかった。
ちゃんと止めてくれたリオには感謝だ。
「トーヤと旅を続けるために必要だと思っ……」
「――必要ない。そんなことする必要なんて全くない」
「でも……」
「頼むから、そんなことは止めてくれ」
「……いけないことなの? イヤだったことや怖かったことを忘れるのは?」
どう言えばいいだろう。
どう説明すれば、分かってもらえるだろう。
これは、オレ個人の倫理観に過ぎないのかもしれない。
それを、ここでうまく説明できる自信は無い。
無いが……
「全否定をするつもりはない。場合によっては、それこそ前を向いて生きていくためには、忘れることが必要なことだってあるかもしれない。だけど、だからって、簡単にしていいことじゃない。イヤなことを片っ端から全て忘れて生きていくなんてダメだ。そんなの、生きてるって言わない」
オレは、この世界に来た時のことをファムに話した。
この世界に来て、初めて人を殺した時のことだ。
あちらの世界では、命は尊いものと漠然と考えていた。
だから、こちらの世界に来て命を奪ったことがきっかけで、自分の中で、死生観というものを考えさせられることになり、かなり苦しんだ。
そして、リオと師匠に救われた。
二人がオレを救ってくれたから、オレは少しは成長することができた。
だから、オレはあれを忘れたいとは思わない。
あれが無ければ、今のオレではありえない。
あれすらも含んで、今のオレがあるんだ。
そうやって、人は成長して生きていくんだと思う。
それが生きてるってことだと思う。
ファムは黙ってオレの話を聞いてくれていた。
分かってくれたのだろうか。
オレの言っていることが、うまく伝わったのだろうか。
「……分かったわ。あ、ううん。トーヤの言っていることは難しくて、全てちゃんと分かったわけではないけれど。でも、トーヤが本当にそれを望んでいないことは分かった」
ダメ……か。
いや、こんな話をいきなりしたって、全てをちゃんと理解してくれってほうが無理なんだ。
ましてや個人的な価値観が多分に含まれている話だ。
生まれも育ちも全く違う、文字通り異なる世界で過ごしてきた人の話をいきなり丸飲みなんてできるハズもない。
むしろ、オレが本気で望んでいないことが分かってくれただけでも御の字なのかもしれない。
「……でも、じゃあ、ワタシ達はどうすればいい?」
そうだ。それが問題なんだ。
遠回りをして、ふり出しに戻ったような感じがする。
いや、やっとスタートラインに立ったようなものか。
「クロに会って、彼と言葉を交わしてみて、彼自身をファムはどう思ったんだ?」
「……怖かった。足は震えてしまったし、正直逃げ出したかった」
ファムはそうつぶやいた。
やはり、そうなのか。
オレは夜空を見上げた。
多少時間が経とうと、わずかにその位置が変わろうと、瞬く星が散らばる夜空は変わらない。
まるで、そう簡単に夜が明けることはないと言われている気分だ。
明けない夜は無いと言うけれど、明けるまでには、それなりに時間がかかるということなんだろうか。
「……だけど」
オレは言葉を続けるファムに視線を戻した。
「彼自身には凶暴性や残忍性は感じなかった。穏やかで誠実な印象を持ったわ」
え? それって……
「……ホントに?」
「ええ」
「オレに気を使っているんじゃなく?」
「……しつこい」
「あ、ゴメン」
ちょっとむっとしたファムに、オレは反射的に謝ってしまった。
だけど、それって、もしかして会話を重ねていけば、うまくすれば好転するかもしれないって事……なのか?
「ぷっ。ふふふ……」
「な、何?」
「いえ、いつもは太々しいのに、変な所で素直なのね」
「……悪かったな」
さっき反射的に謝ったことか。
そんなことで、そこまで笑わなくても……
もしかして、酒が入っているからか?
ファムが俯きながら、何かぶつぶつとつぶやいた。
だが、あまりにも小さい声だったので、オレにはその内容までは分からなかった。
「ん? 何か言ったか?」
「いえ、何でもないわ。それより……」
ファムは姿勢を正して、オレに向かって、真っ直ぐにオレを見ながら言ったんだ。
「だから、トーヤ。少し時間を頂戴。すぐには無理だと思う。いつになるかも分からない。けど、あなたの友人と、ちゃんと普通に話せるようには、なってみせるから」
ファム……
オレは涙が出そうになったよ。
ファムのその言葉が、オレはすごく嬉しかった。
ファムのその気持ちが、オレは本当に嬉しかったんだ。
だから、オレもそれに応えたいと思った。
オレにできること。
それは、師匠に教えてもらったことだ。
「ファム。手を出してくれないか?」
「何?」
「いいからさ」
ファムがテーブル越しに差し出した右手を、オレは両手で包むように握った。
「――なっ!」
ファムが少し驚いているようだが、それはスルーさせてもらう。
そして、さっきファムがしてくれたように、オレも、まっすぐファムを見ながら言った。
「以前オレを救ってくれた人に教わったんだ。人が生きていくためには、人の温もりが必要なんだって。そして、前を向いて生きていくために、苦しみや温もりを分かち合える相手を作れって」
以前師匠に言われたことを思い出す。
オレはそう言われて師匠に救われたんだ。
「オレ達は、もう仲間だろう? 少なくともオレはそう思っている。だから、ファムやラヴィが前を向いて生きていくために必要なら、オレはいつだってこうやって温もりを分かち合う。乗り越えるべきものがあるというなら、それが苦しみや恐怖だって、オレはいつだってお前たちの傍にいて、一緒に乗り越えていくから」
「……おっ」
ファムが何か言おうとして、でも一旦口を閉じて横を向いてしまった。
「……大げさなのよ」
「そうか?」
「……そうよ」
そう言って、ファムは手を引っ込めてしまった。
ファムの顔が真っ赤だ。そんなファムを見ながら、オレはグラスに入ったリンゴのお酒を飲みほした。
今夜、ファムと話ができてホントに良かった。
これは、リンゴの神様のおかげかな?
なんてね。
◇
「そろそろ寝るわね」
「ああ、そうだな」
オレとファムはイスから立ち上がった。
そこで、ふとオレの部屋のベッドにはラヴィが寝ていることを思い出した。
「あ、ちょっと待ってくれ」
「何?」
「ラヴィを引き取って欲しいんだが」
「……いらないの?」
……それに何て答えろと?
いるともいらないとも、どっちにも答えられないだろう!
第一、いる、と答えたらどうするつもりなんだ?
もらっちゃっていいのか?
そりゃあ、とっても魅惑的だけど……って、違う!
「冗談よ。こっちに連れて来て貰える? ベッドの用意しておくから」
「ああ」
オレは自分の部屋に戻り、暗い中、ベッドの傍まで行ってラヴィに声を掛けた。
「ラヴィ?」
全く応答が無い。
「ラヴィ?」
うんともすんとも言わない。
聞こえるのはラヴィの寝息のみ。
完全に熟睡しているようだ。
仕方がないので、オレはラヴィを抱きかかえて隣へ運ぶことにした。
右腕をラヴィの肩の下に入れて彼女の上半身をやや起こしながら、左腕でラヴィの膝をすくうようにして抱え上げる。いわゆるお姫様抱っこの格好だ。
ちょっとだけ、ドキドキしちゃうな、これ。
なにせ、お姫様抱っこなんてしたのは、生れて初めてだ。
……ん? いや、そういえば紅鎧と戦った時、ラヴィをこういう恰好で抱き抱えたか?
でもあの時はそんな余裕もなかったからな。ノーカンでいいだろう。うん。
でも、若い女性相手にこんなこと思っちゃうのは失礼かもしれないが、見た目で予想していたより、なんというか、ちょっとずっしり来るものなんだな。こんなに細い体なのにさ。
それとも、オレに腕力が無いということなのか?
オレは、躓いたりしないように、特にラヴィの体をどこかにぶつけたりしない様に注意しながら、ゆっくり進んで、一旦バルコニーに出てから隣の部屋へとラヴィを運んだ。
「お待たせ、ファム」
ラヴィを起こさない様、オレは少し小さめの声でファムに声を掛けた。
ここでラヴィに起きられたら、なんかばつが悪いからな。
部屋の中は暗いが、なんとかベッドの位置は分かる。その傍にファムが立っているようだ。だが、ファムからの返事が無い?
「ファム?」
「……え、ええ。ご苦労様」
どうしたんだろう? 何か、ファムの様子が変じゃないか?
暗くてファムの表情まではちょっと分からない。
「どうした?」
「……なんでもないわ。ラヴィは……そこのベッドに放り投げてくれていいから」
――おい! できるか、そんなこと!
「寝たふりして甘えている子には、それくらいでちょうどいいのよ」
――え? 寝たふり……ええっ!?
「あ、ダメだよファム、バラしちゃ。今いいとこだったのに」
――こ、こいつ!
オレは、ファムに言われた通り、ラヴィをベッドに放り投げた。
いつも読んでいただき、ありがとうございます!
昨日前話で、次話は来週投稿予定と言っておきながら本日に投稿しちゃいました。
実は昨夜、なんと同日二本目のレビューをいただき、
本日、まさかまさかの総合日間ランキング293位に入ってしまいました。
本当に、本当に、ありがとうございます!!
かなり下位とは言え、ランキング入りは初めてなんで、
もう嬉しくって嬉しくって、やはりモチベーション上がりまくって、
この第55話を急遽書き上げ、投稿させていただきました!
ちょろい作者ですみません。m(__)m
昨日の話の後編になります。
どうぞ、今後ともよろしくお願いいたします。