147. ラヴィの想いと独闘
オレたちの頭の上、レンガ造りの橋の上を何人かの集団がパタパタと走り去っていく。楽しそうにはしゃいでいる声の様子や軽そうな足音からして、おそらくは幼い子どもたちだろう。
その子達が走り去っていく間、オレたちは誰も口を開かなかった。
ただお互いの視線を絡ませたままだ。
リュアはほんのわずかに目を細めながらも、じっとオレを見詰めている。
薄い笑顔は今なお絶やしていない。
その表情はほとんど変わっていない。
キツネ耳も、後ろに見えているふさふさした尻尾も、動かない。
……何を考えているのか、正直全く読み取れない。
素直に諦めてくれるのか、それとも怒ってその怒りをぶつけてくるのか。
できれば前者であって欲しいと思うし、ラヴィをさっさと解放して、争うことなく終わって欲しい。さらに言えば考えを改めて、せめて殺しはやめてくれる気になったとか、国外脱出とかに路線変更するとかであって欲しい。
本当に、心からそう願う。
だけど、それはやはり、無理な望みなんだろうか。
言いようのない緊張が漂う中、リュアの朱唇がゆっくり開く。
はたして――
「……つまり、私の体では報酬として不足ということかしら?」
「いやっ! そういうことじゃなくって!」
ラヴィに首元を押さえられながらも、思わずオレの体は乗り出し気味になり、口からはツッコミが出ていた。
普通、ここでそういうセリフが出てくるか?
オレの話、ちゃんと聞いていたのかコイツは!?
ふと見れば、リュアの片手は何気に口元を隠している。
あの手の向こうではもしかして、笑みを浮かべているんじゃないだろうか?
からかわれているのかオレは?
ってか、ファムも!
そのジトッとした視線をこっちに向けるの止めなさいって。
リュアを奴隷にって話は、別にオレから言い出したんじゃないからな!
誓って違うからなっ!
「……では、残念ながら交渉は決裂、ということかしら?」
リュアのその言葉で、一気に周囲の空気が変わった気がした。
ちょっと緩みかけた緊張感が、一転して先ほど同様、いやそれ以上に高まる。
ごくりと、思わず息を呑んだ。
オレもファムもユオンも、何も答えず、何も言わず。
ただただリュアの次の言葉を待つ。
それできっと全てが決まる。
平和的か、そうでないのか。
緊張感と静寂が流れる中、リュアの朱唇が再び開く。
さあ、どう来る……?
「ラヴィ。トーヤ様を――」
先程までとは明らかに違う、わずかに押し殺したようなリュアの低い声。
だがそれは最後まで言い切ることはできなかった。
すかさずユオンがリュアの懐に飛び込んだからだ。
低い体勢からリュアの顎へ向けて掌底を突き出すユオン。
「――っ!?」
リュアの声がわずかに漏れ、その体が跳ね上がった――かのように見えたが、リュアはすぐさまくるりと一回転して後方に降り立った。
その様子からは、ダメージは全くうかがえない。
オレからはユオンの攻撃がしっかり当たったように見えたんだが。
実際には自らも跳んで、威力を殺したのかもしれない。
ユオンがさらにリュアとの距離を詰めようと大きく踏み込む。
「ファム!」
「わかってる!」
踏み込みと同時にユオンがファムの名を叫んだ。
それに答えるファムの声は、意外にもすぐ近くからだった。
全く気付かなかった。
いつの間にかファムはオレたちの右側、すぐ傍にまで回り込んでいたことに。
「ラヴィ!」
ファムがラヴィの名を叫ぶと同時に、体を大きく反らしながら右手を引く。
まさに、ありったけのパワーを込めるかのように。
ラヴィはほとんど動いていない。
先程リュアに指示を出されかけていたが、ユオンがそれをうまく邪魔した。
つまり明確な指示がされなければ、ラヴィは動けないということ。
息の合った仲間同士なら相手の意図を察して動けるかもしれないが、ラヴィは操られているだけなんだから、当然といえば当然だ。
ファムが拳を固く握りしめる。
「目を、覚ましなさい!」
力強い踏み込みとともに、見るからに強烈そうな右ストレートがオレの耳をかすめ、後ろにいたラヴィに直撃した。
とてつもなく重そうな激突音。
その凄まじいまでの超ド迫力。
分かってる。
ユオンがリュアを押さえてくれている間に、なんとかラヴィの正気を取り戻したい。その一心で、そのためには加減なんかしている余裕なんてあるハズも無い。だからこそ、ファムの渾身の一撃なんだろう。
それは分かってはいる……つもりだ。
でも……でももし、この一撃を喰らったのがオレだったら?
そう思うと、正直オレのほうが青ざめる思いだ。
先日の迷宮での記憶が頭を過る。
ファムの一撃は、あの剣歯白虎を一発で戦意喪失させていた。
そんなのをまともに喰らったら、オレだったら間違いなく吹っ飛ばされていたと思う。
さらに歯の二、三本は砕かれていたかもしれない。
いや、それどころか意識ごと吹っ飛ばされて、病院送りだったとしても全然おかしくなかったと思う。
それくらいの威力が、そこには込められていたと思う。
トレンチナイフをつけてなかったことが、せめてもの救いだったのかもしれない。
けれどラヴィは吹っ飛ぶどころか少しよろける程度だった。
これは、さすがラヴィと言うべきか。
それともこれが人族とは違い、獣人の地力なのか。
ともかく、よろけて腕の力がほんのわずか緩んだ隙に、うまく体をひねってどうにか拘束から抜け出すことができた。
ラヴィから少し距離を取ったオレの前にファムが立つ。
それはきっと、再びラヴィがオレを拘束しに来ることを警戒したんだろう。
当のラヴィはその場から動かずにいた。
ウサ耳は力無くヘナッとして、少しうつむき加減で立っている。
かなり強烈な一撃だったけど、残念ながら正気を取り戻すまではできなかったか?
やはりゴリ押しの力技じゃダメなんだろうか?
「ちっ!?」
後ろから小さく舌打ちした音が聞こえた。
ユオンの声じゃない。
リュアだ。
「ラヴィ!」
リュアの声に、ラヴィのウサ耳がピクッと跳ねた。
――マズい! 命令されちまう!
「もう一度トーヤ様を――」
「ハァッ!」
鋭い踏み込みと共にユオンの肘がリュアの鳩尾を襲う。
それを片手で捌きながら体を横にずらして避けるリュア。
続けて突き出されたユオンの掌底をも躱し、後ろに跳んで距離を取った。
「ラヴィ! ファムを倒しなさい。そしてもう一度トーヤ様を捕まえなさい!」
リュアが声を張り上げる。
それを聞いたラヴィが顔を上げ、ファムとその後ろにいるオレに視線を向けた。
「なら、もう一発!」
再びファムが渾身の右ストレートをラヴィに放つ。
が、今度はラヴィの顔面に届かなかった。
ラヴィがファムの攻撃を左手で受け止めたからだ。
さらに、今度はこちらの番、とばかりにラヴィが右手をふりかぶる。
「ちぃっ!」
舌打ちしつつ、ファムがラヴィの右を受け止める。
お互いに相手の右手を左手で掴み、力比べのような格好になっている。
「うふふふ。そちらはラヴィに任せて、私はじっくりと、ユオンお姉さまのお相手をさせていただきましょうか」
再び薄い笑みを浮かべるリュア。
オレの方をちらりと見て、「それに」と言葉を続けながら朱い唇を舐めた。
「ここでユオンお姉さまを組み敷いてご覧に入れれば、トーヤ様も少しは考え直していただけるかもしれませんし。……ねぇ、トーヤ様?」
そのセリフは、少なくとも最後の方はオレに向かって言ったんだろう。
だけどその時のオレは、リュアの言葉なんかより、別のことに気を取られていた。
こちらに背を向けているユオン。
その後ろ姿、いや、正確にはユオンの腰の後ろ辺りに下げられている水袋だ。
それに、オレの視線が注がれていた。
あの水袋は、確か……
その中身を思い出し、もしかしたらと考えが至った途端、オレは声を上げていた。
「ユオン! 腰の水袋をこっちへ!」
その声に反応して、すぐさま右手を後ろに回すユオン。
さっと水袋を腰ひもから外し、そのまま後ろ手でオレに向かって放った。
大きく弧を描きオレの手元に届けられた水袋。
「ユオンお姉さま? トーヤ様に何を? あの水袋は何です?」
「リュアには関係の無い事」
「うふふふ。またそんなつれないことを……。ですが、何であっても無駄ですよ、ユオンお姉さま。ラヴィが逃れることなどありえませんから」
二人の会話がオレの耳を通り過ぎる。
オレの意識は、完全に水袋へと向けられていた。
ラヴィが操られているのには、飴に含まれていた秘薬とやらが関係している。
それがどれくらい強力な薬なのか分からないが、もしかしたら水袋の中身はそれに対抗できるかもしれない。
なにせこれも、強力な解毒作用があるって話だったから。
オレは再び視線を、目の前で組み合っている二人の獣耳娘に向けた。
試して見る価値は、あるハズだ!
ファムが歯を食いしばりながらオレに視線を向けてきた。
「……どうすればいい? 早くしてくれないと、単純なパワー勝負じゃ、ラヴィのほうが上よ。ワタシじゃ、いつまでも押さえておけない」
「なんとかもう少し押さえつけてくれ。その間にオレがコレをラヴィに……」
オレの言葉が言い終わる前に、ラヴィが無言のまま頭を一瞬上げ、そしてファムに向かって頭突きを叩き込んできた。
それに対抗するかのように顎を引いて迎え撃つファム。
めちゃくちゃ痛そうな音が鳴り響く。
「この、バカ石頭……」
打ち勝ったのはラヴィだ。
ファムが思わずといった感じで言葉を漏らし、よろめきながら一歩後退る。
そこへラヴィが追撃とばかりに踏み込む。
が、そのタイミングでファムが手を引いた。
ラヴィがそれに釣られるように体勢を崩す。
すかさずファムは後ろへ倒れ込みながら、足でラヴィの腹を蹴り上げ、真後ろへ投げ飛ばした。
それはまさに、あちらの世界での、柔道の巴投だ。
宙に浮いたラヴィの体が綺麗に弧を描き、そして背中を地に打ち付けた。
それでも起き上がろうとしたところに、ファムがすばやく後ろから羽交い締めにした。
「トーヤ!」
「ああ!」
ファムに呼ばれて、オレはラヴィの傍に駆け寄った。
ファムの拘束から逃れようと足搔いているようだが、体勢が悪く腕や体にうまく力が入らない感じだ。
オレは膝を付き、水袋の口を開けた。
「それって確か……」
「ああそうだ。マグリアだ」
ファムの言葉に頷く。
正確にはマグリアの花びらを浸していた水だ。
ラヴィの風邪を治すのに一枚使ったが、残りを使って作った水薬だ。
またいつか、誰かが風邪引いた場合などにと思っていたが、まさかこんなに早く、しかもこういうことに使うことになるとは思いもしなかった。
水袋をラヴィの口に近付ける。
だが、ラヴィは口を固く閉ざして飲もうとはしない。
どうする?
こういう時は、……やはり口移しが定番なんだろうか?
思わず水袋とラヴィの口元に視線が行き交う。
「トーヤ」
――うっ!?
ファムに思いっ切り睨まれてしまった。
例によってオレの思考は念話の指輪を通して漏れていたらしい。
で、でも、飲ませるには仕方ないというか。
べ、別にやましい気持ちからでは……
「バカなことを考えないで。忘れたの? それは人族には猛毒だって。そんなことしたら、トーヤが死ぬことになるわよ!」
「あ、そっちか」
「……そっち?」
「あ、い、いや、なんでもない」
そうだった。
忘れてた。
確かにファムの言う通りだ。
オレは絶対に口にしてはいけない薬だった。
でも、じゃあ、どうすればいい?
残る手段は……
女性に対してコレをするのは少し躊躇われるが、他に手段を思いつかないんだから仕方ない。
オレはラヴィの鼻をぎゅっとつまんだ。
鼻での呼吸をできないようにするため、そして口を開かせるためだ。
ラヴィは少々暴れるが、ここは心を鬼にして決して手を離さない。
ようやくラヴィが大きく口を開けた。
苦しかったのだろう、息を深く吸い込んだ。
そこへすかさず水薬を流し込む。
少し苦しそうにしながらも、コクコクとラヴィが喉を鳴らす。
多少むせたようだが、うまく飲んでくれたみたいだ。
飲んだ量は水袋半分といったところか。
風邪の時はみるみるうちに治ったが、今度はどうだ?
頼むから、治ってくれ!
そう思った時だった。
「……ファムってば」
漏れ聞こえてきたのは間違いなくラヴィの声。
ラヴィの手がゆっくりと上がり、ファムの一撃を喰らった頬に触れる。
光を失っていた瞳が生気を取り戻すような、まさにそんな瞬間を見たような気がした。
「めちゃくちゃ、痛かった、よ。……少しは、手加減、してよ……ね」
正気に戻ったのか!?
そう口にしようとしたが、ファムが手でオレを制した。
そしてファム自らが口を開く。
「ラヴィ? 戻ったの? もう、大丈夫……なの?」
静かに声をかけながら用心深く見据えるように目を細めるファム。
実際用心しているのだろう。
ラヴィを後ろから羽交い締めして押さえつけている体勢は崩していない。
それに対してラヴィのほうは、目の焦点がまだちゃんと合ってないかのように、少しぼんやりしているようにも見える。
「……なんだろう、これ。自分の体なのに、自分じゃ動かせないような……。うまく言えない、けど、何かがすごくズレていて、まるで他人の体を借りてるような、別の誰かに乗り移ってしまったような……そんな変な感覚」
口調もひどくゆっくりしているが、体の動作もだ。
頬に触れていた手を顔の前に持ってきて、じっと見つめているラヴィ。
自分の手を握ったり開いたりしようとしているようだが、なんだかおぼつかない感じだ。
これはつまり、正気を戻したようにも見えるけど、それはまだ完全ではない、まだちゃんと取り戻せたわけではない、ということなのか?
だとしたら、もしまたリュアに命令されたら、もしかしたら再び……
「ラヴィ! 戦いなさい! ファムを倒しなさい!」
リュアの鋭い声に、ラヴィのウサ耳が震えた。
「ぅっ……あぅ。……は……ぇぁ……うぅ」
言葉にならないうめき声がラヴィの口から漏れる。
取り戻しかけた自分の意志と、リュアの命令がラヴィの中で葛藤しているのか?
ひどく苦しそうに顔をしかめている。
どうすればいい?
リュアの命令から解放するには。
この苦しみから開放させるためには。
どうすればいい?
マグリアの水薬は残り半分。
これを、残りも全部飲ませれば、なんとかなるだろうか……?
「ファ……ム。……お願いが、あるんだけど、さ」
普段のラヴィからは考えられないほどの、とても弱々しい声が耳に届く。
「お願い? こんなときに何? くだらないことだったら、今回の失態も含めて、後でみっちり説教よ?」
「あは、は、は。厳しい、なぁ」
ラヴィの口からわずかに笑いがこぼれるが、それもすぐにおさまった。
そして、いつになく真剣な眼差しで視線を後ろに向ける。
ファムを見て、ゆっくりとその口が開く。
「……アタシを、止めて、くれない、かな?」
「そんなの、分かってるわよ。だから今こうやって……」
「その剣でさ……」
「黙りなさいラヴィ!」
ファムがひときわ大きく声を荒げた。
ラヴィの言葉を遮るように。
それ以上言わせないかのように。
オレにも分かった。
ラヴィが何を言おうとしたのか。
ファムが何故声を荒げたのか。
あのラヴィが、そんなことを口にするなんて。
逆に言えば、それほどまでにラヴィが追い詰められてしまっているということなんだ。
「くだらないことだったら、後で説教って言ったでしょ! 覚悟しときなさいよラヴィ。絶対に後で、……後でみっちり説教してやるんだから!」
「ありがと、ファム。でも、ちょっと、難しい、かも、かな」
「ふざけないでラヴィ! 何らしくないこと言ってるの! いつまでもあんな女に操られてるんじゃないわよ! 気合でもなんでもいいから、そんなのさっさと吹き飛ばして、元に戻りなさいよ!」
「……操られてるときにも、さ。自分の意識は、あるんだ。分かるんだ。でも、自分じゃ、どうにもできなくって……」
「だからって!」
「ね、ファム、聞いて。アタシは、……アタシは、トーヤさんを守りたいの。トーヤさんを守るために、一緒にここまで、来たんだよ。なのに……、なのに、トーヤさんを傷付けるなんて、そんなの、そんなの、絶対にイヤ。絶対に、絶対に、絶対に、イヤ」
ラヴィの視線はファムから動かない。
そしてそれはファムも同様だ。
二人の視線が強く絡み合う。
そして、ファムが口を開いた。
「いざというときは……ホントに、万が一のときには、ワタシが、必ず止めてあげる。約束する。ラヴィにトーヤを傷付けさせない。何としてでも、何をしてでも、必ず、必ず止めてあげる」
「……ホント?」
「今までワタシが何度、アンタの尻拭いしてきたと思ってるの」
「……うん。頼りにしてる、ファム」
安心した顔で笑みを見せるラヴィ。
それは弱々しく憔悴しきったような顔。
なのに、何故だろう。
逆にそこに、ラヴィの強さも感じる。
これは、覚悟を持った者の強さ?
そしてその覚悟を支える根底には、強い絆と信頼があるんじゃないだろうか。
こういうところは、二人が重ねてきた年月の重みをひしひしと感じる。
オレやユオンも仲間としてちゃんと信頼されていると思っている。
けど、それでも、たぶんそれに取って代わることは無理なんだろうと思う。
それほどの重みが、強さが、二人の間にあるんだと、改めて感じた。
「トーヤ。それまだ残ってるんでしょ」
「あ、ああ」
ファムとラヴィの視線がオレに向けられる。
オレは頷きながら水袋の口をラヴィに近付けた。
「ラヴィ。残りも全部飲むんだ。これがどこまで効くか分からない。でもさっきはこれを飲んで自分の意識をここまで取り戻せたんだ。完全に取り戻すための、きっと助けになるハズだ」
オレの言葉にラヴィがコクリと頷く。
水袋を近付け、そしてゆっくりと中身を飲ませた。
全てを飲み終えた時、ラヴィの体がわずかに震えだした。
「ラヴィ……?」
「……ぅ、ぐっ……ぇっ……ぃ、ぁ……」
オレの呼びかけには答えられず、うまく言葉にならない声がラヴィから漏れ出してきた。
「ラヴィ! 大丈夫? ラヴィ!」
ファムの声にも答えられず、顔を赤くして苦しみだすラヴィ。
風邪を治したときにはこんな苦しみ方はしなかったハズだ。
あの時はオレたちの目の前で、信じられないくらいあっさりと治してしまったハズだ。
さっき飲ませた時も、特に苦しみはなかった。
苦しんだのは、自分の意志を取り戻した後にリュアに命令された時だ。
やはりこれは、自分の意志を取り戻そうと、自分の体の中で何かと戦っている苦しみなんじゃないだろうか。
オレとファムの視線が交じる。
だけどお互い、どうすればいいのか、なんて分からない。
医者でもないオレたちにできることなんて、限られている。
ファムがラヴィを羽交い締めから解き、ぎゅっと後ろから抱きしめた。
「ラヴィ! 頑張れラヴィ」
オレはラヴィの前で膝を付き、ラヴィに向かって声をかけた。
「トーヤ。ラヴィの手を、握ってあげて」
「ああ」
ファムに言われた通りにラヴィの手を握る。
……熱い。
かなり熱があるんじゃないだろうか。
見れば額に汗も滲んでいる。
「ラヴィ。しっかりしてラヴィ。トーヤも、声かけてあげて」
「ああ、分かってる。ラヴィ。頑張れラヴィ」
ラヴィの呼吸もかなり荒くなってきている。
こんなに苦しみながら戦っているラヴィ。
そんな彼女に、オレは他に何かできることはないんだろうか?
手を握って声をかけるしかできない自分がひどくもどかしい。
「……はぁはぁ。……トーヤ……さん」
苦しそうな吐息の隙間から、小さな声でオレを呼ぶ声が聞こえた。
一瞬気のせいかと思ったが、違う。
わずかに目を開け、オレを見上げるラヴィの口から漏れ出た声だ。
「大丈夫か! ラヴィ!」
大丈夫じゃないことなんか、見れば分かる。
なのにそんな言葉しかかけられない自分が情けない。
「自分の中で、何かが、暴れて、うっ……」
「喋らなくていい。ラヴィ」
口を開くことがひどく辛そうに見える。
ラヴィの手を握りしめる自分の手に、自然と力が入る。
「う……うう。大……丈夫、です。こんな……の、平気……っ」
ファムがラヴィを抱きしめていた腕を振りほどいた。
そしてオレに視線を向け、小さく頷く。
すぐに理解した。
オレにしろ、と言っているんだと。
オレはファムに頷き返すと、いったんラヴィから手を離し、そしてゆっくりとその細い体を引き寄せた。
ラヴィが力無くオレにもたれかかってくる。
その体は、かなり熱い。
「……トーヤ、さん」
「喋らなくていい。ラヴィ」
同じ言葉を繰り返した。
今はしゃべらなくていい。
今は頑張って耐えてくれ。
「トーヤ、さん」
かすかに届くラヴィの声。そして……
――オレの頬に何かがそっと、触れた。
柔らかく、そしてとても熱い何かが。
それはほんの一瞬の出来事。
「えへ、……へへへ。いただいちゃい、ました」
ラヴィが苦しみで顔をしかめながらも、真っ赤な顔してそんなことを言う。
視界の端では、ファムが視線を逸していた。
なんとなく察した。
何をされたのか。
ラヴィがオレに、何をしたのか。
ラヴィの唇に、思わずオレの視線が向かう。
「これで、まだまだ、いっぱい、頑張れ、ます」
ラヴィの顔には少し笑みを浮かべているが、これは絶対やせ我慢の顔だ。
額にも汗がかなりにじんでいる。
きっと歯だってかなり強く食いしばっている。
オレには想像もつかない苦しみに、今ラヴィが懸命に耐えている。
そして打ち勝とうとしている。
そう思うと、オレは……
ラヴィの握りしめている手に、そっと自分の手を重ねた。
「……ラヴィ」
「は……い、トーヤさん」
「絶対に、負けるなよ」
「もち、ろん……ですよ」
オレは、微かに震えるラヴィの唇に、自分のそれをそっと重ねた。