138. ウサ耳娘の霍乱(かくらん)
「げほっ、げほっ。ト゛ーヤ゛さん……」
ウサ耳娘のラヴィが横たわりながら虚ろな瞳で見上げてくる。
オレはそのそばに腰を下ろし、補充し終わった彼女の水筒を差し出した。
「ほら水だ。少し飲んで、いいから寝てろって」
「す゛み゛ま゛、げほっ、げほっ、せ゛ん゛……」
どうやらラヴィは風邪を引いてしまったらしい。
顔を赤くし、白いウサ耳も力なくダラっとしちまってる。
オレたちは今、洞穴の中で昨日からの降り続いている雨をしのいでいるところだ。この洞穴は昨夜偶然見つけた場所だ。周囲は硬そうな岩盤で囲まれており、恐らく自然にできたもので、奥行きはそれほどないが四人でいても十分な広さがある。
その一番奥でラヴィは横たわっているわけだが……
「おかしいわね。ナントカは風邪引かないって昔から言うんだけど」
「ですね。珍しい事もあるものです」
心底不思議そうに首を傾げるファムに、同感だとばかりに大きく頷くユオン。二人があまりにも真面目な面持ちでそんなこと言うもんだから、オレも思わず失笑してしまいそうになっちゃったじゃん。
でも、ここでふき出そうものなら、きっと後が怖いよな。
腹と喉の奥辺りに力を込めて、懸命に堪えたよ。
ってか、そのセリフ、あちらの世界ではよく言われることではあるが、こっちの世界でも似たようなモンなんだな。
まさに万国共通、どこの世界でも同じってことなのか?
「二人とも、ひどっ!」
一口程度ではあるが、水を飲んだことでラヴィのしゃがれた声が少し収まったみたいだ。彼女の恨めしそうな視線が、オレの後ろに立つ二人を見上げる。
だけどファムはそれを全く意に介する様子もなく、それどころか少し呆れ混じりの声を出してきた。
「……なにが酷いんだか。昨日、蜂に追っかけ回されて、逃れるために泉に飛び込んでズブ濡れになって、なのに『すぐ乾くから大丈夫』とか言って着替えどころかまともに拭くこともしなかったのは誰?」
「う゛っ」
ラヴィの目が空を彷徨い始めたが、ファムの言葉は更に続く。
「空は曇ってたし、山の気温は低いってユオンに忠告もされてたのに。それを聞かなかったのは誰?」
「う゛う゛っ」
ファムの容赦ない言葉にロクな反論もできず首をすくめていくラヴィに対し、ユオンまでもがそれに続いた。
「午後には雨も降ってきてかなり気温も下がってきたというのに、『雨が気持ちいい』とか言って雨具も付けずはしゃいでいたのは、どなたでしたでしょうか?」
「う゛う゛う゛っ」
……まあ、そういうわけで今朝からラヴィは体調を崩してしまい、オレたちはこの場で足止めとなったわけだ。
外はまだ雨が降っているんだし、だから足止めはラヴィのせいだけじゃない。なのでそれは別にいいんだけど、二人のラヴィに対する扱いが、もうなんていうか、苦笑しか浮かばない。
「ト゛ーヤ゛さん……」
ラヴィの縋るような眼差しがオレを見上げてくる。
なんか、その声も再びしゃがれてきたみたいだ。
それを見ちゃうと流石にちょっと可哀想かな、って気になってくる。
しょうがないな、もう。
「まあまあ、二人とも。その辺にしてあげなって。ラヴィだって体調壊して反省してるんだからさ」
「ト゛ーヤ゛さん……」
ラヴィの瞳が、なんかうるうるしたものになってきた。
「ったく。ホント、トーヤはラヴィに甘いんだから」
なんか、以前にもファムに同じようなこと言われた気がする。
そうかな?
むしろファム達が厳しすぎるんじゃないか?
「ト゛ーヤ゛さん。水、ください」
「ん? ああ、ほらっ」
さっき飲んだ時、水筒はすぐ横に置いてあったんだが、それでも自分で取らずにオレに取ってくれってことだろう。
こういうところが甘やかしているってことになるのか?
でもまあ、相手は病人なんだし、少しくらい大目に見てあげても……
「……口移しがいいです」
――は?
水筒を持つオレの手がピタッと止まる。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
口移しって……
それを理解した時、オレの視線は思わずラヴィの唇に吸い寄せられた。
ラヴィの紅い舌がちらっと現れて唇を舐める。
……えっと?
こ、こういう場合って、どうすべき?
いくら病人でも、それは流石に……ねえ?
まわりにはファムもユオンもいるのに。
って、いやいや。
たとえ二人がいなかったとしても、だ。
できるわけないじゃん、そんなことっ!
――これだから準童貞は。
そんなリオの憎まれ口が聞こえた気がした。
いやいや!
絶対幻聴だ、今のは!
と、とにかく、ここは毅然とした態度で……
「それに、汗で体がベトベトして気持ち悪いんです。できれば、拭いてもらえませんか? 首とか背中とか、……前の方も」
――へ?
オレの手に握られていた水筒が地に落ちて、カランと鳴った。
「……調子に乗りすぎよラヴィ」
ほとんど思考停止しかけているオレの後ろから、ファムの抑揚のない呟きが聞こえてきた。オレの横に進み出てきたユオンが転がった水筒を拾い上げる。
「トーヤ様。交代いたしましょう。そのような雑務はわたくしの役目でございます。どうぞお任せくださいませ」
ユオンの申し出に内心ホッとした。
ラヴィのはもちろん冗談なんだろう。
分かってる。
具合が悪いというのにオレをからかうなんて随分余裕じゃないかと思う反面、汗でベタベタして気持ち悪いというのもホントなんだろう。
かと言ってオレが着替えさせるとか、それどころか体を拭いてあげるなんてできるわけもない。
ここは女同士、ユオンに任せてオレは席を外すのが正解だよな。
視線を後ろに向ければ、まだ雨は降り続いている。
むしろ雨風は段々と強くなってきている気もする。
外に出ないまでも、入口あたりで後ろを向いていればいいかな。
そう思って、オレは場所を交代するために立ち上がろうとした。
だがユオンの手に握られているモノが視界に入り、思わずオレの視線はそれに釘付けになってしまった。
「……ちょっと待てユオン。その手に持ってるのは何だ?」
「これでございますか? ただのタワシですが、何か?」
軽く首を傾げながらあっさりと返答してくるユオン。
極々一般的で当たり前のことなのに、何故質問されたのかまるで分からないと言わんばかりだ。
そりゃあ、それがタワシだということは見れば分かるよ。
つい昨日、焦げ付いた鍋をゴシゴシしてたやつだよな?
いや、オレが聞いてるのは、そのタワシをどうするのかってことで……
「もちろん、これでゴシゴシと、ラヴィの汗を洗い流して差し上げようかと」
……それは何か、使い方がひどく間違っているのではないだろうか?
「ちょっ!? 冗談……だよね? ね、ユオン?」
横たわりながらも顔をひくひくと引きつらせ、ずりずりと後退るラヴィ。
そして、そんなラヴィににっこりと微笑みを向けるユオン。
……その目は笑ってない気がする。
これはもしかして、本気……かも?
「い、いやぁーーーー!」
洞穴の中、ラヴィの叫びが鳴り響いた。
……合掌。
◇
ラヴィの声が聞こえなくなった。
もしかして気絶した……とか?
いやいや、黙っているだけだよね?
洞穴の入口近くに避難して後ろを向いて座っているオレには詳しい状況は分からない。
いくらなんでもホントにタワシを使ったわけじゃない、と思う。
あれはユオンのちょっとした茶目っ気にすぎないハズだ。
……だよな?
なんとなく不安になってきた。
ラヴィが服を脱いでいると思ってずっと後ろを見ずにいたが、その不安には抗えずそっと視線を後ろに向けようとしたとき、ファムがオレの横に立った。
その視線がオレを見下ろす。
「当たり前でしょ。いくら何でもホントにはやらないわよ」
オレの思考がいつものように、隷属の首輪と念話の指輪のせいで漏れ聞こえたのだろう。ファムのその言葉にホッとした。
だとしたら、静かになったのは?
その問いがオレの口から漏れる。
「……で、ラヴィは?」
「少し眠ったみたい」
「そっか」
体調が悪いのならば、眠って体を休めるのが一番だろう。
風邪薬でも持っていれば良かったのだが、あいにく多少の傷薬程度しか持ち合わせもない。
こんなことならメルフィダイムで購入しておくんだった。
今更悔やんでも仕方がないが。
「それでトーヤ、この後はどうするの?」
「ラヴィの体調が戻るまでは、ここにいることになるだろうな」
「それでいいの?」
ファムの言いたいことは分かってる。
そりゃあ、確かに急ぎたいという気持ちはある。
だからメルフィダイムだって一晩泊まっただけで出立したんだ。
けど……
「だからって、ラヴィの調子が悪いのに無理をさせることはできないよ。体調が良くなったら、遅れた分を取り戻すさ」
「そうね」
ファムが頷いた。その時――
「「トーヤ!」」
ユオンとファムの叫び声が重なり、同時にキーンという金属がぶつかり合う音が響いた。
オレには、見えなかった。
だが下から上へとオレの目の前を何かが高速で通り過ぎていった気がした。
訳も分からず、ふと見上げればファムが右手を高々と上げている。
その手にはトレンチナイフを握って。
更に見上げれば、天井の岩盤に突き刺さっている細いナイフ。
それを見てようやく分かった。
あの細いナイフがオレを襲ったんだ。
それに気付いたファムが、トレンチナイフで弾き飛ばしてくれたんだ。
思わず体がブルッと震える。
全然……ホントに全然気付かなかった。
ファムがナイフを弾いてくれなければ、オレは死んでいたかもしれない。
「ど、何処から……」
無意識にそんな言葉がオレの口から漏れる。
何処から……?
そんなの決まってる。
オレたちの正面、洞穴の入り口、いまだ雨の降り続く外からだ。
「……ダメだよお姉さん達、邪魔したら」
そんな声が耳に届く。
声がしたほうに視線を向ければ、雨の中、いつの間にか小さな人影が一つ。
降りしきる雨の中に消え入るような深緑のマントは恐らく雨避けだろう。
小さな手がゆっくりとフードを外し、その顔が現れる。
子供……そう、子供だ。
見た目は十二、三歳くらいだろうか。
あちらの世界なら、中学生になったくらい。
薄い茶系の髪に、男か女かすぐには判別しにくい中性的な顔立ち。
先日もメルフィダイムで間違えたばかりだから今一自信は無いが、たぶん男だと思う。
そして何より、獣耳と尻尾だ。
そう、この少年は獣人だ。
恐らく、狐人族の少年。
「ファム」
「大丈夫、分かってる。トーヤはワタシが。ユオンはラヴィをお願い」
後ろから聞こえてくるユオンの呼びかけに、ファムは静かに応え、トレンチナイフを構える。オレを庇うように立ち、濡れそぼる少年に視線を向ける。
「アナタ達は……」
ファムの声が漏れ聞こえた。
今、ファムは「達」って言ったか?
ってことは複数いるのか?
そうか。
さっきユオンに「分かってる」と言ったのはそのことか。
だがオレには目の前の少年一人しか分からない。
他のやつらの姿は見えない。
他にも何人か、近くに隠れているのだろうか。
ふいに、少年がにっこりと微笑んだ。
「大丈夫。ボクたちはお姉さん達の味方だよ」
味方?
いきなりナイフを投げつけてきておいて、どの口がそれを言う!
「少しだけ……もう少しだけ我慢してね、お姉さんたち。すぐに解放してあげるからっ!」
キツネ耳の少年の言葉が言い終わるやいなや、彼の後ろから三つの影が飛び出した。