135. 想いの向き先[前篇]
「……ぐっ! ファム、ちょっとタンマ。オレもう……」
「タンマ? 何それ? 待てってこと? これくらいで何言ってるの。男ならもう少し頑張りなさいよ。ほらっ!」
「男でも、もうこれ以上、無理。限……界……」
息も切れ切れになんとかそれだけ口にして、オレは膝をついてしまった。
声を出すのも正直かなりしんどい。
こういうときは念話を使えばよかったと後から思った。
いや、そもそもオレの思考は漏れ聞こえているんだろうから、言葉を発する必要すら無かったのかもしれない。
汗がこぼれ落ちる額を腕で拭いながら見上げてみれば、岩の上からファムがこちらを見下ろしていた。
そして腰に手を当て、開口一番に言うことは――
「この程度で音を上げるようじゃ、まだまだね」
涼しい顔して情け容赦の微塵も無い一言。
ファムらしいと言えば、らしいけどさ!
こんな山道をそんなペースで走っておいて、なんで息一つ乱してないんだよ、このネコ耳娘はっ!
思わず恨めし混じりの視線がファムを見上げてしまう。
「ネコ耳娘……? たまにそういう言い方するわよね、トーヤは。何? それがトーヤの世界での猫人族の呼び方なの?」
オレの思考が漏れ聞こえたファムは軽く首を傾げて聞いてきた。
その純粋な問いかけに思わず目が泳ぎ、言葉に詰まりかけてしまう。
「えっと……まあ、そんなところだ」
嘘は言ってない……ハズだ。うん。
「……なんかちょっと怪しいんだけど? まあいいわ。それより、これくらいでバテてどうするの。まだ一周もしてないじゃない。半周程度よ? 軽く二、三周はできると思ってたんだけど?」
――二、三周!? このペースでこの山道を!?
「ふう……。普段ユオンと走っているときもそんな感じなの? 今更かもしれないけど、彼女がトーヤにどれだけ甘いのか、よく分かった気がするわ。……まあいいわ。少しだけ休憩しましょうか」
ちょっとため息混じりに言われてしまった。
だがそんなことよりも、今は休憩が何よりありがたい。
「それは、非常に、助かるよ」
「でもホントに少しだけよ? あまり遅くなるとラヴィ達が心配するでしょうし、ヘタしたら朝食を食いっぱぐれちゃう」
「ああ。分かってる、よ」
鬼教官のありがたいお許しをいただけ、オレはその場に座り込み、腰に下げていた水筒を取って水を飲んだ。
いつもと同じ普通の水なのに、体を動かし汗をかいた後ってなんでこんなに美味く感じるんだろうな?
見ればファムも同様に岩に腰掛け、水を飲み始めた。
メルフィダイムを出立して今日で三日目。
オレは早朝の走り込みのため、ファムと一緒に山道を走っていた。
いつもならユオンが付いてきてくれるんだが、今朝のユオンはちょっと別にやることができてしまったので、代わりにファムが付いてきてくれている。
ちなみにユオンの〝別にやること〟っていうのは、アレだ。
昨夜オレが鍋を丸焦げにしてしまったからな。その後始末だ。
王都に到着すれば、そこで新しい鍋を買えばいいのだが、それまでの間どうするかだ。
一晩水につけていたようで、「落ちるか分かりませんが、ちょっと頑張ってみます」って言ってた。
大変そうだし、やってしまったのはオレなんだからオレがやるよ、とは言ったんだけどな。首を横に振られてしまった。
今頃、一生懸命ゴシゴシしてるんだろう。
ホントに悪い事してしまった。
「ところでトーヤ」
「ん?」
ファムがじぃっとこちらを見ている。
ちょっと険しいと言うか、真剣な目つきだ。
少なくとも、水が切れたから補給してくれって話じゃなさそうだ。
だが、正直言えば、これは予想していたことではある。
きっとファムはオレに何か話があるんじゃないかって思ってた。
じゃなければ、今ここにいるのはファムじゃなくラヴィだっただろう。
ユオンの代わりに誰がオレに付いてくるか、という話になったとき、真っ先にラヴィが手を上げていたんだから。
なのに「ワタシが付いていくから」と、ファムはほとんど無理やりラヴィを食材調達に行かせていた。
それはつまり、ファムはオレに何か話があるからなんだろうと思っていたんだ。
だけど、何の話なのか、そこまでは分からない。
昨夜の魔法の話の続きだろうか。
それとも今後のことについてだろうか。
でも、だとしたら二人だけで話をしたいという事にはならない気もする。
じゃあ、もしかして、なんか説教でもされる……とか?
いやいや。
そんなことされる身に覚えはないぞ? ……たぶんな。
いろいろと考えてしまい、ちょっと身構えたオレに向かって、ファムがゆっくりと口を開いた。
「ねぇ……ラヴィとは、どうなったの?」
――ぶっ!?
予想の斜め上を行く問いかけに、思わず口に含んでいた水を吹き出してしまった。
あ、小さな虹が見えた……じゃなくて!
「なっ!?」
「汚いわね!」
何を言い出すんだいきなり! と抗議の声を上げようとしたが、それより一瞬早くファムに身を引かれながら眉をひそめられてしまった。
オレのせい?
今の、オレが悪いの?
違うよね?
ぜったい、違うと信じたい。
「……で、どうなの?」
「なんでオレに聞くんだよ。そういうのは女同士、ラヴィに聞けば……」
「できるわけないでしょ!」
ピシャリと言い切られてしまった。
なんでだよ。
そういうのはガールズトークの範疇だろう?
男のオレに聞いてくるのはおかしくない?
そうは思ったが、ファムにはファムの思う処があるらしい。
少し言い難そうに視線を横に向けながら、ファムはそれを口にしてくれた。
「もし……もし仮にラヴィとトーヤがそういう関係になってたとしたら、そこへ迂闊に尋ねようものなら、ぜったいあの娘は嬉々として赤裸々に語り始めるわ。一挙手一投足すべてをこれ以上無いってくらい詳細にね。聞いているこっちが恥ずかしさで耐えられなくなるくらいに」
……さもありなん。
「ま、それはいいんだけど」
――いいのかよっ!
「問題なのは逆の場合よ」
……逆?
「ラヴィがトーヤにフラれてた場合。下手に話を聞こうとすると傷を抉ることになりかねないでしょ。まさかラヴィがフラれるとは思ってないけど、でも万が一ってこともあるから、一応ラヴィと話をする前に、トーヤに確認しておこうと思って……」
そこまで口にしたファムの目が険しくなってオレを睨んできた。
「……まさか、振ってないでしょうね?」
ファムの目も声色もすこぶる怖い。
別に疚しいことは無い……つもりなんだけど、その視線に気圧されて思わずオレは目を逸らしてしまった。
「……え? ちょっ!? トーヤ!?」
そんなオレの態度は彼女を誤解させてしまったみたいだ。
ファムは慌てたように勢いよく立ち上がった。
っていうか、後ろに回したその手は何!
まさか……トレンチナイフを握ってるとか、ないよね? ね?
「まさか……トーヤ!」
「いや、ちょっと待て。早まるな! 振ってない! 振ってないから!」
「……ホントに?」
「ホントに!」
「はぁあ……。ならいいけど。誤解させるような真似しないでよ」
ファムが心底安心したかのように安堵のため息を吐き出しながら再び岩に腰掛けた。その際、黒光りするトレンチナイフがちらっと見えたような……
見なかったことにしよう。うん。
オレは言葉を続けた。
「っていうか、実はまだちゃんと返事をしたわけじゃないんだ。なんていうか、返事は保留中というか……」
「でしょうね」
もしかしたらまた怒られるかもと思ったが、ファムはわりと冷静に頷いてきた。
「なんとなくそうじゃないかとは思ってたわ。二人の態度は以前とほとんど変化無いし、なによりも、メルフィダイムで警備兵に絡まれた時、ラヴィは『まだ』とかなんとか言ってたし。どうせトーヤのことだから、リオのことが片付くまでは待ってくれ、とでも言ったんでしょ」
「……なんで分かるんだ?」
「やっぱり」
何故か深い深いため息を付かれてしまいました。
「で、ラヴィはなんて?」
「ラヴィもそれでいいって」
「そう。ラヴィがそう言ったなら、それでいいんじゃない。……でも」
そこでファムは一旦言葉を区切ったが、まだなんか言いたそうだ。
なんだろう?
ラヴィの親友として、まだ何かオレに言っておきたいことがある、とか?
まるで落ち着かないかのようにネコ耳をパタパタさせ、周囲に視線を巡らせ、やがてファムは躊躇いがちに口を開いた。
「じゃあ……ユオンとは、どうなの?」
「ユオン?」
なんか、話が飛んだ?
っと言うより、もしかして、ユオンとの関係を疑っている……?
首を傾げるオレに向かってファムは言葉を続ける。
「……よく二人一緒にいるでしょ?」
「それは、分かってるだろう? ユオンはオレの護衛という立場上……」
「護衛という立場以上に、二人の距離が近いように見えるけど?」
「そうか?」
「そうよ」
端からはそう見えるのか。
けど……
「何も無いよ」
オレはきっぱりと言った。
「ホントに?」
「ホントだって。それに……」
「それに、何?」
「ユオンとオレは、たぶん、ファムが気にするような関係にはならないよ」
「それは、何故?」
何故って聞かれてもなぁ。
なんて言ったらいいんだろう。
うーん……
「ユオンは……たぶん、オレを男として見てない……と思う。ユオンにとってオレは、手のかかる弟、みたいなモンなんだと思う」
「弟……ね」
「ああ。そしてオレにとってもユオンは面倒見の良い姉って感じかな」
「そうなの?」
「ああ」
今までのことを思い返しても、助けてもらったり支えてもらったこともあるけれど、からかわれたこともそれなりにあるしなぁ。
「……言われてみれば、確かにそう……なのかも」
「だろう? ファムは、ユオンの年齢って知ってる?」
「……トーヤ。女の年齢を詮索するのはあまり褒められたことじゃないわよ?」
「そんな変な意味じゃなくてさ。もしかしたら、ユオンはオレよりずっと年上なのかもと思って。ほらっ! 獣人ってある程度成長したら、見た目は変わらなくなるじゃん。本人に聞いたことないからユオンの年齢って知らないけど、ずっと年上なんだとしたら、オレなんかガキ扱いなのかもな。あははは……」
「そう……ね。確かにそうかも」
納得してくれたらしい。
「確かにトーヤはガキっぽいところあるし」
――そっちかよ!
そこは「そんなことない」って、フォローしてくれるとこじゃないのかよ!
ファムはそんなオレの心情を知ってか知らずか、……いや、どうせ思考は漏れ聞こえてるんだろうから知ってるハズだが、それを無視していきなり爆弾発言を投下してくれやがった。
「ちなみに、ワタシは?」
「……は?」
「ワタシはトーヤにとってどういう存在なの?」
「お、お前な! そういうこと本人に向かって真正面から聞くか、ふつー!」
「興味あるから。いいから答えなさいよ」
ほほう? いい度胸だ。だったら答えてやろうじゃないか。
「……恋愛対象だ、と言ったらどうする?」
ふふん。さあどうする?
ファムは意外と照れ屋なとこがあるからな。
きっと顔を真っ赤にして照れて……
「決まってるじゃない。一切の誤解が生じないよう、その場できっちり振ってあげるわ」
……このやろう。
ホントにあっさりと、顔色一つ変えずに言ってのけやがった。
そこはふつー、少しは顔を赤らめるとかだな……
「トーヤの考えてることは念話で聞こえてくるんだから、当然じゃない」
ファムがまるで勝ち誇ったかのようににやりと笑ってくる。
――ぐっ! そうだった。
「で? 実際のとこは?」
「まだ聞いてくるか!」
「いいから教えなさいよ」
――ったく。
「まあ、あえて言えば、親友って感じかな」
「……なにそれ」
「オレにとってはそんな感じなんだよ。最初の頃はともかく、今では遠慮無く色々言ってくるし、オレも言えるし。なんだかんだ言って頼りになるし、実際頼りにしてるし。……たまにめちゃくちゃ怖ぇけどな」
「……そういうこと、本人前にしてよく臆面もなく言えるわね」
「――お前が言わせたんだろっ!」
思わず張り上げてしまった声に驚いたのか、後ろの方で鳥が何羽か飛び去っていったみたいだ。
なんて理不尽でひどい親友だろうな。
ホント!
◇
「さて、と」
どうやら休憩はもう終わりらしい。
ファムが立ち上がり、大きく伸びをした。
「……しかし、ラヴィも変わったわねぇ」
「そうなのか?」
言いつつオレも立ち上がる。
「そうよ。相手の事を考えてちゃんと我慢するとか、昔のラヴィからは想像付かない程の成長よ」
ひどい言われようだ。
後でラヴィにチクってやろうか。ははは……
まあ、今回オレからの「ちょっと待っててくれ」という願いにあっさり了承してくれたのは、オレやリオのことだけじゃなく、ファムのこともあるからって言ってたしな。だからラヴィも「むしろその方がいいかも」って言ってくれたんだ。
「……え?」
何故かそこでファムの疑問の声が上がった。
見るとファムが驚いたような顔をしている。
ん? なんか、おかしなこと言ったかオレ?
って、違っ!
オレは今、余計なことを考えてしまったんだ。
ラヴィに口止めされていたのに、オレの思考は思わずファムの名前を出してしまっていた。
それが、念話でファムに漏れ聞こえたんだ。
案の定、と言うべきか、ファムの目が細まりオレを睨んでくる。
オレの顔から一気に血の気が失せたような気がする。
しまった……
自分の迂闊さが恨めしい。
時間遡行魔法が使えるなら、今すぐ数秒前に戻って自分をぶん殴ってでも止めたい!
「……ちょっと待って。なんでそこでワタシの名前が出てくるの? ワタシのことがあるって、どういう意味?」
マズい。
ラヴィにあれほど、ファムには絶対内緒ですよ、って言われてたのに……
「……へぇ。ワタシには内緒なんだ」
細まっていたファムの目が逆に大きく開かれる。
くっ!?
オレの思考がさらに漏れてしまう。
いつもいつも余計な仕事してんじゃねぇよ、念話の指輪!
それに隷属の首輪も!
たまにはサボることも覚えろよっ!
ファムがオレのほうにゆっくりと一歩踏み出す。
その様子に擬音をつけるなら、〝ゆらっ〟て感じだ。
オレの額に、運動や暑さから来るモノとは違う汗が大量に吹き出しているような気がする。
マズいマズいマズい。
もう余計なこと言うな!
いや、考えるなオレ!
心を無に!
そうだ! 空になれオレ!
だがもう時既に遅いらしい。
ゆっくりと近付いてきたファムが、にっこりと微笑んだ。
「親友なんでしょ? 詳しく、話してくれるわよね?」
思わず体がブルッと震えた。
……こ、怖ぇ。
だからファムさん。
その笑顔が怖すぎるんだって!