112. ラヴィ、懇望
真夜中の広場には所々に松明が灯されている。
だが、そこにはオレ以外人影は全く無い。
今の時刻はもうすぐ夜の四刻になろうかというところだ。
あちらの世界の時間で言えば午前二時近くになる。
その中央で、オレは一度宿のほうに振り返った。
二人とも明日の朝、いやもう今日の朝か、早くからシロと訓練をする予定だと言っていたから、もうとっくに寝ていることだろう。実際、ここから見る限り、二人の部屋は真っ暗で明かりは灯っていない。
何も言わずに出てきてしまったことを、二人は怒るだろうか?
……怒るに決まってるよな。当然だ。
もし逆の立場だったら?
オレだったら間違いなく怒ると思う。
だけど、それでも、オレにはこうすることしかできない。
これしか思い浮かばなかったんだ。
アルテミスと話をして、オレは自分の心に問いかけた。
オレは何がしたいのかと。
そしてオレは、ダーナグランの森へ行くことを選んだ。
ここでリオを待っているほうが安全だということは分かっている。
アルテミスに誘われた王立学院に通って、色々とこちらのことについて勉強し、身体も鍛えながらリオの帰りを待つことが賢い選択なのだということも分かっている。
リオも王都で待っていてと言っていたんだ。
でも、すぐに帰ると言っていたリオはまだ帰ってこない。
オレにはそれが何故か分からない。
その理由すらオレには分からないんだ。
だから、ダーナグランの森へ行く。
あのリオが、万が一の場合には頼れと言った相手だ。
どんな人なのか分からないが、母さんとも知己だという。
リオが帰ってこれないことについて、何かヒントだけでも得たい。
できれば、リオが帰ってくるための、何か助力を頼みたい。
ここでもオレは無力で人頼みするしかないのは情けない話ではあるが。
しかもできるだけ早くだ。
何か手遅れになるということは避けたい。
ただでさえ、もうリオがいなくなって二十日も過ぎたんだ。
これ以上時間は無駄にしたくない。
だから、オレは一人で行く。
最短時間で行くには獣人にとって最悪の国ベルダートを横切るしかない。
そこを、ファムとラヴィの二人と一緒に行くわけにはいかない。
別に、二人に拒否されたわけじゃない。
そもそも二人にはこの話をしていない。
もし話せば、二人も当然のように一緒に行くと言い出すかもしれない。
例えベルダートを通ると分かっていてもだ。
それは、あまりにも危険すぎる。
二人の強さは知っているが、それでも国全体が獣人を迫害するようなところだ。
いくら個人の戦闘力が高くても、限度がある。
ましてやリオのいないオレは、ほとんど戦力外だろう。
集団で襲われ、手も足も出ず、目の前で二人が連れて行かれる、もしくはなぶり者にされる姿なんて、絶対に見たくない。絶対にそれだけはダメだ。
だから、二人には黙って、オレは一人で行く。
念話の指輪のおかげで会話はできても、オレはこちらの世界の文字を読めないし、もちろん書くこともできない。だから、手紙などを残しておくこともできない。
仮に書けたとしても、そんなものを残してしまえば、後から二人は追いかけてくるかもしれない。それじゃ意味が無い。
自分でもバカなことをしていると思う。
分かってる。
オレは腰に差している剣に手を添えた。
いくらチートな武器があったとしても、リオがいない今、オレの戦闘力は限りなくゼロに近い。
獣一匹倒せるかも怪しい。
盗賊が現れたら戦うなんて論外だろう。
全力で逃げることを選ぶしかない。
逃げ切れるかも怪しいくらいだ。
それでも、オレは一人で行くと決めた。
決めたんだ。
胸の奥で、何かチクりとした……ような気がした。
いや、きっと気のせいだ。
オレは一瞬何かを思い浮かべそうになったが、それを無理矢理振り払うかのように頭を振った。
二人には本当に申し訳ないと思う。
いくら謝っても許してはもらえないだろう。
この選択はあまりにも自分勝手だということも十分分かっている。
それでも、オレは行くと決めた。
自分の心で、それを選んだんだ。
だから、行こう。
オレはバッグを肩に担ぎ、踵を返して足を踏み出した。
「……トーヤさん」
――っ!?
静かに、されどしっかりとオレの耳に届いた声。
突然かけられたその声に、オレは心臓が止まるかと思うくらい驚いた。
――この声は、まさか!
そんなハズは無いと思いつつも、声がした方にゆっくりと振り向く。
目に入ってきたのは人影。
何故……?
そんな思いと共に、オレの視線はさらにゆっくりと人影を辿る。
そこにいたのはウサ耳の少女。
松明の揺らめくオレンジ色の灯りに照らされたラヴィがいた。
なんで、ラヴィがこんなところに?
ファムと一緒に、宿で寝ているんじゃなかったのか?
ウサ耳娘が手を後ろに組んで、少し微笑みながらオレをまっすぐ見つめている。
彼女の後ろには長槍ヴァルグニールが、そして足元にはバッグが見える。
「どこへ、行くんですか?」
「……ラヴィこそ、どうしてこんなところに」
ラヴィのその問いに、オレは彼女から視線を外しながら逆に聞き返していた。
オレの声が震えているのが、自分でも分かる。
なんで?
どうして?
寝ていると思っていたのに、いつの間にそこにいたんだ?
いや、それよりも落ち着け。
まずは落ち着くんだ。
動揺したり、慌ててはダメだ。
落ち着け、落ち着け、落ち着け……
「アタシですか? アタシは、眠れないのでちょっと夜風に当たりに出てきただけですよ」
そう言ってラヴィが微笑む。
ヴァルグニールやバッグを持って夜の散歩?
そんなわけはないとすぐに確信してしまう。
だけど、そんなこと口にできない。
「それで、トーヤさんはそんな荷物を持って、こんな夜中に、一人で何処へ行くんですか?」
再びゆっくりと静かに口にしたラヴィのその問いかけに、オレは心臓が跳ね上がるような気がした。思わず唾を飲み込んでしまう。
答えられない。
それに、きっとラヴィは気付いている。
分かっているんだ。
バレていたんだ。
オレの行動が。
だからラヴィはここにいる。
荷物まで持って。
彼女はきっと、オレについて来ようとしているんだ。
オレが正直に答えたら、間違いなくラヴィはついて来ようとする。
ダメだ。
そんなことは、ダメだ。
オレはちらっとラヴィに視線を向けた。
ラヴィは微笑んだままオレを見ている。
松明の揺らめく炎の光が写り込むその瞳と視線が重なる。
だが、オレはすぐに再びラヴィから視線を外してしまった。
目を合わせることが、できない。
ラヴィを、二人を巻き込みたくない。
その気持ちに偽りはない。
だけど、今の自分の気持ちはそれだけじゃないことにも気付いた。
彼女たちに黙って、一人で行こうとしたことの後ろめたさだ。
それが、オレに彼女からの視線を外させているんだ。
ここまでオレについてきてくれた二人に黙って勝手に決めてしまった。
彼女たちを大切な仲間だと言っておきながら、何も相談せず勝手に一人で行こうと抜けだしてきてしまった。
その後ろめたさで、オレは彼女の目をまっすぐ見れずにいるんだ。
ラヴィが一歩、オレに近付いた。
オレは思わずぎゅっときつく目をつぶった。
怖い。
ラヴィに何を言われるのか、何て責められるのか。
それを考えると、彼女を見ることができない。言葉も出ない。
「……どこへでもいいです。アタシも連れていってください」
――えっ?
ふいにかけられたその言葉の意味が一瞬分からず、オレは思わず目を開いてラヴィに視線を向けた。
ラヴィが一度目を細めて微笑み、そして夜空を見上げた。
「月が、綺麗ですね」
何を、言って……
ラヴィの意図が全然分からず、オレはただただ呆けたように彼女を見つめていた。
「今夜は、満月みたいですよ」
ラヴィのその言葉に釣られて顔を上に向ける。
彼女の言う通り、そこには丸く満ちた月と無数の星々が瞬いていた。
こちらの世界に来て、視力を治してから、もう何度目になるのだろう。
こうやって夜空を見上げるのは。
白銀の砂をまき散らせたような煌めく星々が織りなすその鮮やかな様子は、オレには一種の荘厳ささえ感じる。
ふいに思い出す。
あの時のことを。
リオと夜の泉で、初めてこの世界の夜空を見上げた時のことを。
リオと見上げた、あの満天の星空を。
リオと……
瞳が、熱くなる。
視界が、揺らぐ。
瞳に溢れたものがこぼれそうになる。
風が吹いた。
微かにハーブのような爽やかな香りをまとった優しい風が、夜空を見上げているオレを吹き抜ける。
気が付くと、ラヴィがオレを抱きしめていた。
顔をオレの胸に埋め、両手をオレの背中に回して、そっと抱きしめている。
このハーブのような香りは……
そうか、ラヴィが纏っている香りなのか。
オレは、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「……アタシを、置いていかないでください」
その言葉に、ぼやけていた思考が急速に覚醒していく。
同時に、ラヴィの声が微かに震えていることに気が付いた。
「ラ……ヴィ……?」
オレを抱きしめていた腕が僅かに緩み、そしてラヴィがそっと顔を上げる。
その顔を見た途端、オレは息を呑んだ。
ラヴィの潤んだ瞳にオレンジ色の灯りが揺らめく。
これは……涙……?
泣いているのか? あのラヴィが?
泣かせているのか? このオレが?
再びオレの背中に回した腕に力を込め、ラヴィがオレの胸に顔を埋める。
でも、それでも……
「ダメだ……」
ラヴィを見下ろしながら、オレは絞り出すようにその言葉を口にした。
オレを抱きしめる腕が少し緩み、ラヴィがゆっくりとオレを見上げて来る。
ラヴィの悲しげな顔を見ると、自分の決心が揺らぎそうになる。
でも、ダメなんだ。
「これからオレが行こうとしている場所に、獣人であるお前たちを連れて行くことはできない。あまりに危険すぎるんだ」
「……それでも……お願いです」
ラヴィのその震える声に、オレは胸が締め付けられるような気がした。
「オレは……」
オレにはまだラヴィに、まだ二人に言っていないことがある。
今まで色々と話はしてきた。
オレの事についても、たくさん話をしてきたと思う。
だけど、それでもまだ、言ってなかったことがある。
言えなかったことがある。
震えそうになる声をかろうじて抑えながら、オレは言葉を続けた。
「今のオレは、お前たちを守ってやることができない。それどころか、一緒に戦うことすらできない。今まで黙っていたが、オレの強さは、リオがいてこそなんだ。リオがいない今、オレは非力だ。だから……」
「知っています」
……え?
「これだけ一緒にいれば、さすがに気付きます。平時と戦闘時では、トーヤさんはあまりにも違いすぎますから」
気付かれていたという事実に一瞬言葉が詰まる。
だがそれでもと、オレは何とか自分の口をこじ開けた。
「そう……か。でも、だったら……」
「それでも、です。いいえ、だからこそです。リオちゃんがいない今、誰がトーヤさんを守るんですか?」
オレを見上げながらラヴィは言葉を続ける。
「アタシにさせてください。リオちゃんに頼まれたということもあります。ですが、アタシがそれをしたいんです。アタシが、トーヤさんを守りたいんです」
ラヴィの瞳がすぐ近くでオレを見つめる。
互いの息が感じられるほど近くで、ラヴィの瞳がまっすぐオレを見つめる。
ラヴィの頬が少し赤みをおびているように見えるのは、松明の灯りのせいなのだろうか?
「……貴方の、傍にいたいんです」
ラヴィの声が再び微かに震えだす。
それだけじゃない。
オレの服を握りしめるラヴィの手も、微かに震えているのを感じる。
そしてラヴィは、オレに向かって言葉を紡いだ。
「……トーヤさんが、好きです」
ラヴィの想いが、紡いだ言葉に乗ってオレに届く。
ラヴィを見つめるオレの目が、自然と大きく開かれたことが自分でも分かった。
驚いている自分と同時に、なんとなく納得している自分がいる。
正直言えば、オレは彼女の気持ちに気付いていたのかもしれない。
もしかしたら……
そう思うことが、何度かあったのは事実だ。
でも、そこに確信なんてものは無かった。
女の人に告白されたことなど、いままで一度も無かった身としては、そんな想像はたんなる希望的推測であって、思い上がりなんじゃないかという気持ちが強かったんだ。
だが、ラヴィは今、自分の気持ちをはっきりと口にしてくれた。
嬉しいという気持ちはある。
だけど、それでもラヴィを連れて行くことはできないという気持ちがある。
そこまで想ってくれている相手を残して、黙って行こうとした後ろめたい気持ちもある。
リオが帰ってこれない今、他のことを考える余裕が無いという気持ちもある。
様々な思いが複雑に絡み合い、返す言葉が見付からずに黙っているオレに向かって、ラヴィは静かに口を開いた。
「……分かっています」
分かっている? 何が……?
オレがそれを口にするより先に、ラヴィが伏し目がちに言葉を続けた。
「アタシは獣人ですから、仮にこの想いが叶ったとしても、人族であるトーヤさんと肌を重ねても、どんなに一緒の夜を過ごしたとしても、二人の間に子を授かることはできません」
「ラヴィ……?」
オレは、更に目を見開いて、彼女の名を口にしていた。
この世界には、ハーフは存在しない。
人族と獣人は、種族が違うから子を作ることはできない。
最初の頃、リオにそう言われた。
だけど、何でここでそんな話をし始めたのか、オレにはその意図が分からなかった。ラヴィの次の言葉を聞くまでは。
「だから、トーヤさんと一緒になることはできないと、分かっています」
ラヴィ……
そんなことを考えて……
「でも……それでも、アタシは貴方の傍にいたい」
そこにあるのは、彼女の純粋で切なる想い。
一緒になれないと思いつつも、傍にいたい。
その言葉に込められた数多の想いを考えると、胸が詰まるようで言葉にできない。
目の奥に何か熱いものがこみ上げてくるような感覚がする。
オレは何も言えず、ただただラヴィがゆっくりと、静かに紡ぐ言葉に耳を傾けていた。
「貴方の声を聴きたい」
「貴方の顔を見たい」
「貴方の手に触れたい」
「いつまでも、貴方の近くにいたい」
「そしてまた、貴方に髪を撫でてもらいたい」
それらの言葉がオレの胸に浸み込んでくる。
そこには、いったいどれほどの深い想いが込められているのだろう。
ラヴィのあふれ出した気持ちが、言葉と共にオレに届くたび、オレの心が揺さぶられる。
「それが、アタシの希望です。アタシの願いです」
そしてラヴィは再び、ありったけの想いを微笑みと共に言葉に載せ、そっとオレに送り届ける。
「アタシは、貴方が好きだから」
いつも読んでいただき、ありがとうございます!
まだラヴィのターンは続きます。
次話「113. ラヴィ、悲憤」
明日中に投稿する予定です。
どうぞお楽しみに!