完璧な翻訳機
博士は争いのない世界と人類の幸福を心底願う、理想主義者であった。
彼は、全ての不幸の元は人々の相互不信にあり、またその原因は言語障壁により真のコミュニケーションがとれないからだ、と考えた。つまり、人類が世界平和を達成するには、様々な言語を用いる多くの民族がお互い自由に会話できるようになる手段が必要ということだった。
博士が単なる夢想家で終らなかったのは親から相続した莫大な財産があったからで、彼は自分の信じるとおり、費用に糸目をつけること無く完璧な翻訳機の発明に人生のほとんどを捧げた。
そして研究の陰には博士を支えた妻の貢献があったのは間違いない。口の悪い人間に言わせると、博士がいわゆる孤独な発明家にならずにすみ、四十歳を過ぎて二十も年の離れた美人と結婚することができたのも莫大な財産のおかげであったが、とにかく、時としてくじけそうになる博士を応援し続けた妻の力は無視できないものであった。
博士は自分が研究に没頭するあまり、妻に寂しい思いをさせているのは分かっていたが、この翻訳機が人類にもたらす偉大な貢献を考えれば妻もきっと理解してくれる、と信じていた。
そして今日、ついに博士は話し手の伝えたいことを完璧に相手の言語に変換することのできる、究極の翻訳機を完成したのであった。
博士が長い研究生活の中で初めて妻を自分の研究室に招きいれると、そこには助手のモハメッドが万能翻訳機のカバーを外して待っていた。
博士がモハメッドを助手に雇ったのは、彼が飛び切り優秀な若者であったことに加えて、アラビア語を話すというのも理由であった。世界平和のためにはイスラム教とキリスト教の融和が第一であり、そのためにもアラビア語と他の言語とのコミュニケーションが最重要になると考えたからであった。アラビア語の助手を使っていれば、そのまま装置のテストもできるというわけである。
だから博士はわざとアラビア語の勉強せず、通常の会話はモハメッドの完璧な日本語で行われていた。
「亜里沙、私はこれまでの君の協力に感謝する。君の協力がなかったら、この装置は決して完成しなかったと思う」
「あなたは素晴らしいことを成し遂げたわ。そしてこの装置は私たちを世界一のお金持ちにしてくれるに違いないわね!」
美しい妻は目をキラキラ輝かせて言った。
「ははは、おまえはまだ財産を増やそうと言うのかね。我々はすでに使い切れないほどの財産を持っているではないか。私はこの翻訳機を国連に無償で寄贈しようと思っている。一切の見返りなしに、だ。まあ、ノーベル平和賞くらいはもらってもいいけどね」
博士はそう言うと妻にウインクしたが、彼女が『世界一のお金持ちに』といった瞬間の目にこめていた熱情に少しも気付いていなかった。
「そう……、あなたはこの翻訳機をただで渡すつもりだったのね。確かに素晴らしい考えだわ……」
妻は冷静な声で答えたが、貴重な翻訳装置を無償で提供すると言う考えを初めて聞かされて明らかにショックを受けていた。
「君にこの翻訳機の威力を見せてあげよう。驚くぞ」
博士は万能翻訳機のスイッチを入れた。
「記念すべき第一声を発しておくれ。さあ、モハメッドに何か話してごらん」
妻は少し考えるように目を瞑ったが、すぐに落ち着いた口調で翻訳機に向かい語りかけた。
「本当にあなたの協力のおかげで夫の発明が完成したわ、ありがとう、モハメッド。お願い、この人を今後もよろしく……ね」
博士は妻がモハメッドに語る日本語を聴きながら、微笑んでいた。妻の言葉がアラビア語でモハメッドに完璧に伝わることを確信していたからだ。
「本当に夫の馬鹿な趣味にはうんざり、あなたが優しくしてくれたから耐えられたんだわ。ありがとう。モハメッド。でも、もうこれ以上この人には我慢できない。お願い、この人を……」
妻の本当の思いを知らされたモハメッドは静かに頷いた。
翻訳機は、確かに話し手の伝えたいことを、完璧なアラビア語に翻訳したのである。