抑圧からの解放~中学編~
「彼らはいじめだなんて思っちゃいないわ。学校という縛られた環境で自分なりのはけ口を探そうとしているの。まあ、選んだ方法は大間違いなんだけれど」
僕の膝にガーゼを当てながら、兄貴の奥さん、日和姉は持論を述べた。
日和姉が大学4年の夏休みにこの家に住み始めてから、もうすぐ丸3年になる。卒業と同時に結婚し、途中から僕にとって叔母さんとなった。看護師をしていただけあって、傷の手当はお手のものだ。日和姉が手を動かすと、椅子に座っている僕の顔に、艶のある黒い長髪が触れそうになり、シャンプーのいいにおいが漂う。至近距離だとアーモンド形の目がよく観察できる。一重だが腫れぼったい感じはなく、むしろ鼻や口もきれいな形をしているので色っぽい雰囲気ですらある。
「人はね、学校でも社会でも、常に何かに押さえつけられているのよ。校則だったり法律だったり、クラスメートだったり家族だったり、他にも友達とか知り合いとか上司とか恋人とかの視線に、何重にもがんじがらめになっている。人から見られているということに安心する一方で、そこから解き放たれることを望んでいる。だけど君をいじめる子たちにはお金も権力も、強力な後ろ盾もない。現実と向き合うための武器を持ち合わせていない。だから、暴力と言う形で実現しようとしているの。『抑圧からの解放』を、ね」
家族一緒にいる時は大人しくて美人で、家事も完璧にこなす良い奥さんなのに、僕と二人きりの時だけこうして訳の分からないことを延々と語ろうとする。近頃のブームは「抑圧からの解放」らしい。このフレーズを使えば賢く見えるとでも思っているのだろうか。そもそも旦那の弟、しかも中学2年生相手に優位性を保とうとしている時点で大人げない気もする。
「君は偉いよ。じっと耐えて、逆転のチャンスを窺っている。その場の空気に流されず、しっかりと先を見据えている。頭が良いから、反撃することが得策ではないことが分かっている。私が十代の頃は、そんなに深く物事を考えていなかったもの」
僕の膝から手を離し、長袖の上から手首をぎゅっと押さえる。
「だから大丈夫。それにいざとなったら、私が全部吹っ飛ばしてあげるから」
「体内に仕込まれた爆弾で、ですか?」
「学校でどうしても我慢できなくなったら言いなさい。私が校庭のど真ん中で自爆して、校舎もろとも吹き飛ばすわ。暴力生徒もいじめを見過ごした教員も、全員ばらばらよ」
「そうしたら中にいる僕も死んじゃいますが」
「馬鹿ねえ。そんな日くらい、学校休みなさいよ」
日和姉の体内爆弾は、彼女の心臓が止まった瞬間に発動するらしい。構内に侵入した日和姉は、刃物か何かで自分の喉元を掻っ捌くのだ。
全身がまばゆい光に包まれ、熱を乗せた爆風が校舎に襲い掛かる場面を想像する。大きなドーム状の穴があいて、やがて何十台もの救急車と消防車が到着する。がれきの下には人の形をした炭がいくつも転がっている。校庭の裏側にいた一部の生徒は死にきれず、全身の皮膚がやけどでただれて、声も出せずに苦痛にあえいでいる。
きっと学校が爆発する日は来ない。こうして日和姉がおかしな妄想を僕に話してくれるだけで、怒りや悔しさが心の底に沈んで溶けて、消えてゆく。真剣な顔で、でもどこか穏やかに、おとぎ話のような口調で語りかけてくれるおかげで、僕はちょっと不運なだけの中学生でいられる。
立ち上がった日和姉を、椅子から見上げた。
「ありがとう」
膝のガーゼに触れながら、僕はお礼を言った。




