第33話 -片翼の双子‐ “The Empty Twins”
違うよ、と囁いた声があった。
それは天女<サラスヴァティー>の、そして、幸福の青い鳥<ナイチンゲール>の歌声のようだった。
ふわり、と降り立った彼女は、僕に歩み寄り、抱きしめた。
「小夜を壊したのは、ぼく。小夜を裏切ったのは、ぼく。悪者は、悪魔は、ぜんぶぼくなんだ」
凛音は、とろける綿菓子のように、やわらか……甘やかに、微笑んでいた。
だがその瞳は、かすかに濡れていた。
気が付くと、つい、と、その頬に、触れていた。
凛音は優しく、しかし、はっきりと、僕の手を払った。
胸がどくん、と震える。
凛音が、僕を拒絶した。
凛音は、また歌を歌った。
その歌は、ひどく醜く、鼓膜を突き破りそうな苦痛に満ちていた。
小夜が、憎らしかったこと。
僕に裏切られた、と思ったこと。
小夜なんて消えてしまえばいい、と思ったこと。
世界を呪って、仮面の男を受け入れたこと。
すべて、僕にとっては、信じられないことばかりだった。
凛音は、僕の天使だった。
僕は神を崇める前に、彼女を崇めていた。
いつの日も、凛音だけは僕の味方だったし、おおよそ空っぽな世界で、凛音だけが本物だと、思いたかった。
正直に言おう。
僕は、妹が好きだった。
それは、小夜に対する感情とは違っていた。
欲望のままに小夜を怒らせると、凛音は微笑んだ。
その笑顔をみると、ああ、これでいいんだな、と思った。
なにがいいのかは、わからない。
ただ、凛音のことは、大切にしたかった。
傷つけたくなくて、ただひたすら大事にして、慈しみたかった。
でも、そんな凛音のことを、僕は傷つけてきたのか。
恋も愛も、空だった。
でも、なら、今胸にあふれるこの感情はなんだ。
僕は、凛音を抱きしめた。
凛音は、逃げようとした。
離したくなかった。無理やり抱き留めた。
「凛音。なんで、言ってくれなかったの」
「祈音。祈音こそ、なんで」
なんでぼくを責めないの、と凛音は苦しげな顔で、かぼそい声を吐き出した。
「妹を責めるぐらいなら、僕は自分を責めるよ」
僕は、空々しく、言った。
そう、空だ。
悩みも痛みも、ほかならぬ僕たち自身も、なにもかも存在しない。
「祈音は、うそつきだね」
こうして生身の精神体で触れてしまえば、お互いの気持ちがわかった。
長らく、僕たちはひとつだった。分かたれて、互いを慈しんだ。
それは、どこか、自己愛<ナルシス>に似ていた。
僕らは鏡写しで、偽物で、空だった。
「祈音は、自分を愛してほしかったんでしょ」
凛音が、こう言った。
僕も、こう返した。
「凛音は、恋をしたかったんでしょ」
「なら、祈音は、この世は空じゃない、って証明したかったんでしょ」
凛音が言い、僕は、最後に、ひとつ、心をこめて言った。
「凛音は、人間になりたかったんでしょ」
凛音の喉が、ひゅっ、と音を立てた。
触れ合った胸から、凛音の叫びが聞こえてくる。
『神様なんて、もう、こりごりだ。愛するのは、もう飽き飽きだ。わたしは、人の子になりたい。愛して憎んで泣いて嫌って、もっと駄々(だだ)をこねたい。なにも知らない無知な赤子になりたい。人の縁結びなど、ばかばかしい。わたしは、つがいになりたい。愚かで矮小な、青臭い恋がしたい』
凛音は、かつて、輪廻転生を見守り、人の子の絆を結ぶ、縁結びの女神だった。
だが、凛音は、自分に自信がなかった。
なぜなら、誰も凛音を求めなかった。
凛音には隙がなく、その慈愛はいつの日も平等だった。
その表面上の優しさに惹かれた神々は、自分がその他大勢だということを悟り、離れていく。
凛音は縁結びの神だったが、結局のところ、愛するという感情を実感できなかった。
それは、実は本当の意味では、誰にも興味がなかったからかもしれない。
誰にでも優しいのは、誰のこともどうでもいいから。
凛音は実際は、空っぽだったのだ。
そして、縁結びをなりわいとする以上、自らは恋はできない。
なぜなら、どんな相手であれ、無理やりにでも自分に惚れさせることができるのだから。
そんな卑怯な真似をすることは、真面目な性分ゆえ、できなかった。
誰かを愛するには、神の身を捨てるしかない。
だから、自分の魂を砕いた。
人の身に収めるために、ちいさく分割した。
ふと酔狂で、あまったかけらを、同じ人の子の腹に宿した。
今思えば、心細かったのだ。
人になるなど、はじめてのことだった。道連れが欲しかった。
わかってくれる存在が。
そんな存在なら、自分のことも、愛してくれるのではないかと。
「そうだね。凛音が好きだったのは、祈音じゃなかったね。凛音は、ただ、ひとりぼっちが嫌だっただけだったんだ。小夜の事も、逆恨みだった。ぜんぶ自分の不始末なのに、誰かを憎んで現実逃避した。祈音のいう通りだよ。わたしは、ただ、愛されたかったんだ」
うん、と僕は答えた。
「なら、あるべき姿に戻ろう。凛音。君は、僕だ。憎しみは、愛の裏返し。僕らは、もう空じゃない。僕は小夜を愛するけれど、それは、君の初恋だ。僕らはひとつの存在に戻る。それは、一番ばかばかしいことだ。せっかく得た片割れを、僕たちは永遠に失う」
「でも、それが、本来の僕たちだ。生涯の伴侶は、自分であっちゃいけない。僕たちはひとりぼっちで、つがいを探す。ひとりぼっちを重ね合わせて、違う存在とひとつになる」
うん、と凛音もうなずいた。
「もう、ずるはやめよう。僕らはひとつ。ねえ、愛しい僕のはんぶん。もう一度、ひとりぼっちに戻ろう、凛音」
凛音は、こくり、と、もう一度、うなずいた。
同時に、僕たちはとけあって、ひとつの個体となった。
祈凛。
新しい僕たちを、そう呼ぼう。
幸福を知らせる、伝説の獣<麒麟>だ。
殺生を嫌い、その鳴き声は音階に一致し、歩いた跡は完璧な円になる、賢く優しい、雌雄の獣だ。
駆けると、小夏の顔がみえた。
石となった輝馬がみえた。
僕たちは、まっすぐ飛び、いなないた。
恐れや煩悶は、置いてきた。
今の僕たちは、ただの人の子ではない。
神でもない。
ただ、幸福を届けに来た、一匹の獣だ。
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“Empty” ~エンプティ~
【形容詞】
〈容器など〉中身のない,空の
《★【類語】vacant は本来中にあるべきものが一時的に欠けて空いている;
blank は物の表面に何も存在しない》.
〈言葉・約束など〉無意味な,当てにならない; 空虚な,くだらない.
【叙述的用法の形容詞】 〔+of+(代)名〕〔…が〕なくて,欠けていて.
(比較なし) 《口語》 空腹の.
Twin ~ツイン~
【名詞】
[複数形で] 双生児,ふたご.
【可算名詞】 似た人[もの]; 対の一方.
[複数形で] 対.
【形容詞】【限定用法の形容詞】
ふたごの.
対をなす,対の(一方の); よく似た,うり二つの.
“The Empty Twins”
~ジ・エンプティ・ツインズ~
「空っぽの双子」
「よく似た空腹」「対をなす欠落」