第32話 ‐飢え乾く幼神(あかご)‐ “Give me your Love”
凛音が目覚めた。
オレはほっとしたが、凛音の夢に潜っていった乙姫の姿がない。
「乙姫は?」
凛音は、ゆっくりと首を横に振った。
「乙姫は、ぼくに力のすべてを託した。おそらく、乙姫は最初から、そういうつもりだった。ぼくの徳<ホーリーポイント>はわけあって、尽きていた。ここで輪廻<リンネ>を使って、輝馬を助けることは可能だよ。でも、その場合、乙姫は助からない」
「そんな……」
凛音が言っていることはこうだった。
――“乙姫の命を犠牲に、輝馬を助ける”
「ほかに……方法はないのかよ」
「祈音を助けて、ふたりの徳<ホーリーポイント>を足せば、あるいは。いずれにせよ、おにいちゃんは、ぼくがなんとかする。ううん、ぼくしか、できないんだ」
どうか、ぼくに任せてほしい、と凛音は頭を下げた。
オレは、正直、悩んだ。
いくら凛音が、「生ける天女」と謳われるすごいやつでも、まだ、小学生2年生になったばかりの女の子だ。
その凛音が、自ら、危ない役を進んで、引き受けようとしてくれている。
こんな時、輝馬なら、なんて言っただろう。
乙姫なら。
『―—だからお前はただ、自分の正義を貫け』
あの時、乙姫は、こう言った。
だからオレは、自分に賭けることができた。
すぐキレる、バカで、よわっちくて、お荷物なオレにだって、できることはあるって。
「……小夏」
雷耶が、石化した腕をかばいながら、心配するように声をかけた。
「凛音。お前に、任せる。祈音を、お前の兄貴をお前の手で、救うんだ」
「……うん。ありがとう、小夏。行ってくるね」
凛音は、泣きそうな顔で微笑んだ。
――そして、振り返って、言った。
「お姫様<プリンセス>なんて言ってごめん。小夏は、ぼくの女神様だよ」
いやそれ、あんまりかわんねーだろ。
オレはつっこんだが、凛音は、吹っ切れた風に微笑った。
「小夏。きっと小夏は、ぼくを責めないんだろうね。でも、できれば、叱ってほしいな」
「どういう意味……」
オレは凛音に向かって手を伸ばしたが、凛音は、振り返らず、祈音の目の前まで歩みを進めた。
主を護ろうと、仁王が、臨戦態勢に入る。
だが、凛音が、祈音に触れるほうが早かった。
凛音は、とけこむように、祈音の手に手を重ねた。
まじりあうように、唇を重ねた。
凛音の姿が消え、静寂が舞い降りた。
仁王は黙ったまま、祈音をみつめていた。
主の無事を、祈るように。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この世は空だ、と僕は知っていた。
この世を構成するものは、存在しない。
悩みも欲望も、恋も愛も存在せず、この世はただの無だ。
僕は昔から、よく、パパそっくりだな、と言われた。
天使のような、と形容されるこの容姿は、確かに父の子どものころそっくりで、ママはそんな僕をみると、昔を思い出すね、と頬ずりをした。
だから、父の真似をした。
父の好む言葉を真似、父の好きなものを愛した。
とりわけ、父のお気に入りである小夏のことは、特別に情をかけた。
小夏は可愛かった。
未熟で、ひたむきで、太陽のにおいがした。
小夏はつまらないことで怒ったり笑ったりする。
そんな小夏を見ていると、この世になにか、「確かなモノ」が存在する気がした。
……だがこんな感情もまた、空なのだ。
天津教の次期当主だから、悟っていたのではない。
僕は生まれながらの僧だった。あるいは、聖人だった。
自分の意志ではなく、もっと尊いものの意思を尊重すべきだと、本能レベルで知っていた。
わかってくれる者もいた。
――双子の妹の凛音。
彼女は天女だった。呼吸するように愛する、聖女だった。
あるいは、女神・花蓮の妹子と言って、さしつかえなかった。
だが、そんな凛音もまた、空なのだ。
僕たちは生きて死ぬ。
円環浄土<アルカディア>に行くために、善行を積み、いつか神と一体になるために、生まれ落ちる。
それが、僕という存在が生じた、意味だ。
ああ、でも、例外がいたな。
どこまでも空っぽのくせに、みっともなく足掻く女の子だ。
小さな夜の名を持つ悪魔だ。
彼女だけは、僕につっかかってきた。
「お前、何? うざい」と直接、なんくせをつけてきた。
父の真似をしてからかうと、頬を膨らませて怒った。
しだいに、わけのわからない感情が生まれた。
変態キャラを演じる僕に対し、彼女だけは直接、悪口を言ってきた。
ほかの子は遠巻きだったが、小夜だけは、なんだかんだいいつつ、僕に絡んできた。
恐らく、僕が小夏にちょっかいを出すのが気にくわないのだろう、子供だから許されるギリギリのセクハラに、大変、立腹しているようだった。
だが、冷静でいられないのは、むしろ、僕のほうだった。
仲睦まじい兄と、妹が触れ合う姿をみるたびに、心がなにか泡立つ。
――嫉妬? そんなわけはない。すべては空なのに。
だが、次第に僕は、イライラを抑えきれなくなった。
父親の真似をして、小夏をからかって、優越感に浸った。
……なぜ? すべては空なのに。
僕のもくろみ通り、小夜は、血のつながらない兄を、生涯愛しぬくと決めた。
いいことだ。それが、自然だ。
この世は空だが、人が人を愛するのは、自然なことだと、僕は両親から教わった。
たとえ世界的宗教の当主でも、恋をし、人を愛するものなのだと、僕はすんなりと納得した。
なのに、なんでだ?
僕は、なぜ、小夜を傷つけた。
小夜を、物言わぬ石<モノ>にした。
ばらばらにした。「空」にした。
それが僕の望みなのか?
“ちがうよ”という答える声があった。
それは、懐かしい、愛しい小鳥のさえずりだった――。
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“Give me your Love” ~ギブミー・ユア・ラブ~
「私に愛をください」