第29話 ‐偽りの聖母‐ “Maria of the Hatred”
少女は、生まれながらに、ありとあらゆる輪廻転生について、我がことのように知っていた。
全知全能、ではない。だが、慈悲にあふれた、美しい少女。
人々は、彼女をあがめた。
時には、母である、花蓮宗の師範代、リンドウよりも。
凛音は、生まれながらの天女だった。
溢れる愛で、人々を癒す、聖女<マリア>だった。
そう、凛音は「導く者」だった。
その代り、凛音を導く者はいなかった。
なぜなら、凛音こそが、「神」だったからだ。
凛音のちいさな躰に、その高度な精神は入りきらなかった。
凛音は必要なぶんだけ、自分の魂を人の器におさめた。
凛音は、母の真似をした。
人間のふるまいを、母から学んだ。
凛音は、時々考える。
母なる神、花蓮様の従者であった娘と、スサノオの末裔の縁を結んだのはよかった。
だが、なんで自分は、神の身を捨て、誓約ばかりの人の子に生まれたのだろう。
凛音は、人の食べるものを食べ、飲んで、吸って、すっかり穢れてしまった。
もう凛音は、神には戻れないだろう。
そして、ゆっくりと降り積もった煩悶は、ある時、地に堕ちる。
自分のかたわれ、祈音が恋に落ちた。
祈音は、神である、凛音の魂を割ってできた、おまけだ。
でも凛音は祈音を愛していたし、祈音も凛音を大切にした。
まるで恋人のように。
人間ごっこをするうちに、凛音は不思議な気持ちになった。
祈音に触れられるたび、凛音の心臓がはねる。
祈音にキスされると、凛音は恥ずかしいような、嬉しいような気持ちになる。
ふたりで小夏をからかうのも、楽しかった。
小夏をみていると、まるで自分の愛しい孫をみているような気分になった。
大切にして、愛でて、いいこいいこしたい。
それは、神の慈愛とはまた違うものだった。
それでも、祈音は恋をした。
悪魔の娘に。
凛音は、自分の腹が、どす黒くなっていくのを感じた。
きらい、という言葉が口をついた。
——祈音なんて、死んでしまえばいい。
ひとりで、膝を抱えて泣いた。
こんなみじめな気持ちは、はじめてだった。
それでも、凛音は、腐っても元・神様だ。そんな感情を、みせてはならない。
凛音は、今まで通りにふるまった。
祈音が、小夜にちょっかいを出していても、聖母のごとく微笑んだ。
ゆっくりと、心が腐り落ちていく音がした。
今、凛音は、呪いと恨みで、からっぽの腹を満たしている。
もう人の子のまねごとなど、こりごりだったし、祈音がどうなろうが、どうでもよかった。
声が聞こえたのは、その時だった。
「甘えてんじゃねーよ」
「…………?」
凛音は、目を開けた。
「なにが、神様だ。なにが、マリアだ。てめーはただのクソガキだ。好きなやつにフられて、勝手に傷ついていじけてる幼児だ。なんでわかんねーかな。お前は、愛したいんじゃない。愛されたかったんだよ」
「お前、誰?」
凛音は、ぼんやりと声の主をながめた。
なにか忘れている気がしたが、それは美しい人だった。
「俺様は、竜宮の使いだ。お前を、迎えに来た」
/////////////////////////////
“Maria” ~マリア~
「マリア」(女性名)
またはmareの複数形
【天文】 (月・火星の)海 《表面の暗黒部分》.
【語源】ラテン語「海」の意
“Hatred” ~ヘイトレッド~
(嫌悪・怨恨などによる)憎しみ,憎悪; 大嫌い
“Maria of the Hatred”
「憎しみの聖母」
「怨恨(嫌悪、憎しみ)の暗黒の海」




