第10話 ‐甘い毒‐ “A Gentle Poisonous Spider” 【後編】
(( ――ググゥゥゥゥル…… ))
何かが腐ったような悪臭と共に、鼓膜を震わせたのは、地の果てから響いてくるような、獣の唸り声だった。
「……墓守<グール>!!」
煌々が、飛びずさり、臨戦態勢に入る。
「――われとしたことが……!」
「なんだよ、こんなん、ただのいぬっころじゃん」
わずか数十メートルまで迫ってきていたのは、骨だけのカラダの、中型犬だった。
数は、ざっと、二十匹。
「オレに任せろ!!」
ごおっ、と、煉獄の竜巻<トルネード>で焼き払う。
——だが。
「ウソだろ……っ」
やつらには、傷一つなかった。
「やつらは冥府の墓守。彼らは、光以外のどの攻撃も受け付けぬ。ここは、退避じゃ!!」
煌々が叫ぶが、グールたちは溢れるように姿を現し、とうとう、完全に囲まれた。
「小夏。目を閉じていよ」
「煌々……?」
狐火を掌に灯した煌々に、オレは驚きの声をあげた。
「炎は、効かないんじゃ……」
煌々は、それには答えず、狐火を放った。
グールたちではなく、オレに向かって。
「……っっ?!」
熱くはなかった。
代わりに、不思議な暖かさと共に、オレの手足が薄れていく。
「神隠しの術じゃ。この炎は、そなたが望む者のところへと、必ずや導くじゃろう」
言って、煌々は、泣きそうな顔で振り向いた。
「さよならじゃ。短い間ではあったが、そなたといっしょに過ごせて、ほんとうにうれしかった」
……それじゃあ、まるで。
「おい……煌々!!」
手を伸ばすオレが最後にみたのは、臓物をまき散らし、骨犬にむさぼり喰われる、煌々の姿だった。
——くそっ、くそっ、くそ……っっ!!
オレは泣きながら、身を任せた。
火が消え、視界がクリアになった時、目の前には、光る糸が張り巡らされていた。
そのひとつ、一番輝いている糸をつかんで、引っ張った。
罠か、なんて考えなかった。
——ただ、心の求めるままに。
糸はオレに絡みつき、ものすごい力で引っ張った。
景色が目まぐるしく、後ろに流れていく。
まるで、ジェットコースターのように、躰が急降下する。
地面はもうすぐそこだ。
……やばい。
頭を抱いて、ぎゅっと、目をつぶった。
——ドスッッ!
にぶい痛みに目を開けると、端正な切れ長の瞳が飛び込んできた。
「……輝馬?」
「……君か。無事だったんだね」
どうやら、オレは、輝馬の頭上から降ってきたらしく、下敷きよろしく、押し倒していた。
「なんでここに輝馬が……」
「君を追ってきたんだよ。残念ながら、みんなバラバラに飛ばされたらしい。幸い、能力は使えるようだったから、見ての通り、蜘蛛の巣を展開して、索敵<サーチ>を行っていた。誰が引っかかるかわからなかったけど、どうやら、大当たりだったようだね」
言って、輝馬はオレを離した。
「ふうん。このベトベトは蜘蛛の糸だったのか。つうか、とれねえんだけど……」
ぐいぐい、と引っ張れば、引っ張るほど絡みつき、身動きが取れない。
気分はまな板の上のマグロだ。
「無様だね」
輝馬はふっと笑った。
「やんのかコラ」
——つうか、誰のせいだよ。
キレ気味に返すと、輝馬は、ぱちん、と指をはじいた。
「冗談だよ。ほら取れた」
確かに、全身をからめとっていた透明な糸は、すっかりなくなっていた。
「おお、すげえ」
感心していると、輝馬が口を開いた。
「小夏一人? 他のメンバーは?」
さして期待していないが確認のため、といった体で聞かれて、そこではじめて、我に返る。
忘れたかった。でも、忘れられるわけがなかった。
不自然にどくどくいう胸を押さえ、深呼吸をする。
「煌々が……」
無理やり押し込めていた、あの散々な記憶を、オレは語りだした。
なんだかんだ言っても、煌々は輝馬のたったひとりの妹だ。
情けなくて、申し訳なくて、何度も言葉を詰まらせた。
輝馬は、ずっと黙って聞いていた。
聞き終わると、輝馬はため息をついた。
その眉はきつく寄せられ、唇は固く引き結ばれていた。
その唇が、いよいよ開く。
びくり、と震えたオレに、輝馬はこう言った。
「辛かったね」
抱きしめられた。
そう思った瞬間、すべてがほどけた。
オレは泣いた。輝馬の腕のなかで、声にならない叫びをあげ、しがみついた。
涙が収まったころ、抱きしめる力はそのままに、輝馬はこう言った。
「大丈夫だ。君が悪いなんて、思ってない」
言葉とは裏腹に、その腕が震えていて、オレは息をのんだ。
「なんで」
「煌々は、君を護って死んだんだろう? その気持ちは、僕にもわかる。煌々は、そういう子だから」
——僕には、その気持ちを、無下にすることはできない、と輝馬は、吐息にのせるように、ぽつり、と言った。
「でも」
……煌々は、お前の妹なのに。
「言ったろ。君のせいなんかじゃない。……一度しか言わないから、よく聞いて」
知らずに眉を寄せている自分に気づいたのだろう、輝馬はそっと息を吐いた。
「——僕は、君がどんな失敗をしようが、どんな悪事に手を染めようが、絶対に君の味方だから」
そういって微笑むと、輝馬は、こつん、と額を合わせた。
うだるような暑さのなかの、ひんやりした感触。
その瞳は凪いでいて、そのひそやかな声は、どこか懐かしい響きを伴って、オレの耳朶をくすぐった。
「……ん」
潤んだ瞳で、オレは赤子のように返事をした。
その言葉に完全に納得したわけじゃない。
だが、それが輝馬の真実の言葉だということが、触れた額から伝わってきた。
オレは、ほっとして目を閉じた。
輝馬が再び、ため息をつく。
目を開けると、輝馬の顔が近づいてきた。
……鼻と鼻が触れ合う。
やがて、ちゅっ、という柔らかな感触が、オレの鼻に押し当てられた。
「もう行こう」
輝馬は唇を離し、オレの手を引いた。
「……おう」
今のなんだ? とは聞けなかった。
つないだ手から伝わる体温が、むずがゆい。
ないはずの心臓が、ゆっくりと跳ね、穏やかな鼓動をたてはじめた。
どう考えても、ガキ扱いされているはずなのに、そのぬくもりから手を離せない。
こんな状況なのに、どこか安堵している自分に気づいて、じくり、と胸が痛んだ。
——煌々、ごめん。でもオレ、絶対に、お前の仇を取るから。
……輝馬と、みんなと一緒に。
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“Gentle” ~ジェントル~
【形容詞】
〈人・気質・声など〉優しい,温和な,穏やかな;
〈態度など〉もの柔らかな,上品な.
〈雨・風など〉穏やかな,静かな.
〈動き・動作など〉静かな,軽い.
〈支配・処罰・批判など〉情けのある,穏やかな,寛大な.
〈家柄が〉りっぱな,良家の
〈人が〉家柄[育ち]のよい.
【動詞】 【他動詞】
〈人を〉優しく扱う.
〈馬を〉ならす.
【語源】
古期フランス語「良家の」の意
“poisonous” ポイゾナス
【形容詞】有毒な,毒性の(ある).
(道徳的に)有害な,悪意のある.
“spider” ~スパイダー~
【動物, 動物学】蜘蛛( クモ)
【語源】
古期英語「紡ぐもの (spinner)」の
“Gentle Poisonous Spider”
~ジェントル・ポイゾナス・スパイダー~
「優しい(情け深い)毒蜘蛛」
「優しい毒を紡ぐ者」