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第二章:疵

 解綱邸は四百年前から延々手入れされ続けて一族が住んでいる屋敷であり、外見は知らぬ人が見たら武家屋敷であろうかと思うような造りをしている。


 白い漆喰の塀に瓦を葺いた、伝統的な近世日本の建築であるものの、作りから分類するのであれば武家屋敷ではなく数寄屋風の屋敷である。


 綱解は家名を名乗ることを許された後も、あくまで猫の世話役であり武家ではなかったので、それも当然だろう。武家屋敷とは仕える大名の邸宅周辺に造成されるもので、ぽつんと市街地に建てられるようなものではないからだ。


 とまれ、和風の家と言えば庭で、庭と言えば縁側。そして縁側と言えば御猫様というのが日本の常識であり風物詩だろう。


 実際、我が家の縁側は御猫様で盛況だ。日光を浴びて気持ちよさそうに伸びる者、毛繕いに余念が無い者、また集まって昼寝しているお歴々も居る。実に心が和む光景だ。


 一緒に転がり惰眠をむさぼったなら、どれほど気持ちいいであろうか? 許されるのであれば、直ぐにでもそうしたいものである。


 まぁ、眼前で凄まじい威圧感を放っている御仁が許してなどくれないのだろうが。


 「どうした、来ぬのか?」


 私は三歩ほどの間合いを開けて、一人の老齢男性と対峙していた。黒に近い藍の瞳と深い年輪が刻まれた厳めしい巌が如きご尊顔。灰色がかった惣髪と、筋肉で引き締まった痩身に纏う着流しより、如何にも武人と称するのが相応しいと思える御仁であった。


 互いの手には木剣が握られている。アオタモや赤樫の安物ではなく、枇杷材で職人によって作り出された堅く、そして粘り強い一品だ。


 無論玩具ではない、まともに当てたなら骨を折り肉を拉げる硬度を誇る。頭蓋に当たれば丸みによる衝撃分散も役に立たず、さして容量の大きくない脳髄を庭にぶちまけ、小鳥の餌を増やすこととなろう。


 「いえ……攻めあぐねておりまして」


 私は左半身で木剣を下段に構えている。自分では油断なく尽きだしている剣先が狙うのは、無形でこちらを睨め付ける老将の出足。つまりは右足である。


 こと剣術においては右利きも左利きも無く、兎角剣は左手を軸とし出足は右というのが基本である。無論、流派によっては定石など知るか! とばかりに摺り足さえ投げ捨てていることも珍しくないが、とりあえず私はオーソドックスなスタイルを堅持している。


 ただ、出足を狙っていることからご理解いただけるであろうが、これは完全に待ちの戦法である。後の先を制し、攻撃を押しとどめ逆に利用することだけを考えた戦法……いわば、弱者が強者に対して怯えているという構図ともとれる。


 それもそうだろう、何処の戦国猛将だと言いたくなる外見の武人と正対し、誰が恐れを抱かぬと言うのか。木剣であっても、一刀のもとに体を両断されそうな威圧感を放っているのである。闘志を消さず、勝ちを追っている分誉めて貰いたいほどである。


 「つまらんぞー、疾くせぬか喜胤ぇ。ワシは眠ぅなってきおったぞ」


 が、それも外野には伝わって居なかったらしい。


 流石に振り返る訳にもいかないが、きっと縁側で黒猫様がせんべいでもバリバリ囓りながら冷やかしておられるのだろう。稽古は見世物ではないというに。


 これでいて古い家であり、退魔やら魔除け云々の片端に乗っかっている家系なので、綱解の家は武芸にうるさい。立派な剣術指南役を抱えているほどで、力の入れ様は相当な物だ。


 何せ刀を握り二百余年という大剣豪を抱き込むほどなのだから。


 「来ぬのなら、こちから参ろうぞ」


 宣言と共に恐ろしく素早い残撃が飛んできた。刃など無いのに、振れれば切れそうな素早さであった。


 放たれたのは、脱力していると見えたのが嘘と思うほど素早い踏み込みを伴う、左からの切り上げである。三歩の間合いを一歩の飛び込みで潰し、出足潰しの剣先を払いのけ、次いでとばかりに振り上げられた刃を八双に構え直して袈裟懸けに切り下ろす体勢に移る。


 これら全ての動作がよどみなく、完全に連動して行われるのだから恐ろしい。動作の区切りというものが、何処にも見当たらないのだ。


 とはいえ、私も白痴のように剣を受けた訳では無い。剛剣を受け止めるのは不利なので剣先を自ら進んで持ち上げて弾き飛ばされることは防いだし、一応は八双とも言えない状態を維持している。


 そして、次いで放たれた袈裟懸けの一刀は悠長に構え直し、鍔で受けている暇が無かったので鏢で受け止めた。がっちり両手で保持していた筈なのに、手から木剣がすっぽ抜けそうな衝撃に襲われる。咄嗟に木剣を短めに握り直していなかったら、左手の第五基節骨と中手骨を纏めて砕かれていたことだろう。


 だが、受け止めたとは言え衝撃のほどは凄まじく、両手から完全に感覚が失せてしまった。まともな剣捌きは最早期待できまい。


 とりあえず回復を図るべく、受け止めた衝撃を利用して数歩下がった。五歩半ほども間合いをもうければ、何とか裁ききれるやもと踏んだのである。実際、今までは逃げ回れば何とかなっている部分もあったことだし。


 「ほう、受けたか……腕を上げたな」


 老将の言葉は意外そうなものであるが、顔だけは真顔であった。むしろ、この程度なら出来て当たり前、そう言いたげな面である。


 「お褒めにあずかり恐悦しご……」


 「ならば、もう少しだけ力を入れるとしよう」


 「ファッ!?」


 私が左の尺骨をへし折られて地を舐め、それを見た黒猫様が腹を抱えて馬鹿笑いし始めたのが宣言から十五秒後のことであった…………。







 「うむ、悪くない。腕を上げられた」


 「はぁ……恐縮に御座います……」


 赤子の手をひねるような気軽さで戦闘不能に追いやられた後で誉められても、何とも実感のわかないものである。


 「しかし珠五郎よ、へし折るのはやり過ぎでは無かったか?」


 縁側に座して、へし折れた左手を差し出す私をニヤニヤ見つめながら黒猫様が仰った。相手は無論、骨をへし折ってくれた綱解家の剣術指南役にして、由緒正しい化け猫である珠五郎翁にである。


 化け猫伝説は各所に多く残るが、有名な物には化け猫の仇討ち譚が多い。弄ばれ酷死した遊女や、命がけで直訴するも裏で手を回されて死を強要された真摯な女を飼い主とした猫たちは、飼い主の非業に憤って化生に化け、化生として仇を討ち何処かへ姿を消したという話だ。


 そんな化け猫に肖った神社が日本には幾つかあるし、話もよく伝わっている。この珠五郎翁も、仇討ちによって化生に転じた、伝承に残る化け猫様のお一人であった。


 江戸幕府も打ち立てられて百何十年も過ぎれば、流石に一部は平穏となり武芸の類いは戦場で生き残る作法ではなく政治の一要素と成り果てる。武門によって国政が左右されていた以上、これはある意味自然な流れであろう。


 腐っても武門。腕の誉れに依って立ち、人間関係でマウントポジションを取るのに、腕の冴えは単純明快にして強力であったのだろう。だからこそ、武家の多くは強い剣術指南役を求めた。


 まだ普通の御猫様であった頃の珠五郎翁が御主君も、そんな武門の剣術指南役として名が知れた御仁であったらしい。


 しかれども、いつの世であれ権力からの寵愛を求める者は絶えぬもので、寵愛を奪うためなら如何に下衆なことでもやってのける者が居る。その御仁は、卑劣な奸計に嵌まって主君の細君に手を出したと有らぬ罪を着せられ、手打ちに処されたそうな。


 これは凄まじい不名誉であり、今までどのように讃えられようと全く意味を成さぬほどの不祥事だ。仕える相手の細君を寝取るというのは、畜生にも劣る行為とされる。


 お家はお取りつぶし、道場も無くなり御主君の細君は娘共々堀に身を投げて果てた。そして、誰も居なくなったかつての屋敷に主君を嵌めた男が揚々とやってきて、家宝として大切にされていた刀を持ち帰ろうとした時、珠五郎翁は激憤の余り化け猫になったという。


 その後の詳しい次第は伝わって居ないが、その男の一族郎党は死に絶え、七代にわたって手討ちにした主君の家も災禍に見舞われて没落したそうな。


 猫は祟ると言うが、げに恐ろしきものである。それから、黒猫様が何かの縁で珠五郎翁を解綱の家にお連れし、剣術指南役として抱えられるようになり今に至る。


 果たして、それ程の人物に剣の指南を受けられるのを幸福と思うべきか、酷い無理ゲーの相手をさせられていると思うべきか、実に微妙な線である。


 「武術の妙は苦痛にあり……痛みは技を冴えさせカンを磨きますれば」


 妖術を用いて通常ならあり得ない速度で骨を接いでくれている黒猫様に、珠五郎翁は渋い茶を啜りながら言った。人化できるようになった化け猫様方は、割と人間の食べ物を好まれるが、化け猫なのでカフェインだろうとタンニンだろうと平気なようだ。


 まぁ、そうでなければ二つに折って食べられるチョコアイスが好きな黒猫様がえらいことになってるだろうから、不思議でもなんでもないのだが。


 とまれ、痛くないと覚えが悪いのは至極ごもっともであるとは思うが、骨を折られるのは勘弁願いたいものだ。立ち会いの度にコレだと心の方が折れる。


 そも、化生と真正面から切った張ったするのは、私の仕事ではないのだ。斯様な難事は英雄とか言われる規格外の仕事であり、御猫様の奉公人であるパンピーがすることではない。


 しかし、家柄コンプでもあるのか、妙に代々の綱解は当主に武芸を修めることを強いていた。私の代で止めたい所であるが……まぁ、かといって珠五郎翁を無役にも出来ないから、叶う望みは薄いが。


 「で、当主殿、某は次に何処へ赴けばよろしいので?」


 骨が繋がる際に伝わる微妙な感覚に眉根を潜めていると、そう問われた。そうだった、今日は稽古に来て貰ったのではなく、稽古こそが序でで、本題は綱解の仕事にあるのだった。


 「ああ、はい……とある大企業、まぁ所謂大店ですね。そこの社長が酷い呪いを受けまして……しかも物理的に影響のあるものだそうで、何でも化け物に襲われるとか」


 依頼の内容は、何時もの通りだ。どうせ何かえげつないことでもして呪われたのだろう。本当に良くある話で、年に四~五十回は聞く話である。


 金持ちほど呪いに事欠かぬ人種はあるまい。序で国会議員とか市議会議員なんぞが多いだろう。


 その一員になろうとしているのだから、親父殿も業が深いというべきか肝が太いと誉めるべきか。呪われた者がどうなるか程度、嫌と言うほど見て居るであろうに。


 とはいえ、あんな糞親父でも見捨てたら忘八扱いされそうなので、何かあったら御猫様に頭を下げることになるのだろうが。


 「ふむ。魘魅の類いですかな。巫蠱よりは分かりやすくて楽ですな」


 魘魅は呪いの一種だが、これまた歴史が長すぎて色々論が枝分かれし、何を以て魘魅とするのかは大変微妙だったりする。だが、この場合は餓鬼か何かでも使役し呪っているのだろう。


 物理的に襲いかかれて、尚且つ使役できる程度の怪異となると程度は知れてくる。人間ふぜいに首輪を嵌められる化生は、そう多くないのだ。綱解は全裸土下座して、持てる物を全て差し出してお願いを聞いて貰っているだけなので例外である。


 それこそ、命令などしようものならどうなることやら。芍薬様あたりは、あの御気性だから喜んで聞いてくれるだろうし、珠五郎翁も武人気質で一応当主と仰いでくれているので無体をせねば従ってくれるやもしれぬが……黒猫様に関しては考えたくも無い。


 そういえば昔、思い上がった馬鹿な当主が御猫様に無体を働いて酷い目に遭ったとかいう話を聞いたな。何をされたかは、文字通り記すことも憚られるとされて伝わって居ないが、まぁ楽には死ねなかったであろう。


 兎角、私には依頼が来たので適任そうな化け猫様に伏してお願いするだけである。例え命令できそうでも、腰が低いに越したことは無い。何せ相手は似た姿をしようと根本が違う生き物。完全な理解が出来ると思い上がってはならん。


 ならば、安全な方へ安全な方へ進んだ方が絶対に良いのである。少なくとも私は畳の上で死んで、しっかり荼毘に伏して貰いたいし。


 「まぁ、そういった次第でありまして。翁に御出陣願いたく存じ上げますれば……」


 「あい分かった」


 腕が繋がったので、まだ残る違和感に耐えながら頭を下げようと思えば、詳しい話をする前に珠五郎翁は頷いてしまわれた。


 そして、傍らに置いてあった古い拵えの刀に手を伸ばされる。丁寧に手入れされたそれは、造りからして実戦での使用に重きを置いて鍛造された鎌倉刀である。


 珠五郎翁が亡き主人の忘れ形見、仇絶爪と翁が名付けた無銘の刀。


 無銘なれども美麗な刃紋と雄大な刀身も見事なそれは、今ならば美術品として相当な値がつけられるだろう。更に、仇を討つために奮われた後には何百という化生を斬っており、絶大な退魔の力まで宿しているとなれば、知るものに如何ほどの値を示されるか想像もつかぬほどである。


 「刀の振り甲斐がある相手であることを祈り、参るとしましょうぞ」


 愛おしげに鞘を撫でる老翁。この御仁、長く武に浸りすぎたせいかバトルマニアの気があるのだ。たまには何かを切らねば、気が済まないというアレである。


 当人は、それこそ赴いた先で凄まじい怪異と出会って討ち死にしても惜しくないと思っている。だから、護衛とかの依頼でなく、呪い返しとなると二つ返事で受け入れられてしまうのだ。


 とはいえ、本人がどう思っていようと気遣わねばならぬのが、綱解が当主の辛い所である。好んで死にたがる相手を護ることほど、難しいこともあるまいて。


 「まぁ、そう仰る前に詳しいお話を……」


 「不要にござる。身を切るような緊張の妨げになりますれば……」


 「いえいえ、せめて概要を……」


 珠五郎翁が根負けして、私からのおおざっぱな説明を聞いてから出立なさる頃には、黒猫様が完全に飽きて私の膝に頭を預けて寝入ってしまわれていた…………。








 「はぁ……疲れた」


 繋がってもじくじくと痛む腕を庇い、胡座を掻いて上体を柱に預けた。もう庭は夏の遅い夕焼けにそまり、周りに夕餉はまだかと言いたげな御猫様が集まりつつあった。


 ただ私の膝で、御猫様の中でも最上位の黒猫様が頭を預けて寝ているので、騒がしくはなっていない。目上の人物を起こすのに躊躇を感じるのは、御猫様も人間も変わらないらしかった。


 しかし、適当に長襦袢を着た黒猫様が身を投げ出して寝ていらっしゃると、大変目に毒である。人の姿をしている時は、見た目だけなら絶世の美女なのだから。


 たわわに実った胸部は寝息に合わせて魅了するように上下しているし、恥ずかしげもなく開かれた足は襦袢の合わせから鮮烈な白を覗かせて艶っぽく輝いている。


 これが普通の人間相手なら、よからぬ考えを抱いてしまいそうなほどだ。


 まぁ、何代かの綱解は御猫様に手を出したり出されたりしているような手記を残してはいるが、私は別である。正直、化生であると思えば如何に美しかろうと、如何に愛らしかろうと気骨が萎える。


 考えもみて欲しい。次の瞬間には頭からバリッと食われてもおかしくない存在だ。そんなものの前に急所を晒し、剰え委ねるなど、どのような太さの肝があればなし得るのだろうか。


 少なくとも私は、彼女たちの前で下履きを脱ぐ気には全くなれない。それなら、商売女相手の方が幾分か気楽なほどである。


 「のぅ喜胤ぇ」


 だが、私の化け猫様嫌い――体面上、隠さねばならぬことだが――すらも、黒猫様の前ではお遊びに等しいらしい。


 「お目覚めになりましたか」


 「うむ……心地よい葛藤が伝わってきてのう」


 黒猫様は眠そうに欠伸を一つ零し、仰向けのまま体を伸ばした。その動作は、確かに猫のようではある。


 だが、その本質は化生なのだ。人を騙し人を襲い人を喰らう。そういった生き物なのである。


 何を考えて綱解は彼らを契約を交わし、子々孫々にわたってまでの権利を売り渡したのであろうか? そこまでして、地位や金が欲しかったのだろうか?


 私には理解できない考えだ。恐ろしくて仕方がないではないか。人間とは違う、人間よりずっと強い力を持った存在。何を思い、そんな存在に身を委ね隷従にも似た関係を気付いたのやら。


 本当に理解しかねる。


 ほら、相手はやはり怪物だ。眠たげに私を見つめる瞳は、猫が息絶える寸前の鼠を弄ぶそれとよく似ている。


 「のぅ喜胤……閨の相手を命じたら、ヌシはなんとする?」


 「現代においては、それはセクハラと呼ばれるものですが」


 このお人は、反応を見て楽しんでいるのだ。私がどういう顔をするのか、どうやって断るのか。そして、後でどう思っているのかを読んで嗤うのである。


 本当に性質が悪い。


 「くくく、ヌシは人の事を信用しないのがよくないのぉ。いずれそれで大損するぞ?」


 心を読まれ放題で、周りから顧みられず化け猫様の世話係としてのみ見られて育てば、歪みもしようという話である。


 しかれども人間は生まれを選べるようには出来ていない。生まれ落ちたなら生まれ落ちたで、耐えて生きねばならぬのだ。生きられなくなるか、生きるに飽きるまで。


 そして、私はまだ、何とか生に飽きていない。だから不平も不満もあるにはあるが、生きているのだ。


 もしかしたら、これから先の人生で良いことがあるかもしれないな。そこまで悲観したもんじゃないというのは、御猫様方から学んでもいる。実際、悪いことばかりでもないのだし。


 心労は多いが食うに困らないし、痛みも辛さも多いが、あくせくと胃の腑に穴を開けながら働くのに比べれば気楽であろう。


 なら、まだ絶望するにも投げるにも早い。これくらいで心が折れてたら、とっくに私は自裁しているだろう。


 「自決などつまらんぞ? ま、そうなったら魂とっ捕まえて眷属に作り替えてやろうかの」


 ……さらっとおっかない事を仰る。


 「……で、黒猫様、夕餉は如何なさいましょうか?」


 「うむ、今宵は猫のものでよいぞ。あの小洒落た西洋料理風のべちゃべちゃにいたせ。後、脂を忘れるなよ」


 「御意」


 葛藤を誤魔化すように問うて、とりあえず私は家事に逃げることにした…………。








 一匹の黒猫が暮れなずむ縁側で欠伸を零した。体を前に伸ばし、弧を描くように背筋を奮わせながら体の緊張を解いている。


 その様は、全く普通の黒猫にしか見えない。


 「黒猫様」


 「んっ? おお、芍薬か。如何した」


 そんな猫に話しかけるのは、大島紬の上に割烹着を着込んだ妙齢の女性である。母性を感じさせる顔を怒気で微かに歪ませているが、元が愛らしいからか恐ろしさは全くなかった。


 されどそれは、現実に相対せず写真か何かで見た者にのみ感じられる愛らしさであろう。


 現実に相対すれば、凄まじい妖気と殺気が発せられていると分かるのだから。


 目に見えぬ威圧感は、寝そべっていた転化する以前の猫を全て追い散らしてしまう。慌てて逃げ出した彼らは、大抵の雑事を押しつければ厄介ごとを片付けてくれる奉公人の所へ向かったのだろう。


 「おうおう、どうした。今にも口が裂けそうではないか」


 「ええ、本性むき出しで怒りたい気分ではあります……また喜胤様で遊びましたね?」


 何のことやら、というように黒猫は後足で耳の付け根を掻く。ついでに欠伸まで漏らす仕草は、最早挑発しているようにしか思えなかった。


 堅く真一文字に結ばれた唇が、きつく噛み締められる。明らかに精神を怒りに炙られているが、それでも芍薬は努めて声を荒げることもしなければ、口の端を裂くこともない。


 淡々と抑揚の無い口調で、年長の悪戯が過ぎる猫をたしなめるだけであった。


 「黒猫様が遊びすぎるから、喜胤様は猫嫌いになってしまわれたのです」


 「何を言うか。実にかいがいしいでは無いか」


 阿呆のような言葉を受けて、美女の額に青筋が一つ浮かんだ。しかし、分かって言っているのだと己に言い聞かせて激発は避ける。


 ここで怒っては、返ってみっともないことになってしまうから。自分が挑発に弱く辛抱が聞かない女だと語るに等しいことだ。


 「黒猫様っ……」


 「あーあー、わかっとるわかっとる……はいはい、気を付けるでな。ヌシはさっさと喜胤の手伝いでもしてこんか面倒くさい」


 押し殺した声で抗議するも、相手がまともに受け取らないのであればどうしようもない。これ以上は怒りを抑え切れそうに無かったのと、一応の言質を取ったので芍薬は引き下がることにした。


 脆く儚い人間を慈しむ事を愛する彼女に、精神を痛めつけられた男を見ることは耐えられなかったのだろう。アレは、幼い頃からの影響で化け猫を酷く恐れてしまっているから、ほんの些細な事でもダメージを負ってしまうのだ。


 だから今は、少しでも手間を減らして傷を癒やしてやらねばならない。芍薬は足音も無く走り去り、厨房へと向かった。


 その後ろ姿を金色の瞳が胡乱に見つめる。猫の無機質な瞳が、戯画的に歪み嘲るような笑みに染まった。


 「傷口をヤスリのような舌で嘗められるのも、きつかろうてなぁ、喜胤よ」


 人は痛む所には振れられたくないものだが、治療を施す際には、どうしても傷口に触れなければならない。


 しかし、それは外傷なら良い方向へ持って行けるやもしれないが、心的外傷であれば話は違う。下手に弄くってしまえば、傷口はより深く、不可逆に広がっていくことであろう。


 果たして、あの猫はそれを理解しているのであろうか?


 いや、理解してはおるまいな、と黒猫は赤く焼けただれた空に浮かびながらも、逆らうように白い月を見上げて思った。


 「アレはまだ、化け猫に転じて短いからのう。人の機微というものが、分かっておらぬのであろう……いや、ワシも分かっているとは言い難い所があるにはあるが」


 ぽつんと茜の中に一人で浮かぶ月は、酷くもの悲しく思える。今暫し時が過ぎれば過ぎたで、今度は闇夜の舞台に孤影で踊るだけ。今時の月は、本当に寂しいものだ。


 「しかし、ワシが真に好いた人の子は、妙にワシらを嫌うのは何故であろうなぁ」


 月は黒猫にとって唯一変わらぬ友のようであった。好いたからこそ便宜を図ってやった初代綱解は、終ぞ触れられること無く涅槃へ旅立った。それと同じく、彼女が好いた者や友は皆、今は遠く触れ得ざる所へいってしまっている。


 変わらず残ったのは、自分と同じく供回りを減らした月だけであった。


 数代ごとに気に入る当主が現れる事はあれど、やはり気に入った当主は皆、今の喜胤のように化け猫と接することは家業なれば致し方なし、として遠ざかるようになった。


 寄ってくるのは、あまり好かぬ金や色に溺れた者のみ。綱解も後継に恵まれ続けている訳でも無い、今までに幾度が家が倒れかけるような愚物が当主になることもあった。長子相続制度を重んずる過去の日本が、根源的に抱えたの欠点のせいだ。


 しかし、それを立て直すために力を貸してやって尚、彼女が好いた者が彼女に靡くことは無い。四百年経っても、未だに彼女は本当に欲しい者を手に入れられずにいる。


 「因果よなぁ、好けば嫌われ、疎めば好かれる。どちらにとっても哀れな事よ」


 妙に人間くさい黒猫は、もう一度小さく伸びをしてから厨房に向かった。世話焼きの化け猫に張り付かれて困惑しているであろう奉公人に、適当な逃げ口を用意してやるため…………。

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