5・吼えよドラゴン
真の姿に戻ったドラゴン。
そのドラゴンから逃げるように離れていく船を、当然ドラゴンが見逃すわけがない。
確かにここは視界が悪く気配も手繰りにくい。 一度完全に視界から逃れられれば再び見える可能性は相当に低いだろう。
そういう意味では逃げるというのは間違っていない。
もっともドラゴンは逃げるのを許す気が無いので無駄な足掻きだが。
「ぎぃぃぃぃるるるるりぃぃいいあああああああああ!」
唄うように吼え、弱者に対して明らかに過剰な殺意と力をもった牙で噛み砕かんとしたそのとき、ありえないものが見えた。
先ほどの黒い人間、弱い人間らしくせこせこと逃げだした臆病で脆弱な人間が自分に向かって飛び掛ってくる映像。
その姿ははっきりと見えるが、なぜかその速さに対して自分の体や意識が反応しない。
飛んできているのを目に捉えて見えているし、その人間はただ飛び掛っただけではなく自分に対して殴りかかろうとしてるように見える。
それが見えているのに体がその動きに備えて反応していない。
いや、それ以前に意識そのものが、「迎撃しよう」「受けよう」「避けよう」という発想する暇さえなかったのだ。
その事に気づけたのは数秒後のことなのだが。
大きさにして2メートル足らずの人間が全長約1キロの蛇状の姿のドラゴンに殴りかかったとして、その結果がどうなると言うのか。
その結果は眉間を殴られた瞬間に判った。
「ガッ!?」
たった一撃で、全てが理解できた。
人間の姿で対峙した時、何かの間違いでやられていたとしか思えなかったのだがドラゴンが真の姿となり力を解放した以上そんな間違いはおこらない。
低レベルの種族同士の争いであればそれこそ争いの場、その時のお互いの精神状況、力の性質、そういった要因が勝敗に絡むこともあるだろうが、全力のドラゴンの戦いというのはそんな小さい要因は勝敗に絡まない。
どんな状況であろうとも、それこそ瀕死の状況であと一呼吸すれば命が絶えるという状況でもいざ戦いとなれば強者が勝つようになっている。
真の強者の戦いには誤魔化しや策、そういったものは一切の意味を成さないのだから、この一撃の痛みはそのまま相手の実力になる。
ドラゴンはそのたった一発で負けを確信した。
劣っていたのは自分だと、弱者であることを認めないわけにはいかなくなってしまった。
性質の悪いことに相手はドラゴンが既に敗北を認めているというのに更に飛び跳ねながら殴る蹴るの暴行を加えてきている。
ひどい。
「ま、まいった! やめてくれ! 勘弁してくれ!」
その言葉を搾り出すまでに何度殴られたか数えるのも億劫になるが、ドラゴンの敗北を受け入れてくれたのか、相手の攻撃の手が休まった。
「ん、そうか。負けを認めたか、じゃあ死ね」
「まてっ! ま、まってください!」
ドラゴンは恐怖した。
今までの己の生において、ドラゴンは常に強者であり殺す側だったためにいざ自分が殺される側に回った時、初めて死を恐怖した。
奪う側であった時は相手の命乞いを無視して殺してきたがそれはそれ、である。
そもそもが自分と下等動物では命の重みが違うのだから。
だからこそ、こんなあっさり殺されてはたまったものではないのだ。
「なんだ?」
「こ、殺さないでください!」
下等動物がよくやる命乞い、強者の視点で見れば見苦しいだけのその行いを自分がすると言う屈辱は大きい。
が、死の恐怖の前にはそんなものは些事であった。
「なんで?」
「なんでって……わ、我はドラゴンなの……です!」
「で? お前は俺を殺す気だったんだろ。そんなつもりありませんでした、とか今更言うなよ。殺気を読むくらいはできるからそういう言い訳は通じんぞ?」
「いや、ドラゴンというのは誰からも敬われるべき存在でして……」
「知らんよそんなもの。記憶がないんでな。仮に常識的に龍を殺すのが世界中の全生命から見ての大罪になるとしてもまぁ、バレなきゃ良いんでな」
「いや、しかし……き、記憶! そう、記憶が無いのでしょう? ならば我の英知を恵んで上げましょう。例えどの国の王が望んでも得られぬ知恵で」
「いらん。記憶喪失で色々と思う事がないでもないがこれはこれで楽しめるんでな」
「そ、それでもだ! 我を殺してはならぬ! 死にたくないのだ!」
「そうか。死にたくないだけで死なぬというのなら誰も苦労はせんだろうよ」
「~~~~~~~~ッッッ!!!」
ドラゴンは考える。
どうすれば殺されずに済むのかを。
人間は今ドラゴンの頭部の鬣を片手で掴み、空いた片手はいつでも止めを刺せるようにと振りかぶっている。
会話の途中で殺される可能性すら低くはないのだ。どうにかしてこいつを止めなければと悩み、そして
「外……そう! せめて青い空の下で死にたい! この雲の中から出て外、青い空や太陽の下でなら死ねるがこんな所でだけは死にたくない!」
嘘をついてでも生き延びようとした。
全てが嘘と言うわけではなく、この雲の中から出たいというのは本当である。
青い空の下で死にたいと言うのは嘘だが。
いかに強大とは言えこの雲からの脱出は不可能であろうから、この願いが届けば実質ドラゴンは死なずに済むのだがおそらく受け入れられまい。
なので次の嘘を考えなければならない。
嘘に嘘を重ねて一つの問答の時間だけでも長生きしたいと生にしがみ付いたのだが
「外、な。わかった。ついでだから連れて行ってやる」
「は?」
思考が止まった。
そして次の瞬間
「うおおおおおおおおおおおおおお!?」
強い力で強引に引っ張られる感覚を味わった。
何が起こったのか、というと。
人間が乗っていた船、その船に生えていた紐状の尾を伸ばして人間の足に巻いていたようだが、その尾を急激に縮めて船のほうまで引っ張られたらしい。
ドラゴンはその大きさゆえに重量も重く、本来なら船のほうが引っ張られてしかるべきだと言うのに。
人間が船の上に降り立つと、人間の足に巻かれていた船の尾が解けその直後、ドラゴンの頭蓋骨を締め上げるように巻きついてきた。
「逃げられるのも面倒だしな。まぁ窮屈だろうが望んだ死に場所で死なせてやるんだ。むしろ感謝しろ」
「な、なに?」
「お前が言ったんだろ。雲の外で死にたいって。ミイちゃんから聞いたらあと2時間ほどで雲を抜けるようだからそれまでの時間寿命が延びたんだ。せいぜい残りの時間を噛み締めろよ」
「何を……まるでここから出られるとでも」
「そう言ってるだろ」
「ウワーッハッハッハ!! なにを愚かな! 愚か愚か! 我でさえ出られぬと言うのに! ハッハ、実に愚か!」
ドラゴンは先ほどまでの死の恐怖を忘れ大爆笑した。
それはそうだ。いかに自分より強くとも所詮人間という思いがある。
そんな者が自分が今まで出る事かなわなかったこの雲から出れると思っているのは滑稽で笑いの種でしかなかったから。
だからつい、自分の立場を忘れて大爆笑してしまったのだ。
「黙れ」
「グエッ」
無論、人間とは矮小で傲慢な生き物で弱者を虐げることに喜びを感じるクソカスが如き存在ゆえに、ドラゴンの笑うと言う自由さえ許すことが出来ない狭小な生物であることが実感できたわけだが。
それからと言うもの、ドラゴンが何か言おうとするたびに頭蓋骨を締め付ける船の尾の力を強めてドラゴンに何も言わせずに船は進む。
魔力で体を操作し小さくなって逃げれないものかと思ったが、人間にしこたま殴られた時のダメージが大きく体を変質させるほどの力が残っていない。
そして普段であれば体を八つ裂きにされたとしても大した痛みも感じず再結合し何事もなかったかのように振舞えるはずなのだが、今は一度でも首を落とされれば死んでしまうほどに弱っていると実感できたので逆らうことさえ出来ない。
だが。
さっきこの人間は2時間ほどと言っていた。
ドラゴンはその言葉を覚えている。
つまり2時間以上経って雲から出れなければこの人間はようやくこの雲が脱出不可能であることを悟り、雲の外で自分を殺すと言うことはできなくなるのではと期待した。
喉元過ぎればと言うが、ドラゴンは相手が自分を殺せる強者であると言うことは判っていてもやはりこの人間を見下していたりするのだ。
「おっともうゴールか」
そして人間が口を開いた時、ひときわぶ厚い雲の塊を突き破りその先には青空が広がっていた。
「お、お、おお……! うおおおおおおおお!!」
その光景を見てドラゴンは吼えた。
今まで何か言おうとするたびに頭蓋骨を締め付けていた尾の事も忘れ歓喜の声を上げずにはいられなかった。
このときドラゴンは自分が長い間見ることのできなかった青空を見た感動で全てを忘れて吼えて
「満足したか? じゃあな」
自分が死んだことに気付く間もなくその生を終えた。