哀と希のアリア
例えば真っ直ぐに歩いていた道の先に、小石が1つあったとしよう。もし、それに気付かず転んでしまったなら、果たして自力で立ち上がることが出来るのだろうか。
一度ならば痛みをこらえ、なんとか歩き出せるかもしれない。そしていつかは小さな石の事など、きれいに忘れてしまえるのかもしれない。しかしそれが一度ではなく、何度も立て続けに起こってしまったなら。もはや立ち上がる力も無く、周囲に差し伸べられる手が存在しなかったのなら。どうやってまた歩き出せと言うのか。
あふれる鮮血と込み上げる痛みに耐えながら、次々と自分を追い越していく人々を眺め、座ったままで途方に暮れても、絶望と孤独を思い知らされるだけで何も変わりはしない。放っておけばどんどん深くなる傷跡に涙を流しても、心の中の渇望は埋まらない。それならばと無理を押してでも立ち上がり、足を引きずりながら歩いた先に見えるもの。
今は遠い存在の光に、いつか届きたいと――願った。
哀と希のアリア
ただ独り、道を歩いていた。
脇に花さえ咲いていない、閑散とした道。決して平坦でなく、凹凸は激しく曲がりくねり、はっきりとした境界線も無い。何処までが正規のルートで、どうすれば踏み外してしまうのか。それさえも分からない、果てしなく続く道を、足を引きずり、それを誰にも気付かれないように気をつけながら、ずっと前だけを見て歩いた。
幸い横を通り過ぎる者達は、こちらには全く無関心だった。自分と同じ様に真っ直ぐ正面だけを見つめ、さっそうと歩んでいた。恐らくは彼等も、小さな切り傷は沢山持っているのだろう。だが先へ進むのに邪魔になるほどの傷を負ってはいない。少なくともそう、見える。
羨ましかった。きっと彼等は、光の差すほうへ迷わずに歩いていける。どんどん先へ行ってしまう背中に追いつこうとしても、致命傷を負った自分には、ついていくふりをするだけで精一杯だった。どんなに努力しても、その差はなかなか埋まらなかった。それどころか、徐々に離れてさえいた。
『彼等とは根本にあるものが違うのだ』
いつしか何処かで諦めにも似た感情が生まれた。そうして、無理についていこうとするのをやめた。下手にペースを合わせてもらうより、忘れ去られた方がずっといい。今更助け起こそうと手を差し伸べられても、困惑するだけで空虚な感情は埋まらない。
遅すぎた。もっと早くに傷を自覚していれば、痛みを誰かに告げていれば、いくらかは癒されたのかもしれなかった。少なくとも足を引きずるまで、他人と同じ様に歩く事が困難になるまで化膿する事は無かった。今ではもう、弱音を吐く事もできない。
けれど、それで良いと思っている。痛みも悲しみも、もはや自分の一部なのだから。 ――いや、違う。痛みや悲しみこそが、自分の中枢を担っているのだ。もしそれらが消えたなら、きっと己を保てなくなる。今ある自分ではなくなる。どうなるのか分からない。見当もつかない。確かに認識できるのは、信じられるものは自分しかないのに、それすらもあやふやになる事は、恐怖でしかない。
例え結果的に、今より安定した精神が保てるようになろうとも。何年もかかって作り上げた構造物を崩す勇気など、いまさら無かった。
+ + +
ある日道の傍らに、初老の男がうずくまっているのを見かけた。
この道を歩いていれば比較的頻繁にみられる光景で、大して気にもならなかったけれど、男の方はこちらをじっと見ていた。焦点の定まらない、生気を失った目で。両足をかかえて膝の上にあごを乗せ、無気力な瞳なのに何か言いたそうにしているのが、何となく気に障った。
夢に破れた者が浮かべる嫉妬ではなく、哀れみに近い表情をしていたから。
「何か、用なのか」
立ち止まり、半眼で見下ろしてやった。侮蔑をあらわにしたのに、男には全く腹を立てた様子など無かった。むしろ悲しそうに、しわの刻み込まれた顔を曇らせた。
「どうしたんだ、そいつは」
言いながら、節くれ立った手でこちらを――昔負った、深い傷を指差した。それには少しだけ驚いて男の顔を見、小さく息を吐いてからそっぽを向いた。今まで誰にも指摘された事など無かったのに。
そうか。こいつには見えるのか。
「別に。あんたには関係ないだろ」
素っ気無い態度に、男はそうか、と呟き寂しく笑った。笑い顔なのに、泣き顔にも見えるような表情だった。
「用はそれだけか。ならもう行くぞ。オレには行く所があるんだ」
これ以上おくれを取っては、目的の場所にたどり着けなくなるかもしれない。時間など、あると思っているとあっという間に過ぎ去ってしまう。焦りもあらわに立ち去ろうとすると、背後から投げ捨てるような言葉が追ってきた。
「そんな状態でか」
今までの優しさを含んだものとは打って変わった冷淡な声。思わず立ち止まり、傷を押さえつつ振り返った。
「見ろ。お前の後ろを」
笑みを消した男の指に導かれるまま、視線を真後ろへと向けた。あの日以来一度も振り返らなかった―― いや、恐ろしくて振り返れなかった、自分の後ろ。痛みと苦しみがあふれているはずの、今まで歩いてきた道程。
そこには点々と、紅い染みが落ちていた。はるか遠く、もう見えないような場所から、今自分がいる場所まで、途切れることなく続いている。まるで生き様を象徴するかのような紅の点線には、無意識に息がもれた。
気付かなかった。ずっと血を流し続けていたなんて。たしかに痛みは感じていた。あえて確かめようとはしなかったけれど、自分の傷の深さは知っているつもりだった。それでも全てを覆い隠して、他者に気付かれないように生きることができていると、自信を持っていた。それがまさか、こんなにも分かりやすい道標を作りながら歩いていたとは。
気付かれていたのだろうか。この傷も、痛みも、哀しみも。こちらに向ける曇りの無い笑顔の裏に、みな嘲笑を浮かべていたのだろうか。こいつが目的地に着けるはずも無い。そんな事すら分からないなんて馬鹿な奴だと、心の底で見下していたのだろうか。そして追い越していった。徐々に遅れてゆく、かつて隣に存在した者になど目もくれず。
今はもう、その背中すら見えない。
「何故そうまでして歩こうとするんだ。自分の傷口を、しっかりと見た事があるのか。今まで何も対処しなかったんだろう。ちょっとやそっとじゃ治らないぞ。それは」
男の諭すような言葉が、空虚な胸の中を通り過ぎていく。いくらか時間が経った頃、何気なく自分自身に目をやり、絶える事なく流れる血と、開ききった傷口とに顔を歪めた。思えばこうして、真正面から傷と向き合った事など無かった。そうだな。これではもう、治らない。
それでも、弱音を吐くわけにはいかなかった。一言でも漏らしたらきっと、前へ進めなくなる。どんなに傷口が恐ろしくても、これからの道のりを不安に思っても、この男の言葉を認めるわけにはいかない。
だから全てを胸の奥に押し込めて、大した事じゃないと笑ってやった。それが今の自分にできる、最大限の強がりだった。
「今に後悔する時が来る。そのままでは越えられない壁が現れたとき、お前はどうする気だ」
「どうもしない。このままで乗り越えてやるさ」
「傷がより一層深くなろうともか」
「ああ」
もう、何も聞かないでくれ。何も気付かせないでくれ。
こらえていなければ、今にも泣きそうだった。遠い昔に枯れ果てたと思っていた涙が、すぐそこまできていた。
痛い。本当は痛くてたまらないんだ。誰も助けてくれなかった。手を差し伸べてくれなかった。転んだ事にさえ気付いてくれなかった。だからずっと独りで、歩いてきたのに。
哀しかったさ。苦しかったさ。だからって、今更どうすればいい? もうこの傷は治らない。流れる血は止まらない。それらは変えようの無い事実で、これからも抱えていかなければならない重荷でしかなくて。けれど歩みを止める事など許されるわけもなく、何より自分がそれを望まない。
「これからもそのままでいられると思っているのか。立ち上がれなくなってからでは遅い。大衆に弱さを露呈することになる」
「……それはあんたの方だろ」
「だから言っているんだろう」
泣き声にも似た力無い悪態に対し、間髪入れずにきっぱりと言い放った後、ふいに男は口をつぐんだ。初めと同じように無気力な表情に戻った彼は、自分の中でよみがえったらしい記憶に、軽く眉をひそめた。誰にも聞こえないだろう、酷くか細い声で、下を向きながら何事か呟いているのが分かる。
その時やっと、男にも自分と同じか、それ以上に大きな傷がある事に気付いた。影だと思っていたのは、傷口から流れ落ちてできた血溜りだった。染み出すようにあふれ来る紅の痛々しさに顔をゆがめ、ふいと男から目をそむけた。なぜ彼が執拗に語りかけてくるのか、その理由が分かったような気がした。
暫く、沈黙がおちた。その間も道の真ん中では、人の波が途切れることなく続いていた。誰も彼も敗者になど興味が無いらしく、こちらなどちらりと見もしなかった。もっとも、それが普通だ。本当は自分だって素通りする所だったのだ。この男の悲しげな瞳に気付かなければ。
「オレはあんたみたいにはならない。あの光をいつかこの手にするまでは、歩き続けてやる」
夢を共有するとか、遺志を継ぐとか、そんな格好のいいものじゃない。ただ自分の揺るぎない決意を、口に出しただけだった。それでも男は嬉しそうに、そして哀しそうに笑った。しわだらけの顔に、ますます小刻みなしわが寄る。
それを見届け、一瞬だけ目を合わせてから、何も言わずに踵を返してその場を後にした。背中に小さくかけられた「ありがとう」には、気付かないふりをして振り返らなかった。
+ + +
他人がさっそうと行くその横を、足を引きずりながら歩いていた。随分と長い時間が経ったように思える。それでもまだ、目的地にはたどり着けそうに無い。
相変わらず傷口からは血が流れ落ち、点々と跡を残していたが、あれから声をかけてくる者など一人としていなかった。以前会った男がどうなったのか。それは想像に難くない。ただ言えるのは、そういった事例は珍しくなく、こうしている今も脱落者は後を絶たないということだ。実際ここに来るまで、何人もの敗者を見てきた。横目にその姿を映す度に、焦りと怖れが湧き上がった。自分にも用意されているであろう、変えようの無い未来。盲目的な自分を装い、意地で耳をふさいで、ずっとそれに気付かないフリを通してきた。
『オレはあんたみたいにはならない』
強がりと自分への戒めをこめて、あの時男に言った台詞。
『あの光をいつかこの手にするまでは、歩き続けてやる』
本当は薄々気付いていた。もはや自分にも、あの光にまで届く力など残されていない。
押し殺した苦しい息遣いのなか立ち止まり、下を向けていた顔をゆっくりと上げた。その先には、今も目に眩しい光が見える。ずっと近づきたいと願っていた光。震える手を伸ばしたけれど、全く届きそうになかった。気のせいでなければ、以前より遠くなってさえいた。足の先には曲がりくねった道のりが、まだ延々と続いている。目でそれを追っていくと、同じ道を歩く者たちが、 1人また1人と光の中へ消えていくのが見えた。もしかしたら、その中に知った顔がいたかも知れない。彼等にはどんな障害も越えられるだけの力が残っているから。今の自分にとって光は遠すぎて、見知った顔かどうか確かめることすらもできない。
突如、ぼんやりとかすんだ視界。頬を伝う雫は、淡い熱を帯びていた。忘れかけていた感覚に、こらえていた痛みがうずきだす。脈打つように流れる血にも、もはや耐えられそうに無い。
どうしてこうも、ままならないのだろう。傷を負ったせいで、目的地にはもうたどり着けないと初めから知っていれば、願いも望みもしなかった。あの場所に近づきたいと、いつか柔らかな光に包まれたいと、夢を見ることもなかった。
誰も信じない。誰にも心を開かない。ゆえに、誰に痛みを打ち明けることもない。
ゆっくりと確実に深くなっていく傷を感じながら、前だけを見て独りで歩いた日々。その全てが間違いだったというなら、どうか教えて欲しい。
自分は一体、何処で道を誤ったのか。いつ正規の道を踏み外したのか。
どうすれば迷わずに行けたのか。胸を灼く痛みを癒せたのか……。
あふれ来る涙は、とどまる事を知らなかった。流れては落ち、地面に模様を描くそれを拭う事もせず、ただ呆然と前だけを見ていた。通り過ぎる人々の背中を見送りながら。
遠い存在になってしまった光には、もう決して届かないと――悟った。
哀という感情に身をゆだね、それでも安息を希わずにはいられなかった。
耳に残るは儚きシラベ。
それは志半ばにして果てた、傷付いた者達の抒情詩。