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そのままずぶ濡れの私の手を引いて、陽人は自分の家に私を連れて行った。
タオルを用意してくれ、温かいミルクティーを淹れてくれるのを私はぼんやり眺めていた。
陽人の部屋はとてもシンプルだった。
必要最低限のものしかその中にはない。
薄いグリーンのカーペットに直に腰をおろし、私は運ばれてきたカップを眺める。
白く飾り気のないカップから香る紅茶のいい香りに私はホッと肩の力を抜いた。
「これ使って」
差し出されたのは男物のジャージだった。
さすがに付き合ってもいない男の服を借りてもいいものか私は悩む。
けれど自分の洋服が冷たいのも事実だ。
私はノロノロとそれを手に取り、教えてもらった脱衣所で着替えをすませた。
鏡に映る自分の顔を見て、そのひどい表情にぺちりとまだ震えている両手で喝を入れる。
しっかりしなくては。
そうしてリビングに戻るとテーブルにはお菓子が並べられており、もてなされているようで何だかくすぐったかった。
「あの」
ここまでしてもらって何か話さねばいけないとばかりに私は重々しく口を開く。
しかし、
「話したくなかったら話さなくていいから」
とやんわりと陽人に制され、出鼻をくじかれた気がしてまた私は黙りこんだ。
話したくない訳ではないが、どう伝えたらいいのか分からなくて、しばらくは黙々と紅茶を飲むことに専念することにする。
「このお菓子、同僚の子が出張のお土産にくれたんだけど美味しいんだよ」
見たことない銘柄のお菓子を差し出され、私は頷いて袋を破る。
さりげない優しさに感謝しながら一口齧って咀嚼する。
「美味しい…」
お菓子の甘い成分のおかげか、ようやく冷静さを取り戻した私は、改めて陽人を見つめる。
あんな風に半狂乱になった私を見て引かず、いつもと変わらない対応ができる懐の広さにすごいなぁと他人事のように思った。
「…声がね、聞こえるんだ」
だから、自然と私は話し始めていた。
この人は何を聞いても大丈夫だという確信があった。
ずっとずっと胸にしまいこんでいた遠い出来事。
独りで抱えるには重いそれ。
それを陽人になら話してもいいんじゃないか。
「声?」
「そう。昔付き合っていた人の声」
陽人がゆっくり私に視線を向ける。
「すごくすごく好きで、彼と付き合えて本当に幸せだと思ってた」
彼との出会いは高校の時だった。
ひとつ上の学年に格好いい先輩がいると聞き、興味本位で彼が所属するサッカー部の練習を見に行ったそこで、私は一目惚れをした。
恋をしてじっとしていられない私はありったけの脳みそを動かし、なけなしの勇気を振り絞って彼にアタックした。
それは差し入れを持って行ったり、登下校の時間を合わせてみたり、今思い返せば幼いものだったけど、私にとっては毎日が生きるか死ぬかの大問題だった。
少しずつ少しずつ先輩と私の距離は近づいていった高二の冬。
私は告白をした。
もうすぐ先輩が卒業すると焦っての行動だった。
その時の彼の笑顔は忘れない。
寒さも吹き飛ぶような優しい笑顔で彼は頷いてくれたのだ。
「俺も好きだよ」そう言って抱きしめてくれた、それが始まり。
私は嬉しくて生まれて初めて嬉し涙を流した。
付き合い始めて数ヵ月後、先輩は大学への進学が決まり私も当たり前のように進路をそこへ決めた。
幸いその大学はレベルが高くも低くもなく、今まで通りの成績をとれていれば問題ないと担任に言われ、私はそれでもきちんと入試に余裕を持って受かるようにと勉強を頑張った。
けれど先輩は大学に入って時間ができ、反対に私は時間がなくなり、会える日は段々減っていった。
そんな日々に不安もあったが、大学に入ればきっと嫌というほど一緒にいれると自分を励まし、それだけを心の支えにして、一年後、私は念願の第一志望の大学に合格することができた。
彼からの連絡がその頃ほとんど途絶えていたことも気にせずに。
それは試験勉強の邪魔をしないようにという彼の配慮だと良いように捉えていたのだ。