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「おはようございます」
翌朝、妄想の世界に没頭していたら後ろから声をかけられ、私は驚いて振り返った。
「…おはようございます」
そこにいたのは予想通りと言うべきか、昨日のジャニーズ系の男性、そして雪子に言わせれば怪しい男、だった。
「毎朝、ここに来てるんですか?」
青い大きな傘を差しながら彼は私の隣りにためらいなく腰掛ける。
「ええ。日課だから」
そう答えならが、私は彼のジーパンを眺めていた。
そんな立派な傘を差すくらいなのに、びしょ濡れのベンチに座ったら意味がないんじゃないかと心配になったのだ。
「大丈夫です。一応撥水加工してあるジーンズなので」
私の視線に気付いたのか、彼は照れ臭そうに言い訳をした。
「実は僕、最近この辺りに越してきたんです。散歩が趣味なので昨日初めてここを通りかかったんですが、すごくこの景色が気に入って…」
それでまた来たんです。彼はそう言うと目を細めて湖を見つめた。
「分かるわ。何の変哲もない湖だけど、雨も周りの音も湖に吸い込まれて、ここは日常とは切り離された空間みたいだと思わない?嫌なことも良いことも、すべてどうでもよくなる。だから私は毎日ここに来てるの」
そう言って私は目を閉じた。
聞こえるのは雨の音。湖の息遣い。それから隣りに座る人の呼吸。
少しだけ彼の存在が今までのこの場所とは違う空気を作っているけれど、さすがにそれは我慢しなければ。
何故ならここは私のプライベート空間ではないのだから。
「静かだなぁ」
彼が小さく呟く。
しかしそれはあまりにも小さい声だったので、彼が実際に発した声なのか心の声が聞こえてしまったのか判別できなかった。
そのまま何も言わず、ふと時計を見るとそろそろ帰らなければバイトに遅れてしまう時刻にさしかかっていた。
「じゃあ私はそろそろ」
そう別れを示す言葉を発して私は立ち上がる。軽く会釈をして歩き出そうとしたその時、
「待って」
彼が少し慌てたようにこちらを見た。
「僕、陽人といいます。良かったらあなたの名前を教えてくれませんか?」
「…透子です」
何故か伸ばされた右手に戸惑いながら私も右手を差し出して握手をする。
「また来てもお邪魔じゃないですか?」
手を繋いだまま真っ直ぐ目線を合わせられて、私は苦笑した。
邪魔じゃないかと聞かれればはっきり言って邪魔だ。
私は1人でここにいるのが好きなのだ。
けれどよく知らない人にそう伝えるのは失礼なことくらい馬鹿でも分かる。
「…はい」
だから適当に頷いた。
そして今度こそ「じゃあ」と言ってベンチと陽人に背を向ける。
少しのんびりし過ぎたせいで急いで支度しないと遅刻だな、とバイトの出勤時間から家を出る時間を逆算しながら家へと足を早めた。