10
とある金曜日、私は必修科目の講義を終え、何か飲み物でも買おうとラウンジへと足を向けた。
学食とは違い、こじんまりとしたこのラウンジは少し校舎から離れたところに建っており、ほんの少しだけど他のところよりは空いているのがいい。
「お前どうなんだよ」
自販機に小銭を入れた時、馬鹿でかい間抜けな声が聞こえてきて眉をしかめる。
こうやって集団でテーブルを占領して、下らない会話を大声でしている人々が私は苦手だった。
「まあまあだよ」
聞き覚えのある返答の声に私はハッとする。先輩だ。
先程買ったホットカフェオレを手にして、私は不自然にならないように、そのテーブルをそっと見る。
そこには五人くらいの男の集団が軽食をとりながら、だらしなく足を投げ出して座っていた。
「かおり、超いい女だよな。お前ら付き合ってんの?」
無造作ヘアを目指してぐちゃぐちゃになってしまったような髪の男が軽い調子で、でもどこか妬ましそうな視線で先輩に尋ねる。
「えっお前知らねえの?こいつ彼女いるんだよな」
「あの子だろ?一コ下の」
私のことだ。
心臓が今まで感じたことがない位大きな音をたてた。
自分のいないところで自分の話をされて気分が悪い。
けれどおそらく悪いのは立ち聞きしている私だった。
ならば早く立ち去ればいいのに私の身体は金縛りにあったように動けない。
「あぁ…あいつな。彼女っていうかキープだよ」
面倒臭そうな先輩の声。
どうでも良さげにパスタをくるくるとフォークにまきつけている。
あれは先輩の癖だ、そんな事を考えていたせいでその内容を理解するのに数秒かかった。
「かおりって俺に気がありそうなんだけど、プライド高いみたいで全然告ってこないんだよな。でも俺的には言わせたいっていうか。だからってその間女がいなかったら溜まるだろ?俺自身の健康のためにあいつは必要なんだよ。あいつ俺のことすげえ好きみたいだし。需要と供給が一致してんの」
「なんだそれ、可哀想」
「お前何だかんだでモテるもんな。ほら去年もさぁ」
男たちの話題は単なる世間話としてわいわいと次に移っていく。
当の私は衝撃でうまく働かない頭を首の上に乗っけて、気付けばキャンパス内をふらふら歩いていた。
分かってはいたことだったけど、実際に、しかも揶揄するような口調で言われてただでさえ惨めな気持ちなのに、一層自分が価値のない存在なんだと思えてくる。
もしかしたら、万が一の可能性だが、あの集団に対して先輩が本心を言っていないということも有り得る。
けれど、きっとそうだと前向きになれるほど、私は世間知らずでも子供でもなかった。
はっきりと言えば単なる都合のいい女として扱われていたということか。
その程度の扱いだったのか。
怒りや悲しみはこれ以上ないくらい沸き起こっているのに、何故だか涙は全く浮かばなかった。
「透子ちゃん!」
朗らかな女性の声が後ろから聞こえ、私はぎこぎことブリキの人形のように振り返った。
案の定そこに見えたのは元凶とも言えるあの女の姿が。
――この女さえいなければ、私と先輩は今でも幸せに笑っていられたかもしれない。
そんなひとつの可能性が脳裏をかすめる。
「どうしたの?なんだかひどい顔色だけど」
美しい顔を曇らせてかおりは私の顔を覗きこんだ。
――この女さえいなければ先輩は今でもあの優しい笑顔で私を見てくれていたかもしれない。
「透子ちゃん?」
――この女さえいなければ。この女さえ、いなければ。
気付けば私はかおりに馬乗りになり、力任せに殴っていた。
何度も何度も。
外野から聞こえた悲鳴にふと手を止めて見下ろせば、自慢だったであろう彼女の顔は鼻血にまみれて見るに耐えないものになっている。
それがひどくおかしかった。
「透子!」
騒ぎを聞きつけたのか先輩が走ってくるのが視界の隅に入った。
慌てて駆けつけたのか、ラウンジのフォークを手にしたままの間抜けな姿に思わず笑いが漏れる。
「何やってんだよ」
「都合のいい女が勝手なことしてごめんね」
そしてまたかおりを殴ることに意識を向ける。
その時ふわりと空気が動いて、自分の意志とは無関係に私はかおりから引き離された。
そして地面に捨てられる。
頬を地面につけたまま目にしたのは、先輩がかおりに駆け寄り、手の平で優しく血を拭っているシーンだった。
違う、そんな場面見たくなんかない。
順序的に私に謝るのが先じゃないんだろうか。
私をゴミ同然に放り出したままになんかしないで、抱き寄せるのが先なんじゃないんだろうか。
私は拳に力を込めて立ち上がる。
先輩は私に背を向けたまま全く見向きもしない。
ふと、先ほど先輩が落としたのであろうフォークが目に入った。
野次馬の中から女の悲鳴のような声が聞こえた。
けれど私には何の意味も成さない雑音でしかなかった。
そもそもこいつがいけないんだ。
しっかりとフォークの柄を握り締め大きく振りかざす。
そして。