6. 世界は足の速さでできていた ② ◆
メルギウスの過去の続きです。
金と欲と熱狂に塗れた、なんでも金で手に入る煌びやかな首都からはあの真っ青な空はどこにも見えなかった。
相変わらず、大きいだけであちらこちらがガタついたルイネッタ侯爵家は淀んだ空気で薄暗い。
しかし、1ヶ月半ほどの田舎のゆったりとした生活はメルギウスの心身を少しだけ健やかにしていた。
こんな古びた屋敷なんてずっと恥ずかしいと思っていたけれど、用意されていた田舎の宿屋は大量に虫も出たし夜はろくな明かりもないしもっともっとボロかった。あれよりマシだ。上をーー無理な贅沢を望むから悪いのだ。
一つのことに凝り固まっているから、『異常』に気が付かなかったのだ。
気弱なくせに、一度も表彰台に登ったことがないくせに、いつだってプライドが高く、大人というだけで暴力を振るう傲慢な父が床につき、無闇に殴られなくなったというのも大きかった。
体の小さな兄より、足の速いメルギウスが序列で上だった。
きちんと療養し、痛みがなくなった足では、期待をかけられていた弟たちも、もう寄せ付けなかった。
そうすると、また、大人たちが勝手な期待をかけてくる。
一度はゴミのように捨てたくせして。
『怪我しても走れって、そんなの、おかしくない?痛いしたら休むのなんて、子羊だって知ってるよ?自分は偉いって自分で言う割に、あなたはそんなことも知らないの?』
不思議そうな少女の声を思い返しながら、メルギウスは決意した。
もう大人の言うなりはごめんだ。自分を守れるのは自分しかいない。大人を頼ったって誰も助けてくれない。
無知で馬鹿をみるなんて嫌だ。
これは、自分の人生だ、と。
まず、隅々まで法律を調べた。
そして、横暴な調教師に無理な調教で怪我をさせられたと、医師の協力を得て、国に告訴した。それから祖父も父も虐待相手として訴えた。
メルギウスは約一年半前に同年代で三位だったから「国の競走馬育成の保護」のギリギリの対象期限だった。
それ以降であれば誰にも相手にもされなかったことだろう。
そこから、ルイネッタ侯爵家に監査と後見人が入り、自由を得た。恐ろしかった祖父を隠居させ、口汚く罵られたって知ったことではない。父は失意のうちに病で亡くなった。
科学的なデータに基づいたまともな調教方法に師事し始めると、メルギウスは面白いほどに年齢別のレースで勝ち始めた。
周りの見る目が変わった。
一つうまく転がればとんとん拍子だ。
勝てば次のレースに出られる。レースに出れば勝負勘が研ぎ澄まされる。駆け引きが上手くなる。国からの育成にかける支給費用が増え、よりよい師事のーーメルギウスの足や性格にあった調教の機会に恵まれる。
順位を駆け上がっていく際にコアなファンがつけば訓練のためのための道具にも困らないし、より良い靴が買える。
メルギウスが、19歳で、前評判を覆して最高峰のアスターラス記念杯で優勝したときは、我が世の春だった。
ルイネッタ侯爵家だなんて馬鹿にしていた女たちがここぞとばかりに擦り寄ってくる。あんな見下した顔をしていたくせに、お互いを罵り、足を引っ張りあってでも、メルギウスに必死で選ばれたがる。
痛快だった。
どんな不誠実をしたってどうか捨てないでと縋りつかれ、次から次へと媚を売られ続けた。
好きなだけ女を抱いて、捨てて、馬鹿にしたって、誰からも非難されることはない。
誰もが羨むような血筋の女を何人も妻にした。金の髪を持つ公爵家の婚約者だって誘惑して裏切らせて、「万年二位だからだよ」と見下した。
それでもかつて絶対的な差で見下ろしてきた相手が項垂れ、唇を噛むばかり。
母は今更謝ってきて、庇護に入りたがった。
「口だけでろくに走ったこともない上に、勝ち馬を見分けられない尻軽なんて母親なわけねえだろ。馬券外の価値なしのくせに」と、富を手に入れたメルギウスにとってははした金として投げつけた金塊のために這いつくばった、産むことしかしなかった女の手を踏みつけたときの爽快さと言ったら。
やはり足が全てだと思った。
薄曇りの空なんて気にならない。
ギラギラとした目に眩しい色とりどりの明かりとスポットライトに照らされた世界。
その中心に自分がいる。
笑いが止まらなかった。
けれど。
全て手に入れて、思うさま全てを見下して。そうすると、心のどこかで虚しい、と思ってしまった。
ここにいる自分はアストーラス記念杯を二連覇したコル・ランフェクトであるが、メルギウス=ルイネッタという一人の人間であると思えなくなった。
みんな見ているのは、一番足の速い血統のいい男であって、メルギウスではない。
金であり、名誉であり、富を産む金のガチョウ。
その虚しさは、不意にメルギウスを享楽から引き戻した。
当然のように、勝つことを期待されるのレースに、急に重圧を感じるようになり、眠りが浅くなった。
そんなとき、ライバルに雇われた男にレース中わざとぶつかられ、膝の靭帯を切る大怪我をし、もう前のように走れなくなった。
元々幼少期の無理なトレーニングでメルギウスの膝は爆弾を抱えているようなものだったのだ。
走る価値を失ったメルギウスは、また失意に落ちた。
今まで散々横暴に振る舞ってきた分、自業自得と、周りに好き勝手に言われた。
もちろん、ハーレムの女たちは優しく慰めてくれた。レースを引退しても次代を作ることにまだ価値はある。次の一番を産んだ女というのは名誉なものだ。
前のように走れなくても、誰もがメルギウスの子種を欲しがった。
彼女たちの優しさには欲望が透けて見え、その浅ましさからとてつもない嫌悪感を感じ、メルギウスはもう誰にも反応しなかった。
どんなに美しい牝馬でも、気持ちが悪いと思った。
しかし、速い馬は子を成すことが義務の立場でもある。できない、ではなく、やれ、だった。
メルギウスは、国の指令を受けた女たちに薬を盛られ、強引に迫られ、理性を失って子作りをさせられた。寝込みを襲われることを恐れて眠れなくなり、何に盛られているかわからないことに食べられなくなり。
それなのに、足の痛みを相談する医師にさえ騙されて薬を盛られ、暴れれば注射で押さえつけられ、義務を強要された。
遂には医師がためらうほどに強い興奮剤でなければ、ぴくりとも反応もしなくなった頃、ようやく十人目の子の妊娠がわかり、用済みとばかりに国から解放された。
まさに種馬にされたことに、メルギウスの自尊心はズタズタで、私生活は荒れに荒れた。
酒に溺れて健康を害し、誰も寄せ付けずに一人きり。十四人の妻たちが住めるだけの家を作り、金を渡し、二度と近づくな、子供を近寄らせるなと側から追い払った。
もう、空は鈍色だけだった。
走れない。
走れたとしても、レース馬としては遅い。
あの熱狂の中には帰れない。
あの、明るいスポットライトの下には二度と。
ーー足が遅い馬には価値がない。
メルギウスが吐いた言葉が、そのまま天から落ちてきた。
真っ暗な闇に堕ちた気分だった。
そんな絶望の日々の中で、ふと、脳裏に浮かんだのは、ディーシナヤ領ですごした日々だった。
「私の価値観」と言い続けてくれたあの子にまた会いたい。
馬鹿な当時の自分が名前くらい聞いておいてくれたら良かったのに。
同じくらいの年頃だった。もうとっくに適齢期だ。
結婚してあの地になんていないかもしれない。
馬鹿馬鹿しい。会ってどうしたいのか。
そう思いながら、幾夜も幾夜もあの頃の夢を見て。
首都でも流通するようになった牛の乳を飲み続けて、少しだけ体の調子が良くなったとき、朝の生理現象が戻ってきた。
そうすると、なぜかあのどこまでも青い空が見たくてたまらなくなった。
だからメルギウスは、もうプライドをへし曲げてディーシナヤ領に向かった。
青い空を見たい。あの子と話したい。
もう一度、走れないくらいで悩んでるなんてダッサ!とはっきり言ってもらえたら、ほんの少し前に進める気がした。
まさか、大声で泥棒!と叫ぶ声が聞こえて狼藉者を捕まえたら、馬糞をぶちかけられる目に遭うとは想像していなかったけれど。
それでも、また、見つけた。
白い前髪の女の子を。
慌てまくった不躾な面白い行動。
とにかくよく回る口。
メルギウスに下手に媚びたりしない、だからと言って無神経なわけでもない、上手い言葉選び。
くるくると変化する面白い表情。
前髪の下の、気の強そうな黒い瞳。
一致した瞬間に、妻になれ、と言ったのは勢いだ。
でも彼女は、誰もが喜んだメルギウスの妻の座に、絶対嫌だと嫌悪も露わな顔をした。
メルギウスの周りにあった「価値があるはずのもの」の全てと正反対な生き物だ。
昔に会ったあの女の子の顔はまるで覚えていない。
でも話せば話すほどこの子だと思った。
この子しかあり得ない。
あの頃と変わらず、世間と違う、自分の価値観で生きている、女性。
彼女がいたら鬱屈した自分の価値観なんてどうでも良くなるかもしれない。
不意に、自分の中で強い鼓動を感じた。
風がもう一度吹き抜けた気がする。
何も考えずにただただ駆け抜けるだけに集中できていた頃の清々しい風。
死んでるみたいに、ただ止まって、生きていたくない。
種馬なんかじゃない。
走りたい。耳を切る風の音をもう一度感じたい。
自分が自由になるための、自由であった、象徴の音を聞きたい。
一番じゃなくても、走りたい。
一番じゃなくても、かっこいい自分になりたい。
それには彼女が必要だ。
そう思うと強烈な欲求が湧き上がってきた。
欲しい。彼女が欲しい。
この国の人を人とも思わないクソみたいな価値観から自由で、面白いことばかり言って、メルギウスをただのしょうもない貴族として警戒して、言葉遊びを楽しむメルギウス自身と会話をしてくれて、少しもねじくれない彼女が欲しい。
心の底から。
今はフリーだという。この年で、それも奇跡。きっと、運命。
なら、誰にも取られたくない。
その唯一無二と思った子が、足が遅いから価値がないだと嘯いて、逃げようとする。
代わりなんてどこにもないのに。
許さない。
やっと、見つけたのに。
メルギウスは、自分でも今まで感じたこともない衝動に身を任せて、気がついたら求婚していた。昔に法を調べに調べた時、クソみたいな制度だなと思っていたくせに。
絶対に断れないように、この上なく強引に。
拗らせサラブレッドはこうして誕生しました。
明日からはセレン視点に戻ります。
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