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眠れる星たちの恋歌

作者: 伏木 亜耶
掲載日:2025/09/18

20××年9月18日、午後3時17分。東京都新宿区の雑踏の中で、二つの人生が交差した瞬間、時は止まった。


田中健人は音楽専門学校を卒業したばかりの22歳で、楽器店でアルバイトをしながら俳優になる夢を追いかけていた。背は高くハンサムだったが、オーディションではいつも「もう少し個性が欲しい」と言われ続けていた。その日も小さな劇団のオーディションの帰り道だった。結果は案の定、不合格。落胆した気持ちを抱えながら横断歩道を渡ろうとしていた。


一方、佐藤美咲は音楽大学の3年生で、20歳。ピアノと作詞作曲を学びながら、将来はシンガーソングライターになることを夢見ていた。透明感のある美しい声を持っていたが、人前で歌うことに極度の緊張を覚え、学内での発表会でさえ震え声になってしまう自分に悩んでいた。その日は久しぶりに勇気を出してライブハウスのオープンマイクに参加しようと向かう途中だった。


制御を失った配送トラックが赤信号を無視して交差点に突っ込んできた時、二人は偶然同じタイミングで横断歩道の中央にいた。健人は美咲の方に身を投げ出すように庇おうとし、美咲は健人に向かって手を伸ばした。その瞬間、世界が白い光に包まれた。


救急車が到着した時、二人は数メートル離れた場所で倒れていた。意識不明の重体。同じ病院の集中治療室に運ばれ、生死の境をさまよっていた。


しかし、二人の意識は別の場所で目覚めていた。


健人が目を開けた時、そこは息を呑むほど豪華な控室だった。革張りのソファ、クリスタルのシャンデリア、壁一面に飾られた映画のポスター。そのポスターには全て「森川涼太」という名前が大きく印刷されており、その顔は紛れもなく自分の顔だった。鏡を見ると、現実よりもさらに整った顔立ち、完璧に整えられた髪、高級なスーツを着た自分がいた。


「涼太さん、お疲れ様でした。今日の撮影も素晴らしかったです」


マネージャーらしき女性が入ってきて、自然に彼に話しかけた。健人の頭の中には、なぜかこの世界での記憶が流れ込んできた。デビュー作で新人賞を受賞し、その後立て続けにヒット作に出演。今や日本を代表する若手俳優として、ハリウッド進出の話まで持ち上がっている。


「次は音楽番組の収録ですね。今回のゲストは星野愛梨さんです」


星野愛梨。健人...いや、この世界では森川涼太は、なぜかその名前を聞いた瞬間に胸が高鳴った。


一方、美咲が目覚めたのは、まばゆいスポットライトが照らすステージの上だった。眼下には数万人の観客が埋め尽くし、全員が彼女の名前を叫んでいる。


「愛梨!愛梨!愛梨!」


手にはギター、耳にはイヤモニター。この世界での彼女は「星野愛梨」として知られる日本を代表するシンガーソングライターだった。透明感のある歌声で多くの人の心を掴み、楽曲は必ずチャートのトップを飾る。現実では人前で歌うことすら怖かった美咲が、この世界では何万人もの前で堂々と歌い、観客を魅了していた。


「愛梨ちゃん、今日もお疲れさま。明日はテレビ局での音楽番組収録よ。ゲストに森川涼太さんがいらっしゃるの」


森川涼太。美咲...この世界では星野愛梨は、その名前を聞いた瞬間、説明のつかない懐かしさを感じた。


テレビ局の廊下で二人は初めて出会った。涼太が楽屋から出てきた瞬間、廊下の向こうから歩いてくる愛梨と目が合った。時が止まったような感覚。二人とも立ち止まり、見つめ合った。


「初めまして...」


涼太が口を開こうとした時、愛梨が先に言った。


「でも、どこかでお会いしたことがあるような気がします」


涼太も全く同じことを感じていた。この美しい女性を以前から知っているような、深いところで繋がっているような不思議な感覚。


「俺も同じです。星野さん...愛梨さん」


彼女の名前を呼んだ瞬間、胸の奥で何かが震えた。


収録では、涼太が愛梨の新曲について語るトークコーナーがあった。カメラが回る中、二人は自然に会話を始めた。


「この曲を聴いた時、なぜか涙が出た。特に『もう一度会えるなら』という歌詞が心に響いて」


涼太の言葉に、愛梨は驚いた。その歌詞は、最近見る不思議な夢からインスピレーションを得て書いたものだった。誰かを探している夢、大切な人を失ったような切ない気持ちになる夢。


「実は...この歌詞、夢で見たイメージから書いたんです。誰かを待っている、そんな夢を」


「俺も最近、同じような夢を見る。大切な人を探している夢を」


カメラの前だというのに、二人の会話は私的な空間を作り出していた。スタッフたちも、二人の間に流れる特別な空気を感じ取っていた。


収録後、二人は自然と一緒にカフェに向かった。


「不思議なんです。あなたといると、この華やかな世界にいることの違和感が薄れる」


愛梨の言葉に、涼太は深くうなずいた。


「俺もだ。成功してるはずなのに、いつも何かが足りない気がしてた。でも今日、君に会って、その空虚感が消えた」


二人は夜遅くまで語り合った。音楽のこと、演技のこと、そして時々感じる現実感の薄さについて。


「時々思うの。この生活が本当の自分なのかって」


「俺も同じだ。まるで誰かの人生を借りて生きてるような」


それから二人は頻繁に会うようになった。プライベートでの食事、一緒にドライブ、時には愛梨のレコーディングに涼太が立ち会うこともあった。メディアは「世紀のカップル誕生か」と騒ぎ立てたが、二人にとってそんなことはどうでもよかった。


ある夜、涼太のマンションで二人は抱き合っていた。愛梨の髪に顔を埋めながら、涼太は呟いた。


「君を愛してる。この気持ちだけは、この世界で唯一本物だと確信できる」


「私も愛してる。あなたに会えて、やっと自分が何を求めていたのかわかった」


しかし、その瞬間、涼太の頭の中に奇妙な映像がフラッシュバックした。楽器店の制服、オーディション会場の待合室、もっと質素なアパート...


「どうしたの?」


愛梨が心配そうに涼太の顔を見上げた。


「何でもない...ただの錯覚だ」


しかし、その「錯覚」は日に日に強くなっていった。


それから数週間、二人の愛は深まっていったが、涼太の中の違和感も同時に大きくなっていった。鏡に映る自分の顔が時々歪んで見える。ファンの歓声が機械的に聞こえる。そして最も不安なのは、愛梨への愛情だけが、この世界で唯一リアルに感じられることだった。


ある日、涼太は一人でロケ地を歩いていた時、古い写真を拾った。それは音楽専門学校の卒業式の写真で、そこには今よりも素朴な表情をした自分が写っていた。


「これは...俺?」


その夜、愛梨に写真を見せた。


「これ、俺だと思うんだ。でも俳優になる前の記憶が曖昧で...」


愛梨もじっと写真を見つめた。


「私も...最近変なことがあるの。シンガーになる前の記憶が断片的で。でも音楽大学にいた記憶があって...」


「音楽大学?」


「うん。ピアノを習ってて、人前で歌うのが怖くて...でもそんなはずないよね。私、何万人もの前で歌ってるのに」


二人は顔を見合わせた。何かがおかしい。何かが足りない。


その後、二人は必死に自分たちの過去を思い出そうとした。しかし、思い出そうとするほど、記憶は霧のように掴めなくなった。確実にわかることは一つだけ。互いへの愛情だけが、この世界で最もリアルだということ。


愛梨のコンサート当日、涼太は客席から彼女を見つめていた。美しく歌う愛梨を見ながら、突然強烈な既視感に襲われた。


病院の匂い、救急車のサイレン、誰かの泣き声、そして...横断歩道。


「事故...」


記憶が津波のように押し寄せてきた。あの9月18日、オーディションの帰り道、落胆した気持ち、そして横断歩道で出会った美しい女性。彼女は恐怖で立ち尽くしていて、自分は彼女を守ろうと...


コンサート終了後、涼太は楽屋で愛梨を待っていた。


「愛梨...いや、違う。君の本当の名前は...」


「え?」


涼太は必死に記憶を辿った。事故の瞬間、彼女の顔、そして...


「俺たち、事故に遭ったんだ。9月18日、新宿の交差点で」


愛梨の顔が青ざめた。


「どうして...そんなことを...」


「君は音楽大学の学生で、人前で歌うのが怖くて、でもシンガーソングライターになりたくて...」


愛梨の目に涙が浮かんだ。記憶が蘇ってきた。ライブハウスに向かう道、勇気を出そうとしていた気持ち、そして横断歩道で見た男性の優しい目。


「あなたは...楽器店で働いてて、俳優になりたくて...」


「そうだ。俺は田中健人。君は...」


「佐藤美咲」


二人は抱き合った。この豪華な楽屋で、スターとしてではなく、事故で出会った二人の青年として。


「でも、この世界は...」


「俺たちの夢が現実になった世界だ。でも夢は夢。俺たちはまだ病院で眠ってるんだ」


健人は美咲の手を握った。


「俺は戻らなければならない。現実に戻って、君を助けなければ」


「一緒に戻ろう」


「だめだ。君はまだこの世界にいた方がいい。俺が先に目覚めて、君の身体を守る」


美咲は泣きながら首を振った。


「離れたくない...やっと見つけたのに」


「必ず迎えに行く。現実で、本当の君と恋をするために」


健人は美咲にキスをした。それは夢の中での最後のキスだった。


「愛してる。本当の君を、現実の君を愛してる」


「私も...あなたを愛してる」


健人は目を閉じ、意識を現実へと向けた。夢の世界が崩れ始める中、美咲の歌声が遠ざかっていく。


「もう一度会えるなら、今度は離さない...」


健人は病院のベッドで目を覚ました。喉は乾き、身体は重く、点滴の針が腕に刺さっていた。しかし意識ははっきりしていた。


「田中さん!意識が戻られたんですね!」


看護師が駆け寄ってきた。医師の説明によると、健人は1ヶ月間昏睡状態だったという。同じ事故で運ばれた女性も、隣の病室でまだ眠り続けているとのことだった。


「その女性の名前は?」


「佐藤美咲さんです」


健人の心臓が高鳴った。やはり夢ではなかった。


健人は美咲の病室に向かった。ベッドに横たわる美咲は、夢の中で見た星野愛梨とは違って見えた。化粧もしておらず、華やかな衣装も着ていない。しかし健人にとって、これこそが愛する人だった。


「あなたが美咲さんですね...」


健人は美咲の手を握った。温かく、現実の感触があった。


それから健人は毎日病院を訪れた。退院後も、バイトの合間を縫って美咲のベッドサイドで過ごした。時には音楽を聞かせ、時には本を読み上げ、時には夢の中での思い出を語りかけた。


「あの世界で君と過ごした時間は、夢だったけれど、君への愛は本物だった。だから待ってる。いつまでも」


医師からは「いつ目覚めるかわからない」と言われていたが、健人は諦めなかった。家族は心配し、友人たちは「現実的になれ」と言ったが、健人の決意は揺らがなかった。


2ヶ月、3ヶ月...健人は就職活動も延期し、楽器店でのバイトを続けながら美咲を見守った。時々、病室で小声で歌を歌うこともあった。美咲が夢の中で歌っていた『もう一度会えるなら』を。


ある朝、健人が美咲に話しかけていると、彼女の指がわずかに動いた。


「美咲さん?」


美咲の瞼がゆっくりと開いた。焦点の合わない目が、次第に健人の顔を捉えた。


「あなたは...」


声は弱々しかったが、確かに美咲の声だった。


「田中健人です。君を助けられなくてごめん」


美咲の目に涙が浮かんだ。


「健人...さん?あの夢は...」


「本当だった。君への愛は、全部本当だった」


二人は手を握り合った。今度は夢ではなく、現実の温もりを感じながら。


「ずっと待っていてくれたんですね」


「約束したから。現実で、本当の君と恋をするって」


美咲は涙を流しながら微笑んだ。


「私も...あなたを愛してます。今度は現実で」


数ヶ月後、美咲も退院した。二人は小さなライブハウスにいた。美咲がオープンマイクで歌い、健人が客席から見守っている。美咲の歌声は震えていたが、それでも美しく、心に響いた。


歌い終えた美咲に、健人は花束を渡した。


「素晴らしかった。君の夢、叶えよう」


「あなたの夢も。今度は一緒に」


二人は抱き合った。夢の中では世界的スターとして出会った二人だったが、現実では夢を追いかける普通の青年と女性。それでも、いや、だからこそ愛は深く、真実だった。


事故という悲劇が、二人を出会わせた。夢の中での恋が、現実での愛を育んだ。健人と美咲は手を繋ぎ、新しい物語を歩み始めた。今度は夢ではなく、現実の世界で。

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