エンドロールに僕の名を
「ねえ、知ってる? 私、明日死ぬんだって」
僕の主、"灰の森の魔女"エレオノーラは、いつもと同じように紅茶のカップを僕の前に置きながら、そんなことをさらりと言った。
窓から差し込む午後の光が、彼女の銀色の髪をきらきらと透かしている。
あまりにも穏やかな、なんてことのない日常の一コマ。
だからこそ、その言葉の刃は僕の魂の一番柔らかい場所に深く突き刺さった。
「……馬鹿なことを」
絞り出した声は自分でも驚くほどか細く震えていた。
僕の動揺を見透かしたようにエレオノーラはくすりと悪戯っぽく笑う。
その唇は血の気が引いていつも少しだけ白い。
「本当のこと。私がずっと昔にそう決めたんだもの」
「決めた……? 自ら死を望んだとでも言うのですか」
「大昔にした約束の、最後の代償みたいなものだもの」
彼女は大陸最強と謳われる大魔女だ。
その気になれば国の一つや二つ、一夜で地図から消し去ることができるほどの力を持つ。
そんな彼女が自らの定めた運命に逆らうことなく、静かに最期の一日を迎えようとしている。
僕には到底理解ができなかったし、理解したくもなかった。
「理由をお聞かせください。僕が、あなたの忠実な使いであるというのなら」
「……今日は私の『やり残したことリスト』に付き合ってくれる? それを全部見届けてくれたら、最後にとあることを教えてあげる」
エレオノーラはそう言うと一枚の古びた羊皮紙をテーブルに広げた。
そこには彼女の少し癖のある美しい文字で様々な願い事が並んでいた。
『積んでた本を全部読む』
『街一番のケーキをホールで食べる』
『最後の魔法で、夜空にオーロラをかける』
『昔、あなたを拾ったあの丘に行く』
どれも悠久の時を生きた大魔女の最期にしてはあまりにもささやかで、人間じみた願いばかりだった。
まるで遠い昔に置いてきた子供時代の夢を一つ一つ拾い集めるかのように。
僕は彼女の隣にちょこんと座り直し、その儚げな横顔を見上げる。低い僕の視点から見上げる主の顔はいつも世界の何よりも美しい。
「……承知いたしました。主の望みとあらばどこまでもお供します」
僕は覚悟を決めた。
彼女の言葉を、魔法を、その温もりを、一つも零さぬようにこの身に刻みつけよう。
偉大なる主の最期をこの世で唯一の証人として見届けるために。
エレオノーラは満足そうに僕の頭を優しく撫でた。
ひんやりとした彼女の指が僕の艶やかな黒い毛を心地よく梳いていく。
もっと撫でてほしくて、自然と喉が揺れる。
主はそれを聞くといつも少しだけ寂しそうに微笑むのだ。
それが僕と主との、長年の約束事のようなものだった。
「さあ、始めましょうか。最初のお願いは……これね」
彼女が指差したのは『積んでた本を全部読む』という項目だった。
書斎の扉が開かれると壁一面、いや、天井まで届く本棚に収まりきらなかった魔導書や物語が床に塔のように積み上がっているのが見えた。
常人ならば一生かかっても読み終えられないだろうその光景にエレオノーラは「やれやれ」と肩をすくめる。
「時間は有限、知識は無限。困ったものよね」
彼女はそう呟くとぱちん、と指を鳴らした。
すると積み上げられた本たちがひとりでに宙を舞い、彼女の周りを惑星のように旋回し始める。
そして目にも留まらぬ速さでページがめくれていった。
古の知識が、膨大な物語が、光の粒子となって彼女の中に吸収されていく。
僕にはそこに書かれた古代言語も、複雑な魔法術式も理解できない。
だがそれがどれほど偉大な行いであるかは分かった。
僕は主の足元で静かにその光景を見守る。
時折、彼女が読んでいた分厚い魔導書の上は日当たりが良くて温かく、頭を置くのに最高の場所だった。
うとうとと微睡む僕の意識に主の優しい声が響く。
「ごめんね、退屈でしょう?でももう少しだけ付き合って」
「そんなことはない」
主と過ごす時間に退屈な瞬間など一秒たりともありはしないのだから。
次に彼女が選んだのは『街一番のケーキをホールで食べる』だった。
「たまには体に悪いこともしてみなくちゃね」
そう言って悪戯っぽく笑うと彼女は再び指を鳴らした。
空間がぐにゃりと歪み、目の前に華やかな街のショーウィンドウが現れる。
ガラスの向こうには宝石のように輝くケーキがずらりと並んでいた。
その中で最も大きく、真っ赤な苺がふんだんに飾られたホールケーキを指差すと、それはふわりと浮き上がり、僕たちの目の前のテーブルに転移してきた。
「わあ……」
子供のようにはしゃぎながらエレオノーラは大きなフォークで無遠慮にケーキを崩していく。
甘いクリームと苺の香りが部屋中に満ちていった。
その香りは僕の鼻腔を強くくすぐり、思わず僕もテーブルに手が出てしまった。
「あら、あなたも食べたい?でも、これはあなたのお口には合わないかも」
彼女はそう言って自分の指先に少しだけ生クリームをつけると僕の鼻先にそっと差し出した。
僕はその匂いをくんくんと嗅いだが、やはり主の言う通り、僕の好む味ではなかった。
主が食べるべきものを使いの僕が口にするなどあってはならないことだ。
僕は丁重に断る意を込めてぷい、と顔をそむけた。
エレオノーラは「そう、残念」と笑い、一人で美味しそうにケーキを食べ進めた。
主が幸せなら僕も幸せなのだ。
たとえ、その幸せが明日には消えてしまう砂上の楼閣だとしても。
日は落ち、空が深い藍色に染まる頃、僕たちは城のバルコニーに出ていた。
リストの三番目『最後の魔法で、夜空にオーロラをかける』を実行するためだ。
「見ていて。私の最後の悪ふざけよ」
エレオノーラは目を閉じ、両手を夜空に掲げた。
彼女の口ずさむ詠唱はもはや言葉ではなかった。
世界の法則そのものを書き換える神々の旋律。
彼女の体から溢れ出した膨大な魔力が風となって渦を巻き、僕の体を激しく揺さぶる。
あまりの力の奔流に僕の体も共鳴して震えが止まらない。これが我が主、エレオノーラの真の力。
やがて彼女がゆっくりと目を開くと、夜空に信じられない光景が広がった。
黒いキャンバスに緑、ピンク、紫の光のカーテンが投げかけられる。
それは生き物のようにしなやかに揺らめき、星々を瞬かせた。
本来この大陸では決して見ることのできない、極北の奇跡。
街の方角から人々の歓声が聞こえるようだった。
誰もこれが一人の魔女の仕業だとは知る由もないだろう。
「きれい……」
エレオノーラはまるで自分が見ている光景が信じられないかのように、そう呟いた。
その横顔は今まで見たどんな彼女よりも美しく、そして寂しそうに見えた。
僕は彼女にそっと体を擦り寄せた。
「大丈夫、僕が側にいます」と伝えるために。
彼女は僕の存在に気づくとそっとしゃがみこみ、僕を抱き上げた。
「ありがとう。あなたがいるから、私は大丈夫」
その言葉だけで僕の存在意義は満たされた。
最後のリストは『昔、あなたを拾ったあの丘に行く』だった。
僕たちはかつて灰の森と呼ばれていた、今は緑豊かな小さな丘の上に立っていた。
ここが僕と主が出会った場所。
主と僕が主従の契約を交わした始まりの地だ。
「あの日はひどい雨だったわね」
エレオノーラは遠い目をして過去を語り始めた。
彼女はまだ若く、力をうまく制御できずに孤独だったこと。
たった一人でこの丘で雨に打たれていた時、泥だらけで震えている小さな命を見つけたこと。
「放っておけなかったの。なんだか、昔の自分を見ているみたいで」
彼女は僕を拾い上げ、その温かい魔力で温めてくれた。あの瞬間の温もりを僕は今でも覚えている。
あの温もりに触れた瞬間、僕の全ては彼女に捧げられたのだ。
僕たちは丘の上に座り込み、静かに夜明けを待った。
東の空が少しずつ白んでくる。
彼女の命の終わりが刻一刻と近づいていた。
僕は彼女の膝の上に乗り、ただ黙って寄り添った。
言葉は必要なかった。
僕たちの魂はとうの昔に一つに繋がっているのだから。
やがて地平線の向こうから最初の光が差し込んだ。
その瞬間、エレオノーラの体がふっと透き通り始めるのが分かった。
「ああ、時間みたい」
彼女は少しも怖がることなく穏やかに微笑んだ。
そして僕をぎゅっと、壊れそうなくらい強く抱きしめた。
「理由、教えてあげるって言ったわね。私が死ぬ理由。それはね……大昔、この世界を救うために、未来の自分の命を代償に捧げたからよ。馬鹿でしょう?若気の至りってやつ」
彼女はからからと笑う。
体がどんどん薄くなっていく。
僕はたまらず、悲痛な声を上げた。
行かないで、主。僕を置いていかないで。
僕の叫びが聞こえたのか彼女は最後の力を振り絞るように僕の耳元で囁いた。
「ありがとう、リリィ。あなたは賢い子だったわね。私の言葉、全部わかっているみたいだった」
彼女の頬から冷たい雫が僕の毛並みに落ちる。
「……なんてね。あなたはただの気まぐれな黒猫。でも私にとっては、最高の家族だったわ」
エレオノーラの腕の温もりを感じていた。
ご主人様の匂いがする。
なんだかとても眠たい。
ゴロゴロと自然に喉が鳴り響く。
悲しいのか、心地よいのか、もうよくわからない。
頬を濡らすこの冷たい雫の匂いと優しい声の響き、そして彼女の心臓の音がだんだんと、だんだんとゆっくりになっていくのだけを感じていた。
やがて腕の力がふっと抜けて、温もりが消えた。
朝日が完全に世界を照らした時、僕を抱きしめていたはずの腕は光の粒子となって空気に溶けていった。
後には彼女の残り香が染みついたローブと、一匹の黒猫だけが残されていた。
主はいなくなった。
僕をリリィと呼んだご主人様はもういない。
黒猫のリリィは主人のローブの上に丸くなった。
まだ温かい。
ご主人様の匂いがする。
ここで眠ろう。
夢を見れば、また会えるかもしれないから。