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情報屋の男が足を止めたのは大通りから一本入った路地の奥の店。
扉が開かれた瞬間、熱気とともに強烈な香りが鼻孔を突き抜けた。
複数の香辛料が複雑に絡み合い、食欲を暴力的に刺激する香り。
建物の中は巨大な厨房のようだった。
数十人の男たちが額に汗を浮かべながら大鍋をかき混ぜている。
「おい、長老!客人を連れてきたぜ!」
情報屋が声を張り上げると、厨房の最奥から一人の老人が姿を現した。
長い白髭を蓄え、その目は猛禽類のように鋭い。
彼は私を見るなりカッと目を見開き、手に持っていた巨大な木べらを床に叩きつけた。
「なんじゃ、またワシらの『カリー』の技術を盗みにきたスパイか!」
苦笑いしながら情報屋が言う。
「スパイじゃないとは思うが、この国で『天国を見る』といえばカリーのことだもんな!」
……カリー?
聞き慣れない単語に、私は眉をひそめる。
「お言葉ですが私は技術を盗みに来たわけではございません。ただこの国で流通している薬について知りたいと……」
「黙らっしゃい!」
老人は私の言葉を遮り、鼻息荒く詰め寄ってきた。
「とぼけても無駄じゃ!最近、異国の商人がこぞってワシらのレシピを探りにきよる!貴様もその手先に決まっておるわ!」
どうやら、話が通じる相手ではないらしい。
私がため息をつこうとしたその時、老人は近くの大鍋から茶色いドロドロとした液体を皿によそい、私の目の前に突きつけてきた。
「ほれ!これがワシらの魂『カリー』じゃ!真似できるもんなら真似してみろ!」
湯気と共に立ち上る、スパイシーな香り。
見た目はあまり美しくはない。
だが、その香りは確かに食欲をそそるものがあった。
……まあいいわ。
現地の情報を得るには、現地の文化を知ることも必要経費でしょう。
私はスプーンを受け取り、その液体をひとさじ口へと運んだ。
瞬間。舌の上で、複雑怪奇な味の爆発が起きた。
辛味、酸味、甘味、そして苦味。
それらが渾然一体となり、喉の奥へと滑り落ちていく。
体が内側から熱くなるような感覚。
「……なるほど」
私は冷静にその味を分析する。
「悪くないわね。中毒性のある味付け。一度食べれば病みつきになる刺激。……これは流行るわ」
私の脳内で即座に事業計画が組み立てられていく。
この『カリー』とやらを流通網に乗せて世界中に販売すれば……。
あるいは、専門のレストランチェーンを展開するのもいいかもしれない。
私がビジネスの算段をつけていると、老人が勝ち誇ったように笑った。
「どうじゃ、驚いたか!この何十種類ものスパイスの黄金比、貴様のような小娘に解けるはずもなかろう!」
……黄金比?
私は手元の皿に残ったカリーをもう一度見つめ、そして厨房の棚に並べられた色とりどりの香辛料へと視線を移した。
もう一口、食べる。舌の上で味を分解する。
……いえ。
これは黄金比ではないわね。
確かに美味しい。だが、まだ粗削りだ。
特定のスパイスが主張しすぎており、全体の調和をわずかに乱している。それに、後味に残る苦味が少し強すぎる。
完璧主義者としての血に火が付いた。
「……少し借りるわよ」
私はスプーンを置き、つかつかと香辛料の棚へと歩み寄った。
「なんじゃ!?何をするつもりじゃ!」
慌てる老人を無視し、私は並べられた壺の蓋を次々と開けていく。
指先で粉末をすくい、舐め、香りを確かめる。
これが辛味の主体。これが香りの骨格。これは色付け……。
そしてこれがコクを出すための隠し味ね。
すべて把握した。
私の頭脳は即座に最適な配合比率を導き出す。
私は近くにあった小鍋を火にかけ、油を熱した。
そこへ迷いなくスパイスを投入していく。
「計量もせずに適当に放り込みおって!」
「素人が!スパイスを焦がす気か!」
周囲の料理人たちが野次を飛ばす。
だが、私は意に介さない。
適当?
いいえ、この鍋の中の温度、油の量、スパイスの状態。全て計算尽くよ。
数分後。
鍋からは、先ほどの老人のカリーとは一線を画す、芳醇で洗練された香りが立ち上っていた。
刺激的ながらも角がなく、まろやかで奥深い香り。
「完成よ」
私は出来上がったそれを皿によそい、呆然としている老人の前へと差し出した。
「なんじゃこれは。色が……輝いておる……?」
老人は震える手でスプーンを取り、恐る恐る口に運んだ。
その瞬間。
老人の動きが止まった。
カッと目が見開かれ、その瞳から大粒の涙が溢れ出した。
「な……!?」
「長老!?」
「う、うおおおおおおおおっ!!!」
老人は絶叫した。
「……なんという深み!喉を通った後の余韻はまるで天使の歌声……!これぞ……これぞ真の『カリー』じゃああああ!」
老人はその場に崩れ落ち、床に手をついてむせび泣いた。
周囲の料理人たちも慌てて鍋に残ったカリーを味見し、次々と膝から崩れ落ちていく。
「美味い……美味すぎる……!」
「俺たちが作っていたのは泥水だったのか!?」
「神だ……!カリーの神が舞い降りたぞおおお!」
厨房内は狂乱と歓喜の渦に包まれた。
料理人たちは私を取り囲み、拝むように手を合わせている。
「ああっ、異国のカリー神様!どうか我らにその配合をご教授ください!」
「一生ついていきます!」
「……はあ」
私は深いため息をついた。
何がなんだか……
「レシピはそこに書いておいたわ。勝手に使いなさい」
私は羊皮紙に走り書きした配合表を老人に押し付け、逃げるように厨房を後にした。
背後からは「神よ!神よ!」という狂信的な声が響いていた。
◇◇◇◇
通りに出てようやく喧騒から解放された私は大きく息を吐いた。
「……とんだ時間の無駄だったわ」
隣を歩く情報屋も、まだ信じられないものを見るような目で私を見ている。
「あんた、何者なんだ? あの頑固なジジイを一口で黙らせるなんて……」
「ただの通りすがりの美食家よ。それより」
私は足を止め、情報屋に向き直った。
ここからは仕事の時間だ。
私は声を潜め、本来の目的を切り出した。
「カリーという料理は確かに興味深かったけれど、私が探しているのはこれじゃないの」
「……あん?」
「私が探しているのは『魔薬』よ」
「『魔薬』? なんだそりゃ」
「体に取り込むと激しい多幸感を得られる薬よ。そしてひどい依存性がある。一度味わうと、その快楽なしには生きていけなくなる。最終的には廃人になって死ぬわ」
私は東の大国で見た光景を思い出しながら、魔薬についてかいつまんで説明した。
路上に転がる虚ろな目の人々。
甘ったるい異臭を放つ紫色の煙。
私の説明を聞き終えた情報屋はしばらく考え込んだ後、ゆっくりと首を横に振る。
「悪いがそんな薬は俺も聞いたことがねぇな」
「本当に?」
「ああ。さっきも言っただろう。この国の毒物は全て国が厳格に管理している。流通経路も使用目的も全てが記録される。そんな危険な薬が出回っていれば、必ず俺の耳にも入るはずだ」
情報屋の言葉に、私は眉をひそめた。
――おかしい。
ウィリアムの部下から得た情報では、魔薬の生産拠点はこの国のはずだった。
具体的な農場の位置も、出荷する港の名前も把握している。
なのに、現地の情報屋がその存在すら知らないとは。
「……この国の管理体制を、完全にすり抜けているということかしら」
私の呟きに、情報屋は難しい顔をした。
「それは相当に難しいぜ。この国の毒物管理は世界一厳しい。国境の検問も、港の監視も、抜け目がねぇ」
一筋縄ではいかないようね――
生産地がこの国のはずなのに、現地の情報屋すら、その存在を知らない。
謎は深まるばかりだった。




