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宿敵ウィリアム・マセリンとの盤上遊戯を終えて王都に帰還した私の胸には、次なる戦いへの静かな闘志が燃えていた。
『毒の国』――
ウィリアムの力の源泉であり、魔薬の生産拠点。あの男と決着をつけるためには、その心臓部を直接叩き潰す以外に道はない。
壮大な遠征計画、情報収集、そして敵地への潜入ルートの確保。
私の頭脳はすでに、いくつものシナリオを描き出し始めていた。
「まずは不在中に溜まった報告に目を通し、組織の現状を把握することから始めましょうか」
自室で着替えると慣れ親しんだ執務室へと向かった。ウィリアムとの次なるチェスの冷徹な一手を考えながら、私は執務室の重厚な扉に手をかけた。
まさにその時だった。
扉を開けた瞬間、私の思考は現実の物理的な暴力によって無慈悲に中断させられた。
「――っ!?」
ゴゴゴゴゴ……ッ!
地響きにも似た轟音と共に、扉の隙間から何かが雪崩のように私へと殺到してきた。それは見慣れた羊皮紙の束。私の不在中に各部門から提出された報告書であり、私の決裁を待つ承認書類の数々だった。
一枚一枚は薄く軽いそれが、数千、数万と束になることで恐るべき質量と破壊力を伴う奔流と化していた。私は咄嗟に一歩下がり、扉を盾にする。ガガガガッ!と扉の向こうで書類の津波が荒れ狂う音が響いた。
「リリス様! ご無事ですか!?」
異変を察知した護衛たちが駆け寄ってくる。私は扉を必死に押さえながら、信じられない思いで呻いた。
「……ええ。死因が『書類による圧死』なんて歴史書に残ったら末代までの恥だわ」
なんとか書類の勢いが収まるのを待ち、ゆっくりと扉を押し開ける。
執務室の中はもはや部屋としての機能を完全に失っていた。
床から天井までびっしりと羊皮紙が雪崩の後のように堆積している。私の執務机も愛用の椅子も、その全てが紙の山脈の奥深くに埋もれてしまっていた。
「……どういうことかしら」
呆然と立ち尽くす私の耳に、窓の外からバサバサという異様な羽音が聞こえてきた。視線を向けて私は再び絶句する。
空が、ない。
抜けるような青空があったはずのそこは無数の黒い点で埋め尽くされ、まるで日食のように薄暗くなっていた。
伝書鳩だ。
緊急の伝達手段であるはずのそれが交通渋滞を起こし、屋敷の上空で巨大な渦を巻いている。
その下。我がヴォルテクス家の誇る純白の城壁は見るも無残な斑模様に変わり果てていた。ポツ、ポツ、と降り注ぐ黒い雨。
鳥のフン害である。
「……もう何も考えたくないわ」
私がこめかみを押さえてその場にしゃがみ込みそうになった時。執務室の前の廊下から抑えきれない複数の声が聞こえてきた。
「リリス様がお戻りになられたのだ! 今こそ決裁をいただく時!」
「何を言うか! こちらの鉱山開発計画の方が優先順位は上だ!」
「我が輸送部門の新規航路開拓なくして組織の未来はない!」
恐る恐る廊下を覗き見ると、そこには信じがたい光景が広がっていた。
私の決裁を待つ各部門の長たちが廊下の端から端まで長蛇の列を成しているのだ。
今にも掴み合いの喧嘩を始めそうな剣幕だった。
「リリス様のご決裁がなければ組織の歯車が止まってしまいます!」
誰かがそう叫ぶと、堰を切ったように全員が私へと殺到しようとする。護衛たちが慌てて壁を作り、彼らを制止した。
「お待ちください! リリス様は長旅でお疲れなのです!」
「そんなことを言っている場合か! 一刻を争うのだ!」
押し問答が始まり、廊下は完全なカオスと化す。その混乱の中を、ひときわ甲高い声が私の耳を貫いた。
「リリス様!」
人垣をかき分けるようにして現れたのは、第六王子アレクシス・ドラクール。
今や私の組織の広告塔、いや、『アイドル』として八面六臂の活躍を見せる美貌の王子。その完璧な顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
彼は私の足元に駆け寄ると、その場に崩れ落ちるようにして泣きついた。
「次のCMの衣装が決まりません! どうか僕にふさわしい色をお選びください!」
「……どっちでもいいわよ、そんなの」
私が冷たく言い放つと、アレクシスはさらに声を上げて泣きじゃくる。
「そんな! この衣装の選定が今後のアイドル生命、ひいてはヴォルテクス家のブランドイメージを左右するというのに!」
……知ったことか。
私がその場から立ち去ろうとすると、今度は厨房の方からメイド長の血相を変えた報告が飛び込んできた。
「リリス様大変でございます!ディノ様よりまた規格外の巨大マグロが来て厨房はパニックに陥っており、料理長が『もう私の創造力ではマグロの呪いから逃れられない』と遺書を書き始めております!」
「またなの……?」
私のこめかみがピクリと痙攣する。
書類の山、鳩のフン害、部門長の行列、王子の泣きつき。
そして巨大マグロ。
次から次へと押し寄せる、現実的だがあまりにもくだらない問題の波。
私の精神は確実に限界へと近づいていた。
その、まさにその時だった。
全ての混沌を切り裂くように一つの涼やかな声が響いた。
「お戻りでしたかリリス様! 素晴らしいタイミングです!」
そこに立っていたのはハロルド。
いつものように完璧な身だしなみで、その手には分厚い企画書が握られている。その顔には一点の曇りもない満面の笑みが浮かんでいた。
彼は部門長たちの行列を「失礼」と優雅にかき分ける。
アレクシスの涙を「お拭きなさい」とハンカチで拭い、マグロでパニックになっているメイド長に「後で私が捌きましょう」とウインクまでしてみせた。
そして、全ての混乱の中心である私の前に立つと、恭しくその企画書を差し出した。
「リリス様! 我がハロルドクリーンカンパニーの社運を賭けた新商品『究極お掃除モップ』開発計画のご決裁を! 魔導エンジンを応用した超高速回転ヘッドが、どんな汚れも一瞬で粉砕いたします!」
「……」
「そしてリリス様。これほどの革新的な製品です。その真価を世に問うためには長期にわたる詳細な使用モニターが必要ですよね?」
ハロルドはそこで一度言葉を切り、最高の笑顔で私に最後の一撃を放った。
「俺を主夫にしてください!」
――ぷつん。
私の頭の中で最後の理性の糸が乾いた音を立てて切れた。
毒の国、ウィリアム・マセリン、国家間の謀略。
そんな壮大な盤上遊戯に心を躍らせていた自分がひどく滑稽に思えた。
目の前に広がるのはくだらなくて面倒な私の日常。
私の王国。私の組織。私の部下たち。
「――決裁が滞っていたのは分かっているけれど」
静まり返った廊下に、私の静かな、しかし地の底から響くような声が響いた。
全員の視線が私に注がれる。
「執務室に座る場所もないってどういう事よッ!!!」
魂の底からの絶叫だった。
私のその一喝はヴォルテクス家の純白の(今は斑模様の)城壁を震わせ、渋滞していた伝書鳩の群れを驚かせて四方八方へと飛び立たせたという。




