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ウィリアムの国との講和の日付が決定した。
場所は東の大国の一室。
私が皇帝と共に待機していると、一人の男が現れた。
その姿を認めた瞬間、私の口元から思わず小さな笑みがこぼれ落ちた。
代表者として現れたのは、やはりウィリアムであった。
隣国の王でも宰相でもない。この戦争を裏で操っていた張本人そのもの。
彼はゆっくりとこちらへ向き直る。その瞳に驚きや狼狽の色はない。
私がここにいることなど、最初から分かりきっていたのだろう。
互いの視線が、部屋の中央で絡み合う。
憎悪。敵対心。
――そして、互いの知性を認め合う者だけが分かち合える、歪んだ信頼。
ほんの一瞬のやり取りであったものの、私とウィリアムは永遠にも感じるような密度で互いを感じ合っていた。
そして、沈黙を破ったのはウィリアムの方だった。
その声はまるで旧知の友人に語りかけるかのように、穏やかですらあった。
「リリス嬢がいるということは、先日の海戦の裏で暗躍していたのが君だということなのだろう。お互い、時間に追われる身だ。無駄な腹の探り合いはなしにしようじゃないか」
「同感ね。単刀直入に要件を済ませましょう」
私は彼のその切り出し方に、最高の笑みで応じた。
そして、チェスの最初の駒を動かすように、言葉を置く。
「あなたの部下が海戦に巻き込まれそうになっていたから、私が『保護』してあげているのよ」
「『保護』、ね。相変わらず君は恐ろしいな」
「褒めてくれてありがとう。それで、あなたは彼にいくらの値段をつけるのかしら?」
私のその言葉に、ウィリアムの穏やかだった視線が、剃刀のように鋭いものへと変わる。
その変化に、私の心は歓喜に打ち震えていた。
これだ。これこそが私が求めていたもの。
対等な相手との、知力を尽くした真剣勝負。
「嫌なことばかりをしてくるね、君は。そんなに僕が嫌いなのかな?」
「ええ、大嫌いよ」
私は即答する。
その言葉に嘘はない。
だが、その嫌悪の裏側に、彼への執着にも似た感情があることも自覚していた。
「お察しの通り、彼がいないと何かと面倒でね。ちゃんと五体満足で預かってくれているのかな?」
今回の尋問で分かったことの一つ。
東の大国へ魔薬を広めるにあたり、ウィリアムも相当に苦労したであろうことが、捕らえた部下への尋問の結果からうかがえた。
何せ、東の国は遠い。
ウィリアムとて、そう簡単に来られる場所ではない。
だからこそ、ある程度の裁量を部下に認めざるを得なかった。
重要な心臓部を担っていたあの部下がいなくなると、彼が築き上げた流通網の再構築には多大な労力を伴うはずだ。
「あなたなら、敵に捕まり破滅するのも本人の自由だ、とでも言うかと思ったけれど」
「それも確かにあるが…… 何せ彼が優秀だったからね。彼が自身の価値で、己の身を守ったに過ぎないのさ。それで、何をすれば返してくれるんだい?」
彼のその言葉に私は満足げに微笑んでみせる。
そして、隣で固唾を呑んで成り行きを見守っていた、この国の主へとそっと視線を移した。
「今回は私ではなく東の国との講和でしょう? 皇帝陛下。今回の停戦の条件をお考えになられてきたはずですわね?」
私がそう水を向けると、皇帝はゆっくりと、しかし力強く頷いた。
その瞳には、もはや先日までの絶望の色はない。
敗戦国の長としての、最後の矜持が宿っていた。
「我が国の捕虜の全解放。そして……貴国の薬により心を病んだ者たちに、リリス殿の王国で治療を施して我が国へ返還していただきたい」
その意外な条件。
ウィリアムは驚いたように目を丸くした。
「……そんなことで良いのですか? てっきり、関税や賠償金の話が出てくるかと思っていましたが」
それに対し、皇帝は静かに、しかし凛とした声で言った。
「確かに今回の停戦で、貿易において多くの不利な条件を飲むであろうことは理解している」
皇帝は一度、固く目を閉じた。
国を蹂躙された敗戦国の長。
その肩には屈辱と絶望がのしかかっているはずだった。
しかし、再び開かれたその瞳に、もはや揺らぎはない。
「だが国とは人なのだ。人がいればこの国は死なない」
その声には、不思議なほどの力が宿っていた。
彼は目の前の私やウィリアムではないもっと遥か先の、歴史という名の奔流を見据えているかのようだった。
「いつになるかは分からん。百年後か、二百年後か。しかし、必ずや貴国の支配から抜け出してみせる。そのためには一人でも多くの民が必要なのだ」
その言葉に、ウィリアムは一瞬、虚を突かれたような顔をした。
しかし、やがて面白そうに、くつくつと喉を鳴らして笑い始めた。
「これは驚いた。リリスが噛んでいるのだから、もっと法外な要求を吹っ掛けてくるかと思ったが。本当にそれでいいのか?」
「ええ。私は私で、あなたの部下からそれなりの情報を『教えてもらった』から、それで十分よ」
私がそう言うと、ウィリアムは楽しそうに肩をすくめた。
「君はどうにも『人的リソース』の評価を高く見積もりすぎるきらいがあるようだね」
「あなたの今回の失敗は、その人的リソースを過小評価していたからではないかしら?」
「耳が痛いな。だが、東の国とは、これから『良い関係』が築けそうだ。邪魔はされたものの、僕の目的は達したから良しとしよう」
――そう、彼の言う通りだ。
部下を一人人質に取られたところで、彼の計画の根幹は揺らいでいない。
東の国を傀儡とし、莫大な富を得る。
そして、その力を以て、私が支配する王国と対峙する。
彼の目的は、すでに達成されているのだ。
「そうね。邪魔はしたけれど、今回は私の負けね。でも、いつまでもあなたが先手を取れると思わないことよ」
ウィリアムは私のその言葉に微笑んで返した。
「リリス。僕の計画が上手くいかない時、その裏ではだいたい君が糸を引いている。本当に、残念でならないよ」
そして、彼はまるで世間話でもするかのように、唐突にその言葉を口にした。
「やっぱり考え直して、僕と結婚してくれないかい?」
あまりに場違いな求婚。
私は最高の笑みを浮かべてやった。
「この東の国の都で、あなたが理想としている世界の成れの果てを見たわ。だから改めて言ってあげる」
一呼吸置き、私は満面の笑みで言い放つ。
「死んでもお断りよ」
こうして、私はウィリアムを再び振った。
東の国は関税の撤廃を含む多くの不平等な条約をウィリアムの国と結び、この短い戦争は終結した。
だが、捕虜の解放と中毒者の治療を引き出せたのは、敗戦国の長が国の真の価値を『人』と見定め、私が用意した交渉という名の刃を、最後の誇りを懸けて振るったからに他ならない。
◇◇◇◇
ウィリアムが退室した後、私と皇帝だけが残された。
彼は窓の外に広がる、活気を失った自国の都をただ黙って見つめている。
その背中に私は静かに声をかけた。
「皇帝陛下。あなたの理念には私も共感するところがあるわ。『国とは人』。その通りでしょう」
彼はゆっくりとこちらへ向き直る。
その瞳には感謝と、そして拭いきれない疲労の色が浮かんでいた。
そんな彼に、私は悪魔のように冷徹な現実を突きつけた。
「でも残念ですが…… 我が王国も貴国の味方ではありませんわ」
その言葉に、皇帝は悲しそうに目を伏せる。
だが、彼も驚きはしなかった。
弱者は強者に食われる。
それがこの世界の揺るぎない理。
私もウィリアムに負けないように、この国から得られる最大限の利益を吸い上げることに決めた。
――やはり、私は悪役令嬢だ。




