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――私はアンドレ・ケニー。
かつては、裏社会の巨大商業ギルド『鉄槌』が誇る、若き主任技師だった。
過去形なのは、そのギルドがもはや存在しないからだ。
あの女――リリス・ヴォルテクスによって、一夜にして解体され、塵芥のように消え去った。
私の完璧な設計思想に基づき、寸分の狂いもなく稼働していたギルドの心臓部。
他ギルドを圧倒する独自の魔導技術。
私のプライドそのものだった。
だというのに、あの女は。
まるで子供が玩具を壊すかのように、いとも容易く、私の築き上げたすべてを破壊した。
金融市場の操作、主要取引先の買収、そして、最後には物理的な圧力。
気がつけば、ギルドの幹部たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
残った者たちはヴォルテクス家の軍門に下った。
私自身も、命からがら逃げ延びるのがやっとだった。
プライドはズタズタに引き裂かれ、残ったのは焼けつくような屈辱と、あの女への憎悪だけ。
リリス・ヴォルテクス。
社交界では『悪役令嬢』などと揶揄されているらしいが、そんな生易しいものではない。
あれは悪魔だ。
人の心を弄び、富と権力を貪り食らう、深紅のドレスをまとった魔女。
彼女の冷徹な瞳が、ギルドマスターの懇願を一笑に付したあの光景。
今も悪夢となって私を苛む。
(許さない……! 必ず、この手であの女を絶望の淵に叩き落としてやる)
復讐。
その二文字だけが、私を突き動かす唯一の燃料だった。
だが、今の私には力がない。
資金も、組織も、全てを失った。
正面から挑んだところで、再び潰されるのが関の山だ。
ならば、どうするか。
答えは一つしかない。
あの女が最も信頼し、その帝国の礎となっているものを、内側から食い破る。
――技術だ。
奴隷制度を過去のものとし、王国の産業構造を塗り替えたという『魔導エンジン』。
そして、その性能を飛躍的に高めた『魔導調速機』。
今や、ヴォルテクス家の支配を支える二本の柱。
その開発を主導した男がいる。
ジェームズ・ニット。
ニット伯爵家の当主であり、リリスが重用する天才技術者。
(奴に近づき、技術を盗む。そして、それを超える技術を私が創造する)
リリスが築き上げた帝国の心臓部を、この手で握り潰す。
彼女が最も信頼する技術を用いて、内から食い破る。
これ以上の復讐はないだろう。
私は、自身の完璧主義的な頭脳をフル回転させ、計画を練り始めた。
まず必要なのは、過去を消し去り、新たな身分を手に入れること。
幸い、ギルド時代に培った偽造技術と、裏社会に残るわずかな人脈が役に立った。
アンドレ・ケニーという名は、記録の海に沈める。
新たに用意した名は、フリード・アーバ。
地方の小貴族の家系に生まれ、独学で魔導工学を学んだ、才能ある若者。
完璧な経歴書と、数名の貴族から取り付けた偽の推薦状。
これで、ジェームズ・ニットの工房の門を叩く準備は整った。
◇◇◇◇
数週間後、私はニット伯爵領にある巨大な工場地帯に立っていた。
天を突く煙突からは絶え間なく白煙が上がり、地響きのような機械の駆動音が空気を震わせる。
ここが、リリス帝国の心臓部。
ジェームズ・ニットとの面会は、驚くほどあっさりと実現した。
彼は常に優秀な人材を求めているらしい。
推薦状と私の経歴書に目を通した彼は、すぐに興味を示した。
「フリード・アーバ君、だね。推薦状には、君が独学で描いたという魔導機関の設計図が同封されていた。非常に興味深い。ぜひ、直接話を聞かせてもらいたい」
応接室に通された私を前に、ジェームズは柔和な笑みを浮かべていた。
だが、その目の奥には、技術者特有の鋭い探究心が宿っている。
並の嘘やハッタリは通用しない相手だ。
「光栄です、ニット伯爵。私はただ、この国を変えた『魔導エンジン』の技術に心惹かれ、その一端にでも関わりたいと、それだけを願って参りました」
私は謙虚な若者を完璧に演じながら、用意してきた設計図について語り始めた。
もちろん、それは私がかつて『鉄槌』で開発していた魔導機関の改良版だ。
ギルドが潰える直前に、完成間近だった私の最高傑作。
その革新的な構造と効率性は、ジェームズの目を見開かせるには十分すぎた。
「……素晴らしい。この動力伝達の機構、そして魔力循環の効率化……独学でここまでとは、信じがたい才能だ」
ジェームズは心から感嘆した様子で、設計図に食い入るように見入っている。
彼のその反応に、私は内心でほくそ笑んだ。
(そうだ。私の才能は、お前ごときに劣るものではない)
私のプライドが、かすかに満たされていくのを感じる。
「ぜひ、君の力を貸してほしい。今、我々は『魔導エンジン』のさらなる小型化と、新たな分野への応用を模索しているんだ。特に、情報の伝達……つまり、印刷技術への転用を考えている」
「印刷技術、ですか」
「ああ。リリス様もその分野には大きな期待を寄せておられる」
リリス、という名が出た瞬間、私の全身に憎悪が駆け巡った。
だが、私はそれを表情に出さず、熱意に満ちた瞳で頷いてみせる。
「素晴らしい構想です。ぜひ、その一助とならせてください」
こうして、私はジェームズ・ニットの工房に、一人の技師として迎え入れられることになった。
復讐の歯車が、今、静かに回り始める。
(待っていろ、リリス・ヴォルテクス。お前が築き上げたその帝国、この私が内側から食い荒らし、崩壊させてやる)
工房から見える夕焼けは、まるで血のように赤く、私の決意を祝福しているかのようだった。




