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リンドバーグ家のすべてを掌握した私が最初に着手したのは、孤児院の抜本的な改革。
水のようなスープは、栄養のあるシチューに変わった。
硬い黒パンは、ちょっとましなパンになった。
薄汚れた寝床には清潔なシーツが敷かれ、常駐医師が健康を管理する。
怯えと諦めに満ちていた子供たちの瞳に、少しずつ光が戻っていく。
その様子を、私はただ静かに見つめていた。
だが、一個人の慈善事業など、その場しのぎに過ぎない。
この国の構造そのものを変える必要がある。
でなければ、第二、第三のリンドバーグ伯爵が生まれるだけだ。
私は、世論と経済という二つの大きな歯車を動かすことにした。
まず、私の息のかかった新聞社たちに、匿名で情報を提供した。
王国内の児童労働の悲惨さを告発するキャンペーン記事を次々と書かせた。
リンドバーグ伯爵の事件はそのモデルである。
胸を打つ物語は瞬く間に王都の市民の心を掴む。
「子供たちを守るべきだ」
という声は、日増しに大きなうねりとなっていった。
当然、議会では一部の旧弊な貴族や商人たちが激しく反発した。
「安価な労働力が失われる!」
「国の産業が衰退する!」
聞き飽きた叫び声が議場に響き渡る。
その声が最高潮に達した日、王都で大規模な「新技術博覧会」を開催。
そして、反対派の目の前に、一体の機械を突きつけた。
私の組織が総力を挙げて完成させた、新型の『魔導式自動織機』だ。
『魔導エンジン』の力強い動力と、『魔導調速機』の精密な制御が組み合わせた製品。
それは、熟練の職人も追いつけない速度と正確さで、極上の布地を織り上げていく。
「この機械一台で、子供十人分以上の働きをします。品質は遥かに安定し、二十四時間稼働も可能。それでもまだ、非効率な児童労働に固執なさいますか?」
ジェームズが壇上から、集まった貴族や事業者たちに問いかける。
高まる世論からの圧力と、目の前にぶら下げられた莫大な経済的利益。
その二つを天秤にかけ、旧来の経営に固執する者など、もはやいなかった。
議会は世論と産業界の双方に後押しされる形で、『児童保護法案』を可決させた。
◇◇◇◇
法律が施行され、孤児院の環境は劇的に改善された。
子供たちは工場ではなく、新設された学校へ通うようになる。
紡績の技術の代わりに、文字を、計算を、そして世界の広さを学んだ。
飢えと労働から解放された彼らは、本来の子供らしい笑顔を取り戻していく。
そして、その変化をもたらした私を、子供たちはいつしかこう呼ぶようになった。
「リリス様は、私たちをお救いくださった聖女様だ!」
孤児院を訪れるたび、多くの子供たちに囲まれる。
「聖女様、聖女様」と純粋な瞳で慕われる。
その度に、私の心には何とも言えない居心地の悪さが広がった。
(聖女、ね……。ずいぶんと笑えない冗談だわ)
私の動機は、子供たちへの慈悲や善意ではない。
すべては冷徹な損得勘定から始まったことだ。
リンドバーグ伯爵を奴隷へと貶め、闇に葬ったこの私が聖女だなんて……
笑えない冗談だ。
聖女とは似ても似つかない。
むしろ、悪魔の方がよほどしっくりくる。
私の魂の行き先など、とうの昔に地獄の特等席が予約済みだろう。
私は子供たちの頭を撫でながら笑みを浮かべる。
誰にも気づかれぬよう、そんな自嘲を心の奥底に沈めるしかなかった。
――時は流れ、教育の機会を得た孤児たちは、それぞれの才能を見事に開花させた。
優れた技術者、緻密な会計士、辣腕の管理者。
彼らは高度な知識と技術を身につけた。
そして、私への恩義と忠誠を胸に、自ら望んで私の組織の門を叩いた。
かつてアロイス伯爵がすり潰そうとした『リソース』が私の組織を支える。
何物にも代えがたい強固な『人材』へと成長する。
長い年月を経て、最高の形で利益となって返ってくる。
そして、組織の力はかつてないほど盤石なものとなっていく――
◇◇◇◇
ある晴れた日の午後、私は執務室で輝かしい事業報告書に目を通していた。
黒字を示す数字の羅列。拡大し続ける組織。揺るぎない権力。
すべてが順調で、すべてが私の計算通りだった。
ふと、窓の外に目をやると、楽しげに語らう若い男女の姿が見えた。
(アロイスは……今度こそ、と思ったのに)
彼の合理的な経営思想は、私のそれとよく似ていた。
だからこそ、私の事業の闇さえも、理解してくれる男性かもしれない、なんて――
気づけば、私らしからぬ感傷に浸っている。
……馬鹿げている。
自ら相手を完膚なきまでに叩きのめし、社会的に抹殺し、名もなき奴隷にまで貶めておいて。
一体どの口が「甘い恋がしたい」などと夢を見るのか。
その欺瞞に満ちた思考には、自分でも反吐が出る。
私は小さく首を振り、この非効率な感傷を追い払おうとした。
その時だった。
コンコン、と軽いノックの音と共に、執務室の扉が遠慮がちに開いた。
「リリス様、失礼いたします。来月の清掃計画についてですが、素晴らしい改善案を思いつきました。つきましては、その功績を認め、そろそろ俺を『主夫』として正式に雇用していただけないでしょうか?」
そこに立っていたのは、事業報告を建前に、まったく悪びれずに求婚してくるハロルドだった。
私は言葉を発する代わりに、絶対零度の視線で彼を黙って睨みつける。
私の無言の圧力を敏感に察知したのだろう。
ハロルドの背筋がぴんと伸びる。
「あ、いえ、改善案は後ほど書類で提出いたします! 失礼しました!」
彼は慌てて付け加え、電光石火の速さで部屋から出ていった。
ぱたんと閉まった扉を見つめながら、先程までの憂鬱が色褪せていくのを感じる。
そして、こらえきれずに小さく噴き出してしまう。
(まったく……私はいったい、何をやっているのかしら)
結局、また振り出し、か。
私の恋愛損益計算書だけが、今日も真っ赤なインクで、莫大な赤字を計上し続けている。
聖女の仮面は機械の糸で紡がれる…… 完
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