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アロイス・リンドバーグ伯爵との婚約は、驚くほど順調に進んでいた。
私の心は、ここ数年感じたことのない穏やかな期待に満たされる。
彼ならば、私の事業もすべて受け入れてくれるのではないか。
そんな甘い夢さえ見始めていた。
――だが、夢というものは、いつか必ず覚めるものだ。
そして私の見る夢は、決まって悪夢の形で終わりを告げる。
詳細な調査を続けていた部下から、最終報告がもたらされた。
婚約発表の段取りを詰めていた、ある日のことだ。
「リリス様……リンドバーグ伯爵の工場について、追加で判明した点が」
執務室に響いた部下の声は、いつもより硬く、そして重かった。
私は山積みの書類から顔を上げ、静かに続きを促す。
「何かわかったの?」
部下の渡してきた報告書に記されていたのは。
私の期待を木っ端微塵に打ち砕く現実だった。
――孤児たちの労働時間は、日の出から日没以降も。休憩はほとんどなし。
――食事は日に二度。水で薄められたスープと、硬くなったパン一切れのみ。
――賃金は支払われない。衣食住の提供が『報酬』という名目。
――病や怪我で働けない子どもは、工場の裏手にある『療養所』という名の粗末な小屋に送られ、その後、誰にも知られず姿を消す。
報告書の最後は、こう締めくくられていた。
『この一年で、孤児院に在籍する子どもの四割が『行方不明』。これは労働力として『使い潰された』ものと推測されます』
私は静かに報告書を閉じた。
私の頭の中で何かがプツリと切れる音がした。
だが、それは同情や哀れみから来る感情ではなかった。
こみ上げてきたのは、もっと冷たく硬質な感情だった。
「……これは、ただの浪費じゃないの」
吐き捨てるように呟くと、部下は意外そうな顔をした。
私は報告書を机に叩きつける。
これは慈善事業などではない。
ただの搾取だ。それも、最も非効率で、愚かな。
子どもは未来への投資。
教育と環境を与えれば、将来、高度な技術者にも、忠実な部下にもなり得る。
磨けば光る『人的リソース』の原石。
それを、目先の利益のために、ただすり潰している。
貴重な資源を、自らドブに捨てているのと同じこと。
「まともな食事や休息、安全管理を怠り、リソースそのものを枯渇させる。これは慈善事業でも、ましてやビジネスでもない。ただの非効率な収奪よ」
アロイス・リンドバーグ伯爵。
『慈愛の紡ぎ手』などという、反吐が出るような偽名で呼ばれる男。
彼のやっていることは、私の経営美学の対極にあった。
人を育て、投資し、価値を最大化して利益を得るのではなく……
ただ食い潰し、使い捨て、死体を積み上げて財を成す。
これほど非合理的で、無駄の多いやり方があるだろうか。
――私の中で、彼への評価は『理想の婚約者候補』から『排除すべき愚者』へと書き換えられていく。
◇◇◇◇
最後の確認のため、アロイス伯爵の屋敷を訪れた。
彼はいつものように、人の良さそうな笑みで私を迎える。
「これはリリス様、よくお越しくださいました。ちょうど新しい茶葉が手に入ったところです」
「お茶は結構ですわ、伯爵。単刀直入にお尋ねします。あなたの工場で、子供たちが使い潰されているという話は本当かしら?」
私の言葉に、彼の笑顔が初めてかすかに揺らいだ。
だが、彼はすぐに柔和な仮面を貼り直し、困ったように肩をすくめてみせる。
「おや、どこでそのような話を。行き場のない子らです。社会で生き抜くためには、多少の厳しさも必要かと。私は彼らに自立の機会を与えているのですよ」
「育成と使い潰しは違うわ。あなたのやり方は、ただのリソースの浪費。非効率極まりないわ」
私が鋭く言い放つと、ついに彼の仮面が剥がれ落ちた。
穏やかだった瞳の奥から、どす黒い侮蔑の色が滲み出てくる。
「……これは驚いた。裏社会を牛耳り、人の命さえ金で買うと噂の『悪役令嬢』が、いつから孤児の心配などするようになったのですかな?」
その声は、先程までの温厚さとは似ても似つかない。
ねっとりとした嘲笑を含んでいた。
「別に、偽善で心配しているわけじゃないわ。あなたのやっていることは、『人的リソース』の非効率な浪費よ」
「彼らは孤児です。私が拾わなければ、飢えて死ぬだけの命。住む場所と食事を与え、働く機会までやっているのです。感謝されることはあっても、文句を言われる筋合いはありませんな」
彼は隠そうともせずに、私を鼻で笑った。
「所詮は闇の住人。聖人である私のやり方に、あなたが口を挟むなど百年早い。……ご理解いただけますかな?『悪役令嬢』殿」
その言葉が、最後の引き金になった。
彼は、根本的に何も理解していない。
私の憤りの本質も、そして、自分が今、誰の機嫌を損ねたのかも。
私はゆっくりとアロイスのそばへ歩み寄る。
そして、凍えるような微笑みを浮かべた。
「ええ、そうね。私は悪役令嬢だわ。――だから、あなたのその無駄に満ちた『おままごと』、すべて終わらせてあげる」
私の本当の笑みを見たアロイスの顔が、ようやく恐怖に引きつる。
だが、もう遅い。
彼を社会的に引きずり下ろし、その資産を根こそぎ奪い取る。
その決定は、すでに下されたのだから。