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――私はリリス・ヴォルテクス。
私の男運に関する赤字報告書は、もはや紙の無駄ではないかとさえ思える。
「はあ……」
何度目になるか分からない溜息を、分厚い決算報告書の上へ落とした。
皮肉なことに、事業は過去最高の黒字を叩き出している。
クロヴィス侯爵から接収した時計工房とジェームズの『魔導エンジン』は見事に融合。
『魔導調速機』と名付けられた精密機械は、王都の産業基盤を根底から塗り替える。
私の資産は雪だるま式に膨れ上がる一方だ。
それなのに、私の心はまるで空っぽの金庫のよう。
匿名婚活パーティーという淡い期待に賭けてみれば……
参加者の大半がスパイか暗殺者、残りは債務者という魔境。
唯一生き残った男は、今や私の組織のフロント企業代表として辣腕を振るう。
が、その口を開けば出てくるのは事業計画ではなく求婚の言葉だ。
「リリス様、先月の『ハロルドクリーンカンパニー』の収益報告です。王都貴族街におけるシェア率が四割を突破しました。つきましては――」
「つきましては、私と結婚して主夫にしてくれ、でしょう? その話は聞き飽きたわ」
執務室の扉の前で報告を終えたハロルド・エイムズ。
満面の笑みでいつもの台詞を口にする前に、私は先回りして遮った。
銀髪を揺らしながら、彼はまったく悪びれずに頷く。
「ご明察、痛み入ります。ですが俺の夢はあくまで完璧な主夫になること」
「あなたがいなくなったら、あの会社はどうなると思っているの?」
「後任はすでに三人ほど育成済みです。いつでも引き継げるかと」
(用意周到なのがまた腹立たしい……!)
私はこめかみを押さえ、手をひらひらと振って彼を下がらせた。
私の恋愛損益計算書に、また新たな負債が一行追加された気分だった。
◇◇◇◇
そんなある日の午後、執事が恭しく一枚の紹介状を差し出してきた。
「リリス様、新たなお見合いのお話が一件。リンドバーグ伯爵家より、当主のアロイス様ご本人からです」
「リンドバーグ……」
その名には聞き覚えがあった。
古くから紡織産業で財を成してきた由緒ある貴族。
昨今の『魔導エンジン』導入の波にも乗り、近代化を成功させている。
そして何より、当主であるアロイス・リンドバーグ伯爵は、社交界でこう呼ばれる。
『慈愛の紡ぎ手』――と。
「慈善事業として、大規模な孤児院を運営しているそうね。利益を社会に還元する、立派な方だと聞いているけれど」
「はい。温厚で実直な人柄は広く知られており、悪い噂は一切ございません。リリス様の『魔導調速機』にも強い関心をお持ちのようです」
今度こそ、まともな相手かもしれない。
爆薬を仕込む時計屋や、婚約直前に婚外子が発覚する野心家とは違う。
事業家として確かな手腕を持ち、人格者としても評価が高い。
私の胸に、久しぶりに淡い期待の灯がともる。
婚活パーティーの惨状で干上がった心に、ほんの少しだけ潤いが戻るような感覚だった。
「……いいでしょう。一度、お会いしてみるわ」
◇◇◇◇
数日後、私の屋敷の応接室に現れたアロイス・リンドバーグ伯爵。
彼は噂通りの人物だった。
穏やかな微笑みをたたえた柔和な顔立ち。
磨き上げられた革靴。
仕立ての良い、しかし華美ではない装い。
そのすべてが、彼の誠実な人柄を物語っているように見えた。
「お初にお目にかかります、リリス様。お噂はかねがね。あなた様の経営手腕には、同業者としていつも感服しておりました」
彼の言葉にはお世辞の響きがなく、純粋な敬意が感じられた。
私の裏の顔――『悪役令嬢』としての評判も知っているだろう。
しかし、彼は少しも臆した様子を見せない。
「光栄ですわ、伯爵。あなたの紡織工場と、そして孤児院の運営については、私も興味深く存じ上げておりました」
「お恥ずかしい限りです。行き場のない子供たちに、ささやかながらも学びと働く機会を与えたい。ただ、それだけなのですよ」
私たちは事業の話で大いに盛り上がった。
彼は私の『魔導調速機』が、紡績の品質をいかに向上させるかを熱心に語る。
私は彼の持つ安定した流通網と労働力の確保に感心した。
話せば話すほど、彼が思慮深く、そして善良な人物であることが伝わってくる。
(この人なら……私の事業も、私自身も、理解してくれるかもしれない)
これまでの相手とは違う、確かな手応えを感じる。
私たちはその後も何度か面会を重ね、婚約の話はとんとん拍子に進んでいった。
◇◇◇◇
もちろん、婚約者を鵜呑みにするほど私は甘くない。
私は部下に、伯爵の事業、特に孤児院と紡織工場の実態を徹底的に調査させた。
やがて、一つの報告が上がってくる。
「リリス様、確認いたしました。リンドバーグ伯爵の運営する孤児院の子供たちは、全員が併設された紡織工場で働かされております。年端もいかぬ子供も含まれております……」
報告書を読み上げた部下は、眉をひそめていた。
普通の貴族令嬢であれば、眉をひそめ、婚約者を非難する場面だろう。
だが、私の思考回路は違う。
「……それで? 労働環境と育成システムは?」
「は? ええと……食事と寝床は保証され、紡績の技術を叩き込まれているようです。将来は工場の職人として正式に雇用される道もあるとか」
それを聞き、私は思わず感嘆の声を漏らした。
「素晴らしいじゃない」
「……は?」
部下が呆気にとられた顔で私を見る。
私は立ち上がり、窓の外を見やりながら言葉を続けた。
「考えてもみなさい。行き場のない孤児たちは、放っておけば飢えるか、犯罪に手を染めるしかない。そんな彼らに衣食住を与え、教育を施し、さらには手に職までつけさせる」
私は興奮して続ける。
「同時に、工場は安定的で従順な労働力を確保できる。将来の技術者を育成しながら、現在の産業基盤を支えさせる……なんと合理的なシステムかしら」
慈善と実益。その二つを完璧に両立させている。
これは、単なる優しさだけでは成し得ない、極めて高度な経営判断だ。
『人的リソース』を無駄なく、最大限に活用する。
その思想は、私の信条と完全に合致していた。
(アロイス様……なんて素晴らしい方なのかしら)
彼への評価は、疑念から確信へと変わった。
この人こそ、私の伴侶にふさわしい。
私の事業を、その闇の部分も含めて理解する人。
共に歩んでくれる唯一の男性かもしれない。
私は本気で、アロイス・リンドバーグ伯爵との結婚を考え始めていた。
この殺伐とした私の人生に、ようやく春が訪れるのかもしれない。
――彼の柔和な笑顔の裏で、すり潰されていく歯車の悲鳴に、この時の私はまだ気づいていない。