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辿り成される轍を謳え

作者: 灰撒しずる

 酷い揺れを全身で感じて、御者を務めていた男は悲鳴を上げた。人と同じように驚いた馬を慌てて宥め、車を止めて御者台から飛び降りる。

 止めた――止まってしまった車の横に立った彼の顔は俄かに曇った。事の原因は一目瞭然、明白に見えていたのだ。

「駄目です、車輪が駄目になった」

 木で頑丈に組まれた車輪の輪が、途中で折れ砕けていた。振り返れば、道の脇、草に埋もれるようにして一抱えほどの岩が見える。

 それは此処を頻繁に通る者ならよく知っている岩だったが、滑らかに丸いはずの表面は今や罠のように尖った断面を見せている。誰かが割ってしまったのだろう。これを無理に乗り越えればどうなるかは、既にそうしてしまった車の姿が示していた。彼にとって非常に残念なことに。

「ちゃんと見て進めないからだろう!」

「すみません」

 馬車の中から年老いた声に叱られて、謝罪が口を突く。心を込める間すらない若者の声にふんと鼻を鳴らし、彼の上司もまた道に降り立った。杖を突いている割には、足裏はしっかりと地を踏みしめた。

 皺に囲まれた目は壊れた車輪を見て眇められる。

「ああ、こりゃ駄目だ。点検不足もあったね。まったく」

 見えづらいところに傷でもついていたに違いない。溜息交じりの明らかに不機嫌な様に、青年は隣で身を縮めた。

「どーします、鞍なんて積んでませんよ」

「裸馬に乗るか、お前が走るかだよ、大馬鹿者」

「そう言われても……」

 怒鳴るのではなく淡々とした声は、上司の怒りの強さを表している。提案はどちらも剣呑な空気を帯びていて、どちらでも、選ばなければとんでもないことになる。

 しかし、もっと身を縮めた彼の乗馬の腕はからきしで、馬具なしで馬に乗ったところで驢馬より早く進める気がしなかった。かといって町まではまだ距離があり、若者にも楽に走れる距離ではない。

 どうあれ違約金だな――と彼は思った。彼にできないことは、年老いて足を悪くしている上司にもできない。

 そんな最悪の状況で更に悪いことに、馬車の中には「なるべく急ぎで」と渡された封書が残っている。

 ただでも早い馬が出払っていて、こうして他の荷と共に馬車で来たというのに。これでは到底、急ぎの範疇では届けられない。

 減給で済めばいいが、降格かも知れない。来月は恋人の誕生日なのに……と現状よりも未来のことを考え始めて肩を落とす青年の耳に、自分たちの馬のものとは違う蹄の音が触れた。

 顔を上げると、彼が目を丸くするほど見事な月毛の馬が鼻面をこちらに向けていた。

「ああ、こりゃ酷いや」

 その上には乗り手が一人。痩身で白い肌、更には色素に乏しい灰色の髪と青い瞳の、馬と同じく薄い色味の男だった。青年よりは歳上だろう、という程度の、まだ若者の部類の男。

 そして後ろにはもう一頭、また見事な黒鹿毛の馬が近づいていた。そちらには体格のいい男が跨っている。この辺りでは珍しい黄みを持つ肌と赤毛、腰に帯びた長剣が印象的な――傭兵のような、厳つい雰囲気の男だった。適当な距離をとって馬を止める。

「此処走ってるってこた、エルニオの組合(サンディカ)の方? お助けしましょうか、私も〝運び〟ですから」

 言ったのは手前の青い目の男のほうだった。壊れた車を見ていたその眼は人へと向けられ、細められる。

 見事な二頭、対照的な二人連れ。言われたとおりエルニオの町から来た二人は、黙って彼らを見上げた。

 革手袋をした手で撫でられている馬の鞍には、たしかに〝運び〟――彼らの同業者であることを示す紐飾りがある。国が発行する真っ当な証明だ。

 馬の体には他にも、荷や銀に光る杖が括られていた。荷運びの仕事中であることは察しがついた。

「直せる道具は、持ってなさそうだね」

「他の馬具もありませんよ。これっきりです。急ぎの物がないなら、町で修理工に声かけしといて差し上げますやね。なんにせよその足よりゃ早いでしょ」

 呟くような確認に、にこやかに、なめらかに言って微笑みを返す。言うべきことをすべて言ってしまって首を傾げると、切りそろえられた髪の端が肩に触れる。

 ただ狼狽していた青年は上司を見、黙って見返されて急いで車へと乗り込んだ。鞣革で作られた手紙入れの紐を解いて、中から封蝋の付いた封書を取り出す。次いで書類用の紙を一枚箱から抜きだし、筆記具と共に持って戻る。

「これだけ日暮れまでに届けないとまずい。代わりに届けてくれないか、委任状を書くから」

「ああ丁度いいや、この荷と同じだ。白紙はお持ち?」

 青い目の男は手紙に書かれた宛先をじっくりと眺め、封蝋に押された紋章をちらりと見て、快く応じた。ほっとした青年は頷いた。

「ああ、ある。今書くよ」

「そうじゃあなくって、書面と別に寄越してください」

 紙面を滑るペン先を見下ろして、否定の言葉が紡がれる。委任状を用意する部下の横で熟練の運びが目を上げた。

「……お前、何処の運びだい?」

「カトナのですよ、ご婦人。リュシオルと申します」

 笑みを深めて男は名乗った。組合や町の名ではなく、この国の名と共に。

 銀を透かす上等の青硝子か宝石のような色をした双眸を見つめて、老婆ははっと吐き捨てるように笑った。

「逸れ者かい。……チャール、渡しておやり。切れ端でいい」

「はい?」

 聞き返す部下の手元、書き終えた委任状と、余りとして切り落とされた余白を引っ掴んで馬上の男に突きつける。懐から手紙入れを出した〝運び〟――リュシオルは肩を揺すって、革手袋に包まれる指を二本立てた。

「賃金は銅貨で良いですよ。手間はないから」

 運び賃は銅貨二枚――二〇ビージュとしっかり請求して、手紙入れに委任状と受け取った手紙、そして白い切れ端を収めて紐をかける。

 老婆は肩を竦めて、腰に括った財布から銅貨をつまみ出した。磨り減った赤い金属が陽光の下で薄く光る。

「やあ、お前みたいな緩んだ顔つきの若造にしてやられるのは屈辱的だ」

「車壊す方に言われたかないですや。馬に乗れない奴はちゃんと教えてやったほうがいいですよ。……では確かに、代わりにお届けします。ユグ、」

 気の無い嫌味の応酬。終え、必要な物をすべて受け取ったリュシオルは手綱を引いて脚を締め、後ろで控えていた年上の男を呼んだ。草を食む馬を無表情に眺めていた彼は顔を上げて、倣うように手綱を引いた。

 そうして、歩み駆け出した月毛に黒鹿毛が続く。二頭の姿はすぐにその場から遠ざかり、まっすぐに伸びる道の先へと小さくなっていく。

「やあ、助かった。どうにかなりそうですね、転んだ泥の中に杖が落ちてる」

 苦難の中に救う手あり、と呟いた青年の背中が、その救い手を示す杖によって叩かれた。

 いてっと悲鳴を上げる横を通った女は手にした杖の先をぷらぷらとして、まだ叩いてやりたそうな様子を見せながら、曳く車が壊れて道草を食むしかなくなった馬の首を撫でた。足元で、丸い葉を広げる草がぶつぶつと引きちぎられていく。

「あれは嗅ぎつけて寄ってきたんだよ、馬鹿たれが」

 吐き捨てる語調。青年はきょとんとして目を瞬く。

「ええ? 通りすがりでしょう?」

「そういうものなの。それができないから、お前は半人前なんだ」

 自分には教育の才がないと痛感しながら、彼女は溜息を吐いた。

 〝運び〟はその名のとおり運ぶことを生業とするが、その名の意味するところは広い。この時代になっては手紙や荷を運ぶだけのものだが、昔は物も、人も、事も思いのままに動かし運ぶ、その為に行うすべてが彼らの仕事だった。それは所謂運命――そう呼ばれる巡り合わせを引き当てることも例外ではないという。

 ――優れた〝運び〟は、好ましい偶然さえ手元に引き寄せる。

 運も実力のうちとは、大昔に彼女がよく聞かされたことだった。車を壊した不運、その場に居合わせ仕事を受け取る幸運、どちらが実力者かは明らかだ。

「仕方ない、飯でも食っておくかい」

 草原に走る一本道で、遮るもののない春の陽射しが眩しかった。

 よく晴れた空を見上げ、老婆は日が暮れた後になるだろう修理工の到着を思った。白紙を渡したことが、彼女にもっときりきりと仕事をしていた昔を思い起こさせた。近頃疎かになっていた組合の諸々にも死ぬ前に手を入れるべきかもしれないと、考える。

 リュシオルの求めた白紙は、お手上げの印、〝運び〟が仕事を仕損じたことの証明だった。運びにとって最も避けたい結果。この仕事が長い彼女でも耳にしたことがあるだけの、古い古い、百年ほど前にほとんど絶えた風習だ。

 今更実物を手にさせられるなど、思ってもみなかった。それが彼女の矜持を僅かに震えさせた。

 彼女たちから仕事を浚っていった男は間違いなく一人前で、しかも未だに古い仕来りを覚えて続けている、筋金入りだった。


   §


「……此処も違いますやね。やっぱりあっちかな」

 道から外れて馬を降り、うろうろと倉庫と思わしき建物の前をうろついて〝運び〟は立ち止まった。壊れ隙間の出来た鎧戸から中を覗き込み、羽織るケープのボタンを一つ、弾くように外す。

 いつから草むしりがされていないのか、壁際に繁っている草を踏み、体の向きを変える。町に着いてから何度か繰り返した動作だ。丁度反転した時に声がかかった。

「リュシオル」

 馬に跨ったままでいる剣士、リュシオルに雇われた〝護り〟であるユグの薄茶色の目は、今まで彼らが辿ってきた道の先を見ていた。焦点が結ばれている位置はそう遠いところではなく、リュシオルはすぐに、その鋭く見える眼差しが何を見つけたのかに気づいた。

「アンタたち、そこで何してるんだい」

 足早に彼らに向かってきたのは籠を抱えた中年の女だった。ユグを見て一瞬たじろいだが、言いきってやや離れた所で立ち止まる。

「ああ、」

 リュシオルはぱっと笑い、まず一声発してから軽い足取りで前に出て、二人の間に己の体を滑り込ませた。背も幅もない彼は壁には不十分だが、女の意識を引きつけるには十分だ。

 視線が自分に移ったところで少し眉を下げ、困ったように首を傾げて見せる。

「すみません、迷ってしまって。領主名代のブロームってお家、どちらかご存じありません? 頼まれてカンソーヤから荷を運んできたんですが。婚礼支度の」

 怪しい者ではないんです、と言外に。聞き取りやすく、かつ柔らかく聞こえる声で言って辺りを見渡す仕草をすると、余所者に対し少々険しくなっていた女の顔が緩む。

「ああ、運びの人ね……此処もあの人たちの土地だけどね、家は大路を進んで、二つ目に当たる道を右だよ。奥に風車のある家さ。ほら、見えるだろう?」

 先程のきつい声掛けを取り繕うように、些か大仰に聞こえるほど女らしい口調で道を教える。指差す先、木立の奥には確かに風車の羽が覗いていた。

「見えます見えます。ありがとうございます、助かりました」

 背伸びまでしてそちらを見て確かめた運びは、再び女に向き直って嬉しそうに礼を述べた。安堵して肩の力を抜いてみせるその姿、手際はよくないが正直で仕事に熱心な青年という風に、女には見えた。慣れない土地に戸惑う、善良な仕事人。

「……そっちの人も運びかい?」

 空き巣か何かかと思えば、正体はそんなところだった。気の抜けた女は世間話の体で訊ねていた。

 リュシオルの背後、居るだけで護衛として威力を発揮する見目の護りは表情を微塵も変えず、口を結んだまま首だけ振った。諸々の取り次ぎを前に立つ男に丸投げしている彼は、ついでに、他人との交流もすべて任せてしまっているのだ。

 愛想笑いも挨拶もない。それに女が気を損ねる前に、リュシオルは口を開く。

「いいえ、その人は〝護り〟で。最近街道は物盗りが多くって、怖いから雇ったんです。まああの人も怖いんですけど、いかにも効果ありそうでしょう?」

 仕事中、場を円滑に取り成すのもまた〝運び〟の仕事。理解しているというよりも髄に染みついている彼は、凝り固まりそうな場の空気をほぐすように手をひらりと動かし、なめらかな調子で冗談を口ずさむ。女が少し笑ったところで一つ頷きながら足を前に出し、自分の馬に寄って鐙に足を引っ掛けた。

「それではどうも、ありがとうございました」

 礼を重ね、馬に跨って手綱を捌く。その所作は非常に整っていた。ほんの少し前に女が抱いた手際の悪い印象を曖昧にする見事な手つき。

 見送ることになった女は違和感を感じながらも、自らの仕事を思いだして慌てて踵を返した。さっさと苺を摘んで夜のうちにジャムにしなければ、件のブロームの家に持って行くのが遅れてしまう。

「――ねーえ、ちょっとはその顔緩めてくださいよぅ。やりづらいったらないんですよ、一々ああやって喋って怖くない怖くないって、口が疲れるって言いますか。私が人畜無害な顔してるからまだいいけど、これでちょっと悪人面だったらもう、どう見ても悪党の使い走りですやね」

 リュシオルはいくらか進んだところで来た道を振り向き、女や他の者がもう近くに居ないことを確かめて、横に並ぶ男へと声をかけた。

 早口、どこで息継ぎをしたのかを他人に感じさせない口調は、先程までとはまるで違うものだ。何処のものともつかない訛りを含んで、奇妙に響く。

 ユグは横目に文句を言う男の顔を確かめ、大儀そうに口を開いた。

「疲れるならその口閉じたらどうだ、小悪党面」

 眉間に皺を寄せて低い声を発するのは苛立っているようにもとれるが、素だった。顔も同じく、わざわざ険しくしているわけではない。それをリュシオルは知っていた。

 二人が〝運び〟と〝護り〟として共に仕事をするのは、今回が初めてのことではない。

 ずっと共に居るわけでもないが、もう五年ほど契約を交わしては仕事をしてきた仲だ。地顔や態度については今更言われることではなく、運びの不満そうな顔も口調も演技で、要求は軽口だと、ユグには分かりきっていた。やりとりは戯れにも満たないものだ。

 よく知る者には物を食うときか眠るときしか黙っていないと揶揄され、相槌が無くとも一方的に、一晩中話を続けられる。そんな運びは愉快そうに体を揺らして、目的地へと続く道に馬の鼻先を向けさせ角を曲がった。ユグもまた同じように馬を促す。

「これっくらいで疲れるようじゃあとっても、やってられません。アンタ様が黙ってる分お喋りしませんとね」

 今度はゆっくりと言いながら、リュシオルは馬に括る荷を後ろ手に探り、銀に光る棒を引き抜いた。草葉の模様が彫刻された優美な杖はしっくりと掌に馴染んで、軽く振ると淡い緑の光が尾を引く。晴れた日の夕暮時、僅かなその光はすぐに空気に滲む。

 杖は緩く持ち上げられ、既にはっきりと視界に納まる、風車を背にした家を示した。

「さぁて着いた、お仕事ですよ。お姫さまを探しませんと」

 囁きは馬とユグにだけ聞こえた。家屋の扉を開け出てきた出迎えに人のよい笑みを向け、運びはよく響く声で言う。

「どうも、〝運び〟です。カンソーヤからお届け物に参りました」


 広い食堂は、たちまちふくよかな香りに満ちた。

 招き入れられた先、食堂のテーブルの上に運んだ荷を並べ、包みを解きながら。リュシオルは隣に立つブローム家の夫人を相手に口を動かし続けていた。

「添えられたお手紙は奥方様と、花嫁様から見ての従兄弟お二人、あとは姪御さんからということでお預かり致しました」

「あら、じゃあ皆揃っていましたのね」

「ええ、皆様お元気そうで、こちらに来れないのが残念だと。それではお確かめくださいまし」

 肩掛けを羽織った女はおっとりとした風情で仕事をする人にもお構いなしに話を振るが、応じる運びは渋い顔一つせず、手元は早く、口元は相手に合せてのんびりと動かす。依頼主――エルニオを挟んで更に南の町、カンソーヤに住むこの家の親類について知ることをそつなく答え、彼は解き終わった荷にトンと拳を置いた。

 灰色の大きな壷が一つ、しっかりと封をされた重い瓶が三つ、目の細かい布の袋が全部で五つ。その横に、円筒状の麻布の包みが横たわっていた。

「塩漬け肉が壷で一つ、蜂蜜が瓶三つで半スウル、香辛料(エピス)の類はそちらの袋を検めて下さいな。胡椒(ポワヴー)茴香(フヌィユ)楠皮(カーネール)柑橘皮(ゼスト)です。こちらが花で――それでこちらが、」

 壷の蓋を固定していた紐も解き、中を見せて。袋はそれがあれこれがどれ、と指差し手際よく説明し。ムースに入れる花びらの袋も開いて示した運びは、卓上が清潔にされていることを確認してから終いにと麻布に手をかけた。

「お祝いの品だそうです。奥方様から」

 他の荷と同じように括り紐を解いて、巻かれていた布は広げられる。

 よくある灰色っぽい色の中から、食材の花びらにも似た甘い色が覗く。ぱっと慣れた手並みで解かれ現れたそれに目を輝かせたのは、母親から少し離れてそわそわとしていた娘――婚礼の主役と言える花嫁だった。

「お母さん、見て!」

「あらあ、良い物送ってきたわね」

 薔薇色に染められた細やかなレース。結婚の喜びを象徴する代物に大喜びで声を上げた娘に、母も目尻を下げた。細い指先がそっとレースの端を摘み上げ、編み目をひっかけぬようにと気遣いながら己の肩まで持ち上げる様を、リュシオルは黙って眺めた。

「すてき! すごく綺麗、叔母様にお礼をしないと」

 花嫁の頬もまた薔薇色に熱っていた。続く歓声に静かに笑い、彼は満面の笑みを浮かべる夫人へと向き直る。無論歳の差はあるが、母娘の笑顔はそっくりだった。

「足りないものは御座いませんね?」

「ええ、大丈夫だわ。ありがとう」

 問いに、夫人が頷き答える。運びもまた頷いた。

「カンソーヤからフーイオまで、期日七日までに。確かに運ばせて頂きました」

 決まり文句を告げ、腰の杖帯に挿した杖の端に指を乗せる。

 荷を運び入れ離れた所から様子を眺めていたユグは、間を計ったように玄関のほうで重なる靴音に顔を上げた。運びの到着を告げている下働きの声。旦那様、と聞こえて、母娘がまたそっくりに「あら」と声を上げ、さっと動いた。

 家の者の視野から外れたリュシオルが目を細めるのを、ユグは端に見た。二、三歩と歩み寄る。

 二人が丁度横に並んだ時、食堂の扉を開けて家の主が姿を現す。客の姿をテーブルの横に見て破顔した。

「これはこれは。遠いところから、お疲れでしょう」

「いえ――この度はおめでとうございます。ご依頼主と、ヤーエルスゥフに代わってお祝い申し上げます。ウェリトルーチャの祝福もありますよう」

 鼻の下に蓄えた髭を撫で労いを口にした彼に、リュシオルは恭しく応じた。

 家に入る折にもしたように、右手で己の左肩を抱き、若い男女を結び付ける愛の神の名と、火と竈を与えた神の名を用いて言祝ぐ。聖堂の祭司か貴族の家令のように洗練されたその様に、家主は大いに気をよくしたようだった。

「ありがとう。……前祝いをしようと思っとります。よろしければどうです、席を用意しますから。勿論部屋も」

 祝いの際に駆けつける〝運び〟など普段付き合いのない者を持て成すのは、豊かであることの象徴、誇示だ。フーイオの領主名代――本来の領主であるエルニオのジェルジェ家から多くの土地と財を与えられた男は今、上機嫌中の上機嫌。これより楽しい日もないと体中が言っていた。

「喜んで」

 誇るように胸を張り自慢の飾り織の袖を捲る家主に、運びが否と答えるはずもない。肩から離した手を腹の前で組んで、鞣革に包まれた指を絡めた。

「さあ、皆を集めておきなさい」

「ああ、旦那様」

 宴の支度を言いつけられた家の者が皆動き始めたところで、リュシオルは再び家主に声をかけた。触れるほど間近に寄って懐から手紙を取り出し、蝶を象る紅の封蝋を上にして差し出す。

 男はそのつややかな封に視線を落とし、リュシオルの顔を見た。蝋とは対照的に薄く青い瞳が迎えるように表情を窺っていた。

「マクシミリアン・ブローム様。――こちらも預かって参りました。エルニオの、ジェルジェ家からです」

「ジェルジェ卿から、」

 家主を名前で呼び直し送り主の名を小声で告げる。繰り返し呟く間に、手は手紙を受け取っていた。

「はい、急ぎの文ということで。お手元まで、確かに運ばせて頂きました」

 続く声。聞きながら蝋を砕き、家主はざっと中を検める。

 取り出される一枚きりの紙には三行だけ叩きつけるような文字が躍る。内容を確かめる数秒の後、手紙はすぐに元のように封筒の中に押し込まれた。荒々しい字の伝える事に男の目つきが変わるのを、運びは見逃さなかったが。

 運びと、その陰になった護り。前に立つ二人を見て、家主は踵を返す。

「私は物を取りに行ってくるから、お前はお客様の相手をしなさい。どうぞごゆっくり」

「はい」

 まだ幼い下働きに言葉をかけて足早に食堂を出ていく背を見送り、リュシオルはまた杖の端に手を置いた。口角が上がっているのが何の為か、見上げた子供が知る由はない。

「お部屋にご案内します」

 野菜籠を抱えてはきはきと言う声に目を細めたリュシオルは、横に居るユグを見上げた。未だ床に置かれたままの、運んだ物ではない自分たちの私物を爪先で叩く。

「ユグ、他の荷もよろしく」

「……分かった。全部でいいんだな」

「ええ。申し訳ないんですけど、このおじさんだけ部屋に案内してさしあげてくださいな」

 なんとなく渋く響く答えを聞いてから子供に向き直り、指は、外の厩舎のほうを示した。

「私は先に馬を労ってやらないと。それ少し、恵んでいただけません?」

 そのままの形で動いた手が、今度は抱えられた野菜籠へと向かう。細った、人が食べるには適さない大きさのウェーライ蕪が入っているのを見つけていたのだ。

 柔らかい声でのお願いに、やりとりを聞いて目を瞬いていた子供は大きく頷いた。

「いいですよ、どうせ兎にやるやつですから、半分どうぞ」

「ありがとうございます。それじゃあよろしく頼みましたよ」

 快く差し出された籠から数本適当に掴んで手を振って、リュシオルは軽い調子で歩き出す。怖い顔のおじさんと二人で残され姿勢を正す子供と、それを地顔で見下ろす仕事仲間を横目に見て、吹き出しそうになったのを堪えながら、外に直接続く戸を潜った。

 貯蔵室と納屋の横を通り、畑を眺めながら厩舎へと向かう。辺りには宴、そして数日後に控える婚礼の準備の為に忙しそうに行き交う人の姿があったが、家主の姿はどこにもなかった。

「ヴァンドオル、アルフォス、おいで」

 人気どころか馬も少ない厩舎に辿りつけば愛馬たちの名前を呼び、寄って懐いてくる彼らを撫でる。月毛と黒鹿毛の彼らは似ても似つかないが、どちらも主を慕っていて大人しい。リュシオルの顔は解れるように緩んだ。

 撫でて構ってやりつつ厩舎の様子を見て、雑な掃除と満足とは言い難い飼葉の量に溜息を吐く。この辺りでは町同士で連絡を取るにも馬が必要だというのに、この家の者はあまり馬に優しくないようだった。それだけで、〝運び〟にとっては長居したくない場所となる。

 詫びるように二頭の額に手を置いて、それぞれに平等に貰ってきた蕪を齧らせてやる。

「今のうちにゆっくりなさいね。すぐにお仕事だからさ」 

 パリパリと小気味良い音を聞きながら言い、彼は屋根の向こうにある風車の羽を見つめた。労いの片手間、ついでに齧った蕪が水っぽい甘苦さだけ舌に残した。


   §


 日が暮れてから始まった愉快な宴は、食事の賑やかさを過ぎていくらか落ち着きを持ち始めていた。杯を乾した先から注がれるのが葡萄酒から質の良い琥珀酒(ロヴィエ)に変わり、陶器の杯がテーブルと口とを往復し、絶え間なく痴れた匂いを散らす。

「そういやぁ、この辺りじゃ麦を作るんですか? あっちに、見事な風車がございますけど」

 機嫌よく間延びした酔っ払いの口調で、杯の中を見下ろしたリュシオルが問う。いえ、と同じような声で応じたのは、赤ら顔のこの家の主だ。この前祝いが始まる前にも増して上機嫌で満足そうだった。

「あれは豆を挽いてたんです。近頃じゃあそれも、作らなくなりましたけどね」

「へえ」

「あれももうお飾りみたいなもんで。残してあるけど整備もしてない」

「取り壊そうって話もあるんですけどねぇ、そうしたらまた建てるのも大変だからって、この人が」

 主役であるべき娘はとうに部屋に戻っていて、下女たちも大体は同じ頃に居なくなっていた。食堂に残っている女は、最後まで夫に従って客を接待する妻だけだ。彼女は話の適当なところにそうして言葉を挟みながら、下戸だからと酒を断ったユグの為に熱い茶を淹れていた。

「そんなことより、貴方はエルニオの組合の方で?」

 どうぞ、と濃い茶が差し出される横で話は続く。ユグは小さく礼を言ったきりまた黙り込んだ。彼の口数は少ないどころではなく、話を聞くのに徹している。

「いえ、少し前までは西に居まして――ええ、西方領。港のほうです。最近になってこっちに出てきました。組合に所属しないから何処へでもスッと行けるってのが強みでして、いつもこんな風に荷なんか運んでまして」

 その分を補うように、リュシオルは饒舌だった。合間に酒を口に含み香りを楽しみながら、求められればその分喋る。

 食事のときからそうだが返答に困ることがない。言ったとおり、組合に所属せず場所も領境も問わずに仕事をしている彼の抽斗(ひきだし)は多く、会話を適当に広げるのに難はなかった。

 持ち前の話術を遺憾なく発揮する様は、どちらが客で、どちらが招いた側かも曖昧にするほどだ。

「この辺りはまだ石が敷かれてないから、苦労なさったでしょう」

「いいえ、半端な石畳よりは躓かなくていいんですよ、土のほうが。ただ近頃、野盗が出るんですって? 嫌ですよねぇ物騒で。それでそっちの人に声かけられて。安くしてくれるって言うからよかったけど」

 リュシオルはユグに目配せして頷くのを待って一間置いた。琥珀酒を舐めて肩が揺れ、杯の中身が波打つ。

「けれどまあ、お陰様かそういう輩にも遭いませんでしたし、天気もよかったですしね――〝空視(そらみ)〟の話なら、三日後も晴れるらしいですよ、良かったですね」

「ええ、ええ。本当に」

 町を出る前に空模様を尋ねた仕事屋の名前を出すと、家主は頻りに頷いた。

 娘の婚礼を予定している日は快晴で、次の日が雨になるだろうと、彼も馴染みの空視から聞いている。天の祝福と恵みとをどちらも授けられる、よい日取りだった。

「ヤーエルスゥフのお導きに感謝を」

 繰り返す祝言。コンと互いの杯をぶつけて、残っていた酒を一息に飲み干す。笑いあい、また酒を注ごうとしていた家主の手をリュシオルが制す。

「すみません、ちょっと酔ったみたいなんで……風に当たってきます」

「あら、お茶、飲みます?」

「いえお気遣いなく」

 額を押さえ殊にゆっくりと言い立ち上がる彼を追おうとユグも立ち上がったが、リュシオルはそれも制した。ポットに触れた女に笑顔を向け、手袋をしたままの手をひらと振って一人で外へと出ていく。

 風が一筋だけ室内に入り込んで、僅かに家主の酔いを醒ます。彼はふと、探るようにユグを見た。

「ユグさん、でしたか、貴方はどちらの方で?」

 一人残された酔漢は自分の分だけ酒を注ぎ少し黙っていたが、酒が与えた気分の高揚が再び口を動かした。斜めに座る、自分より僅かだけ年下と見える男に話を向ける。ユグの視線が僅かに上がる。

「今は、カンソーヤの組合に」

 浅く頷き返される説明は短い。低い声は静かな場に馴染むもので、これが先の食事の時間であれば聞き取れたかも怪しいところだ。

 家主はカンソーヤという地名には眉を寄せたが、会話を広げる気のなさそうな返答に気を悪くした様子はなかった。酒と祝い事がそうした部分を麻痺させているのだ。

「ほお。あの町ですか。ご出身は、東のほうですかな。その肌の色ですと」

「ああ。暫く帰っていないが、海沿いだ」

「ご家族は東に?」

 他人に己について探られるのを好ましく思っていない様子を見取る力も、また。いくらか慌てたのは妻のほうで、武骨な手の中で半分ほど減った茶を見て、おかわりはいかがと柔らかく訊ねる。

 ユグは僅かに杯をずらして答えとし――ふと、淡く息を吐いた。

「……いや。俺は独り身だからな。こうした祝い事というのは、正直、羨ましい」

 まだ温かい茶を注ぐ音が、静かな声と重なった。

「ああ、それは失礼を。まあ結婚はいいものですが、いいばかりとは言えませんな。なぁ」

「あなた、」

 胸を撫で下ろしたところで詫びつつもまた余計なことを言う声に、女は夫を窘める。

「だからしないんだ」

 丸めるようにすぐに軽口を叩いた護りに、一息置いて、夫婦は少し笑った。そこで会話は仕切り直しになった。

 それから暫く。言葉は歯切れ悪くあまり長くは続かなかったが、会話自体はぽつぽつと続いた。

 声の間を継ごうと酒は増えた。ユグは瓶を手に取り酌に回り、なみなみと注いで、乾杯の仕草に茶杯で応じる。

 ゆったりと自分も茶を飲み始めた女がはたとして振り返り戸のほうを向いたのは、何回かそうしたやりとりがあり、瓶の酒が半分に減った後だ。

「けっこう、戻ってきませんねぇ」

 そこそこに時間が経つが、リュシオルは戻ってきていない。何処かで眠ってしまったのかしらと案じ、頬に手を当て身を傾けた彼女より早く、ユグが立ち上がった。脇腹――上着に隠れて見えぬ位置に挿した小剣を裾を直すようにして確かめ、戸へと歩く。

「あれもあまり強くないようだからな。……様子を見てくる」

「誰か行かせましょうか?」

 やや遅れた申告に、何か疑うように家主が訊ねる。ユグはその顔を少し眺めてから緩く首を振り、外へと続く戸に手をかけた。

「仕事のうちだ。これから忙しくなるのだから、休んでいたほうがいい」

 言いきった後、窺う二つの顔から視線を逸らして外に出る。いくつかの窓から漏れる灯りと星月だけが頼りの薄闇の中で溜息が出た。

 そうしながらも歩き向かう先は、今は暗く沈んで見えない――風車小屋。運びがあの場所を頻りに気にしていたことに、彼は気づいていた。

 すぐそことは言えないが、大股で歩けばそう遠いわけでもない。乾いた土を蹴って、柔らかな草を踏んでいくらか進めば、途中で屈んでいる姿が見つかる。

 闇に慣れた目なら捉えられる、雑草の群れを割くように細々と残る僅かな土色。草に埋もれる僅かな痕跡こそ、風車と共に放置されて、次の春には消えようかという道だった。

 その上に〝運び〟は居た。

 気分を悪くして蹲っているようにも見えたが、俯いた彼の顔はそうした類の弱った表情を一切含んでいなかった。

 むしろ喜々として明るく。ユグには、青い目が天の星でも取りこんだように光を含んで見えた。

「酔いは醒めたか」

「――ええ。もうすっかりね。飲みなおして酔い潰れないと」

 右手の杖を支えにしながら膝を折っていた運びは声に驚くでもなく応え、近づく姿を見上げ、己の膝に頬杖をつく。屈んでいては大分離れて見えづらい男の顔がどうも呆れているようなのを感じ取り、ふふふと声に出して笑った。

 パスティス一瓶飲んでも白い顔をしている男にとって、琥珀酒の二、三杯など、それこそ茶のようなもの。

 ほろ酔いにも程遠く意識も明瞭な男は、顔に押しつけていた手を地面に這わせる。繁る、丸い葉を広げる草に触れたが、革手袋を隔ててはその温度も感触も大して伝わりはしなかった。

「どれほど飲む気だ」

「素面で居られる程度に。アンタ様はどうする?」

「仕事中は飲まん」

 ユグもまた実の所、下戸ではない。祝杯として最初の葡萄酒に手をつけた以外舐めもしなかったのはただの流儀だった。

 軽口のやりとりは囁きの声量で行われ、満足そうにリュシオルが頷く。

 立ち上がり杖を振って、その軌跡が魔力を残して光るのを見る。トンと先程触れた草の上に下ろせば、瞬く間に丸い蕾が膨らみ、花が綻んだ。

「終わったら景気よくやりましょうや。袋一杯大金貨の仕事ですもの」

 彼は大きく一歩踏み出した。護りの横を通り過ぎ、ブロームの家、元居た食堂へと爪先を向ける。

 ついでに軽く、自分と比べるべくもなくがっしりとした肩を叩いて酷く愉快そうに笑った。

「アンタ様どうせ飲まないんですから、擦れ違ったことにして遅れて戻っていらっしゃいよ、人の相手はお疲れでしょ」

 自分がどうして外に出てきたかも察している運びを黙って見送り、ユグは無表情かつ静かに、闇に立つ風車へと近づいた。細った、草に飲みこまれそうな道を硬い靴で踏む。

 風車小屋の扉には閂が、その上には錆の無い錠前がかけられていた。表面に触れ、護りはまた運びのほうを見やる。既に人影は小さくほとんど見えはしなかったが。

 ユグは一度、上着の下になった剣の鞘を撫でた。夜風は風車を動かすほどの力もなく、ただ、護りの赤毛と足元の草を静かに揺らしていた。


   §


 深夜、寝台に横たわっていたリュシオルは目を開いた。飲みなおして家主と軽く騒いで、もうまっすぐ歩けないほどに酔ったというふりをして部屋に入り寝台に転がったが、頭も体も昼間ともまるで変わりなく動いていた。

 細目に開けた鎧戸の隙間から月を見て、時刻を確かめる。良い頃合いと見た彼は起き上がり、床に足を下ろした。

 靴の紐をきつく締め、椅子の上に投げられていたケープを羽織り手早くボタンを留める。仕上げのように杖を手に取って、呟く。

「行きますよ。支度を」

 寝台の上、目を閉じてすらいなかった護りは静かに立ち上がり、部屋に運び入れていた幾らかの荷をすべて抱えた。剣は初めから腰にあった。服に隠れる暗器ではなく、彼が剣士として誇る、大男の体躯に見合う業物の長剣だ。

 静かに扉を開けた運びの後ろに続き、静かに扉を閉めて静かに階段を下る。その間二人はだんまりで、靴が床に触れる音や床板の軋みに気を配っていた。歩幅は自然と調節され、板の継ぎ目、打たれた釘の上に足がそっと下ろされる。

 声を発したのはユグが先で、玄関よりも早く外に出られる、食堂を通ってからのことだった。

「あそこに居るのか」

「恐らくは。屋根裏も下女が使ってるようですし、客間はあれきり。納屋は普通に出入りがあって、貯蔵室には物が沢山。余地らしい余地はないし――手紙を渡した後主人が見に行ったようですけど、すぐ帰ってきましたから、距離的にも精々」

 短い、多くを省いた問い。それでもリュシオルははっきりと頷き、常のように答えを舌に乗せた。酒飲みの最中に聞いた事柄を整理しての説明は極めて小さな声でされたが、虫も騒がないこの季節、夜の静けさの中で、五感の優れる護りが聞き取るのに難はない。

「それに、使ってないとおっしゃる割に出入りはあるようですから? 家探しはやりづらいから、順当でしょう」

 間違いなく。とは、運びは断じなかった。ただ高い可能性の一つであると、しかし自信満々に述べ、出てきた家を振り返る。いつでも人の居る大きな家だから、部外者が探し物をしようものならすぐに見つかり、詰問されるに違いなかった。

 〝運び〟として、〝護り〟として、盗みや騙りの類と思われるのは好ましくない。仕事の都合としても、気持ちや矜持の話としても。

「俺は、お前のそれがただの勘でも従うだけだが、」

 頷きもせずに前を見据え、ユグはそこで言葉を切った。

「優先は」

 訊ねる言葉はまた短く、最低限だ。運びは口角を上げてケープの裾を揺らす。

「そのときは、荷のほうを。なんたって物が物だ。一度取ったら触らせませんよ。万一のときは叫ぶからよろしく。……それで言った通りですけど、それより先にあっちですね。いくらなんでも徒歩(かち)で逃げたかないでしょう」

「わかった」

 言葉は最後に低くなった。答えたユグを置き、リュシオルは一人、数時間前にも辿った風車小屋への道を目指した。

 彼の仕事がこの町にあることは明らかだった。一月前に〝報せ〟――情報屋がそう断じた。町の何処かまでは分からないが、ブロームの家が運ぶべきものを隠していると。

 町の外から尽くして分かることはそこまでだったが、リュシオルにとっては十分、事足りた。前払いした十枚の金貨に足りる働きだ。

 情報を手に入れた後の彼の行動は早かった。婚礼祝いを送ろうとしていたブロームの親戚家に取り入って、町や家に行く理由を作るのは簡単なことだった。それ自体もまったく瑕疵なくやりおおせ、ついでに道中で都合の良い仕事まで手に入れて、彼は此処にいる。

 家主に差し出した、蝶の封蝋の手紙。それは本来ならばリュシオルにとって障害物となるはずの、ある意味での敵対者の文だった。ただし当人の手に渡ったことで、まるで逆の意味を付加される。

 「己は貴方と同じ主と契約し仕事を委ねられた者である」と言外に告げ、受け取り主――また障害となるはずだった、ブローム家の警戒を和らげる。

 自室で寝入るマクシミリアン・ブロームは、〝運び〟が自分たちにとって不利益な事をしでかす者だとは、露ほども思いはしなかったのだ。これから実際、その不利益が生じてしまうまでは、その付き人のほうを少し疑いこそすれ。

 すべて思い通りに運んで、リュシオルは笑う。辺りにはまだ人の気配がなかった。それは相手が手抜かりしたなによりの証拠だった。

「錠前かけて安堵することなかれ、盗人は、鍵の開け方を知るものだ」

 リュシオルは軽い足取りで風車小屋に至り、杖を小脇に抱え、見目に新しい錠を撫で呟いた。舞台で用いられるとってまわった言い回しは風に消える。

 手袋に包まれる手の下で僅か揺れた錠は、物自体は新しいが、型はそうでもない。

 盗みを仕事とする者たちの間では『棍棒持ちの門番』と呼ばれる、時代遅れの単純な代物だ。職人がその印象を逆手に取ろうと意図して作ったひっかけでなければ、手順を踏み中の突起を押さえ、ある形の棒を入れればどれでも開けることができる。

 リュシオルは闇に慣れた目で手順を踏む。手袋の隙間から針金を抜き取って平然と鍵穴に差し込み、次には適当に見繕い捻じ曲げた細い釘を、同じように取り出して押し入れる。

 手応えを得て、扉を戒めていた錠を地に捨てほくそ笑む。

「〝運び〟様もまた然り、ってね。失礼しますよっと」

 むしろ残った重い閂のほうを苦労して外して、運びは扉を開く。小屋の中には埃っぽい闇がわだかまっていた。

 壁の燭台にまだ長い蝋燭が残っているのを見つけ、リュシオルは鼻歌でも歌いたい気分になった。いくら裕福な家と言え、使っていない建物にこうした物が放置されていることはなかなかない。何より冷えた蝋の表面は綺麗だった。指先でつつき、杖を持ちなおして床を探りながら、彼は慎重に進む。

 建物の中に人影はなかったが、微かな息遣いが聞こえるような気がしていた。杖の先端が敷物にひっかかり、見下ろす。上から撫でると僅かな凹凸が手に伝わる。敷物を少し押しやると、床板の線とは別に四角い枠が覗えた。

 見れば、近い壁には短い梯子が立てかけられている。

 リュシオルは屈みこみ、汚れた敷物に手をかけた。引きはがす手つきは、婚礼祝いのレースを広げた時と同じように。

 舞う埃が収まるのを待ち、現れた真四角の扉、また重いそれを息を詰めて持ち上げて――

「ウラリ・ジェルジェ様?」

 目が合う。暗闇の中座り込んだ少女は呆然と、己にとっての低い天井を開けた男を見上げていた。小さな扉を完全に押しのけ、手際よく梯子を下ろして、運びは微笑する。

「お迎えに上がりました。さ、お手を」

 差し出す手。痩せて汚れた手が彷徨うように触れると、柔らかく、しかししっかりと握って引き寄せる。

 呼びかけには頷きさえ返らなかったが、彼女こそが運びの探していた仕事に違いなかった。この町から運びだし、カンソーヤまで届ける荷。引き寄せた手に躍る心を抑え、リュシオルは自分のケープを脱いで羽織らせる。

 十歳。年端の行かない少女を婚礼祝いの品々と同じように丁寧な手つきで扱って、運びは外へと歩み出た。


「〝運び〟の馬に手を出すとは命知らずだな」

 ユグは呆れたように声を発していた。同輩が珍しく低く言った言葉を思い出しながら。

 こうした後ろ暗い活動の時間とは、得てして被るものらしい。向かった厩舎には先客が居て、灯りを煌々と掲げ頭絡を手に、馬を牽いて出そうとしていた。月毛と黒鹿毛、見事な体躯の何処に出しても見劣りしない良馬――運びが見初めて調教した二頭は、どこか不機嫌な顔つきでその手に抗い突っ立っている。

 先客の馬丁が手を出してよい馬ではないことは、ユグからすれば明白だった。

「違います! 僕は、馬の世話を」

 振り向いて蒼褪めた馬丁が咄嗟に口走る。

 ユグはゆると首を振った。相手の言葉をわざわざ否定したわけではない。長い付き合いになる〝運び〟の目は何で出来ているのかと、感心を通り越し呆れるしかなかったのだ。魔女から目を奪ったのではないかとは他人の言葉だが、何にしてもこんな町の領主名代とその取り巻き程度の動きなど、お見通しなのだ。

 荷を落として剣の柄に手をかけ、顎をしゃくる。手を離せとの指示に他ならない。

「離せば見逃してやる。その馬は俺でも動かすのに労するぞ」

 細められた目は鋭く猛禽の如く。言い訳が通用する相手ではないとすぐに悟って、若い馬丁は手綱を放り出し、躓くように逃げ出した。

 見逃すとは言ったが逃げられて主を呼ばれると困る〝護り〟は、大きく踏み込み足払いをかけた。悲鳴は馬が嫌がる程度。舌を噛んだかもしれないが、構わず転倒したところに追い打ちをかけ、掌で顎を打ち頭を揺らす。

 失神してぐたりとした男をぞんざいに地に転がし、ユグは急いで馬の背に鞍を置き荷を括った。馬装を整え、今度は彼が馬たちを外へと促す。

 黒鹿毛はすぐに前へと歩み出たが、月毛はじっと自分たちを助けた剣士を見つめていた。その黒目を見返して、ユグは小さく笑いを零す。よく知らぬ人が見れば、けして笑みとは思えぬ、僅かな頬の緩み方だったが。

「……ヴァンドオル」

 名前を呼ぶと、少し躊躇ってから馬は前に出た。名前を呼ばなければ来ないように調教されている、賢い馬なのだ。

 馬丁は馬を盗みに来たのではない。最終的にどうなるかは分からなかったが、少なくとも今は、隠しに来たのだ。彼らにとって最悪の事態が起きた時に、それを引き起こす不届き者が逃げ切れないように。運びが案じた通り、万一の時に町から逃げれぬよう、安全策に足を挫いておこうという考えだった。それで十分と思うのは浅はかで動き出すのも遅すぎたが、動いたことには変わりがない。

 ――やはりカンソーヤの者と言って、気を引いたのが悪かったのだろう。加えて、すぐに屋内に戻らなかったのが、恐らくは。

 護りは考え、まあそれも運びの指示だと自分を納得させた。なんにせよ自分たちが少々でも疑われていたことには違いない。それならば風車のほうもすぐに好ましくない状態になるはずだと、彼は鞍に腰掛けた。

 それも〝運び〟には見通せることだろうが、運びが叫ぶ前にどうにかするのが彼の仕事だ。黒鹿毛を促し、月毛が付いてくることを確かめて、ユグは彼らを急がせた。


   §


 領主名代、ブロームの家主に声をかけられ、見回りに風車小屋を訪れた男たちは三人。誰もが予想外の事態に動揺していた。

 赤毛の大男が些か怪しいとは言われていたが、隠し場所を知られるようなことは何もなかったはずだとも聞いていた。何も見られていないのだから、分かるはずがないと。だから彼らは悠長に構えて、見張りを立てることはなくゆるりと確認に出てきたのだ。

「もう少ぅし時間がありゃ、申し分ありませんでしたやね。いっそ見張りでもしてくださったらあの人囮にできると思ったんですけど、しないんですもんねぇ。そんなら今更出てこないでくださればよかったのに。これだから田舎者は相手がしづらくてしかたない」

 それがどうか。その隠し場所はとうに暴かれた後だ。

 少女を傍らに、人を出迎えるように鍵の落ちた扉から出てきたのは灰色の髪の痩躯。彼らの雇い主の雇い主、ジェルジェ卿と呼ばれるこの土地の本来の領主である貴族から手紙を預かった〝運び〟だった。

「まあ詰めが甘いのは大いに結構。姫さん頂いてきますよって、知らせてやれっても言われてましたしね。頂いてきます」

 笑顔の彼は、仕事はとっくに己が手の中と、左手で細い肩を抱いて示す。杖を持つ右の手は軽く肘を曲げられて、先端を男たちへと据えている。

 鋭さはないその得物が妙な緊張感を生み出す横で、少女は無感動な顔で立ち竦んでいた。下着同然の薄っぺらな一枚着と裸足が夜の中で痛々しいが、この場では誰もそれに構う暇はない。

「アンタ、ジェルジェ卿に頼まれて来たんじゃないのか」

 男が渇いた喉から声を吐いた。問いながら、彼の手はまともに使ったことのない短剣の柄を握りこんでいる。

 鈍い光り方をする刀身が、他の二人の手元でも鞘から取り出されていた。

「それは御当主(ゼ・ジェルジェ)のことで? そんなら違います。領主様からのお手紙は、道中別の運びから受け取りました。……ああ、勘違いなさんないでくださいよ、奪ったわけじゃないですから。依頼主の求めがあれば、委任状を提示できます」

 そんな状況下でも運びの口調は涼しい。なんてことはないように言って、少女の肩に触れる手に力を込める。彼は手袋越しに貸したケープの手触りを感じていた。

 焦りも怯えも表には出さないが、武術の心得のないリュシオルが刃物を持つ三人の若い男を相手に、少女を守りながら勝つのは難しい。リュシオル自身、それを理解している。

 しかしながら、彼に仕事をしくじる予感はなかった。心は冴え冴えて穏やかに凪いでいた。

「さて、旦那様にもよろしくお伝えください? っても、通してはくださらないんでしょうが。穏便に行きましょうや、折角婚礼前なんですし、私は魔法使いですし?」

 朗らかに言ってみても、辺りの空気は緩むことがない。それぞれの体の前に置かれた武器は動かず、場は均衡している。

 リュシオルの出した魔法使いとの言葉が、脅しとして一刷け緊張を上塗りした。杖を一振りすれば何が起こるか分からないと、彼は男たちを牽制しながら摺り足で前に出る。まだ誰も踏み込みはしない。誰もの心臓が早く打っていた。

「……轍を辿ってきてみれば、」

 奥の闇を睨み、吐息のように彼は続けた。男たちは意味が掴めず、何かを言おうとした口は半開きになる。その隙にまた、運びは言葉を捻じ込む。

「使ってないのに取り壊さない風車に、真新しい錠前。大事な物があるって仰っているようなものじゃありませんか。姫さん囲って、いつまでそうするおつもりだったのやら。そうまでして土地ばっか貰ったってどうするっての、使いきれなくって持て余して放ってある癖に」

 最後はほとんど、領主名代に対する悪態だった。意味を辿ることを諦めた男たちが短剣を翻す。そもそも意味などないのだと気づくより先に。

 切っ先は全て己を向いている。運びの顔の表面にとうとう緊張が滲んだが、次に浮かんだのは聖者のような、ぞっとするほど穏やかで整った微笑だった。青い目は、突進する男たちの向こうにぼんやりと見える金色を捉えていた。

「私がお喋りなのは、大体意味がありましてね」

 荷に触れる手を緩め、運びは一歩退いた。付いてくるように、それより早く、男たちが踏み込む。

 少女を横に押して、リュシオルは杖を振るう。生じる淡い緑の光芒。得体の知れぬそれに、男たちが一瞬身を縮めれば十分だった。

 続いたのは魔法の火や光などではなく、馬の嘶き。

「ヴァンドオル!」

 早鐘の心音と勘違いしていた蹄音が、もう彼らの間近にあった。

 呼ばれたのは黄金の馬。それより早く、黒鹿毛が闇を抜けて躍り出る。人という障害物に気後れもせず、剣士を乗せたアルフォスは勇壮に地を蹴った。男たちは当初警戒していたはずのもう一人を失念していたのだ。

 逃げ惑う男共を散らし剣を弾き、あっと言う間に距離を詰めたユグが少女を攫うように馬上へと引き上げる。きぃ、と細い悲鳴が響いたが、それを認識する余裕はユグの他には与えられていなかった。

 ユグが飛び込んだのとは逆に逃げたリュシオルに、名を呼ばれた愛馬が寄り添う。すぐさまその背に飛び乗って、彼は今度こそ魔法の為に杖を振った。イルジィエル硬銀と呼ばれる魔鉱が光を散らし、二秒。淡い光が滲み、攫われた少女に追いすがる人の足に蔦が絡む。

 子供の悪戯のようなそれに転倒してもがくのを小気味よく眺め、運びは馬を急き立てた。後は、やることと言えば決まっている。

「ユーグ、西!」

 荷――少女を抱えて逃げるだけだ。

 護りを愛称で呼びながら杖で街道を示した運びに従い、二頭の馬は風を切って走る。騒ぎで人の起きだした家を後に、まだ暗い道を直走る。

 真っ当な門番の居ないこの町に彼らを止める者はなく、ブロームには追いつける馬も居ない。後は完全に、運びの思うが儘だった。


「上々重畳。よくやってくださいました」

 街道を突っ切った森の中、走り通しだった馬に水を飲ませながらリュシオルが言う頃、空の奥は白み始めていた。フーイオの町は影も見えず、木々の間で水がせせらぐばかりの静かな朝だ。

 労われた〝護り〟が、それまで抱えていた荷を〝運び〟へ引き渡す。馬の横で水を手に掬い口に含んでみる少女は人形のように大人しかったが、物言いたげな顔をしていた。

 柔らかな草の上に座り込むその横に運びが跪く。

「さて今更になりましたが、荒々しくってすみませんねぇ。私は〝運び〟、そっちの人が〝護り〟です。ご依頼を受けて、貴女を運ばせて頂くことになりました」

 聞いてすぐにぱくぱくと小さな口が動く。血色の悪い唇から声は出ず、空気の漏れる音が少しだけ出て川の音に掻き消された。

 今までの出来事の衝撃で声が出ないわけではないと、リュシオルは知っていた。唇の動きを読んで少女の問いを把握し、はっきりと首を振る。

「いいえ。私が契約させていただいたのは貴女のお父上ではなく、叔父上。ジェルジェ家継承一位、イヴ・ア・ジェルジェ様です」

 ロクサン・ゼ・ジェルジェ――ブロームに土地を貸し与えるこの地域の領主ジェルジェ卿は、少女にとって父親だった。同時に、彼女を風車小屋に閉じ込めさせた人でもある。汚物を埋めて隠すように、殺しこそしないものの、自分と世間の目につかない場所へと娘を埋葬した、中央貴族の男。

 そして、運びが契約者として出した名前はその弟だ。カンソーヤで領主名代を務める、年若き政治家。

 少女は言葉を見つけられずに口を閉じた。そもそも、人とこうして意思の疎通を図るなど、二年ぶりのことだった。意識がまるで追いつかない。

「それが貴女にとってどうなのかは、私は存じ上げませんが。だからエルニオには行きませんよ。ちょいと遠回りして、カンソーヤまで運ばせていただきます」

 唖の少女は、二年ぶりに見るマクシミリアン・ブローム以外の他人を、奇妙な生き物でも見るように見つめた。自分を人扱いしない父のことも、可愛い姪として扱ってくれた叔父のことも、よく分からないまま。

 なにせもう随分会っていない。彼女は人からも、貴族の様々な駆け引きからも離れすぎていた。

 少女はただ予感として、自分はどうあってもカンソーヤに行くのだろうと思った。理由が何であれ、男の言うとおり叔父の元へ連れて行かれるのだと。慣れ、諦めはじめていた監禁生活から急に取り出されてしまったように、自分の意思などまるで関係なく、容赦のない運命に乗せられ、容赦のない運びに連れられて。

 少女の長い睫毛が震え、唇が物を食むように動く。言葉を切ったリュシオルは微笑んだ。

「まずは格好どうにかしましょうか。これでうっかり旅人にでも遭遇したら、人攫い以外の何者でもない」

 手袋をした手が丸い頭を撫でる手つきは優しく、声は満ち足りて穏やかな響きだった。青い目は慈しむように少女を見ている。

 その、暫く見ていない宝石のような瞳を見つめ返して。少女――ウラリは、風車小屋の中でそうしていたように、諸々のことをあまり気にしないことに決めた。そのほうが楽でよいと思えたのだ。

 こくりと、今度こそ頷く。運びはいくらか意外そうな顔をしたが、それに気づけるほど彼女は運びのことを知らなかった。

 善人の顔で笑う男の後ろを覗いて見れば、顰め面の男が立っている。ウラリが年嵩の人のそうした顔を見てまず思い出すのは父のことだったが、すぐに記憶と現実の二つの像の間にはずれが生じて、重ならなくなった。

 彼女の父親はこんなに目を引く容姿ではなかったし、馬に揺られていた最中の腕は、拒絶し引き回すのではなく守るように触れていたから。

 そうして改めてこのような明るいところで見てみると、眉間の皺や眼差しに恐ろしく感じるものは含まれていないのだった。目の前の〝運び〟を名乗る男があれこれと一気に喋るから困って顰め面なのかもしれないな、と、幼いウラリは考えた。それでも文句を言わないのは、運びというのが確か、他の人たちよりも偉いからなのだ。彼女が昔に何かの物語で見たところによれば。

 少しばかり眠く、昇ってきた太陽の分空気が暖かで、ぼんやりとした思考は思い出に至ったところでそのまま解れてしまった。

 ロクサンとイヴが家督を争い血縁者を巡って対立していること、ロクサン側に与していたブロームがイヴの雇った〝運び〟たちにしてやられたことなど、空の青さと風の心地良さに比べれば、極めてどうでもよいことに違いなかった。


   §


 積まれていた木箱は重く、腰がやられそうだった。一つ一つ抱えて四往復もしてへとへとになった青年は荷車の横に座り込んで盛大に溜息を吐く。通りすがりの緑襟、〝報せ〟に「手抜きを婆さんに教えてやろうか」とからかわれ舌打ちが出る。数秒後、はあっと人に聞かせるような大きな溜息が発せられた。

「あら、あのときの。大丈夫だったようで、なによりですや」

 仕方ない続きだ、と気合を入れて立ち上がった彼の背に声がかかり、箱を掴もうとしていた手が止まり宙を彷徨う。

 振り返り見れば、一度見れば忘れられない美しい月毛の馬と、同業者の男が並んで道に立っていた。

「……ああ。どうも。お陰様でね、車輪の大きさも伝えてくれたから、代わりにとっかえて貰うだけで済んだ。見てくれは悪いが動かすには十分だったよ。お陰でギリギリ、降格されずに済んだ」

「そりゃまたよろしいことで」

 適当な挨拶、続けて苦々しい口調で青年が言うと、逆に愉快そうに笑う。フーイオ行きの仕事中に青年が仕事を委任した〝運び〟は、どうやら機嫌がよさそうだった。稼げる仕事でも入ったのだと予想して、同業でも稼ぎが良くない青年は羨ましさから半笑いになる。

「ねえお兄さん、轍草(わだちぐさ)って、ご存知です?」

 そんな彼の半端な表情とは違い、よく出来た笑みを残した口元でリュシオルは尋ねた。青年は眉を上げる怪訝な顔をし、辺りを見回した。丁度荷を運び入れていた門の横に固まっている緑色を見つけ、指で示す。

 丸みのある葉を放射状に広げ、緑の花を上へと伸ばす草の群れ。

「……道に生えてるやつだろ?」

 それが何かと首を捻る青年に頷きが返される。

「そう、道じゃないと生えないんです。あれは何かに踏まれないと満足に育てない、そういう草ですから。車に、馬に、人の足に。そうして出来た道だけに繁る轍の緑」

 歌うように、そして謳うように、運びは言う。

 彼が思い起こすのはフーイオの風景。闇の中注意深く見れば、足元にはその草が続いていた。掻き消えそうな道ではなく、たしかに誰かが歩んだ道として、はっきりと。辿った先に風車が――探していた仕事が隠されていた。

「だから〝運び〟は、自分が踏みしめた跡、仕事の功績なんかを示すものとして、あの草を使うことがあります。我が仕事に繁りあり、と、署名の後ろにつける」

 路地の疎らな石畳を踏みしめて、先程まで小さな手を握っていた手で帯に挿す杖に触れ、リュシオルは馬を牽いた。大人しく従う月毛の鼻先が若い運びの顔に寄って遊ぶように触れた。

「まー、あれです。ちゃんと婆さんの轍見ときなさいよ、って。あれは多分、程々に出来る女だからさ」

「はあ?」

「おい」

 独り言に似た言葉。聞き返したところで、彼らに比べて随分低く、どきりとする声が降った。

 この辺りではなかなか出会わない赤い髪、黄みのある肌の長躯の男は剣を抱え、やはり黒鹿毛の馬を牽いていた。話し込む〝運び〟たちを見て――それ以上言葉は続けなかったが、体が道の先を向いていることから主張は明らかだった。

「はい。行きますか」

 ぎょっとした青年に挨拶代わりに手を振って、リュシオルは石畳を踏んだ。人の足音と硬い蹄の音は軽快に遠ざかり、やがては曲がり角に消えていく。

 残った〝運び〟のほうは、何なんだと呟く間に、まだ荷が揃わないことに怒った酒場の店主に背後を取られて飛び上がった。謝りながら重い箱を手に、轍草の横を走って門を出入りする。

 昼寝をしていた猫だけがそれを知っていた。町は長閑に、昼下がりの時を刻んでいた。


「仕事はございました?」

「いや。……野盗が捕まったらしい。暫くは仕事らしい仕事もないだろう」

 角を曲がった辺りでの問いかけに、ユグがいくらか渋味の増した顔と声とで答える。

 平和なカンソーヤには、あまり〝護り〟の仕事がない。倉庫番や屋敷の門番などは何年も続けて契約している組合の者たちの仕事場であるし、通る旅人の類も多くないのでそちらの護衛の求めも少ない。

 新しい仕事は望み薄、と告げる言葉だというのに、隣の運びは喜ばしいことを聞いたように相好を崩す。

「懐が暖かなうちに次のお仕事探すのは基本ですが――でもとりあえず今日は、暫くぶりに剣を包丁に持ち替えて下さいよ。この町にゃ良い料理人(クーゼニエ)が居ない」

 言いながら財布を取り出し掌に置くのは、一枚の大金貨。表面に八角星(はちかどぼし)の輝きが描かれた円い黄金は車輪のようにも見えた。日に翳して、握りこむ。

 もう契約の終了している雇い主を前に、ユグはふんと鼻を鳴らして、剣の柄がかかる肩から力を抜いた。

「お前が酒瓶と食材を全部運ぶなら考えなくもない」

「私にはヴァンが居るもの」

「休ませてやれ」

 先程の返答と大差ない声音の、嫌味か軽口に対する答えは早い。嘶く馬を撫でて、彼らは一先ず、夕食の為に市へと足を向けた。






後日談・勝者の庭に轍草咲く


 酒瓶と杯を二つ手に持って戻ってきたリュシオルは、厨房を見渡して満面の笑みを浮かべた。

「ああ、素晴らしい、大変結構」

 竈から取り出されている魚のパイは見た目に申し分ない出来栄えだった。黄金色と表したくなる焼き目と、絶妙な膨らみ具合。ブールと香草の香りが混ざり合って漂うと、その場は何とも満ち足りた空間になる。

 取り出した焼き皿を布巾の上に置いた手は、次には鍋の蓋を開けていた。形を整え切られたたっぷりの煮込み野菜の上に胡椒が振られ――味を確かめて、更に塩が振られる。

「私、好き嫌いで言ったらアンタ様のこと大好きだなぁ。料理作ってるときは」

「言わなくていい」

 味を調えた後の一煮立ち。待つ間に上等の白葡萄酒が杯に注がれ、差し出される。鍋を火から下ろしたユグが受け取ったところで、リュシオルは自分の杯も満たした。

 細身で薄手の陶杯、透明感のある白い器を持つ手を突き出して、口角を上げる。

「ヤーエルスゥフとウェリトルーチャに」

 夫婦を結び付ける愛の神と、火と竈の神に。数日前にも聞いた覚えのある賛美。ユグは露骨に顔を顰めた。試しに酒を飲もうとしていた手は止まって低い位置に下ろされる。

「……だから、気色悪いことを言うな」

 溜息混じりに低く言いながらも、彼はよく煮えた野菜とスープを皿に移し始めた。とろりと馴染んだ表面が薄く脂を纏い、灯りに照らされ光っている。灯りの奥にはパンとチーズと乾し肉が塊で転がっていて、ついでに初物の赤桃(スリーズ)の籠まで置かれていた。

 食事の準備は万端だった。贅沢な、金のかかる晩餐だ。葡萄酒一つ、パイの中身の魚一つとっても、銀貨で買い物をした品々なのだ。

「ヤーエルスゥフは、元は人の結び付けすべてを司ったそうですよ? ご存じない?」

「お前が言うと嘘に聞こえん。どうせ口を動かすのなら、喋るのではなく食え」

 笑い混じりの言葉はすぐに切り捨てられる。スープをよそった手がすぐにナイフに移るのを眺めながら、リュシオルは肩を竦めた。波打ち芳醇な香を撒く葡萄酒が少し零れ、生白い人差し指を濡らす。

「あら、信じて下さらない。……まあ嘘だけどさ。私が感謝してやまないのはウェリトルーチャのほうで、よくもまぁこの男に料理の才を与えて下さったって本当、目の前に降りなすったら拝跪して祝詞を謳ってもいい」

 神話や信仰に詳しく、そのお陰で真実も嘘も口ずさむことのできる男は大仰に賛辞を並べ立てる。称賛する先は豊かな髪を編んだ女神ではなく、目の前の腕の良い料理人(クーゼニエ)――今は長剣ではなくパン切りナイフを握る剣士だが。

 笑った口を押えるように指先だけ舐めて、リュシオルはもう一度杯を前に突き出した。

「まあ、じゃあこうですやね、お決まりのやつで」

 パンを切ろうとした手を途中で止め、ユグはリュシオルを見遣った。鋭く見える薄茶の目と、目尻の下がった青い目が合わさる。仕事の最中のように目配せして、にっと笑みを深めたリュシオルは、言った。

「――我らの最高の仕事に」

 杯のぶつかる音。――最高の仕事の為に最善を。ならば、その後の休息も労いも最良のものを。三十年蔵で微睡んでいた酒は心地良い甘みを舌に残し、一瞬で男たちの喉の奥に消える。

 ナイフがパンを切り分け、チーズと肉を削ぐ。フォークは野菜もパイも、中身の魚も構わずに貫いた。そうして口に運ばれる料理の出来はユグにとっては当然、リュシオルにとっては期待した通りに最高で――瓶の中の残りが一杯目と同じようにあっさりと消えるのは、そう時間のかかることではなかった。少なくとも、料理が冷めきってしまわぬうちのこと。

 酔い潰れたところで明日は無事に来ると、仕事の報酬(せいか)を胸に、彼らは幾度も杯を乾した。


 讃えあい美酒を酌み交わせ。舌に喉に胃の腑に、余すことなく褒美を与えよ! それは明日の血になるだろう!

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