第一夜 まだ夢のよう
人生はじめての修羅場を経験したのは、クリスマスの三日前。
今年こそは誕生日に彼女と過ごせる。
期待に胸を膨らませる三太の妄想を打ち破ったのは、高校時代の後輩、柊だった。
「先輩、今、ちょっと出てこれます?」
部活のマネージャーだった彼女は、高校を卒業したあとも色々と三太の世話を焼いていた。
彼は欠伸をしながら緩慢に着替えに取り掛かった。
人生はじめての彼女が出来たのが、今年の四月だった。
成人式の日、不遇の時代が続いていた三太に声をかけてきたのは、中学生の時に同じクラスにいたことのある冴島未夢という女の子だった。
同じ教室で学んでいたはずなのに、彼女に対するこれといった印象が三太には残っていなかった。
きっとあまり接点もなく、話したことも数回くらいだったと思う。
当時は印象の薄かった彼女だが、これだけは言えた。
未夢は大人になり、見違えるほど綺麗になっていた。
精一杯オメカシしてきたあか抜けない同窓生たちを尻目に、ひとり洗練された印象を放っていた彼女に話しかけられた時、三太は自分が何をいったのか覚えていない。
その日は始めから逆上せきっていて、挙げ句に意識して見ていた未夢に声を掛けられたので、笑う彼女のプックリと濡れた唇や、化粧から浮き出た色っぽいホクロの印象しか残っていなかった。
だから、後日彼女から電話が掛ってきたとき、携帯電話に表示された名前を見て、三太は自分で自分の目を疑ったほどだった。
未夢の話では、成人式後の飲み会の席で、週末、一緒に出掛ける約束をしたのだとか。
全く覚えていない三太だったが、願ってもない誘いに乗らない手はなかった。
「先輩、今どこですか」
どこか切迫した声を出す柊にも三太はのんびり、
「今、家でたとこ」
と答える。
受話器越しに大きな溜め息が聞こえてくる。
「駅ビルはもういいです。駅前のカフェ、カンゾーで待ってます」
場所がわからないというと、柊は短く、駅前のパチンコ屋の名を告げた。
「来てください、早く」
相槌を打っている最中に電話は切れた。
まったく騒々しい奴だ。
三太は駅へ向けて自転車をこぎ始めた。
未夢とのデートで三太にあった良いところなど、ないといって過言ではなかった。
買っておいた遊園地の切符は忘れてくるし、絶叫系の乗れない彼は、無理に乗ってトイレに駆け込む始末。
ディナーではメニューを読めず、やっとの思いで頼んだ赤ワインで悪酔い。
デート中、会話が途切れることも間々にあった。
三太自身、終盤になると自棄めいて、自分の愚かさにただ苦笑せざるを得なかった。
駅まで送ってくれるだけでいいという未夢の申し出も、当然のことのように思えた。
いい夢を見せてもらったと感謝する一方、人生で幾度とないチャンスを台無しにしてしまったことを悔やむ気持で、無言で先に行く未夢の後ろ姿を見た三太の顔はひどいものになっていた。
駅前広場に行き着いた三太は、まず彼女に謝った。
謝ったところでなにも変わらないことを知ってはいたが、体育会系の彼はとにかく一度謝っておきたかった。
背中で謝罪を受けた彼女は、徐にベンチに座り、無言で三太も座るよう促した。
その意味を探りながら理解に苦しみつつ彼は座った。
どうせいいことはないに決まっている。
今日の出来事を受けて、いい印象を抱く女性がいるはずはない。
もしかしたら、広場を行き交う公衆の面前で説教を受けるのかもしれない。
体の大きな男性が一回りも小さい女性に怒られていると笑われるのだ。
しかし自分には、それに反論する権利はないだろう。
三太は覚悟を決めて肩を縮めてベンチに腰を下ろした。
だから、その縮めた肩に柔らかな感触を受けたとき、彼は起こっている事実をうまく飲み込めなかった。
こうしてると、落ち着く。
未夢は三太の肩に頬を乗せ呟いた。
体が大きな人って、とっても温かい。
一層体を硬直させ、彼は未夢の体温を肩に感じる。
私、この感触、好きかも。
腕を擦りながら言った未夢の一言が、三太を完全に沸騰させた。
また会ってくれる?
その言葉に、彼は広場を行きかうサラリーマンの群れに目を向けながら何度も肯いたのだった。
思い出の駅前広場を横切ると、大通り沿いに三太行きつけのパチンコ屋がある。
今日は毎週恒例のイベントデーだ。
看板に視線が釘付けになりながら道路沿いに自転車を止め、交差点を渡って柊がいるであろうカフェへ足を向けた。
「先輩、もう着きました?」
電話を入れると柊は早速そう聞いてきた。
うん、と短く答え、その姿を探すが、狭いカフェ内にはその姿が見えない。
「すいませんけど、今、移動中なんですよ」
「どういうこと? お前がここで待ち合わせだっていったんだろ?」
「いえ、そういう意味じゃなかったんですけど・・・」
はっきりしない柊の受話器からは、呼び込みやら勧誘やらの声が聞こえてくる。
「お前、どこにいるの?」
「今、商店街を歩いているところです。すいませんけど、急いでこっちにきてもらえますか」
商店街は三太のいるカフェの通りを一本入ったところだ。
彼は釈然としない気持ちを落ち着かせて早足で歩き出した。
「で、どこに行けばいい」
「どこって言われても・・・」
「おまえ、一体さっきからなにしてんの? 俺をからかってるのか?」
「いえ、そういうんじゃないんですけど」
「じゃあなんだよ」
「見せたいものがあるんです」
「見せたいもの?」
話しているうちに商店街に着き、ケータイ電話を片手に背伸びをしながら柊の姿を探した。
「商店街を一本折れました。本屋さんの脇道。分かりますよね」
彼女の言っている本屋はすでに前方に見えていた。
「どこに行くの? その脇道を抜けても、住宅街に繋がっているだけだったと思うぞ?」
三太は本屋を曲がり、急にひっそりとした細い坂道を登っていった。
確かこの先には・・・。
そう思った矢先、極めて怪しげに電柱に隠れる柊の姿を発見した。
前方の何かを探っている彼女の頬にケータイを押し付けると、柊は驚いて後ろに飛びのいた。
「ここでなにしてるのさ」
わざと声を潜めて面白半分に三太は聞く。
「もうちょっと優しく声とか、掛けられないんですか」
憮然とした態度で頬を擦りながら、柊は前方を指差した。
「この先には確か、ラブホくらいしかなかったはずだけど・・・」
そういって目をやった先には、坂を上っていく人影が二つあった。
「カップルだ。ありゃ完全にこれからってとこだな」
寄り添う二人を見て笑う三太を置き去りにして、柊はずかずか坂を上り始まる。
「なに? 俺たちも今から行こうっての?」
冗談交じりに言いながら、彼は柊の後をついていく。
彼女の歩幅は大きく、先行くカップルとの距離が縮まっていった。
「まだ分からないですか?」
そういって彼女が顎をしゃくった先には、クリスマスの電飾がされているアーケードのあるホテルがあった。
「なにって、あれはラブホテルと、そこに入ろうとしているカップル―――」
と言い掛けた彼の目に飛び込んできたのは、男と腕を組んだ未夢の姿だった。
「分かりました?」
柊はそういいながらずんずん未夢に近づいていく。
「待って・・・」
口から出た言葉は言葉にならず、視線だけが柊を追いかけた。
彼女に話しかけられた未夢は男と組んだ腕を解き、三太の方へ顔を向けてきた。
その顔は特に驚いた風でもなく、むしろ厄介ごとを抱えてしまって億劫そうな顔だった。
三太が彼女に歩み寄れずにいると、未夢は彼と柊は勿論、一緒に居た男も置き去りにして歩き始めた。
柊は未夢の背中に何か言葉を投げかけたようだったが、彼女が足取りを弱めることは無かった。
「あの子、こういう噂、結構あったんですよね」
漸く歩み寄った三太に、柊は申し訳なさそうに呟いた。
「口で言っても信じてもらえないと思って、ちょうど現場に出くわしてしまったものですから・・・」
呆然と未夢が去っていった道の先を見つめる彼に柊は声を掛ける。
「私、余計なお世話でしたか?」
冬枯れの木に木枯らしが吹き、カラカラに乾いた枯葉が、佇む三太の足元に寂しく落ちた。
今年のクリスマスは、初めて恋人と過ごすことができる。
そう期待していた、クリスマスの三日前の出来事である。
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