006 宿屋「樫の梢亭」にて
まさかロッタがふたつも年上だったとは。
自ら新参者の応対をするマスターといい、冒険者ギルドの女性は予想の斜め上を行かないと死ぬ呪いにでもかかってるのだろうか?
まあそれはいい。俺は気を取り直してポーチから木箱を取り出した。中には細々《こまごま》とした私物……そのひとつ、古びた髪飾りが、傍らの居酒屋から洩れる灯りに照らされてキラリと光る。
物自体はありふれた品で、特別高価ではない。だが俺にとっては――そして願わくば彼女にとっても――大切な想い出の品だった。
(リーズのやつ、どうしてるかな)
瞼の裏に、幼き日の記憶が甦る。
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母さんは現役冒険者だった頃、ここ迷宮都市リンゲックでは「樫の梢亭」という宿屋に逗留していた。長いことこの町を拠点としていたので、実際には定宿というより下宿に近かったが。
もとは賃貸住宅だった建物を転用したらしく、部屋にキッチンがあったのが気に入ったらしい。あの人は絵画や陶芸、音楽など多趣味で、料理もそのひとつだった。
ちなみに腕はどれもプロ顔負けレベル。仮に武芸者としての能力がなくても、料理人なり芸術家なりで生計を立てていけたんじゃないかな?
とはいうもののSランク冒険者、しかもその中で最強の勇者と呼ばれる人が木賃宿(食事が出ない安宿。宿泊客は自炊し、燃料の薪を購入したためこう呼ばれる)を利用するのは嫌味というものだろう。そこでこの宿というわけである。
ここを選んだもうひとつの理由は、依頼で町を離れている間、まだ幼い俺を預けておくためだった。幸いにして宿主夫婦は揃って親切な人で、快く引き受けてくれた。そして俺は、ここの娘さんと自然に親しくなったのだ。
その少女がリーズだ。俺と同じ黒髪は珍しかった――この国ではダークブラウンの髪はよくいるが真っ黒は少ない――ので、よく覚えている。俺を預けたのは、同年代の子と一緒に勉強したり遊んだりといった、ごく普通の経験をさせてやりたいという、母さんの愛情でもあったのだろう。
そんな母さんにも、冒険者を引退する日がやってきた。
町を去るとき、リーズは大泣きして、いちばんのお気に入りだったこの髪飾りをくれたのだ。これを見るたびに私のことを思い出して、と言って……
今にして思えば、淡い初恋の記憶だ。
(ま、将来を誓いあって別れたわけでなし、向こうがどう思ってるかは知らないけどな。俺のことなんぞ忘れてるかもだし、あれほどの美少女を周りが放っておくわけないから、彼氏の一人や二人いてもおかしくないし。でも、どうしてるか知りたいくらいはいいだろうさ)
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懐かしい「樫の梢亭」は、俺がでかくなったからだろう、記憶より少し小さく感じられた。三階建てで、一階は受付カウンターとロビー兼用のバル、二階から上が客室および住居というオーソドックスな造り。
カウンターには女将さん、つまりリーズの母であるエマおばさんがいた。娘と同じ黒髪で、シンプルだがおしゃれな眼鏡の赤いフレームと、宝石のような青紫の瞳が好対象をなしている。
「ヒデトちゃん! いやもうヒデトくんかしら? 大きくなったわねぇ……」
「お久しぶりです、おばさん。またお世話になります」
「あの可愛らしかった子が、今や竜殺しの剣士だなんて。私も歳をとるわけだわぁ」
「十分お若いですよ。たしか母さんより二つ年下でしたよね?」
「あら、いつの間にそんなお世辞を覚えたの? あなたー、お客さんよー! ほら、昼間の手紙のー!」
宿の主であるおじさん、つまりリーズのお父さんとの再会。出迎えにそのリーズ本人がいないのは気になるが、たまに手紙のやりとりはあったので元気なのは知っている。この様子からして、まさか今日いきなり行方不明になったわけでもなかろうし、偶然留守なだけだろう。
なんでも彼女には魔法の、それも極めて高いレベルの適性があったという。行き先は魔法使い関連の施設かもしれない。
思い出話に花を咲かせたり、耳に痛いお小言を頂戴したり……しばし穏やかな時が流れた。
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「あの……差し支えなければ聞きたいんですが、リーズは?」
「ふふ、心配? 安心して、今夜はフィーネちゃん……友達のところにお泊まりに行ってるだけで、明日のテストで会えるから。でも、あの子のことを気にかけてくれてありがとう。きっと喜ぶわ」
ああなるほど、女子会とかパジャマパーティーとかああいうのね。
「そうでしたか。なら明日に備えて、少し早いけど休んだほうがいいかな」
「それがいいわ。はい、これが部屋の鍵。前にあなたたちが住んでた部屋は、今はちょっとした観光名所で、特定の人が住んではいないのよ。なにせ勇者様が暮らしてた部屋だからね」
ええ……変な落書きとかしてなかったろうな? 俺。
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部屋はこぢんまりとした造りで、暖房兼用の竈と小さな流し台のほか、質素なベッドとテーブル、背もたれのない椅子がひとつあるだけのシンプルなものだった。飾り気らしきものといえば、壁に掛かった小さな銅版画くらいか。
母さんが見たら、三畳ひと間がどうとか、カンダ川がこうとか歌い出しそうだ。あとアルルの寝室。
収納魔法のポーチがあるし、そもそも俺は部屋なんて寝られりゃいいってタイプなので、この広さで十分なのだ。
ていうか、最小限のスペースを限界まで活用してるコンパクトな部屋って、なんとなく「秘密基地」っぽくてワクワクするよな。男の子はいくつになってもこういうのが好きなのよ。
そんな最低限の広さだが、テーブルに置かれた銅製のウォータージャグと真鍮のランタンは、シンプルかつレトロなデザインでなんとも趣があり、おじさんとおばさんのセンスが感じられる。いい部屋だ。
「戻ってきたんだな、この町に」
新生活の初日はこうして暮れた。俺は装備の点検をしてから軽く汗をぬぐい、矢立(インク壺を備えた筆記用具の携帯ケース)を取り出して母さんへの短い手紙をしたためると、すぐに深い眠りに落ちていった。