001 十五年前の惨劇
「私は必ず、この世界に戻ってくるわ。今度こそ、本当の魔王としてね! その時こそあなたを倒す。この左手の恨みは、かなら……」
姉さんが最後まで言い終わらないうちに魔界の扉が消失し、辺りは先刻までの喧騒が嘘のような静寂に包まれる。緊張の糸が切れたためだろう、今まで気づいていなかった疲労と激痛がいっぺんに押し寄せ、私はその場に崩れ落ちた。
全身が鉛のように重い。バラバラになりそうなほど痛い。
動けない。まるで自分が、コンクリの床に思いっきり叩きつけられた粘土の人形みたい。
むっとするような血臭が鼻をつく。喉の奥までベタついて血の味がする……。当然か。そこら中に死体が転がってるし、私だって流血、吐血、返り血あわせて血まみれなんだから。
周囲はまるで戦場のようだった。
あるいは地獄というべきか。
神殿か遺跡か知らないけど、だだっ広い石造りの広間には柱や彫像の破片が散乱し、所々で小さな残り火が燃えている。あの肉片は、原型を留めてないけど姉さんの左手首かしら……。召喚された魔物の死骸に至っては、数える気にもなれない。
織田のおじさま――姉さんの旦那さんだ――が倒れている。動く気配はない。よく見たら頭は仰向けだけど、体はうつ伏せだった。ああ、そりゃ動かんわ。
そして……私がただひとり愛した男性である夫も、今やぬくもりを失いつつある無惨な姿となって、ぽつん、と寂しげに横たわっていた。
なによ、なんなのよこれ。
夢なら今すぐ覚めてよ。寝不足でも我慢するから。
ドッキリならとっととネタばらししてよ。許してあげるから。
でも、絶望的な現実は変わってはくれなかった……。
その時だった、不意に赤ん坊の泣き声が聞こえてきたのは。もしかしたら戦闘中は怒り狂い、今は呆然自失状態だった私が気づいていなかっただけで、ずっと助けを求めて泣いていたのかもしれない。
(……秀人ちゃん?)
私は激痛を押して立ち上がった。
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「よく……生きていたわね」
信じがたいことに、嵐のように吹き荒れた破壊と殺戮の真っ只中にありながら、秀人ちゃんは傷ひとつ負っていなかった。
奇跡だ。まるで世界そのものが意思を持って、この子を守護っていたようですらある……。
泣き止む気配はない。私は直感的に衣服をはだけ、その小さな口に自らの乳を含ませた。
「ごめんなさいね。私じゃおっぱいは出ないけど、今はこれで我慢して」
それでも赤子はすぐ静かになり、夢中で私の胸にしゃぶりついている。母乳こそ出ないけれど、女性の腕に抱かれて乳を吸うことで、本能的に母親の存在を感じて落ちつくのだろう。
「……母親、か」
涙が溢れ、急激に視界が滲む。
私だって母親になりたかった。あの人の、愛する夫の子を産みたかった! でも、それはもう叶わない夢。
「私はこの子をどうしたらいいの? 教えてよ、あなた……」
おぼろげな視界の先から、もちろん応えは返ってこない。私が決めなくてはならないのだ。
(私はこの子をどうしたらいいんだろう?)
この子は……姉さんの子だ。
愛する夫を殺した、決して許すことのできない仇の子だ。
でも、私の庇護がなければここで朽ち果てるしかない、か弱い嬰児でもある。
(私はこの子をどうしたいんだろう?)
どれくらい経っていたのか、いつしか秀人ちゃんは眠りについていた。その愛らしい寝顔は、私を信じて全てを委ね、安心しきっている。
(私は……この子を……)
そして、私が下した決断は――。
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迷宮都市リンゲック。
王都ロブルーファ、港湾都市ランテルナに次ぐ、エスパルダ王国第三の都市である。その通称は、周辺に複数の地下迷宮があることと、街並みが迷路のように複雑なことに由来する。
今なお多くの謎に包まれたダンジョンは、恐るべき魔物が跋扈する恐怖の空間であるとともに、多様な資源を産する無尽の鉱山であり、貴重な宝物が眠る太古の遺跡でもあった。
ゆえにリンゲックでは、「冒険者」と呼ばれるフリーランスの傭兵ないし狩人のような者たちが日々ダンジョンに潜ってはモンスターと戦い、様々な品を持ち帰ることを生業としていた。それらは時として庶民では一生お目にかかれぬ額で取引され、王都をはじめ内外各地の商人が行き交う。
また、リンゲックは王国のみならず、ノルーア大陸における魔法研究の最先端をゆく学術都市という側面も持っていた。ごく稀に発掘される未知の魔道具などを目当てに、多くの魔法使いや研究者が在籍しているためだ。
冒険者の活躍の場はダンジョンに留まらない。各地で被害をもたらす魔獣の討伐、合戦や仇討ちの助っ人、賞金首の捕縛、輸送物資の護衛など……要するに、並の腕と度胸では務まらないあらゆる依頼をこなす。彼らの中には、その武勲によって大陸全土に名を轟かせ、英雄と呼ばれる者さえ存在するのである。
危険と引き換えに、成り上がりの夢を見られる町。
己を駒とし命をベットする、荒々しい出世双六の盤。
それがここ、迷宮都市リンゲックだった。そんなリンゲックを訪れる商人たちから広まった噂が、ここ数日町を賑わせていた……
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話はしばらく前に遡る。少し離れた山間の町に、緑竜が出没したというのだ。
森の生態系の頂点に立つこの竜は、その名のとおり鮮やかな緑色の鱗――剣も矢も跳ね返す、鋼よりも硬い鱗――に全身を覆われ、それよりさらに強靭な牙が並ぶ口からは猛毒のガスを吐く。のみならず、牙と同等強度の爪をもつ四肢は熊さえ比較にならぬ怪力を有し、大樹のごとき尻尾による殴打も強力な武器となる。
むろん常人では、どの攻撃であれ一撃食らえば即死。王国が誇る騎士団ですら、複数をもってなお苦戦をまぬかれぬ、恐るべき魔獣であった。
もっとも邪悪ではあるものの性質は比較的温厚で、本来は人と活動範囲が重ならないよう奥地に生息している。だが先日落雷による山火事があり、獲物が減少したため家畜を狙って人里に出てきたらしい。
自警団や衛兵でどうこうなる相手ではない。町はすぐさま領主に救援を求めた。しかし伝令の移動や出兵準備に時間がかかるので、事態の収拾までには多大な損害が出ると思われた……が。
驚いたことに、領主の兵がくるより早く、たまたま町にやってきた旅の武芸者が、一人でドラゴンを討伐したというのである。
なんでも、ひと昔前に勇者と……拾い子の男児を育てていたことから時に「子連れ勇者」とも呼ばれていた伝説の女冒険者、「桜花の剣士」ことジュリアの桜色と対になるような漆黒の鎧をまとい、額の兜飾りは、勇者の日輪とこれまた対になるような半月。そして盾のように分厚い左の肩当てには、彼女と同じ桜のエンブレムが描かれていたそうだ。
王国の民には珍しい黒髪黒目で、まだ少年の面影を残す男だったらしい。だがその威風たるやあたりを払うもので、長身にたくましい体躯、顔は凛として涼やか。立ち居振舞いも堂々として、まこと華の若武者であったという……人の噂のことゆえ、多少の誇張はあろうが。
ともあれ、その武芸者は「頼まれてやったことではない」と謝礼を辞退したのみか、あべこべに高級素材であるドラゴンの死骸を、被害の補償のため惜しげもなく町に提供したそうな。
そして、武者修行のためリンゲックで冒険者になると言い残し、颯爽と去っていったという……。町との距離から考えて、そろそろ着いていい頃合いであった。
たった一人でドラゴンを屠った剣士!
はたしてどのような男なのであろうか? 迷宮都市の冒険者たちは、その武芸者をパーティの戦力に加えたいと思う者、話は尾ひれがついているのではと懐疑的な者、自分のほうが強いと対抗意識を燃やす者と様々ながら、噂を気にかけぬ者は一人としてなかった。
そんな迷宮都市リンゲックに、今日も多くの人がやってくる。その中に、半月の飾りがついた兜をかぶり、肩当てに桜が描かれた漆黒の鎧をまとう男の姿があった……。
この世界の誰も知らない惨劇の日から十五年。
少年の英雄譚はここから始まり……
勇者と呼ばれた女の復讐は、ふたたび動きだす。