ケアニンの仕事と本音と虐待
平日の昼下がり。
リビングで食い入るようにワイドショーを見ている中年女性。
暫くすると、ジャージ姿の青年が右肩にリュックを背負って入って来て中年女性に話しかけた。
「おかん、弁当できてる?」
中年女性は青年の問いかけには応じず、テレビに視線を合わせたまま口を開いた。
「老人ホームで虐待やて。怖いわ」
青年もテレビ画面に視線を合わせた。
ワイドショーの内容は、とある市の老人介護施設で利用者が緊急
搬送された。原因は全身火傷。介護職員が熱湯で利用者を入浴さ
せたとのこと。そればかりか利用者の身体には複数の打撲痕があ
り虐待の疑いがあり、市の関係者が事情を聴いているとのこと。
施設関係者は虐待の事実は否定している。
中年女性がやっと、青年に目を移した。
「あんたも気いつけや。逮捕されたら終わりで。愛美も結婚が決まったばかりや。破談になったら恨まれるで」
「そんなへまはせえへんよ」
「何や虐待してる言いかたやな…」
「あほか。もう、ええ。弁当早よくれ」
青年は美空望と言う。28歳。自宅から町のはずれにある特別養護老人ホーム(特養)「ふるさと」に勤めて3年が過ぎた。
今日は夜間勤務で16時から翌朝の10時まで勤めなければならない。望は施設まで約20分の道のりを原チャリで通勤している。
「ふるさと」は6階建てのわりに大きな建物で1階は事務所、医務室とデイサービス。2階はショートステイ、3~5階が特養となっていて1フロアに、2ユニット、1ユニットに10人が利用している。夜勤は1フロアを1人で見ている。つまり、20人の利用者を遅出勤務が20時に帰ってから早出勤務者が朝7時に出勤するまでの11時間を1人で対応しなければならない。
望が所属しているのは4階の「ひまわり」と廊下を挟んで「あじさい」ユニット。事務所でタイムカードを押してそのまま職員専用のエレベーターで4階まで上がる。日勤者はその日によって異なるが本日は各ユニットに4人配置されていた。望はフロアリーダーの二宮明のところに行った。二宮リーダーはその日の利用者の行動をパソコンに記録していた。
「お疲れ様です。変ったことありますか?」
「おはよ。野島さんな、熱が37.8℃あんねん。歩行も不安定やから要注意な。あと、宮城さん、昨日の夜中にNCずっと(鳴らしていた)らしいわ。詳しくは申し送りを聞いて」
「わかりました」
二宮リーダーは36歳。経験のない望を1から指導してくれた。言わば師匠である。なかなかの人格者でリーダー適任者というぐらい人間ができている。望も信用感は半端なく置いていた。
「美空、自分(介護の仕事)何年目?」
「3年になります」
「介福(介護福祉)のテスト、受けてみいへんか?この仕事してたら資格は必要不可欠やで」
介護の仕事をするのに必ず資格取得する必要ない。経験や資格があれば待遇面では有利ではあるが…やはり1人前の介護員として世間から認められるのは国家試験である介護福祉士の試験である。受験資格は色々ある。
介護経験ルート…大半の職員がこのルートで受験している。従業期間3年以上かつ従業日数540日以上の実務経験があり介護実務研修を修了している者
養成施設ルート…介護福祉士養成施設で2年以上学び卒業している。
福祉系大学、社会福祉養成施設、保育士養成施設卒業後に介護福祉養成施設で1年以上学び卒業している。
福祉系高校ルート…福祉系高校や特例高校を卒業する。
などの受験方法が望は介護経験ルートになりこの仕事をやって行くのに介護福祉士の資格は必要だと思っていた。
一言で3年と言っても素人から介護の仕事を3年も続けようとするのは並大抵のことではない。介護の現場は人間修行とも言われるほど、仕事自体にしても人間関係をおいてもハードであり、メンタルをやられてしまう。決して介護の仕事だけが特別きつい訳ではないのだが…現に望は前の仕事でかなり心に深手を負った。
高校を卒業してから望は停職には就かずにフリーター生活を送っていた。特に何をするでもなく外に出るときは夜間のコンビニでのバイトくらい。あとは家でゲームをしながら1日をやりきっていた。堕落した性格ではないが高校の時に「いじめ」られ不登校気味で卒業もなんとかできたという感じで自然にだらだら感が身についてしまった。母親に無理やり説得され何とかひきこもりまでは行かず、接客の少ない深夜のバイトをしていた。
「美空やん、ここでバイトしてんのや」
「あ…」
品出しをしていた時に声をかけてきたのは高校時代の同級生だった。望は逃げるようにバックヤードに引っ込んだ。こういうことがないようになるべく遠くのコンビニをしたのだが、この頃は免許ももってなく自転車での行動範囲はたかが知れていた。そして、その日の仕事明けにもっとも会いたくないやつが目の前に現れた。
「美空、久しぶり。香取からここでバイトしてるって聞いてん」
声をかけてきたのは望をいじめていた松野健人だった。望は向きを変えて自転車で逃げようとした。松野は望の肩をつかんでくいとめた。
「ちょっと、待って。謝りにきたんや」
無視してさらに逃げようとする望を松野は自転車のハンドルをつかんで動きを止めた。
「話だけでも聞いてくれへんか」
「今さら、謝られても…話することもない」
がハンドルを取られては身動きが取れない。望は観念した。二人は近くの公園移動してベンチに腰をかける。
「ほんまに今さらなんやけど…ずっと、気になっててん。高校んときは憂さ晴らしもあったし、確かに面白半分やった。卒業して社会にでるようになったら色々と考えることもあって、えらいことしてもうたと思って。今度会ったら謝ろうと思うて皆に見かけたら教えてなって言うててん」
望は立ち上った。
「もう、ほっといてくれ。謝って満足したんやったらええやん」
結局、自己満足だと望は思った。帰ろうとする望に松野は名刺を渡した。
「何やこれ」
名刺には松野グループ 専務取締役 松野健人と表示されていた。
松野グループは居酒屋「松っちゃん」を中心に焼き鳥、ラーメン、焼肉などを関西一円にチェーン展開している。松野はその社長の息子だった。
「罪滅ぼしってわけやないけど、美空さえ良かったらうちで働かへんか?来てくれるんやったら店長候補として待遇するよ」
「夜勤明けで、眠たいんや」
そう言って望は自転車に乗って去って行った。松野は後姿を見て握った手を震わせていた。
(俺がここまで言うてやってんのに…)
当然のことではあるが望は松野の誘いを受ける気はない。やっと、苦しみから解放されたのにどうして…やつの部下にならなければならないのか…ありえない。しかし、そう言っていられない出来事が起きてしまった。
望の父親・美空正義は中堅の印刷会社で働いていたがパソコンの普及により仕事が激減、不景気も伴って会社が倒産、失業をしてしまった。50歳での再就職はかなり厳しい。たとえ仕事が見つかったにせよ今までのような給料も貰えない。そうなると望が正社員となって家計を助けていくのが当然の流れになってくる。かと言って、
学歴、技術、資格も持ってない、唯一の取り柄は若いだけの望も仕事を見つけるのは容易いことではなかった。
望は上着のポケットからくしゃくしゃにして放っていた松野の名刺を机の上において腕組みして考えた。
(嫌だったら辞めたらいいか…)
携帯を手に取って番号を押した。
次の日、望は松野と本社ビルで会った。
「正直、連絡くれるとは思ってなかったわ。ちょうど、松ちゃん(居酒屋)の2号店の店長が辞めたとこやってん。助かるわ」
「ほんまに社員にしてくれるんやろな」
「それは美空の努力次第やで。3か月の研修期間の後、判断させてもらうわ。まずは店に慣れてからやな。とりあえず、親父に会わせるわ」
2人は最上階にある社長室に入った。中には割腹のいい威圧感のある松野勇次郎が大きな机に座っていた。息子である松野もやや緊張しているのが伝わってくる。
「社長、話していた美空望君です」
勇次郎は立ち上って望達の前まで来た。更に威圧感が増す。美空の父・正義に見られない重圧感を感じる。
「息子と同級生やてな。うちもな、これからこいつ(健人)にがんばってもらっていずれは世代交代をしてもらわなあかん。まあ、力になってくれ」
望は肩を叩かれた。この時に松野に対しての不信感は消えた。だが、現場は望を歓迎してくれなかった。居酒屋の店長なんて所詮、飾り。
松ちゃん2号店を仕切っていたのは厨房の責任者、料理長の中居行長であった。中居は勇次郎が1号店を始めた時に料理長として勤めていた。その信頼感から2号店を任されていた。何の苦労もせず専務の職についている健人も気に入らない。その健人が連れてきた若造を相手にするわけがなかった。ほぼ、中居が原因で2号店の店長はころころと変わっていた。さらに業務が過酷で始めに厨房に入ってメニューを覚え、フロアで接客、店長としての勉強会。朝から市場に行き、昼過ぎには店に入り、掃除に仕込み夜中の12時閉店。片付けが終わったら2時過ぎであるがタイムカードは時間外が付かないように昼の4時から夜の1時に押すように言われた。バイト経験しかない望はそれが当たり前だと思っていた。休みも勉強会や講習などで1ヶ月に1回取れれば良い方で勿論、休日出勤手当は出ない。そんな状態で望に勤められる訳がなかったが、父親の就職が決まらずに辞めるに辞められなかった。中途半端なことをやってきて家族のお荷物扱いされていたのが一気に救世主にのし上がった。ここで仕事を辞めれば前以上に株が下降してしまう。せめて父親の仕事が見つかれば辞められるのに…
久しぶりの休みの日に望は部屋で寝ていた。部屋をノックする音が聞こえた。うっとうしいそうに返事すると父親が入ってきた。
「寝てるとこ、悪いな」
「あ、いいよ」
本当はかなり迷惑だった。父親が望の部屋に入るのは随分久しかった。望と話することもここ数年殆どなかった。引きこもり気味の望を良くは思ってなかった。
「なに?」
「あ、うん…仕事はどうや?」
「別に…」
「そうか、毎日遅くまで大変やな。一度、お前に謝りたくてな。いつも遅くまで働いているさかいに声かけられへんかった」
「謝る…ってなんで」
「お前のこと、怠けもんやと思っとったわ。きちんと仕事せんと何をしとんのやと。仕事を失ってな、働きたくてもでけへん。色んな事情で働かれへんこともあるんやと気付いた。気持ち的なもんでな」
「ええよ。ほんまにあかんかったし」
「お母さんから聞いとる、仲の悪い同級生とこで働いているんやてな。俺が仕事見つけたら好きなことしてええで」
「うん。今んとこ大丈夫…」
「そっか、まぁ、早いとこ仕事見つけるわ」
「わかった」
正義は望に対して後ろめたい思いがあった。望は正義が来たことでますます仕事を辞めるわけには行かなくなった。
「店長代理、わしら明日も早いから先帰るさかい、あと頼むわ」
閉店後、厨房の洗い場には汚れている食器が沢山あった。本来なら厨房スタッフが片づけて帰るのだが中居の策略で望は毎日、食器洗い、厨房の掃除、売り上げの計算をしてから帰宅となる。
「あいつら、ほんまに何様や」
フロアスタッフの要太一は好き勝手やっている厨房の社員に対して良いようには思ってなかったが、中居には逆うことはできなかった。だから表向きではないが、要は望に対して好意的ではあった。そんなある日のこと、店に4人の女子が入ってきた。望はどこかで見たことのある顔だった。後から松野が店に入ってきた。
「美空、彼女たち知り合いだから安くしといて。お前、覚えてへん?同級生の三津葉早苗とか長倉」
「なんとなく…」
松野は4人が座っている席に美空を連れて行った。
「三津葉、久しぶり今日はありがとな。美空、覚えてる?今、うちで店長代理やってもらってんねん」
望は軽く会釈をする。高校の同級生は会いたくない。
「ほんま、美空君や。すっごい偶然やな」
「偶然ちゃうで。スカウトしてん。昔、迷惑かけたしな」
「そーなんや」
三津葉早苗は覚えている。学年でも目立っていた。あと、長倉千秋は可愛くてけっこう人気があった。化粧して大人っぽくなり可愛さが増している。後の2人は覚えていない。
「じゃあ、あとは美空に言って」
「松野君、帰るん?」
「残念やけど、仕事が残ってんねん。ほな、美空。後は頼むわ」
松野は出て行った。望も彼女らと話することなく業務にあたっていた。しばらくするとフロアスタッフから美空に報告が入った。
「店長代理、専務の客が隣の男の人らにからまれてますよ」
見に行ってみると4人の横に座っていたサラリーマン風の男がちょっかいを出していた。望は1回ため息をついて席に向かった。
「お客様、席にお戻り下さい」
望がおどおどしていたので男は大きく出た。
「何、ゆうてんねん。一緒に楽しく飲もうってゆうてるだけやん」
「こちらのお客様が迷惑されています」
少し、騒ぎが大きくなったの見て男の同僚が男を止めた。
「あっちゃん、もう、ええやん。行こ。すまんな。おあいそして」
居たたまれなくなったのか渋る男を同僚が無理やり店から連れ出した。
「美空君、ありがと」
「あ、いや。ごゆっくり」
飲み屋の席なのでこんなトラブルは多々あった。何度も客ともめることもあるが今日はあっさりと引いてくれたので助かったが、内心は動揺していた。帰り際、三津葉が望に声をかけた。
「美空君、今日はほんまにありがと。見直したわ」
三津葉の言葉より、長倉からじっと見つめられ会釈したほうが気になった。それから三津葉と長倉は店に訪れるようになった。望も根は暗いほうではなく顔なじみになると少しづつ話をするようになった。辛いだけの仕事だったが初めて本当にやる気になった。
ある日、長倉が1人で店にやってきた。普段、三津葉がよく話しかけて長倉は口数は少なかったがその日は輪をかけて口が重くひどく落ち込んでいる様子だった。その理由は三津葉からの電話で明らかになる。長倉が来店してから30分後に三津葉から長倉のスマホがなる。
「そうなん…仕事なら仕方ないね。わかった…」
そう言って望に長倉が携帯を渡す。
(美空君、今日な千秋とそっちに行くんやったんやけど、仕事で行けへんくなってん。千秋な、彼とけんかして落ち込んでるんよ。悪いけど、面倒みてくれへんかな)
「いや、ちょっと、待って…」
用件だけ話して望の話を聞かずに携帯を切った。三津葉はそんなとこがある。スマホを長倉に返す。
「早苗が来れないなら帰るわ」
帰ろうとした長倉に望は声をかけた。
「せっかく来たんやから、少し飲んで帰れば…」
長倉に彼氏がいたのは知っていた。直接聞いたわけではないが三津葉と話をしているのをなんとなく聞いていた。それでも望は長倉の事が気になっていた。三津葉がいるので殆ど話はしていない。なのである意味今日はチャンスでもあった。まさか、望が引き止めるとは思っていたので少し驚いたが独りではいたくないので長倉は留まった。
「うちが落ち込んでるって早苗から聞いたんやろ」
「うん、まあ」
珍しく長倉は荒れていた。普段はサワーかワインを嗜む程度だったが今日は焼酎のロックをから5~6杯を早いピッチで開けている。勿論、テンションも上がっている。望と付き合いでコップ一杯、飲んでいるが仕事中で下戸なのであまり進んでいない。
「美空くん、飲んでる?」
「いや、まだ仕事中やから…」
「美空、使えねえやつやな」
絡んでくる長倉の意外な一面を見たが逆に親しいさが増しかわいいと思った。やがて長倉は酔いつぶれてしまった。
「どうします。店長代理?」
「送って行くわ」
「ほな、あとはやっときますわ。先に上がって下さい」
望はちらっと目で厨房を伺ったが要の言葉に従った。長倉を抱えて店を出る。女性とここまで接近したのは初めてだった。野郎とは違う体の柔らかさとパフュームが刺激的だった。
「あいつ(店長代理)どこいったんや?」
フロアを片づけていた要に中居が声をかける。
「用事があるから先に帰りましたよ」
「なんやねん。皿洗い残ってんのに」
「いい加減。こき使うのやめたらどうです。また、辞めさせる気ですか?」
「やかましわ。バカ息子(松野)が連れてきたやつなんか、ろくなんがおるかい。しゃーないな」
中居は渋々、部下に厨房の片づけを言い渡した。中居の怒りは望には届いてなかった。幸せの絶頂だと思われたがそうでもなかった。
「き、気持ち悪い…吐きそう」
「え?」
長倉は道端にしゃがみ込んだ。
「あ、えっ、ちょっ。大丈夫」
望は長倉の背中をさすった。嘔吐物で服が汚れている。
「あー、もぉ最悪…」
望は持っていたハンカチで長倉の服を拭いたがシミは残っている。
「あー、ごめん」
長倉は道に座って笑い出した。
「もう、ええわ。美空君、優しいんやね。うちのんと全然、ちゃうわ」
長倉は一際明るい看板の建物を指さした。
「あそこ、入ろう」
「えっ?」
望は驚いた。長倉の指先に建っていたのはファッションホテルだった。
「あ、誤解せんといて。このブラウス気に入ってるからシミ残したくないんよ。それにもう、しんどくて歩けへん…」
そう言われても経験のない20歳過ぎた青年にはかなり刺激的で誤解しないほうが無理だった。しかし、こんな状態で家まで送って行くのは無理だし長倉の方から誘っているので断る理由はなかった。
長倉はホテルの部屋に入るなりトイレに駆け込んだ。まだ、嘔気が残っている。望は興味津々で部屋を散策する。時間が経ってもトイレから出てこない長倉を心配して声をかけるが返事がない。カギはかかってなく少し覗いて見ると中で倒れていた。
「長倉、長倉…」
揺さぶっても返事がないので仕方なくベッドに連れて行った。寝せるとブラウスの汚れが気になる。少し考えてブラウスを脱がした。刺激的な姿に湧き上がる欲情をぐっと抑えて布団をかけた。そして浴室でブラウスを洗う。服を洗うなど殆どやったことがない。
(乾くやろか…)
部屋に戻り長倉を見る。寝息を立てて完全に寝ている。高校時代に彼女とこんなところに来るなんて想像さえもしなかった。そんなことを考える状況ではなかったのだが…ソファに座り、テレビをつけた。内容は入ってこない。頭の中はSEXのことでいっぱいだった。
しかし、それを実行する勇気はなかった。彼女はとてもそんな状態ではなかったし、自分の欲求だけで襲うのは人間的に違う理性が働いた。俗に言うところの“蛇の生殺し”状態で悶々した状態でソファで寝てしまった…
望が目を開けるとすぐにびくっとしてしまい飛び起きた。
「おはよう。大物女優のSとお笑いタレントのWが結婚やて。誰のことやろね」
望が寝ていた横で長倉が朝のワイドショーを見ながらバスタオルを体に巻いた姿でトマトジュースを飲んでいた。
「服、洗ってくれてんな。ありがと。助かったわ」
「あ、別にええよ。乾いてた?てか、大丈夫?」
望は目のやり場に戸惑いながらおどおどしていた。
「服はまだ、湿ってるわ。今日は会社、行かれへんわ。電話しとこ」
携帯で風邪を引いて体の調子が悪いと言い訳している。横目で見ながらその演技に望は怖さを感じた。
「これでよし。ここに入ったことまでは覚えているけど、それから全然覚えてへん。起きて風呂入ったらさっぱりしたわ」
体の火照りから風呂上がりだとすぐにわかった。色っぽく刺激的だった。
「トイレ行ったと思ったら中で寝てたわ」
長倉は望の方を向いて正座して深々と頭を下げた。
「ほんまに申し訳ありませんでした。不徳の致すところでございます」
「そんなに謝ってもらわんでもええよ」
別に迷惑だと思っていない。逆に女性と、こんな場所にいることがものすごく新鮮でドキドキしていた。何もなかったけど…と気持ちを悟ったのか、それとも単なるいじわる根性か長倉が軽く挑発してきた。
「美空君、ほんまにまじめやな。うちに興味がないだけやろか」
「そんなことないよ。しんどそうやったし。今もそんな姿みせられたら」
長倉は顔を近づけて微笑んだ。目をトロつかせて艶っぽい。
「今からする?」
「え…」
長倉の方から唇を合わせてきた。軽くキスをする。
「ええよ。どうせ服まだ乾いてへんし」
一瞬、服が乾くまでの暇つぶしかと思ったがそんなことはどうでもよかった。長倉を抱きかかえてベッドに移動する。一糸纏わぬ異性の生裸を初めて目の前にして、ある意味大人の男性になる儀式を迎えた。
「店長代理、話があるんですが」
閉店後に要が望の話しかけてきた。要はいつになく真面目な顔だった。店では話しにくいと言って2人はファミレスに入った。
「で、話ってなんなん?」
要は知り合いがいないか周りを見渡した。余程重要な話だと望は感じた。
「うちの店ってブラックだと思いませんか?」
それは薄っすらと感じていたことではあったが口に出されたことで確信に変わった。それでも否定も肯定も出来ない。
「うん、まぁ、なあ」
返事を濁した。しかし、一度、口を開くと要はそれまでの想いを語った。
「そうやないですか。拘束時間は長いしその割に残業手当は殆ど使へん。中居みたいな古株がのさばって好き勝手やってるし。一番の被害者は店長代理やないですか」
多分、要が一番に怒っているのは中居のことだろう。今まで我慢していたのが一気に爆発した感じだった。
「そやからってどうにもでけへんやろ」
「専務と店長代理って同級生ですよね。一度、話してもらえへんでしょうか?」
「同級生て言うてもそない仲がいいわけやないし、寧ろ、反対に好きやないて言うか…」
「そうなんや…わかりました。僕、嘆願書を書いて来ますからそれ、渡してもらえへんですか?」
「うん…それくらいやったら…」
望の内心は勿論嫌だったが全面的ではなかった。頼られることが嬉しかった。長倉の事や部下に頼られることによって望は変わっていった。
数日後、望は嘆願書を持って松野に会いに本社に行った。前に連れていかれた社長室の下の階に専務室は社長室に負けず劣らず豪華なデスクやソファが置かれていた。本来なら望の立場ぐらいだったら入ることはなかった。
「仕事、慣れたん。なんか、がんばってくれてんな。まぁ、座って」
2人はソファに座ると秘書がコーヒーを運んできた。
「そや、三津葉らが店に来た時、助けてくれたそうやな。びっくりして耳疑ったわ」
「最近、たまに来てくれてる」
「ええことや。で。何の用事や?」
昔の遺恨がありあまり世間話は続かない。望もできたら早くこの部屋を出ていきたかった。望はカバンから封筒を取り出して松野に渡した。
「なんや、これ?」
「うちの社員が仕事に対して不満があるって言うていうてんねん。改善内容が書いてある」
松野は封筒を開け、内容を確認した。残業時間手当の要求、教務内容の改善後、中居料理長に対する不満などが書かれていた。
「なるほど」
「何とか、ならへんやろか」
望の一言で松野の顔色が変わった。
「何とかってそれをするのが自分の仕事ちゃうんか。ここに来る前にやることあるやろ。ここだけの話やけど、確かに俺も中居は好きやない。けどな親父と共にこの会社を支えてきた人間に意見を言えるわけないやろ。残業手当は考えておくわ。後はそっちで何とかしてくれ」
「わかったわ。それだけでも頼むわ。すまんかった」
望はそれ以上意見を言うことが出来なかった。
「なぁ、自分はこの要に利用されているだけや。もう少し、考えてくれへんといつまでも代理は取れへんで」
望の帰り際に松野が言い放った。店に帰り、要にそのことを話すと残業手当だけでも応じてくれるならと納得した。が、待てど暮らせど改善される様子はなかった。望はそれより気になることがあった。それは長倉のことだった。たまに店に顔を出すが必ず三津葉がいて殆ど話しできていない。会話を盗み聞きして彼氏とは別れていない感じだったがどこの誰かはわからない。ただ忙しくてかまってもられないと愚痴っていたのを聞いた。どうしてそんなやつと付き合っているのか意味がわからない。しかし、あれ以来、何の進展もなく望は想いを募らせていたが、長倉は望を避けている様子さえ感じている。いや、長倉は多分、前と変わっていないのだが望の気持ちがそう思わせている。そんなことを思っているうちに今度は要が音沙汰のない会社に業を煮やし望を煽ってきた。
「店長代理、このままやったら俺、労基(労働基準監督署)に行こうと思っているんやけど…」
「ちょっと、待ってくれ。もう、動いてくれてるかもしれんし、こういうことは時間がかかるんや」
「そやけど…もう、1ヶ月ですよ。あんまりとちゃいますか」
ここでまた、松野に話をしても機嫌を損ねるだけだと思った。まさに板挟み状態である。望も段々とフラストレーションが溜まってきていた。そんな時に事件は起きた。中居は本社に呼ばれていた。帰って来るなり開店準備をしていた望の胸倉を掴んだ。
「おう、ようもあることないこと、あのボンクラに吹き込んでくれたな」
普段なら大人しく言いなりにしているが望も我慢の限界に来ていた。
「自業自得やろ。こんなことばっかりやってるやろ。色々、言われて当たり前や」
「なんやと。俺がどんな苦労して社長と店をここまでしたと思うてんねん。もう、こんなとこ辞めや」
中居は望をカウンターに叩きつけて店を出て行った。
「おい、今日の仕込みどないすんねん」
騒ぎを聞いて厨房にいた料理人達が出てきた。しかし、中居を追いかける者はいない。副責任者の中島が声をかけた。
「しゃーないわ。俺たちだけでやるわ」
実は料理人達も中居の事はよく思っていなかった。独裁者の最後は哀れなものだった。その日は何とか対処できた。いつもより活気があったように感じたのは望だけだったのだろうか…
次の日、望は社長室に呼ばれた。中には松野も居た。松野勇次郎のいら立ちはすぐに伝わってきた。入るとすぐにソファに座らされた。
「中居が辞表を持ってきた。お前とはやっとられんそうや。こいつ(松野)から大体の事情も聞いた。中居はなわしと一緒にこの松野グループを支えてくれた1人や。確かに粗忽な面はあるが料理人としての腕は確かや。うちとしてかなり痛手や」
「はあ…」
望は話している意味をあまり理解出来なかった。しかし、次の勇次郎の言葉で中居が辞めた原因が全部、自分のせいにされていることを知り、更に思いがけない事を言われる。
「率直に言うとケンカ両成敗と言うわけやないが君もこのまま置いてるわけにはいかんのや。今日限りで辞めてもらえへんやろか」
「そんな…」
勝手に因縁つけられてその責任を取らされての不当解雇。応じられる訳がない。解雇される理由はもっと他にあった。
「聞くところによると、うちの就業体制に不満があるみたいやな。しかも、他の社員のせいにしてるそうやな」
「それは違います。あれは要が…」
「そこやねん。人のせいにしたらあかんわ。たとえその子発信でも、これ(松野)に話したのは自分やろ。納得したから話持っていったんとちゃうの。そういうとこは責任持ってほしいとこやな」
いくら口答えしても勝てる相手ではなかった。
「退職金てわけやないけど、50万、振り込んどくわ。自分が働いた年数にしたら十分な金額やと思うで」
これでジ・エンド。有無も言わせずに何が何だか分からずに望は失業してしまった。松野は一言も喋らずに状況を見ていただけだった。見送りもなく望は本社を後にした。
夕方、松野は店を訪れた。要を見るや否やハイタッチをする。中島も厨房からホールに出てきて松野と握手をした。
「専務の計画通り。お見事です」
「美空くん、ぐっじょぶやで。ここまで上手く行くとは思わなんだな」
松野は何とかして中居を店から追い出したかった。それは要や中島も同じこと。しかし、露骨な手立てでは勇次郎から反感を買ってしまう。短気な中居を怒らせて自身で店を辞めてもらうあて馬が必要だった。それが望だった。気に入らない息子が連れてきた何も分からない男がいきなり店長候補になるとは実質、店ではナンバーワンの中居が従うわけがない。後は要と中島が焚き付けて2人を対立させる。うまい事乗せられて邪魔者はいなくなり、要は店長、中島は厨房責任者になり、松野の思いのままになる店舗が出来上がった。
「しかし、どうにもならないあの店長代理が急にやる気出したのはびっくりしたわ」
松野はにやりと笑って呟いた。
「それもからくりがあるんや…」
不当な解雇に対して望はそれほど、怒りを感じていなかった。店に対して思い入れもなかったし、正義も再就職が決まっていた。スーパーの宅配サービスの仕事で2トントラックのドライバーである。給料はそれほど高い訳ではないが贅沢をしなければ生活はできる。僅かではあるが退職金もあるし、仕事はゆっくりと探せばいいと思っていた。それにこれで本当に松野と別れられる。ただ、心残りは長倉千秋のことだった。店を辞めたら彼女ともう会う事はない。しかし、どうしても別れる事はできなかった。連絡をつけられない訳ではないが何をどう話していいのか解らない。迷走しているうちにひとつの光が降りてきた。三津葉から電話がかかってきた。
「松っちゃんやめたんやてね。昨日、千秋と行ったらおらんから聞いたら1週間前に辞めたって」
「辞めたんやのうて辞めさせられたんや…」
望は辞めさせられたことを三津葉に話した。実は誰かに聞いてもらいたくてうずうずしていた。
「何か、ひどい話やね。松野ももう少し、フォローしてくれてもええのに…千秋に言うて話してもらおうか?」
「え?なんで」
「なんでって。千秋の彼氏やん。高校から付き合ってるん知ってるやろ。あっ。そうか、美空君、あまり高校に来てなかったねぇ。ごめん、」
望には心に爆弾を落とされたくらい衝撃的な事実だった。
「でさぁ、松野、あんな性格じゃん、千秋も相当、苦労してるみたい、キャバ嬢とラインもけっこうやってるみたいやし、うちは何で別れんのかようわからん…」
三津葉の話を続けたが殆ど入ってこなかった。それからはそのことばかり、気になっていた。どういうつもりで自分と寝たのか。松野はそのことを知っているのか。だから、解雇されたのか…色々なことが頭を過ぎった。1つだけ確かなこと。長倉千秋は松野健人の彼女だという事実である。そして松野ならあの嫌味な松野なら長倉を奪うことができる。また、逆にある意味今までの恨みを返すことができると考えた。
望は長倉と会うために彼女が勤めている会社の前で出待ちした。望には一世一代の決意である。待つこと1時間ぐらい、同僚と話しながら出てきた彼女の前に現れる。一瞬、長倉は驚いた表情を見せた。
「美空くん…どないしたん?」
「ちょっと、話があるんや」
2人はカフェに入った。飲み物を受け取って席に着く。対面に座った長倉の顔を見ると胸の鼓動が早くなった。店では高校生の延長みたいでまだ、幼く見えるが、目の前の彼女は大人の女性である。望はそのような人種と話したことない。明らかに緊張している。沈黙が続いた。先に話したのは長倉だった。
「どないしたん。顔。引きつってんで」
「いや…」
「話ってなに?」
望はストローに口をつけて一気に吸い込む。コーヒーが気管に入り咽る。
「大丈夫?」
「だいじょうぶ、だいじょ…ぶ」
咳き込みながら応える。やがて落ち着いて望は口を開いた。
「彼氏って松野やったんやな」
望が現れた時点で話の内容は察知できた。三津葉からも話は聞いていた。
「せやで。それがどうしたん」
「あのこと、松野は知ってるん?」
「あのこと?」
望には一生忘れない出来事でも長倉に取ってはそう大したことではなかった。
「ホテルに入ったこと」
「ああ、さあ、どうやろうね。勿論、うちは言うてへんけど、店のこがちくったかも」
「店のこ?」
「要ってこ。美空くんの後に店長になったみたいやで」
「ええっ」
裏切られた気持ちは半端なかった。あれだけ会社に不満がありながら松野の下についている。自分の事を慕っていたのではないのか。色んな事が頭を巡ったが、当面の問題を解決する方が先だった。
「松野のどこがいいの?」
長倉は望から目線を逸らして窓の外を見た。
「ようわからん。昔は一緒におって楽しかったけど、今は会えへんことも多いし、一緒におってもケンカばっか」
しばし、沈黙が続く。望は脈がありそうな気がした。
「松野と別れて俺と付き合ってくれへん」
長倉はうすうす、感じていた。ホテルに行った後、店に行った時も望の視線は伝わって来ていたがあえて無視していた。ここに来たのもこうゆうことではないかと予想していた。それでも一応、考えるふりをした。言った後の望のドキドキ感は止まらない。そして、長倉の言葉を受け止めた。
「ごめん、松野とは別れるかも知れへんけど、今んとこ望くんとはないわ」
「えっ、でも…」
「あ。寝たことは忘れて。あん時はやつが浮気したから勢いでやっちゃって」
あえなく撃沈。期待しただけ、ショックは大きい。
「そ、言うことでごめんね。じゃ」
後腐れなく長倉はさっさと退散する。1人残された望は心に穴が開いたまま、家には帰らず、当てもなく街を彷徨った。
「松ちゃん2号店」に来た時は既に足はもつれてふらふらの状態だった。呂律も回っていない。
「要くん、ビールちょうだい」
「どうしたんですか?店長代理」
要が中ジョッキを持ってくると半分ぐらい一気に飲んだ。
「店長代理はお前やろ。出世やな。ここに不満があったんとちゃうん?」
「あ、おかげさんで専務と話し合って改善してもらいました。ほんまに美空さんのおかげですわ」
「何を言うてんねん。松野と仲よかったんやてな。全部、聞いしたで」
すべてを聞き出す為にかまをかけてみた。
「なんや全部聞いたんですか。それで文句でも言いに来たんですか。でも、美空さんを使って中居を追い出すアイデアは専務のアイデアですわ。文句なら僕にではなく専務に行ってください」
長倉にふられたことや要から裏切られたことはどうでも良かった。いや、正確に言えば長倉にふられたことは本当はかなりショックだった。要が店長代理になったことは本当にどうでも良かった。でも、どうしても許せないのは松野であった。だからと言って松野を呼び出し一発殴ってやろうとかは思うがそれは実際出来ない。多分、返り討ちにあうのがおちである。今の望が出来ることは呑んだくれることだった。
望は寒さで目が覚めた。なぜか枯葉で覆われていた。
「なんや、生きとったんか。ゴミやと思って燃やそうとしとったわ」
「ここは?あなたは?」
「瀬戸内寂聰です………ちゃうわ」
望に話しかけたのは箒を持った尼僧だった。見た目は七十歳前後だったが瀬戸内寂聴ではない。目を覚ましたのは見覚えのあるお寺の玄関の石段だった。望の住んでいる町のお寺「真心寺」彼女はそこの住職の有村青雲だった。子供のころはこの寺で相撲大会があったりかくれんぼなどして遊び場の1つだったが中学生くらいからは殆どと言っていいほど来ていない。なぜここで寝ていたかは不明であり、そこは余り重要ではない。
「すみません…帰ります…」
立ち上り、枯葉を掃った。帰ろうとすると青雲は呼び止めた。
「今日はしじみの味噌汁や。飲んでいくとええわ。二日酔いには効くで」
望は本堂に招かれた。お堂の真ん中には1メートルほどの阿弥陀如来立像があった。何度も寺に来ているが本堂の中に入るのは初めてだった。その重苦しい雰囲気に緊張する。しばらくすると青雲が味噌汁を運んできた。一緒におにぎりとお茶、漬物がお盆の上に乗ってある。味噌汁の香りだけでお腹が空いて二日酔いの辛さを緩和した。
「さあ、食べや。300万円や」
「え、300万…」
「出世払いでええわ」
青雲は少し絡みづらかった…味噌汁をすすり、おにぎりにかぶりつく。青雲は望が食べている姿をしばし眺めていた。落ち着いたところで話しかけた。
「何があったんや?」
「え?」
望の手が止まった。
「明らかにしんどいことがあって飲みすぎた顔をしているわ。あんたがな、寺の前で酔いつぶれてたこと。うちが味噌汁の具をしじみにしようと思ったこと。これは単なる偶然と世間では片づける。そやけどな、仏に仕えるものはこれを〝縁〟と捉えるんや。そやから、声をかけたし、ごはんも用意した。300万でな」
「えん…ですか?」
300万はあえて無視して青雲の話を聞いた。
「言葉は聞いたことあるやろ。物事には何でも始まりがある。何かと何かがかけあわされると何かが起こる。種を土に蒔く。それには水を与えて太陽が降り注げば花が咲く。当たり前のことやけど何かがかけると花は咲かない。何かが始まるにはどんなことにも理由があると言うことや。それが縁。あんたがあったことをうちに話をすれば、何かあるかも知れへん。勿論、何もないかも知れん。話をするだけでもすっきりすることあるで」
難しいことはわからないが妙に納得した。坊さんから話を聞くと説得力がある。しかもなんとかしてくれそう感は半端ない。望は青雲にすべて話をした。青雲は目を閉じて何も言わずに望の話を聞いた。
話しが終わると目を開いて言った。
「ラッキーやんか」
「へ?」
「Hもできてお金も貰えたんやろ。浮気されたから言うて仕返しで好きでもない男と寝るんわ、あんたと付き合っても同じことするわ。苦労するだけやで。仕事かてそうやでそんなとこで苦労して働くよりは働くとこどこでもある。しんどなるより金貰って辞めたほうが、絶対ええと思うわ」
望は青雲の話に驚いた。色々と説教されると思っていたがあっさりフランクに受け入れられるとは思わなかった。
「そんなんでええの?」
望が聞くと青雲はにやりとして阿弥陀如来を見た。
「この阿弥陀さん、どう思う?」
「どう、思うって。ありがたいような重苦しいような、見てて心が顕れるような感じがします」
「そうやな。仏像はそんなもんや。しかしな、見方を変えれば、これはただの木造彫刻や」
「そんなこと言うてええんですか?」
「ほんまの仏さんは人の心の中におるんや。心の中で人は感謝したり仏さんから助けられたりしとる。しかし、見えへんもんに心を動かされることはなかなか難しい。そやから像や文字、写真に形を変えて存在している。人はそれをありがたいと思うんや。何が言いたいかって、何でも見方や考え方によってええようにも悪いようにもなるってことや。腹立つことがあっても思いようによってはいいこともあるってこと。わかるか?」
青雲という尼さん…ふざけているようで言っていることは的を得ている。少なくても今の望の心は響いた。ネガティブ思考だったことが嘘のように心の中にあったモヤモヤが消え去って行く。
「人間修行してみいへんか?」
「へ?」
仏門に入れってことか?勿論、そんな気は更々ない。青雲は急に立ち上がり、お堂の障子を開けた。
「あそこに見える白い建物あるやろ」
青雲は指をさした建物はすぐにわかった。何をしているところかはわかっているが、特に望には興味のないところだった。
「老人ホームですか?」
「正確には特別養護老人ホーム、うちはあそこの理事してんねん。何かあった時にはすぐにうちの出番や。効率的やろ」
「………」
「冗談や。ここの前の住職、うちのお父ちゃん(夫)やけどな、死ぬ前にこの世に生を受けて最後に恩返しがしたい言うて残して逝ったんや。自分は建てるだけ、面倒は全部、うちに押し付けてな。迷惑な話やろ」
本当に迷惑なら、とうに手放している。ここまで守ってきたのは夫の遺志を受け継いでいたいからである。迷惑な話は望も同じだった。味噌汁までは有難かったがまさか、仕事まで斡旋されるとは…昨日の夜から今まで色んなことがありすぎて頭の中は翻弄されていた。それに気になったこともある。
「人間修行て何ですの?」
青雲はニヤリと目元を細めた。
「行けばわかる。自分をしっかり持ってないとでけへん仕事やととだけ言うとこ」
「なんで、僕なん?」
「辛いことを経験したら、人の痛みがわかる。ある程度のことは耐えられる」
望は自分の気持ちを確認するように阿弥陀如来を見た。
「阿弥陀さんの左手、下に手のひらを向けているやろ。これはすべての生き物を救いますよってことや。うちはこの阿弥陀さんの遺志を少しでも伝えられるようにお勤めしている」
望の気持ちが少し軽くなったのは事実である。
「仕事の件、少し考えさせてもらってもええですか?」
「気持ちの整理がついてからでええ」
すでにこの時に青雲は望の気持ちは悟っていた。2週間後、望は介護員として働くことになった。
「国本さん、どうかされましたか?」
午後6時の夕食時間、慌ただしい時間帯である。5時半過ぎに食堂からご飯とおかず、味噌汁が届く。普通にそれを茶碗や皿に盛るだけではない。利用者の嚥下状態に応じてご飯はお粥、軟飯、おかずは一口大、きざみ、ソフト、ミキサーにお茶や味噌汁にはトロミをつける。準備している間には利用者は大人しく座ってくれてはいない。国本源治は86歳、レビー小体型認知症を発症している。普段は車椅子を自走して生活しているが、突然立ち上がり独歩されることもしばしば。パーキンソンの特徴ですくみ足、小刻み歩行に急には止まれない。しかも前傾姿勢で何度も転倒を繰り返している。
本日も初めは大人しくテーブルについていたが、じっとしているのが我慢できなくなり、車椅子から立ち上がろうとしていた。声掛けしたのは遅出(朝11~夜8時)で出勤していた浅川亜美。望より一年後に苑に入ってきたが介護専門大学を卒業し介護福祉の資格も取得している。歳は24歳で苑でも年齢的にも望の方が先輩であるが介護の知識や技術は亜美の方が勝っている。明るくて利用者や職員の受けも良い。おのぞと望は亜美に好意を寄せていた。長倉にふられてから3年が経っている。未練はないがたまに思い出す。この3年間、彼女はいない。亜美に対しての恋愛感情アピールはしていない。正確に言うとできなかった。亜美に彼氏がいるかどうかはプライベートのことは殆ど知らない。多分、望に対しては同僚以上の感情は持っていない。望もそのことは十分に承知している。長倉にふられたトラウマもある。
「ごめ~ん、国本さんが動くから準備、遅れてる」
望がひまわりの食事準備を終えてあじさいに来ると亜美が孤軍奮闘していた。亜美が国本の相手をしている間に望が食事の準備を行う。配膳を終わらすとすぐに食介(食事介助)に入る。自力で食べれない人は勿論、認知症などで自力で食べられる能力はあるが食べようとしない人。何度も食事を勧めるが食べようとしない。拒否がみられる場合は時間を置いたり、職員が変わったりして少しでも食べてもらうように工夫しなければならない。更に気を付けなければならないのは誤嚥である。食物が食道ではなく気道に入り誤嚥性肺炎を起こし、死に至ることもある。ご飯を食べるだけでも高齢者に取っては命がけである。誤嚥だけでなく食前後に行う服薬も時間や他の人に間違って飲ませてしまうと体調不良を起こしてしまう。気の置けない業務である。
望は両ユニットを行ったり来たりして食事、服薬介助を行っていた。本日は両ユニット共に遅出勤務者がいるので比較的には楽である。日によっては片ユニットにしか遅出勤務がいなくて1人でユニット10人を介助しなくてはならない。
ひまわりの遅出勤務者は山口智香。苑に勤めて6年目のベテラン介護員。42歳。バツイチで高校生の息子がいるシングルマザーである。離婚後、介護職に就く女性は珍しくない。寧ろ、手っ取り早く仕事が出来て資格を取れば、食いっぱぐれなく長く勤められるので希望する人は多い。更に子供を産んだ女性は強く何事にも動じない人が多く、急な事故などに対しても落ち着いて行動できる。山口もそんなタイプで望も頼りにしている。
「美空君、こっちは大丈夫やから、亜美ちゃん助けてあげて」
ひまわりユニットよりあじさいユニットの方が明らかに介助者が多い。
「わかりました。何かあったら呼んで下さい」
利用者の全員が食事を終えないうちにある程度自立されている利用者は居室に戻り就寝時間に入る。19時頃から就寝介助を行い20時頃には殆どの利用者が就寝される。就寝介助も1人1人に口腔ケアを行い、排泄介助を行い、普段着から寝巻に着替えてもらいベッドに移動する。1人介助を終えるまでに15~20分かかってしまう。
「美空君、お疲れ様。後はお願いね」
「お疲れ様でした」
3人で就寝介助を行い20人全員寝てもらうまで20時30分までかかった。山口と亜美が退勤して望は翌朝の7時まで20人を1人で見なければならない。夜間で皆、寝てしまい仕事は楽だと思うのは大きな間違い。全員が朝まで寝ていることはほぼない。早速、寝付けない利用者が居室からリビングに出てくる。あじさいユニットの利用者・五代はな。73歳。アルツハイマー認知症があり、夕方から帰宅願望が見られる。いわゆる夕暮れ症候群である。夕方になるとそわそわされ始め、フロア内を徘徊し出口を探される。何度もエレベーターに乗って離設されている。
「五代さん、どうされました?」
「お父ちゃんにご飯、作らんと…」
不穏が入ると何度も同じことを繰り返す。否定して無理に居室に戻ってもらうと発狂され手の付けられなくなる。望も最初の頃は無理やり居室に連れていき、強制的にベッドに寝せていたがはなは憤慨して一晩中、徘徊される羽目になった。
「お父ちゃん、今日は呑んで帰るって言うとったからご飯いらんて。先に寝ときやて言うてたやろ」
「せやったかいな。ほな、先に寝とくわ」
はなはある程度はこの声掛けで安心して眠りにつかれる。1度、寝ると朝までぐっすり、休まれる。はなはまだ、ステージⅠの手のかからない方である。はなが眠りについてひと段落するとNCが鳴り響く。ひまわりユニットの宮城あけみ。82歳。通称「姫ばー」である。一言で表すとわがままである。多少の認知症はあるが疎通はとれるが、自分の事しか考えていない。どちらかと言えば、うつが見られる。1回、NCを鳴らすと訪室するまでひっきりなしに何度も鳴らされる。NCはピッチ(PHS)利用者と会話できるのですぐに訪室出来ない場合は待ってもらうように声掛けを行うが受け入れてもらえず、すぐにNCを鳴らされる。姫ばー宮城は注文がとにかく多い。自身で体を動かそうしないで何でも介護者にやってもらえると思っている。手引き歩行していたが「歩けない…」を繰り返し、今、移動する時は車椅子を使っている。車椅子も殆ど、自分で動かそうとせず、介助を待っている。身体に麻痺があるわけでもなく前は着替えも自分でやっていたが今は着替えさせてくれるのを待っている。どこまで体を動かせるのか疑問であり、あちらこちらの痛みは訴えられるがその時だけで終わってしまう。
「宮城さん、どうされました?」
望が訪室すると姫ばー宮城は手にNCのスイッチを持っていた。
「おしっこ、したいです」
頻尿で早い時には1時間に1回のペースでトイレに行かれる。尿意はあり、一応パッドは装着されているがトイレ誘導を行う。1晩で10回以上はざらに行かれる。介護者を呼ぶときにはトイレ以外に体位交換(主に褥瘡予防の為に自身で体を動かせない人を介護者が体の向きを変える)や「足が痺れたから何とかして」など無理難題を言われることもある。特に眠れないときには引っ切り無しにNCを鳴らされる。姫ばー宮城はステージⅢである。更にステージⅣは2人。1人は国本源治。夕食時にも見られたように夜間もベッドから急に立ち上がり歩こうとする。眠りにつくまでは何度も繰り返す。その点は五代はなと変わらないが疎通が取れないので自身の意思でベッドに入るまで見守りをしないと行けない。変にかまうと暴力行為や大声を出してめんどくさいことになる。更に眠りにつくと朝までベッドから出ることはないが尿量が多く付けてるパッドを外すのでシーツが尿で汚染される。一応、ラバーシーツは設置しているが間に合っていない。パッドを外してないか何度も確認しなければならない。そしてここのフロアで一番厄介な人物はあじさいユニットの藤田友朗。84歳。昼夜逆転し殆ど寝ようとしない。3日に1度くらいのペースで寝ることはあるが夜勤が平穏か大変かは友朗が寝るか寝ないかで決まる。まさにロシアンルーレットである。居室を出て徘徊するのはまだしも放っておくと出口を探そうと他の利用者の居室に入ってしまう。特に危害はないが、クリアな利用者は警戒している。
さてはて…今出てきた利用者を何度も攻略して夜勤をこなすのだが、いづれも本人達は認知症、頻尿やうつ病なので介護が必要不可欠。徘徊にしても失禁にしても迷惑をかけているという感覚はなく寧ろ、自身が何でここにいるのか彷徨っている状態で仕方ない。このフロアにはこの利用者達を凌ぐ、モンスターが存在していた。
22時過ぎ、何度もリビングに出てきていた国本源治がベッドから出てこなくなり眠りに就く。藤田友朗もまだ、居室から出てこない。今日は寝る日だろうかと望は少し期待する。夜間帯の主な仕事は転倒や急変されている利用者がいないか巡回したり、自身で体を動かすことが出来ない利用者に約2時間ごとに身体の向きを変える体位交換、一番の仕事は排泄介助で尿意があり、自身で体を動かせる人は自身でいかれ、ほぼ認知はないが体が麻痺して自身でベッドから起き上がることが出来なかったり、歩行不安定ではあるが立位保持のできる人はNCを押してトイレまで介助を行う。尿意もなく立位保持のできない人は3時間に1回の割合でパッド交換に訪室する。これを排泄ラウンドという。ラウンド時間は人によってまちまちだかだいたい23時、3時、6時に廻ることが多く望もその時間に廻っていた。最初のラウンドまでまだ、1時間あり余裕がある。夕食時から休みなく動いていたので少し休憩しようとソファに腰かけるとすぐにNCがなった。ひまわりユニットの6号室である。望はため息をついた。渋々訪室する。
「岸本さん、どうされました」
「ちょっと、来るの遅いやないの」
かなりご立腹されている。
「夜間は僕、1人しか居てへんからすぐには来れないです」
「まあ、ええわ。そこのごみ拾ってゴミ箱に入れてくれへん」
「はい?それぐらいなら、自分でできるのでは」
「動いてこけたらどないすんの。あんた、責任取ってくれるか」
反論はあったが望は何も言わずに岸本の言うとおりにして居室をでた。
岸本くに子。70歳。要介護3ではあるが体に麻痺もなく自身で起き上がりもできるし杖歩行で歩けている。認知症はやや見られるが殆どクリアーで疎通も問題ない。1年前に自宅で転倒し右大腿部を骨折して手術後に家族が面倒みられないということで入所。骨折の後遺症はほぼ見られない。本来なら自立能力が高く入所は難しいところではあるが、岸本が入所した理由はそれだけでない。
「いつも、きれいにしてはるね」
庭の手入れしているくに子に話しかけてきたのは隣に住んでいる西田良江。くに子の家の庭一面に花を植えていた。その頃のくに子の趣味はガーデニングであった。くに子は花を摘み取り西田に渡した。
「良かったら持って行って」
「いつも悪いわねぇ。そう言えば、旦那さん、定年で退職されたそうやねぇ」
「そうなんよ。これから毎日、家におるって思うたらぞっとするわ…」
15年前のこと…くに子はまだ、そこら辺にいる普通の主婦であった。夫の由紀夫は会社を退職して1週間が経った日のことである。夕食の後片付けしていたくに子に由紀夫が声をかけてきた。普段から無口な由紀夫であったがその時はいつもより低いトーンの声で顔色も悪い。いい話ではないことはわかった。リビングのソファに腰をかける。
「どないしたん、何なん話って…」
「別れてくれへんか?」
「はぁ、何言うてんの。意味がわからへん…」
思いもよらない夫の言葉にだった。くに子には突然の出来事であったが由紀夫はずっと前から決めていたことだった。
「この家はお前が住んだらええ。退職金も全部渡すわ」
関西人のくせに冗談の1つも言えない人が真剣に別れてほしいと思っていることは十分に伝わった。
「理由は何なん?うち、なんか悪い事した?」
「いや、単なる私のわがままや。これからは自分の好きに生きたいんや」
次の日、由紀夫はテーブルに離婚届を置いて出て行った。由紀夫が出て行った本当の理由は暫くしてから知ることになる。結婚して殆ど、家に寄り付かない1人息子の浩市がやってきた。由紀夫がいなくなってやる気がなくなったくに子の家の中は荒れていた。洗濯物やごみは放りぱなし、ビールの空き缶や一升瓶もそこらじゅうに転がっていた。勿論、綺麗に手入れしていた庭の花も枯れはて雑草が生えるようになっていた。そんな母親を心配で浩市は来たわけではなかった。
「おかん、何やこの部屋は汚ったないな。なんか臭っとるし」
くに子はリビングのソファに酒を飲んでごろ寝していた。
「珍しいな。何か用か?」
「親父、出てったらしいな。電話あったわ」
「旦那に捨てられたん笑いに来たんやろ」
浩市は素行が悪くまともな職にはついていない。仕事がない時には夫婦でパチンコ屋に入り浸っている。親の離婚にも関心なく、くに子の所にはお金を借りに来ること以外は寄り付かない。
「この家、1人やったら広すぎるやろ。売らへんか?」
「なに企んでんねん。なんで売らなあかんねん」
「女つくって出てった男と住んでいた家で飲んだくれとってもしゃーないやろ。新しいところでやり直したらええやん」
「今、何言うたん?」
「え?新しいとこでやり直したら…って」
くに子の形相が変わったので浩市は正直、ビビッた。
「そこちゃう。女つくっててどう言う事や」
「知らんかったん。親父、会社の同僚やった女と一緒に住んでるんやで。親父、言わんかったんか」
くに子の中で全てが音を立てて崩れていった。
「わーっ」
叫び声を立てて食器を割り暴れだした。
「おかん、また、来るわ」
浩市は恐怖のあまり岸本を止めずに逃げ出してしまった。それはあくる日まで続き近所にも響き渡った。
「やかましな、ちょっと行ってくるわ」
「あんた、やめとき。隣は旦那さんが逃げて苛立ってはるのよ。止めに行ったら何言われるかわからへん。ほっとき」
隣の良江の夫が文句を言いに行こうとしたが良江は止めた。よく庭の花をくれていたくに子とは明らかに違う。良江は関わりたくなかった。そしてくに子と会話をすることはなくなったが、くに子の迷惑行為は日に日に増して行った。ある日、くに子は近くの河川敷でお酒を飲んでいると近くに置いてあった段ボールが動いているのに気付いた。中を見てみると子猫が入っていた。
「なんや、お前も捨てられたんか」
子猫を家に連れて帰る。くに子が拾ったものは猫だけではない。外に出てはゴミ置き場を漁りいろんなものを家に持ち帰った。時が経ち子猫は育ちやがて子供を産むようになった。家の中は足の踏み場もないくらい物が溢れてゴミ屋敷の猫屋敷が完成した。近所に悪臭と猫の鳴き声の騒音が立ち込めた。流石に我慢の限界を超えた西田の夫は近所の人達とくに子に苦情を言いに行った。
「自分の家で何をしようが関係ないやろ。嫌なら引っ越したらええやないの」
「あんた、自分がやっていることわかっているんか。これだけの人が迷惑被ってんねん。あんたが引っ越しや」
結局、物別れに終わり更にくに子の騒音、悪臭はひどくなる一方である。夜中にテレビのボリュームを大音量で流すようになった。
玄関のチャイムが鳴りくに子がドアを開けると警官が立っていた。
「夜間のテレビの音がうるさいと苦情がきているんですが…」
「歳とったらな、耳が遠くなって聞こえへんのや」
「それなら補聴器をするとか、イヤホンをするとかできまへんか?」
「余計に耳が悪うなる。警察はうちがつんぼになってもかまへんて言うんか」
再三、注意するが治るどころか近所への嫌がらせは増す一方であった。市からも役人が家を片づけるように訪問するが注意すればするほどゴミは増えて行った。更に西田の家には誹謗中傷や卑猥な言葉を書いた丸められた紙や猫の糞が大量に投げつけられた。
「どないかでけへんのですか。妻もノイローゼ気味で疲れ切っています」
西田の夫は再び警察に相談するがらちがあかない様子だった。
「証拠がないことには…我々も出来るだけパトロールを強化します。費用が発生するのでアドバイスだけですが監視カメラでもつければ証拠にもなるし、それに気づけば嫌がらせもなくなると思いますが…」
「ほんまに役に立たへんな」
「申し訳ありません…」
西田の夫はくに子に気づかれないように監視カメラを設置した。嫌がらせを止めさせられるだけでなくいなくなってほしかった。どうしても逮捕してほしかった。数日後にくに子が西田家の庭にゴミらしきものを投げている所をカメラが捉えていた。警官が逮捕状を持ってくに子の家を訪問したが何度、ドアベルを鳴らしても一向に出てくる気配はない。警官が踏み込むと廊下で倒れているくに子を発見した。
「岸本さん、大丈夫ですか?」
「足が痛とうて動かれへんねん」
意識はあるが足が痛くて動けない。夜中にトイレに行こうとして色んな物がおいてあるのを避けて歩いていたが足を踏み外して転倒したらしい。すぐに救急車を呼んで病院に行くこととなった。結果、右大腿骨を骨折、手術後に入院となり、退院するまで逮捕は見送られることになった。警察から連絡をうけた浩市が妻の夏美と病院に駆けつける。くに子は手術の最中だった。
「お世話になりました。しかし、何で警察が?」
浩市は警官から事情を聞いた。そして夏美を残して実家に向かう。
「何やこれ、臭っ」
中に入るとゴミ屋敷状態と悪臭に驚愕する。
「わっ、何や」
いきなり、段ボールが動いたのでびっくりする。中から猫が出てきた。
「何や、猫か…」
あちらこちらから猫の鳴き声が聞こえる。
「いったい、何匹、おんねん…。あかんわ、こんなん二束三文やな」
浩市はまだ、この家を売ることをあきらめてなかった。くに子が入院した今が大チャンスだった。退院するまでに何とかしなければならない。浩市はそういう悪事の時にはものすごく頭が働いた。まず初めに西田を訪ねた。
「なんや田中(くに子の旧姓)んとこの息子か。何の用や」
「お袋が迷惑かけていると聞いて申し訳ありません。これ、お詫びです」
西田に菓子折りを渡した。
「こんなことくらいで許されると思っとるのか。うちは争う覚悟は決め取るんや。なんや入院したみたいやけど、自業自得や」
「そのことなんですが…」
浩市は西田にゴミや猫を片づけて家を売るからくに子への訴えを取り下げてほしいと提案する。
「もし、お袋が逮捕されてもまた、横に住んだら同じことやと思います。私が言うのもあれなんやけど、執念深いから今以上のことをするかも知れへん」
「ほんまにいなくなるんならうちもそれに越したことはない」
「とりあえず、あのゴミをなんとかしたら後は任せてください」
「ほなら、役所に言うたらええわ。ちょっと待ってな。確か名刺もらってるわ」
西田はいつも来ていた役人の浜村を紹介した。
「今のうちに家を片づけようと思うてるんやけど、当然、あんたらも手伝ってくれるやろ」
「それは本人の許可がないと…」
「あんたな、うちのお袋が許可するわけないやろ。大丈夫や次の手は打ってある。あんたもこのゴミ屋敷を処分することができるんや。近所の人からも喜ばれると思うで」
入院している間に浩市が市の職員を利用して家の片づけを行った。同じく数10匹に増えた猫も保健所に引き取られた。
「いゃ、おおきに。これで何とか形になったわ」
「しかし、いない間に片づけて後で文句言われないでしょうか?」
「そこで浜村さんにもう、ひとつお願いがあるんやけど…」
着々と浩市の計画が進んでいた時、くに子はベッドで寝たっきりの生活をしていて夏美が面倒を見ていた。
「あんたら何か企んでいるやろ?」
「何言うてますの。お義母さんの面倒見るのは嫁の役目ですやん」
と言うものの結婚してから2人があったのはほんの数回しかない。嫁・姑以前の問題である。実際、面倒みてると言っても夏美は椅子に座って足を組み、スマホをいじっているだけであった。介助と言うより見張りであった。浩市が見舞いにやってきた。
「おかん、具合はどうや」
「どないもこないもないわ。早よ帰って子供(猫)にエサあげなあかんのや」
「心配せんでええ。ちゃんとやっているさかい。ゆっくり、足治したらええわ」
「気持ち悪いわ」
病室から離れて夏美が浩市に愚痴を言う。
「もう、まじで限界なんやけど…」
「もう少し、我慢してや。家さえ売ればまとまった金が入るさかい。借金も返せるわ」
「しゃーないな…なるべく早よしてや」
「そんなことより、おかんどないや」
「うん、時々なんかおかしなこと言うてる時あるわ」
「そっか、ええ感じやな。医者も認知症が見られるって言うとったからな。何でも拾っているのかて認知症の初期症状やて」
「ほんまにうまくいくんやろな」
「さっき、役人の紹介で地域包括センターってとこに行ってきた。要介護って言うのがⅢ以上なら老人ホームに入れるらしいわ。」
「老人ホームって順番待ちなんやろ。それまでどうするの。うち、もう面倒みるの嫌やで」
「その辺のことも段取りずみや。役人にお願いして優先的に入れるように手をまわしてきたわ」
浩市は上手く周りを利用してくに子の要介護Ⅲを獲得した。ゴミ屋敷が片付いてくに子がいなくなればすべては解決する。西田はじめ近所さんや役所にしてもこんなにありがたいことはない。浩市も金が入る。すべてがwinwinの関係にあり、くに子は退院後に特養「ふるさと」に入所することになる。しかし、認知症と言ってもまだクリアで言いなりに入所しない。リハビリ目的で歩けるようになったら家に戻ると言い聞かせる。納得はしていないが動くことができないのでくに子はどうすることも出来なかった。1年経って歩けるようになり家のことは言わなくなったが介護職員をお手伝いとしか思っていなく、好き勝手な振る舞いを行っていた。
職員はあまり良くは思ってなく勿論、望も苦手だった。望が退室してからまた、すぐにNCが鳴る。
(まじか…)
「どうしました?」
「ちょっと、布団直してくれへん…」
くに子は布団をかけていたが特に変わった様子は見られない。
「特に変わったとこは見当たりませんが…」
「さようか。ほなええわ」
故意にやっているのか認知症の症状かくに子の場合は微妙である。しっかりしているところと不穏が混じり合っているまだら認知症であった。でも今回は明らかに故意にやっていた。望の接し態度が気に入らない。その後何度もNCで呼ばれて望は夕食を取るタイミングを失って1回目の排泄ラウンドの時間になった。特に時間が決まっている訳でもないが少し介助が遅れると利用者によっては排尿量が多くパッドから溢れてリハパン(リハビリパンツ)、ズボン、挙句の果てにはベッドシーツまで尿が浸み込んでシーツ交換、更衣を行わなければなくかなりの時間ロスになる。ある程度、利用者の尿量は把握しているので訪室が遅れると不安にある。
望は早くラウンドを終わられて落ち着きたかった。しかし、この仕事はそう思い通りに行かない。藤田友朗が目を覚ましてリビングに出てきた。こうなるとやっかいである。
「藤田さん、まだ夜中ですよ。休んで下さい」
居室に誘導してベッドに臥床させる。しかし、1度目を覚ますとすぐに寝付くことはない。すぐにベッドから離床してリビングに出てきて徘徊する。何度か居室に誘導して再び出てくるまでに他の利用者の排泄介助を行う。他の利用者に時間がかかると藤田は他の利用者の居室に入ってしまう。望は失便してないか祈りながら居室を回って行く。ある程度、順調にこなしていたがここでくに子からNCが鳴った。
(もぉーっ!こんな時に…)
ピッチでくに子に話しかける。
「岸本さん、どうしましたか?」
「喉が渇いて堪らないの。お茶かなんかないの」
「すみません。今、手が離せないので後でもいいですか?」
「どーでもええから早くしてちょーだい。死にそうなの」
(喉の渇きくらいであんたは死なへんやろ)
と思いながら緊急性はないと判断して排泄介助を優先させた。ひと段落着いてお茶を持ってくに子の元に届ける。くに子は寝ていた。
「岸本さん、お茶をお持ちしました」
声をかけると目を覚まされる。コップを持っていた望を見て喉が渇いていたのを思い出し、望を睨み付けた。
「何ですぐに来てくれへんの。呼んだらすぐに来てちょーだい」
くに子に対するイライラが頂点に達した。
「他の利用者さんもいるんです。岸本さんばかりかまってられません。喉が渇いたくらいは少しくらい待って下さい」
くに子も望の態度、言葉遣いで不快感を募り腹を立てた。
「誰か偉い人を呼んでちょーだい。あなたを職務怠慢で訴えるわ。こっちはお金を払っているのよ」
「真夜中です。みんな帰って誰もいません。訴えるなら明日にして早く寝て下さい」
「まぁ、いいわ。覚えておきなさい」
望はコップを差し出した。
「お茶です」
「もう、いらん」
くに子はふて寝した。それからくに子からのNCは無くなった。藤田も再び眠りに入りやっとひと段落ついた。夕食いや既に夜食を取れたのは午前0時を回っていた。
くに子のことは気になってはいたがこのようなやり取りは初めてではなかった。そして次の日にはすっかり忘れていた。例え、訴えられたとしても他の利用者の排泄介助で手間取ったと言えば説明が付く。実際にその通りなのだから…
朝まで気は抜けないが忙しさのピークはやっと峠を越えた。
勿論、ワザとではないと十分わかっているが間の悪い人はいる。江口和江(84歳)は入居する前に脳卒中を起こしてその後遺症で左片麻痺がある。認知症は軽度でほぼクリアな状態。疎通は普通にできる。尿意があり夜間帯は平均5~6回、多い時には8~10回ほどトイレに行かれる。ベッドサイドにPトイレを設置して自身でベッドから起き上がることができないので介助で端座位してもらう。L字バーを持って立ち上がり立位保持はできるがズボンの上げ下げが出来ないので介助を行う。排泄後に逆の介助を行いベッドに臥床してもらう。寝ている時は殆どNCはないが一度起きると早ければ30分おきに尿意がある。くに子との攻防があった時には殆どNCはなかったがひと段落着いたときとか忙しいピーク時に必ずと言っていいほどNCがある。本人はただ尿意をもよおしてトイレに行きたいだけなのだがなんかタイミングが悪い。くに子や藤田に比べたらそう苦にはならないが。そんな江口のNCを受けつつ三時に2回目の排泄ラウンドを廻る。さすがにこの時間は寝ている人も多く比較的スムーズに廻ることが出来た。
今日の夜勤は特別忙しい訳ではない。一番最悪なのは体調不良者や転倒などでけがをしたときである。普段生活していて救急車を呼ぶことなど殆どないが施設にいるといつ救急車を呼んでもおかしくない。そんな場面に何度も遭遇しているが望は3年間で1度だけ、夜間帯に心肺停止の利用者を発見したことがある。まだ夜勤して半年経ったくらいでその時、慌てふためいて何も出来なかった。違う階の夜勤者に応援要請するのがやっとで駆けつけた職員がAEDを設置、心臓マッサージを行った。救急車が到着して病院に搬送されたが心不全で数時間後に死亡した。その対応の悪さから望は1ヶ月間夜勤を外された。その屈辱と申し訳なさから緊急時対応についてしっかりと知識を学んだ。その頃から仕事に対する考え方が変わって来て責任感が出てきた。人の命や人生を預かるという重みを実感したのだ。
2回目のラウンドも終わり夜勤も佳境に入り魔の時間を迎える夜明け前から早出の職員が出勤するまでの時間。利用者が目を覚まし起きだす時間帯。4時を過ぎた頃に宮城からNCが鳴る。
「どうしましたか?」
「ちょっと、しんどいから起こして…」
しんどいから起こして?しんどいから寝かせてならわからないこともないが寝るのがしんどいとは。確かに同じ体勢で長い時間寝ると体が痛くなることがあるが宮城の場合は目が覚めて眠れないのが苦痛なので起きたいと訴える。時間が早いのでもう1度寝て頂くように促しをかけるが何度もNCを鳴らし起床介助を行う。ベッドサイドでパジャマから普段着に着替える。トイレに誘導して介助を行い洗面台で整容を行う。その間、15~20分。その間に違う利用者からNCが鳴る。時間が経つにつれてNCの回数も増え2、3室から重なることも多い。更に藤田も3度起き出し徘徊が始まる。更に他の利用者もリビングに出てくる。転倒リスクが高くなる時間帯でもある。しかも排便の時間も重なり時間がかかる。勿論、一部の利用者に手間がかかるのだがその間に自分で起き上がることの出来ない利用者の起床介助をおこなわなければならない。勿論、20人の起床介助が出来るわけもなく、何も起こらないことを祈りながら早出勤者の出勤してくるのを待つ。
そして7時10分前にあじさいの早出・フロアサブリーダー・宇佐美剣心(23歳)が出勤してくる。ヒーロー戦隊特撮やアニメなどのサブリーダーは比較的クールキャラでリーダーにリーダーを認めているが反目だったり群れないイメージがあるが宇佐美も全くそのタイプで仕事は卒なくこなし、リーダー二宮からの信頼もある。望も頼りにしていたが話しかけにくく必要以外のことは話をすることはなかった。
「おはよう。何にもなかったん」
「おはようございます。はい、いつも通りで藤田さんが何度かリビングに出てきてたんと、岸本さんと江口さんが頻回にコールを鳴らしてました」
「大変やったんな。お疲れさん。もう、幹夫も来るやろ」
7時2分前にひまわりの早出・岡村幹夫が出勤して来た。岡村は望と同じ歳の28歳。特養・ふるさとには望が半年早く勤めたが岡村は他の施設に勤めていたことがあり介護歴は長い。年齢も近いし望とお互いライバル視しているがどちらかと言えば岡村の方が頼りない。
「宇佐美さん、おはようございます」
岡村は出勤するとすぐに宇佐美サブリーダーの元に行った。5分くらい話をしてひまわりユニットに入った。その間、NCが鳴り続けている。望には挨拶もないし会話もなくすぐに仕事を始める。少し落ち着いたときに望が夜間の情報を伝える。始めは岡村の態度に腹も立ったがいつものことなので特に気にしてない。前は申し送りもなかったが岡村が転倒事故を起こした時に夜間の状態がわからないと言い訳した。その時に申し送りの精度が低いと言われ、岡村から聞くことはないが夜間の状態は伝えている。そんな野郎でもいないよりましで2人ユニットに職員が入ったことでかなり仕事は楽になる。あじさいユニットはほぼ宇佐美サブリーダー1人で対応する。望はひまわりユニットで岡本と仕事を分担しながら時間が空いたり、宇佐美から呼ばれるとヘルプにまわる。そうして起床介助を行い、パジャマから普段着に着替えてもらい、髪形を整え、男性は髭剃りなど整容を行い、朝食の準備、配膳、食事介助…食事が終わるとこぞってトイレの訴えがあり排泄介助、歯磨きなどの口腔ケア、バイタル測定と二人で業務を行っても退勤時間の10時までに終わらない。10時過ぎにやっとピークは過ぎてパソコンに利用者ごとに利用者の夜間帯の様子を記入する。11時に遅出出勤者・浅川と非常勤務者向井美加子が出勤してやっと望は仕事から解放される。
「美空さん、お疲れ様です」
「後はよろしくお願いします」
浅川と軽く挨拶を交わしてフロアを出て事務所でタイムカードを押す。18時間働いた後の解放感は格別である。駐車場で原チャリに乗ろうとすると1台、車が止まった。降りてきたのはくに子の息子の浩市である。浩市は苑には滅多に来ないのでくに子の息子だとは知らなかった。少し溯るが望が予想した通り、夜間帯に望に対しての感情は忘れていた。今日、浩市が来苑したのは契約の更新であって特にくに子に会いに来たわけではない。望は浩市と軽い会釈を交わした後原チャリのエンジンをかけて苑を後にした。
望は寄り道せずにまっすぐ帰宅した。早く帰ってお風呂に浸かりゆっくり寝たかった。家に帰るといつもと雰囲気が違っていることに気づいた。日曜日だというのに正義が家にいた。介護の仕事もそうだがスーパーの宅配の仕事も日曜日の休みは殆どない。しかもワイシャツにネクタイをしている。正義のネクタイ姿をみたのは前の仕事を辞めてから初めてである。知子も化粧して普段はスパッツとかジャージ姿であるがスカートを履いて正装している。
「どないしたん。出かけるんか?」
「何を言うてんねん。今日、津田さんが両親と一緒に挨拶に来るって言うたやろ。あんたも早よ、シャワー浴びて着替えてきいや」
「津田って誰やねん」
「そっから説明せなあかんか。愛美の婚約者や。家族の顔合わせやから、あんたもおらんとあかんで」
「俺、ええわ。一睡もせんと仕事してしんどいねん」
「あかん、寿司買ってきたで。スーパーのやつじゃなくてくるくるや。寿司好きやろ」
リビングテーブルを見ると寿司以外にケータリングの皿が置いてあった。夜間の食事からずっと、何も食べていない。さすがに腹は減っている。少し心が動いた。
「とりあえず、シャワー浴びてくるわ」
少しぶっきらぼうに言って浴室に向かう。熱いシャワーを浴びると疲れが吹っ飛ぶほど気持ちいい。5分くらいで浴室を出て着替え洗面所でドライヤーを当てる。前の鏡越しに後ろで腕組をして妹の愛美が立っていることに気づく。
「何や、(洗面台)使うんか?」
「ううん…」
愛美は首を横に振った。
「まさか…体目的か?」
「あほか。しばくぞ」
普段、2人の間に殆ど、会話はない。引きこもり時代から愛美は望の事を避けていた。
「あんな…」
珍しく愛美の方から声をかけてきた。
「何や、どないしたん」
「いつか、言おうと思うとったんやけど…タイミングがなくて切り出しにくかってん。結婚したらこの家出ていくし、ほならずっとこのままなん嫌やから言うわ。前の兄ちゃんはめっちゃ嫌いやったけど、最近、そうでもない。逆に仕事もがんばってんのわかるし。うちの仕事と似てるとこあるから大変なわかるし…」
愛美は保育士として保育園に勤めている。職員不足とか人と人とが接する仕事、認知症の人を2度童と言う人もいる。
人は子供から大人になりやがてまた子供に戻る。仕事の内容は違うが保育職と介護職は相通じるものがあると言える。
「で、何が言いたいん?」
「あー、もおー鈍感やな。今までのゴメンなって言いたかってん」
「別に謝ってもらわんでもええよ。しょーもない兄きなんは確かなんやから」
と口では言っても嫌われていると思っていた妹から意外な言葉を聞けて正直、嬉しかった。
「もうすぐ、婚約者が挨拶にくるんやろ。少し寝るから来たら起こして」
「お母ちゃんから何言われたかしらんけど、徹夜明けで疲れてるんやろ。無理せんでええよ」
「朝から何も食べてへんからお腹空いてんねん。滅多に寿司食べられへんからな」
「子供か。前言取り消すわ。やっぱ兄ちゃん、最低やな」
望は自分の部屋で仮眠を取った。二時間後に玄関のチャイムがなって愛美の婚約者・津田和馬(26歳)が両親と共にやってきた。
愛美は津田の自宅を何度も訪れているので両親との面識はあった。津田も美空家は結婚の許してもらう為、挨拶に来ている。本日はお互いの家族の顔合わせと結婚式の具体的な日取りの挨拶に来た。俗にいう結納ではあるが話し合いで堅苦しいことはなしという方向でざっくばらんの食事会となった。玄関で軽い挨拶を済ませてリビングに招かれる。すると津田の父親が床に正座して正義に頭を下げた。
「この度は大切に育てられたお嬢様をうちの愚息との婚約を許して頂いたこと、感謝しています。誠に感謝いたします」
現在は退職しているが津田の父親は中学校で教員をしていて定年前まで教頭をしていた。堅苦しい挨拶はなしと言うことだったが基本真面目な人柄なので正義に挨拶をせずにはおれなかった。急な出来事で正義も慌てて座り込み津田の父親の両肩に手を添えた。
「頭を上げてください。うちの娘もわがままに育って家事も十分にできるかどうか…そないなことされたら反ってこっちが恐縮してしまいます。どうか、お立ちになってソファにかけて下さい」
津田の父親は頭を上げて正義の言うとおりにソファに座った。続くように母親、津田の順にソファに腰かける。父親の対面に正義は座る。知子と愛美はキッチンでお茶の用意をしている。
「愛美、望を起こして来て」
「夜勤明けやし、ええんちゃう。疲れてるやろうし」
「起きて寿司なかったら何、言われるかわかれへんやろ」
さすが親子…と愛美は納得して望の部屋をノックする。
「くさっ」
部屋に入ると同時に鼻をつまんだ。汗や何だかわからない悪臭が漂っていた。
「兄ちゃん、津田さん来たで。起きや。寿司なくなるで」
「ああ、すぐに行く…」
返事を聞くと愛美はすぐに部屋を出た。望がリビングに降りてきたのはそれから40分後である。リビングではすでに挨拶をすませて食事をしていた。主に場を仕切っていたのは知子だった。望に注目が集まる。望は津田家に向かって一礼をする。両親は勿論、津田とも初対面である。
「愛美の兄の望です。夜勤明けでちょっと、寝てまして…」
と説明したのは知子だった。正義と知子の間に座ると津田の父親がビールをコップに注いだ。
「お疲れのところにお邪魔して申し訳ございません」
と津田の母親が気遣う。
「あ、2時間ほど寝たから大丈夫です」
勿論、愛想で眠たい。津田が待っていたかのように声をかけた。
「お兄さんは『ふるさと』にお勤めですよね。何度か、レクの段取りをしたことがあります。『あまんど』さんとかよく行ってますよね」
「ああ、ミュージックケアのね。1年に1回くらいかな…」
津田は市役所で福祉関係の仕事をしていた。愛美と知り合ったのも愛美が務めている保育園に何度が足を運んだことがきっかけて親しくなった。津田家は3時間ぐらいで帰っていった。父親は少し酔っていた。普段は殆ど飲まないらしい。正義も帰るまではしつかりしていたが緊張がほどけて望と晩酌が始まり2人ともソファで寝てしまった。愛美が片づけを手伝いながら知子に言った。
「家族がこうやつて揃うのって久しぶりやね」
知子は食器を洗いながら言った。
「お前が言うな。夕食にいつもおらんのはあんたやろ」
「まぁ、短い間やけど、これからは少しでも夕食一緒に食べるようにするわ」
「そんなんより、あんた、あのお母さんで大丈夫なん?」
知子が心配しているのを愛美はすぐに察知した。津田の母親は着物できちんと決めてきて生真面目そうな人だった。上品さは窺えるが気丈でザ・姑感は否めなかった。
「一応、別居やし花とかお茶とか色々やってるみたいやし、かまってる暇ないんちゃう」
「あんたがええんやったらええけど…」
時間は少し溯り…浩市は事務所で更新の手続きをするとくに子の所にやってきた。
「おかん、元気しとるか?」
くに子は居室でベッドに寝ながらテレビを見ていた。
「あんた、誰や」
「何言うてんねん。そこまでボケたか。あんたの息子や」
「思い出したわ。人の家を勝手に売ってこんな所に閉じ込めとるあほんだらの浩市か」
「なんちゅう言い方や。あのままやったら務所行きやったんを無理言うてここに置いてもらってんのや。感謝されても文句言われる筋合いはないわ」
「務所もここも対して変わりないわ。で、何しに来たんや?」
「息子が親に会いに来て何しに来たんはないわ。呆けてなさそうやし、大丈夫そうやな。困ったことないか?」
「ここは地獄や。夕べなんか喉渇いた言うても水も飲ませてくれへんのや」
浩市に言われて思い出したのか、ずっと、覚えていたかは定かではないがくに子は昨日の事忘れてはいなかった。ただ、厄介なのは自分の都合のいいように頭の中で加工修正されていた。しかし、浩市はその言葉を聞いて瞬時に何か閃いた。お金の臭いには鼻が利く。
「ええもんやるわ」
そう言ってカバンの中からICレコーダーを取り出した。
「今度、何かあったらこの赤いボタンを押して枕の下に隠しとき。全部会話が録音できるから」
「そんなもん、よう使わん」
「簡単や。この赤いボタンを押したらええだけや」
浩市はICレコーダーをまくらの下に隠した。
「ほなな。元気そうで良かったわ。これから直々様子を見に来るわ」
くに子はそっぽ向いて見送った。浩市が居室から出てくると亜美が声をかけた。
「ありがとうございます。岸本さんの…」
「あ、息子ですわ。すんません、仕事が忙しゅうて中々、顔だせへんと…」
「いえ、大丈夫ですよ。大変ですね」
「そちらこそ、お袋、わがままで気難しいから大変でしょう。何かあったらいつでも言うて下さいや」
「ある程度の事は自分でやっているから…まあ、強いて言えば居室にこもりきりなので、少しでもリビングに出てこられて他の利用者様とも話されたらと思いますけど…」
「すんまへん。昔から人付き合いが苦手なんです」
「あ、無理にじゃなくても…岸本さんがしんどいなら、反って逆効果になりますから…」
「本当に申し訳ございません。お袋の事よろしくお願いします」
浩市は深々と頭を下げて帰って行った。宇佐美サブリーダーが浩市と亜美が話していたのを見てひまわりユニットから亜美のもとに近づいてきた。
「今のくに子んとこの息子か。初めて見たわ」
宇佐美は口が悪い。それは親しみを込めて変に敬語を使うより利用者との距離を詰めるために宇佐美の介護法のひとつである。多分、他の職員が真似すれば、問題に成りかねないが宇佐美はそれ以上に利用者に接している。利用者には人気がある。
「見かけによらずいい人そうでした」
浩市は小太りで首に本物か偽物かわからない金の太いネックレス。趣味の悪いトレーナーに履きやすそうなゴムのズボンを履いていた。
後、時代遅れのセカンドバッグを小脇に抱え、パンチパーマがそのまま伸びたような髪型。その筋、方面の人間でも十分に通じた格好をしていた。
「二っち(二宮)が言うてたけど、無理に息子からここに入れられたみたいやからな。気をつけといた方がええかもな」
「何かあったらややこしそうですね」
「くに子の息子やからな」
厄介なのは利用者だけではない。これは別に介護の世界だけに限られたことではないが、スタッフ同士のいざこざも多い。
あじさいユニットの昼食時間、スタッフは岡村と田村が勤務していた。ひまわりユニットは二宮リーダーと小向井が勤務している。岡村はかなりイラついていた。田村は非常勤で働いているが若いころから介護の仕事に携わっていて「ふるさと」以外の介護施設でも働いていた。知識や経験は豊富であり、介護員としてのプライドは高い。二宮、宇佐美のユニットリーダー以外の常勤は正直下に見ている。しかし、殆ど利用者と関わることをしなかった。自分の仕事と思っている入浴介助は行うが食事、排泄介助はまったくと言っていいほどやらなくてNCが鳴っても無視している。自分の仕事は雑用で介助の仕事は自分の仕事ではないと思っている。今日も何人もの食介の利用者がいるのに田村は洗濯物を畳んだり午後からの入浴準備をしていた。岡村は溜まりかねて田村に注意した。
「田村さん、先にこっちの食介してくんない?」
すると思いがけない言葉が返ってきた。
「それは常勤の仕事やないの。私はそれに似合う給料をもらってへん」
「はぁ。いやいや、介護員としてここに(働き)来ているんやろ。入浴介助も食介も一緒やろ。今の状況見て何を先にすべきかわからへんかな」
「うちはパートやから常勤が指示してくれへんと動かれへん」
2人が揉めているのはひまわりユニットまで聞こえてきた。
「何を揉めてんねん。あいつら…」
二宮リーダーが2人の元に歩み寄る。
「何を揉めてんねん」
「田村さんに食介をお願いしたら自分の仕事やないって」
「ちゃうやんか。指示してくれへんとわからへんて言うてんねん。せやろ、二宮君、常勤がちゃんと言うてくれへんと何をしてええかわからへん」
「あんたなぁ、いつも勝手に動いてるやろ。こんな時だけ何、言うてんねん」
「もう、わかったわ。昼から田村さんはひまわりに入って。小向井さんをこっちに入ってもらうわ」
田村はぶつぶつ言いながらひまわりユニットに入った。
「パートさんは上手く使って勤務に当たらんと自分がしんどいだけやぞ」
「せやけど、あの人は勝手過ぎるわ。二宮さんや剣心さんの時と俺らの時とは全然、態度ちゃうし」
田村は二宮リーダーに対しても君付けしている。岡村の言うことを聞くわけがない。岡村は上の人に媚びいるのは上手いが人に指示をするのは慣れていない。二宮リーダーにしてみると自分勝手な二人が主張しあっているしか思えなかった。二宮リーダーはひまわりユニットに戻り、小向井にあじさいユニットに入ってもらう。
「岡村君な、自分段取りが悪いのに人のせいばかりしてんねんで。パソコンばかりして全然、動かへんやん」
待ち構えていたように田村は二宮リーダーに岡村の小言を言い始めた。田村の達が悪いのは自分のことは棚に上げて人の粗を探してはそれを言いふらす。二宮リーダーは適当にあしらいながら小言を聞いていた。
小向井の協力で何とかあじさいユニットの昼食は終わったが岡村のイライラはおさまっていなかった。小向井は入浴介助を行う為にユニットを離れ岡村1人で排泄介助や口腔ケア、自身では移乗や移動ができない利用者をリビングから居室に移動させていた。落ち着いたのは十四時前、岡村はリビングに残っている利用者の見守りを行いながら遅めの昼食を済ませるとすぐにパソコンでその日の利用者の状態、食事、水分、排泄量などを記録していた。
「岡村君、倉持さんは寝てる?」
「はい、寝かせました」
「ほな、お尻の処置するわ」
岡村に声掛けしたのは医務課の黒田春子ナース(45歳)だった。あじさいユニットの2号室に入居している倉持勇(86歳)は食事以外は殆ど、居室で寝たきりであり仙骨部に褥瘡があった。体に麻痺はないが拘縮が強く自身で起き上がりの動作は出来ずほぼ、全介助状態だった。さらに慢性閉塞性肺疾患(COPD)の疾患があり、在宅酸素療法を行い、臥床時は人口呼吸器で酸素マスクを着けていた。
「岡村君、すぐにサーチ(パルスオキシメーター)を持ってきて」
黒田ナースが居室に入るとすぐに叫んだ。パルスオキシメーター(サーチレーション)とは血液中の酸素飽和度を測る機械で動脈血中の赤血球の成分であるヘモグロビンをパーセンテージで示し、正常値は96%以上、90%以下だと呼吸不全で生命を脅かすこともある。
「どうしたんですか?」
岡本がパルスを持って倉持の居室に入ると黒田ナースは荒々しい口調で怒鳴った。
「あんた、酸素マスク付け忘れていたやろ。見てみ、倉持さん、呼吸荒く顔面蒼白や」
既に黒田ナースがマスクを着けていたが、確かに呼吸が荒く苦しそうだった。更に意識もない。パルスを指に装着して図ると70%前後を表示した。岡村は事の重大さを感じその場に立ち尽くした。このまま、意識が戻らなかったら…不安が頭を過った。
「何してんの。意識が戻るように倉持さんに呼びかけて」
黒田ナースは岡村に指示をして他のナースにピッチで連絡を取った。数分でナースの河野真弓(45歳)、天地奈穂(22歳)が駆けつけた。騒ぎを聞きつけて二宮リーダーもやってくる。
「何、どないしたん?」
「マスクしてなかったんやて」
「外れてたん?」
「スイッチが入ってなかったから付け忘れてたんちゃう。介護ミスやで」
二宮リーダーは岡村を睨んだ。岡村は恐縮している。ベッドの上半身を45度くらいにギャッジアップして人工呼吸器の酸素量を上げた。次第に意識が戻り顔色も良くなった。サーチも90%以上を示した。
「これで暫く様子見よか。落ち着いたら酸素量を下げていくわ。急変するかも知れへんから気をつけて見といて」
先に岡村と二宮リーダーは居室を出た。3人も褥瘡の処置をして居室を離れた。二宮リーダーは岡村に事情を聞いた。
「倉持さんをベッドに移乗したすぐに江口さんからのトイレ介助のNCがあったのでマスクを後からつけようと先に江口さんの対応していたらそのまま忘れてしまいました」
二宮リーダーはため息をついた。
「江口さんのトイレと倉持さんのマスク。どっちが大事やってことやろ。確かに江口さんが勝手にトイレに行って転倒したらってリスクはあるけど、マスクつけるのに何分もかからへんやん。ちゃんと装着させてから江口さん所に行っても遅くなかったと思うで」
「それはそうですけど…」
(やっとられんわ)岡村は心の中で呟いた。確かに理由はそうだが根本的にまだ、田村との一連の事が心に残っていて気持ちが不安定な為、つい忘れてしまった。その事を二宮リーダーに伝えれば更に激怒されるのは目に見えている。岡村は心中に留めた。
「岡村君、よう聞いてや。仕事には優先順位があんねん。例えばNCが重なった時に誰から先に介助をせんとあかんか。その順番を間違えたら事故に繋がるし苦情も出る。安易に考えているかも知れんけどこれで黒田さんが発見したから良かったけどそのままやったら呼吸不全で死んでたかも知れへんのやで。そうなったら業務上過失致死で自分、捕まってたで。後、倉持さんに酸素マスクがどれだけ大事が安易に考えていたやろ。利用者はどのような疾患がありそれに対してどのような処置があるかしっかり把握しておかんとあかんわ」
岡村はその日、20時の業務を終えて事故報告書をパソコンに打ち込むため退勤したのは22時が過ぎていた。岡村に取って自業自得ではあるが、散々な1日となった。次の日から岡村は来なくなった。フロアの職員でライングループを作っているが一言辞めますと入ってそのまま、脱退した。何度、二宮リーダーが連絡しても音信不通となった。
不思議なもので一度、フロアで事故が起こると2、3回続けて起こる。その日は浅川が夜勤だった。朝方の6時頃に宮城からNCがあり、起床介助を行っていた。服を着替えさせて排泄介助を行い洗面台ではみがき、洗顔を行う。その後に居室からリビングに移動している時にドンッと大きな音がしたと同時に
「助けて、助けて~誰か来てくれ」
声が聞こえた。浅川が隣の居室を覗くと国本がベッドの下で倒れて、床には血が落ちていた。浅川は落ち着いて国本に声掛けた。
「国本さん、大丈夫ですか?」
「痛い、早く起こしてくれ」
転倒したことでかなり動揺している。浅川は右側臥位になっている国本を起こしてベッドに座らせた。右顔面から流血している。右目じりか頬のあたりが3cm程切れていた。タオルを取りに行って顔面の血を拭きとった後、もう1つのタオルで傷口をきつく縛って止血を行った。頬骨のあたりが青く腫れていた。
「国本さん、手足を動かしてもらえますか?」
体を動かしたり服をめくって他にけががないか全身所見を行った。顔面以外に特に外傷はない。バイタルも測り特に問題もない。携帯で夜勤当番の医務スタッフに連絡する。
「浅川です。国本さんが転倒して顔をけがしました。目じりのあたりが切れてます。後、頬に内出血が見られます。特にバイタルとかは大丈夫です」
「亜美ちゃん、お疲れさん。了解、すぐに行くわ」
20分後に医務課の村主さとみ(40歳)がやってきた。
「あ~あ、やっちまったね。国本さん、ちょっと処置させてね」
村主は巻いていたタオルを取って処置を始めた。
「上手く、止血してるわ。亜美ちゃん、大変やったね」
処置をしている時に7時がまわり早出勤の望と山口が居室に入ってきた。
「どんな状況やったん?」
山口が聞くと、浅川は一連の流れを2人に説明した。
「けがする前に見たんは何時頃?」
「5時半頃だったと思います。そん時はまだ、寝ていました。それから江口さんとこに行って起床介助してると宮城さんからNCがあり江口さん、終わらせた後行きました。で、介助を行ってる時にドンって」
「そっか、多分やけど自分で起きようとしてバランスを崩したんやな」
介護事故は『防げる事故』と『防げない事故』に区分される。交通事故と何ら変わりないが飲酒や体調不良またはスピード超過など自分が原因で起こす事故これは『防げる事故』である。それに対しておかまされたとか相手が赤信号で突っ込んできたなどの不可抗力の事故は『防げない事故』になる。それは加害者となるか被害者となるかにもつながる所がある。浅川が遭遇した事故は『防げない事故』であるが、どちらにしても事故報はパソコンに打ち込まなければならない。浅川の退勤時間は12時を超えていた。あじさいユニットで望と遅出の宇佐美サブリーダーが昼食の介助を行っていた。
「お疲れさまでした」
浅川が帰り支度をして挨拶をした。
「お。終わったん。遅くまでごくろーさん。ゆっくり休んでや。もしかして彼氏待ってるんとちゃうか。早く帰らんと怒られんで。疲れている時のHは格別やからな」
宇佐美サブリーダーがからかう。普段なら余裕でかわすが疲れと別の違う理由で顔をこわばらせながら言った。
「そんな人いません」
浅川の表情より言葉に宇佐美サブリーダーは驚いた。
「なんや、別れたんか?」
宇佐美サブリーダーは情報通で利用者は基より職員の下世話なことまでよく知っていた。演技か性格かはわからないが誰にでも聞きにくいことを平気で聞いてくる。特に女子職員にはうざたがられていた。
「もぅ、ほっといて下さい。それ以上言うとセクハラで訴えますよ。ただでさえ、(夜勤)明けでしんどいのに」
浅川にはつい最近まで学生時代から付き合っていた彼氏がいた。彼氏も他の施設で介護職員をやっていたが、理想が高く現実とのギャップで施設を転々としていた。
「俺はこの業界を変えたんねん。介護する人もされる人も安心できるような施設を造ったんねん」
が学生時代からの口癖だった。学生時代は頼もしくさえ思えたが卒業し社会に出て厳しい現実の世界を目の当たりにしてそれでも夢を語っている元カレに不安と幻滅が募り愛想を尽かせた。望は近くで食介を行いながら二人の会話に聞き耳を立てていた。望は宇佐美と反対に情報量は乏しく、浅川に彼氏がいたことを知らなかった。しかし、浅川が現時点でフリーだと聞いた時には内心喜んでいた。そんな望に宇佐美サブリーダーのゲスな攻撃が飛び火した。
「そっか。じゃあ、新しい彼氏になったろか?」
「不倫は無理です」
宇佐美サブリーダーは妻と小学1年生と3歳になる2人の息子がいた。背がすらーっとしていて顔のルックスも悪くない。うざい性格でなかったらそこそこ好てると思われる。非常に残念である。それでも自分は男前だと自覚していた。
「不倫はあかんよな。ほなら、こいつはあかんか」
宇佐美サブリーダーは矛先を望に向けた。
「へ?」
望は突然に自分に振られて驚く。しかし、宇佐美サブリーダーは1言も2言も多かった。
「望は28年彼女なし。女、知らず、どお?」
望は気になっている女性の前で向きになった。
「彼女はいないけど、童貞ではないです」
「お、素人童貞か」
「違います。Hぐらいありますよ」
望は長倉千秋のことを思い出した。
「私、帰りますね」
浅川はあきれて帰っていった。特に望の恋愛話に興味がないのかまた、聞きたくなかったのかはよくわからない。
そのまた数日後、あじさいユニットの昼食時間。望と小向井が食事介助を行っていた。ある程度自立されている利用者は食べ終わり、トイレに向かう者もいた。望は五代の食事介助を行いながらNC対応したり、服薬を行っていた。小向井は倉持の食事介助をしていた。NCが鳴り望が排泄介助の為にリビングを離れた。暫くすると小向井が慌てて望を呼んでいる声が聞こえた。
「美空君、美空君。早く来て」
ただならぬことがあったことは察したがすぐに駆けつけられる状態ではなかった。
「ごめん。今、手が離されへん。どないしたん」
「倉持さんが喉につめてん」
「えー、わかったピッチで医務に連絡するわ」
望と医務が来るまでに小向井は背中をタップして喉に詰まった食物を出そうとしていた。望も介助を終わらせるとすぐに倉持のそばに駆けつけた。すでに医務の河野が吸引器で詰まった物を吸い出そうとしていた。
「さとみ、吸引変わって」
河野ナースは聴診器を胸に当て鼓動を聞く。倉持はまだ、ぐったりしている。望は意識が戻るように呼びかけたり胸をつねったりするが意識は戻らない。
「救急搬送しよっか。誤嚥(肺炎)やわ」
五分ほどで救急車が到着して河野ナースが付き添い、倉持は病院に搬送された。村主ナースと望が見送り、村主ナースが望に呟くように言った。
「恐らく帰って来れへんやろね」
普段から倉持の食欲がなく、介助を行っても提供量の3~4割程度しか摂取できなく拒否も強かった。
その日の夕方、夜勤の宇佐美サブリーダーが出勤してきた。
「倉もっちゃん、入院したんやろ。あの状態ではしゃあないわな」
宇佐美サブリーダーは心なしか嬉しそうである。宇佐美サブリーダーだけではなかった。望も正直、ほっとしていた。不謹慎な話ではあるが正直、手のかかる利用者が病院搬送されるとその分介護が楽になる。倉持の場合、ご飯は食べない、食事後はベッドで休ませる。しかも前のように酸素マスクを付け忘れると大変なことになる。ベッド上でのパッド交換、歳のせいか肛門はゆるんで常に便が出ている。夜間は常にうめき声が聞こえ、他の利用者からも苦情が出ていた。その分、楽になるのは事実である。しかし、倉持が帰ってこなくても次の入居者は必ずと言っていいほどもっと手のかかる利用者が入ってくる。現在、要介護3以上でないと入居できない。介護保険制度があるといえ家族の経済的な面は半端ない。そう手がかからないのであれば結局、自宅で介護することになる。何のために高い介護保険を払っているのかわからない。
結局、倉持は1か月後に死去されて施設に戻ってくることはなかった。
望の仕事でのストレス解消はゲームである。休みの日はほぼ、1日ゲームをしていた。その日も休みで1日中部屋に籠ってゲームしていた。夕方、携帯が鳴る。彼女も友達もいない望のスマホが鳴るのは珍しい。ラインも殆ど繋がっていない。唯一グループラインもフロア職員のみで殆どが連絡事項であった。着信は二宮リーダーからである。
「休み中に悪いけど今からこっちに来れへんか。大変なことになってるんや」
「何かあったんですか?」
「内容は来た時に話すからできるだけ早く来てくれ」
二宮の声のトーンや話し方でただならぬことであることはわかったが望は思い当たる節がなかった。
(なんやもぉ、じゃまくさいわ)
心でぶつぶつと呟きながら身支度を整えて部屋を出る。キッチンでは知子が夕食の準備をしていた。
「何やでかけるんかいな。もうすぐ飯やのに」
「施設からすぐ来てくれって電話あったんや。ちょっと、行ってくるわ」
「飯は?」
「帰って食べる」
施設に着くと慌ただしい雰囲気を感じた。事務所に行くと二宮リーダーが待っていた。
「待っとったわ。ミーティング室に行こか」
二宮の仕草から望は何も聞くことができなくミーティング室までの距離、空気も足も重かった。ミーティング室に入ると錚々たるメンバーが揃っていた。施設長の足立優(45歳)、統括ケアマネージャーの関口知宏(43歳)、相談員の間島達郎(30歳)同じく相談員の根占柚希(25歳)さらにテーブルの端には有村青雲もいた。
(何や…俺、何したん…)
「休みのところすまんな、空いてるとこに座って」
足立施設長が誘導して自ずと足立施設長の対面にその横に二宮リーダーが座った。その場を仕切り始めたのは関口だった。
「美空、何で呼ばれたかわかるか」
誰も何の説明もないのでまったくわからない。
「いえ、何にも聞いてません…」
「そうか、ほなこれを聞いてくれ」
根占が目の前にあるパソコンを叩くと望と岸本の声が聞こえてきた。
「何や…これ…」
望は顔から血の気が引いて青ざめた。
浩市が施設にやってきたのは今日の昼過ぎである。事務所には関口統括と間島相談員が打ち合わせをしていた。
「ちょっと、すんません。あ、あんたここの偉いさんやろ、確か…」
浩市が関口統括に話しかける。岸本が施設に入る時に面会したのは関口統括だった。浩市はそのことを覚えていた。
「関口です。岸本さんの面会ですか?」
「いや、ちゃうねん。あんたらに話があってきたんや」
間島相談員と関口統括は顔を見合わせた。浩市にソファに座ってもらい話を聞いた。
「何かありましたか?」
「前にお袋んとこに来た時、文句を言ってたんや。ここは何もしてくれへん。喉が渇いた言うても水ひとつ持ってきてくれへんてな」
「そんなことないと思いますが…」
「わしもそう思っとたんや。でもなお袋も納得でけへんやろうと思ってこれを渡しておいたんや」
浩市は上着の内ポケットからICレコーダーを取り出した。
「まあ、ちょっと聞いて」
浩市はICレコーダーの電源を入れて再生を押した。
それはある夜間の様子が録音されていた。NCの音が鳴り響き切れる。それが繰り返される。暫くしてドアが開くと同時に怒鳴り声が聞こえた。
「えー加減にせえや。ちょっと、待ってくれてもええやろ。なんべんも鳴らして。一遍、鳴らしたらわかるわ。こっちは他の人の用事で忙しいねん」
声は明らかに望だった。
「喉が渇いた。何か飲ましてくれ」
岸本は望を無視して自分の訴えだけを伝える。
「夜中に水分ばっか取ってるから何回もトイレに行くんやろ。少しくらい我慢せい」
「なんでうちばかりこんな目にあうんや。もお、死にたいわ」
「勝手に死んだらええやん。こっちもその方が楽でええわ」
そう言った後、ドアが閉まる音が聞こえ望は退室した。暫くしてまたNCが鳴りだした。またも切れば、鳴らす、鳴らせば切るの繰り返し。そして再びドアの開く音がする。さっきより、きつく強く口調で怒鳴り声が聞こえた。
「ほんまにしばくぞ」
「痛い、痛いわ、助けて。殺される。勘弁して、もうやめてって…」
浩市は停止ボタンを押した。
「これって完全に虐待とちゃいますか」
関口統括はため息をついた。
「すみません。事実確認を行い早急に対処したいと思います」
急に浩市が口調を変えてきて凄みだした。
「事実確認て、これ以上はっきりしたことはないやろ。ちゃんとこれに残ってるやないか」
「職員に事情を聞いて改めて謝罪に伺いたいと思います。申し訳ありませんでした」
関口統括と間島相談員は深々と頭を下げた。
「まあ、ええわ。明日、家にいるさかいにどういうことか話を聞きましょか。誠意みせて下さいや」
浩市は立ち上がりICレコーダーを手に取った。
「すみません、そのレコーダー、貸していただけないでしょうか?」
間島相談員が浩市にお願いをする。
「これか。あかんわ、証拠隠滅されたら終わりやからな。その変わりこれ貸したるわ」
浩市はポケットからUSBメモリーを取り出した。
「これに同じやつをコピーしてるさかい、使ってくれてええわ」
「ありがとうございます」
関口統括と間島相談員は深々と頭を下げて浩市を見送った。間島相談員が関口統括に呟いた。
「まずいことになりました…」
「すぐに施設長に連絡取ってくれ、4階に上がって話を聞いてくるわ」
関口統括が4階に上がると二宮リーダーがパソコンで利用者のその日の様子をパソコンに記入していた。関口統括はリビング内を見まわして岸本の姿を探した。
「岸本さんは?」
二宮リーダーに問いかける。
「居室で休まれているかテレビを見ていると思います」
「変わった様子はないか?」
「特に普段と変わりませんが…」
そう聞いて関口統括は岸本の居室をノックしてドアを開けた。岸本はベッドに横になりながらテレビを見ていた。
「あんた、誰や?」
「この施設の者です。ここに来る前にお会いしてお話させて頂きました」
「そうやったかいな。覚えとらんわ」
「すみません…普段は下で仕事しているもんで…」
「何かようかいな」
「少し様子を見に来ました。しんどいことないですか?どこか痛いとこあります?」
「毎日しんどいし、体は痛いとこだらけや。この歳になったらしかたないわ」
「まぁ、無理せんと何かあったらスタッフを呼んで下さい」
「おおきに…」
関口統括は退室して再び二宮リーダーに話を聞きに行った。
「最近、岸本さんはいつ風呂に入った?」
「昨日ですけど…」
「内出血とか剥離はなかったか?」
「特に報告はされてないですが…いったい、何があったのですか?」
「さっき、岸本さんとこの息子さんが来はってな。居室にICレコーダーを仕掛けてたみたいでな。虐待されたとクレームがあったんや」
「虐待行為が録音されてたんですか?」
関口統括は頷いた。
「手が空いたら事務所に来てくれ」
「わかりました」
二宮リーダーは事務所でUSBにダビングされていた一部始終を確認した。
「これは…美空ですね…今日は非番ですわ」
「至急に事実確認を行って明日、息子さんに報告せなあかんのや。た。多分、出てきてもらって事情を説明してもらわんとあかんやろな」
「連絡してみます」
「ちょっと、待ってくれ。もう少ししたら施設長も来るさかいに。それからでもええやろ」
「わかりました」
施設長の足立はこの日、施設の寄合のゴルフコンペで遠出していた。連絡を受けて2時間かけて苑にやってきた。ポロシャツにチェックのズボンにジャケットを羽織りいかにもゴルフ帰り格好である。
「すみません、非番の日に」
「別にかまへん。理事長にも連絡をつけたさかいにもうすぐ来るやろ」
遅れて1時間弱、有村青雲が苑にやってきた。事務所からミーティング室に場所を変えて話し合いが行われた。始めに今回の一連の流れを関口統括が説明して浩市から預かった録音された会話を足立施設長と有村青雲、根占に聞かせた。会話が流れた後に一同考え込む。話を切り出したのは青雲だった。
「足立さん、これは重要な案件です。対処を間違えると大変なことになります。至急、事実確認を行って誠意を持ってご家族様に納得される説明をお願いします。どんなことがあっても虐待は許されるべきことではありません。状況によっては市の監査も受けることになります」
「はい。十分に承知しています。担当職員に事情を聞いて対処したいと思います」
望は頭の中が真っ白になっていた。足立施設長の質問が全然、耳に入っていない。
「望、望…」
横に座っていた二宮リーダーが肩を揺さぶりながら呼びかけられてふと我に返った。改めて足立施設長が望に質問した。
「美空君、この時の状況について詳しく説明してくれへんか?この録音された会話を聞いた感じでは虐待と取られても仕方ない。我々は本当のことが知りたいんや。正直に答えてほしい」
望は頭の中を整理しゆっくりと時間を置いて足立の質問に答えた。
「夜間帯、岸本さんはよく水分を欲しがってコールを鳴らされるんですが、他の利用者の徘徊やトイレ介助に追われてつい、後回しにしてしまうんです。特に事故に繋がることないし、クリアな面もあるので待って頂けると思ってピッチで待って頂けるように促しをかけるんですが何度も何度も鳴らされるのでついイライラして強く当たってしまいました」
「じゃあ、この会話は間違いないんやな。じゃあ、岸本さんに暴力行為を行ったのか?」
そこは強く否定する。
「決して、暴力なんて…前半は確かに認めますが、最後は違います。最終的にはお茶も提供していますし…最後の会話は私ではありません」
二宮リーダーがフォローする。
「多分、暴力行為が行われていたらそれなりの内出血ができていると思うし、岸本さんにもそれなりのシグナルがあり、他の職員が気付いていると思うんです」
続けて間島相談員が意見を出した。
「岸本さんの性格上、暴力を受けたなら黙っていないと思います。認知症はありますがクリアな面も多いし、被害を受けて黙っていられる人ではないと…」
「色々と問題ありそうですね。明日までに解決するには時間が無足りない」
関口統括が足立施設長に語りかけた。足立施設長は望に声かけた。
「夜間帯に1人で20人の利用者を見ることは容易ではない。まして認知が進んで疎通が出来ない人も多い。そやけど暴言をはいては理由にはならない。忙しくてイライラしても利用者には関係ない。ただ、トイレに行きたいだけ、喉が渇いただけ。他の人の事なんか関係ない。自分の欲求を伝えたいだけなんや。我々の仕事は利用者が生活する為の手伝いをすることや。勝ち負けの問題やないけど冷静さが欠けたらこの仕事負けやで。今回の事は息子さんの出方でどうなるかわからへん。勿論、できるだけのことはする。それから暫く夜勤は外れてもらう。ええな。今日はもう帰ってええよ」
望は項垂れたまま席を立ってドアの方に歩き出した。青雲が望に声をかけた。
「今度、寺の方にも顔出しな。ゆっくり話を聞いたろ」
望は青雲の方を向いて軽く頭を下げた。
望が気付くと自宅のベッドにいた。部屋は真っ暗で照らす明かりはテレビなど家電機器の電源だけだった。テレビゲームやスイッチ付きのテーブルタラップを使用しているのでそれだけでも部屋を薄暗くは照らしていた。勿論、いつもと同じルートで帰ってきたのだが、殆ど覚えていない。何度か車と接触しそうになりクラクションを鳴らされたのは覚えている。家に着くと食事の真っ最中で津田和馬が来ていたのを思い出した。
「おっ。お帰り。タイミングええな。丁度、たこ焼きが焼けたとこや。席に座りぃ」
家庭用のたこ焼き器を出してたこ焼きを焼いていた。焼くのは専ら正義の仕事である。正義はたこ焼き奉行でタコのほかにこんにゃくやコーンなどを入れてアレンジをする。それを用意するのは知子なので非常に面倒臭いと毎回文句を言いながら準備していた。
「あ、ええわ…」
望はぶっきらぼうに返事した。
「何や、ええもん食べて来たんか?」
望は答えずに部屋に入った。
「何や…機嫌悪いな。何かあったんやろか」
「食べたなったら出てきよるやろ。和馬君、ぎょうさん食べや」
「すみません。頂きます」
望は悔やんでいた。くに子に対しての態度もそうだが、それより今日、状況を上手く説明出来なかった自分に対して腹立たしく思えていた。後から後から何度もああ言えば、こう言えばと後悔していた。しかし、今さら何を行ってもくに子に対する暴言は取り消せることは出来ない。
次の日、足立施設長と関口統括が菓子折りを持って浩市の家を訪ねた。2人は応接間に通された。煌びやかで豪華っぽいシャンデリア、黒のレーザー張りのソファ、1本彫りのテーブルにごっつい灰皿が置いてある。ダッシュボードの中にはバカラや切子のグラス。いかにも高そうなブランデーやウィスキーが並べてある。ダッシュボードの上や壁には動物のはく製や象牙の置物、小判などが入っている額が飾ってあった。一昔前の成金がイメージする応接間に2人は色んな意味で圧倒されていた。
「色んな意味ですっごいですね」
「バブルの頃によく見た風景や」
「私、Vシネマでしか見たことありません…」
と、話をしていると浩市が入ってきた。後から30歳前半の丸坊主で筋肉質の男が入ってきた。左腕には金色の周りがダイヤモンドでちりばめられたローレックスの時計、右手には数珠のようなブレスレッドをたくさんはめていた。目つきが悪く反社会の武道派の構成員にしか見えない。
「あ、気にへんといて下さい。こいつはわしの従弟の田中守男と言います。仕事を手伝ってくれてますねん」
守男は軽く会釈をして直立不動をしていた。
「小さい頃からくに子おばさんには良くしてもらいました」
「お袋に兄弟同然に育てられました…」
その言葉の後にはくに子に何かあったらただじゃおかへんでと言う言葉が隠れていることを2人は察知した。内心は穏やかではなかったが平常心を装い足立施設長が話を始めた。
「浩市さんは確か、不動産関係のお仕事でしたね」
「主に不動産を扱ってますが、工事現場も少々やってます。現場は殆ど、これに任せております」
浩市は守男を指さした。
「それにしても立派なお家ですね」
「バブル時代の遺物ですわ。最近はとーんとあきまへんわ。そんなことより昨日の件どうなりました?」
「関口から苦情の内容とUSBを聞かせて頂きました。担当職員から話を聞いたところ他の利用者様と介助が重なり、イライラしてつい、岸本様に対してあのような失礼な態度を取ったと…勿論、そそれは許されるべきことではございません。担当職員には厳重な注意を行い二度とこのようなことがないように指導させて頂きます」
「それではUSBの内容を受け止めて虐待があったと解釈させて頂いてよいということですな」
「いや、それが本人は決して暴力行為はないと申しております。短い時間で十分に調査はできていませんが、当苑といたしましても岸本様に対する暴力行為はなかったと見ております」
「ほなら、わしらが嘘をついておるとでも」
「とんでもありません。もう少し時間を頂ければ、きちんとした報告ができると思います」
浩市は全然、納得していない様子だった。しかし、それを下隠して足立施設長の言葉に相槌をうった。
「いやいや、けっこうですわ。お袋が虐待すれてないとわかればそれでええんですわ。あの性格やし、職員さんが苦労されるのは当然ですわ。何か、わざわざ、ご足労して頂き申し訳ございません。今後もお袋のことよろしくお願い致します」
急に浩市の態度が変わったので足立施設長は困惑した。
「そう言って頂けるとありがたいです。本当にご迷惑をおかけしました」
帰りは玄関先まで送ってくれた。
「社長、このままでええんですか?」
守男が小声で浩市に耳打ちした。
「予定通りや」
車の中、関口統括が運転しながら助手席の足立施設長に話しかけてきた。
「意外にあっけなかったですね」
「このままで終わらへん気がする…」
2週間後、知子は午後2時過ぎにいつもと同じように『昼過ぎステーション』をリビングでソファに座り見ていた。
「何や、また、虐待か。ほんま、最近多いな」
テレビ画面では゛また、施設で虐待か?゛というテロップが出ていた。次の瞬間、知子は目を疑った。
「ここ、望が働いている施設やないの…」
すると、玄関のチャイムが鳴った。知子がインターホン越しに会話する。
「どちらさん?」
「テレビ局の者ですが望さんはご在宅ですか?」
「テレビ局が何のようなん?」
「望さんが施設の高齢者虐待に関与されておられる可能性があるんですよ。詳しい話を聞かせてほしいと思いまして…」
「今、いてないです。帰って」
「どんな息子さんか話を聞かせてほしいのですが」
「なんで、あんたに話せなあかんのよ。あほちゃう。近所迷惑やし帰って」
「何とか話だけでも…」
「帰らへんなら、警察呼ぶで」
知子はインターホンの受話器を置いてスイッチを切った。
「なんや、外が騒がしいな…」
望がパジャマ姿でリビングに出て来た。今日は休みでいつものように明け方までオンラインゲームをしていて外で報道陣が屯している声を聞いて目を覚ました。岸本との事件は段々と脳裏から薄れかけていた。
「何、悠長なことを言うてんの。マスコミが外にうじゃうじゃしてるんよ。あんたが虐待したって。テレビでやっとるわ」
望は慌ててテレビの画面に目をやった。
「何でや…」
ワイドショーは関西ローカル局ではあるが全国放送している。『昼過ぎステーション』と言う番組。МCは関西弁を悠長に話す人気フリーアナウンサー・上木、コメンテーターには中堅のお笑い芸人・亀田。スーツ姿で一文化人見たくまとまっているが一昔前はすぐに裸になり下品さを売りにしていた。そしてブログを活用し上手くママタレとして生き残った元アイドル・月ヶ瀬。政治家崩れの弁護士・梅田もいた。
「先日、我々はインターネットのある書き込みからこれはもしかしたら虐待ではないのかと思われるものを見つけました。これからの高齢化社会に向かって行くにつれて問題ありと考え、この話題を取り上げて行きたいと思っています。まずは最初に録音テープがあるので聞いて頂き意見を聞きたいと思います」
スタジオに例の録音テープが流れた後、局アナウンサーと共に大きなボードが運び込まれた。ボードにはテープの内容が書かれていた。上木がコメンテーターに話を聞く。
「梅田さん、これどう思われますか?」
「このテープだけでは確たる証拠にはなりませんがこれが事実であるならば業務上過失更に傷害罪にあたります。それなりの処罰が科されると思います」
「これはあかんですよ。刑罰より弱者に手を上げるとかもう、あかんでしょ」
更に月ヶ瀬がコメントする。
「これは介護だけでなくて保育の方にも通じるものがあるんですよ。うちの息子も幼稚園に通っていますが、はやり虐待とか気になりますね」
「まあ、色んな意見がありますが、言うてもね、我々素人ですから、ここで介護のプロと言いますか地域包括センターの部長でケアマネージャーの資格をもってます遠藤さんに来てもらってます。どうぞ」
見た目50代のスーツ姿の男性がスタジオに入って来た。
「遠藤さん、お忙しいところすみません。早速ですがこの録音された出来事をどう、思われます」
「一応、介護福祉では虐待の定義がありまして、これは3つの虐待に当てはまると思います。まず、虐待は身体的、精神的、経済的、性的、後はネグレスト所謂介護放棄ですね。そしてこのケースからすると身体的、精神的、ネグレストですね。最初に言葉使いですね。これで精神的に利用者を追い込んでます。そして水分補給を拒むという介護放棄です。そして、もし暴力行為があったとすれば身体的虐待にも繋がります」
「じゃあ、遠藤さん。これは罪になりますか?」
「彼が介護士の資格があれば恐らくは剥奪されるでしょ。暴力行為が認められれば傷害罪になりますが刑事事件になりますが、この施設には市町村からそれなりの警告があると思いますよ。早めに事実確認を行わないと、書き込みをされた方は不安な日々を過ごすでしょう」
「まったく、その通りやと思います。ここで虐待したと思われる介護職員の自宅に内田さんが行っております。中継を繋いでみたいと思います。内田さん」
画面は切り替わりレポーター以外の背景はモザイクで覆われていたが明らかに望のマンションの近くであった。
「上木さん、私は今、その介護者と思われる仮にM氏とでもしましょうか。そのM氏のマンション近くにいます。ある筋の情報で本日は施設を休んでいるみたいですがM氏と接触はできませんでした。それでもその母親とのやり取りができましたのでその様子をご覧く下さい」
テレビ画面に先程のレポーターと知子のやり取りが流れた。勿論、モザイクはかかって知子の声も変えている。MCの上木はVTRを見ながら笑いながら言った。
「これまた、関西のおかんって感じやな。この人の息子さんなら、納得できるかも知れませんな」
「なんやと、感じ悪いな。この男の番組もう、絶対見たらへんからな」
知子はテレビの画面に叫んだ。望は目を開いて震えている。
『昼過ぎステーション』が始まる数時間前、「ふるさと苑」にも30代前半の女性レポーターが来ていた。
「すみません。私、近畿テレビの松本と言う者ですが少し取材をお願いしたいんですが…」
関口統括が対応する。普通なら前もって何かしらのコンタクトがあるはず。ただならぬことではあると感じたがこの時点では検討は付かなかった。
「どのような取材ですか?とりあえず、カメラを取るのはやめてもらえますか。それとレコーダーも」
松本レポーターは一緒に来ていたカメラマンにカメラを止めるように指示した。そしてレコーダーの電源を切った。
「実はですね、この施設で虐待があったのではないかというSNSの投稿があったのですがそのことを確かめたくてお伺いしました」
この松本レポーターの言葉でどうして取材が来たか理解したと同時にやられたと心の中で呟いた。とりあえずレポーターの前では冷静を装う。
「うちで虐待ですか…そんなことはないとおもいますが、具体的に話を聞かせて頂けますか?」
松本レポーターがタブレットをカバンから取り出して例の望と岸本のやり取りを流した。そして松本レポーターは関口統括がどのような反応をするか様子を覗う。そしてテープが一通り終わり一拍置いて言った。
「…。このことですか。このテープの会話は勿論、知ってます。どうしてネットに挙げられたのかはわかりませんがこの時点でのコメントは控えさせて頂きます」
「この会話は事実として認識していると言うことですね」
「ん?語弊のある言い方ですが…この会話は認知していますが事実かどうか今、確認中と言うことです」
「でもはっきりと声は撮れてますよね」
「この音声について本人は認めている所もありますが、否定している部分もあります。苑としては職員の言い分もレコーダーの内容も否定できません。だから、事実確認を行っているところです」
「どこまで認めているのですか?」
「すべてが明らかになってからお話します」
「取材は続けても?」
「否定したらうちは不利になるやろ。好きにしたらええ。もし、虐待の事実があった場合でも包み隠さずに対処しますよ。但し、先走った報道があれば立場が悪くなるのはそちらですから気を付けて下さい」
関口統括は松本レポーターに釘を刺した。そしてワイドショーは始まった。事務所では足立施設長、関口統括、間島、根占相談員がテレビを見ていた。
「ここでこの虐待があつたと思われる施設の方にもレポーターが行っています。早速、呼んで見ましょう。松本さん」
画面切り替わり松本レポーターが立っていた。周りにはモザイクがかけられている。
「はい、私は今その施設に来ています。5階建てのけっこう大きな建物です。こちらの関係者に話を聞くことが出来ましたが内容をカメラにおさめることはできませんでした。関係者の方はネットに挙げられたことは知らなくて、会話自体は認識していたようです。現在、虐待のことは調査中で事実が確認でき次第に対処するとのことです」
「なんや、双方の意見が食い違っていると聞いているんやけど…」
「そうですね…こちらの施設では寝耳に水と言ったところでしょうか。どちらの言い分が正しいのか今後の展開が気になるところです」
「その施設の評判はどうなん?」
「はい、周りの評判は悪くはないです。これまで特に問題はないと皆さんおっしゃってます」
「そうですか。また、何かあればお願いします」
「はい」
中継は途絶えた。
「私たちは事実確認がはっきりするまで取材を続けたいと思います。続きましてはまた、議員の不倫が発覚しています…」
足立施設長がリモコンでテレビのスイッチを切る。
「これはあかんな…」
立ってコーヒーを飲みながら見ていた関口統括が呟く。
「完全にやられました」
足立施設長がシフト表を見ながら根占相談員に言った。
「すぐに二宮を呼んでくれ」
根占が内線で二宮リーダーに連絡する。1分も経たない内に事務所に降りて来た。
「呼ばれた理由はわかります。上で見てました」
二宮リーダーはユニットのリビングのテレビでワイドショーを他の職員と一緒に見ていた。足立施設長はすでに自分のデスクに座っている。
「事態が収拾するまで美空はシフトから外れてもらい自宅待機してもらおう。至急、段取りしてくれへんか。それと美空にはマスコミには絶対に対応しないように念押ししてくれ」
関口統括が続けて二宮リーダーに言った。
「それとうやむやになりかけていた美空が岸本さんに対して暴力行為が行われたかどうかを示す決定的な証拠がほしい。状況によっては刑事事件に繋がり美空が逮捕される可能性も否めない」
「この案件って形が付いていたんじゃあないんですか?」
「うかつやった…これは我々の落度や。てっきり示談に応じてくれていると思ってた」
と足立施設長が言うとデスクでパソコン作業していた間島相談員が口を挟む。
「やはりお金目的じゃあないですか。我々がお金出す素振りがないので一旦、示談に応じた振りをして油断させ身動きできなくしたんじゃあないんですか?」
「そうやとしたらかなりたちが悪いな。その辺もきっちりさせる必要があるそれはこっちで調べるから暴力行為がなかった証拠を見つけてくれ。今日の報道で美空もかなり動揺していると思うからフォローもしたってくれ」
「わかりました」
二宮リーダーがフロアに帰ると宇佐美サブリーダーが待ち構えていた。宇佐美サブリーダーが口を開く前に先に二宮が口を開いた。
「望は暫くシフトを外れて自宅待機となる。すぐにシフト調整しなければならない」
「望はどうなるん?」
「まだ、わからへん。しかし、現時点では不利な状況やな。最悪捕まるかもしれん…」
「まじか…で?」
「今日、他のフロアのリーダーとサブリーダーも参加してもらって緊急ではあるがフロア会議を行う。何とか暴力行為がなかった証拠を探すために検証を行う。虐待行為だけなら捕まることはないからな」
「ん~、やるしかないわな」
「先に望に連絡するわ。あいつ、かなり動揺しているやろ」
二宮リーダーはスマホを取り出して望に連絡した。
知子は息子が怯えている姿を見てどう声掛けしていいのか躊躇していた。それでも気になるので口開いた。
「これってほんまなんか?」
望に知子の声は入って来なかった。
「お父さん、帰ってきてからゆっくり聞くわ。携帯、鳴ってんで」
そう言ってソファから立ってキッチン入った。望は画面を見てはっとした。待っていた相手からやっとかかってきた感じである。
「はい…」
「美空、大丈夫か?」
「どうして…マスコミが…僕はどうなるんですか?」
望は食い入るようにまた、縋るような気持ちで二宮リーダーに話しかけた。二宮リーダーは一泊置いて話を始めた。
「今は何とも言えん。とりあえず、仕事には来んでもええから自宅待機しとき。状況は連絡するさかいに」
「…」
「心配すな。今日の夜に会議を開く。そこで何か暴力行為がなかった証拠を探してみるわ。後、何でもええから何か気付いたことがあったら教えてくれ。どんな小さいことで情報が欲しい」
「すみません。宜しくお願いします」
「マスコミには対応したらあかんで。どんな揚げ足を取られるかわからへんからな」
「はい…」
そしてその夜に望、パート職員の田村、小向井以外のフロアスタッフと各階のリーダーとサブリーダーが参加してフロアリビングで会議が行われた。通常、フロア会議は利用者の就寝介助が終わった20時頃から行われる。二宮リーダーが会議を仕切る。
「今日、緊急に皆には集まってもらって申し訳ない。もう、知っていると思うけど施設の運営にも影響を受ける重大な事が起きた。解決されたと思われる案件がインターネットに挙げられ、マスコミまで取り上げられている。恐らくリークしたのは利用者の家族さんだろうと思われる。これから家族、マスコミ多分、市も虐待として調査が入ってくると思われる。我々はいずれにしても凛とした対応をしなければならない。その為には検証して真実を導き出してほしい。時間が経っているのでかなり難しいと思うが幸か不幸かその時の会話は残っている。聞いたことはあると思うけど、繰り返し聞いて気になることがあれば何でもええから言うてほしい」
「その前にさぁ、この案件を解決したからと言って、ほったらかしにしてたほうがかなりの問題とちゃう。そん時に検証してたらすぐにマスコミも対応できてたんとちゃうん」
少し嫌みっぽく意見したのは3階のリーダー島津文香(36歳)
性格は一言で言えば男勝り、勝気である。サブリーダーは久戸ゆりあ(28歳)、3階は女性上位のフロアである。二宮リーダーに取っては出鼻を挫かれた上、耳が痛い一言だった。助け船を出したのは5階のリーダー夏目浩(50歳)だった。夏目は介護主任で介護職員のトップである。
「文香の言う通りやけどな。そこから行ったら徹夜やで。がんばっちゃう?」
「やめとこか。にのやん、サクサク行こか」
二宮リーダーはタブレットを取り出して例の会話を流した。皆、耳を澄ませて聞いている。一通り会話が終わると緊張感が緩和された。話を切り出したのは島津リーダーだった。
「これは黒でしょ。虐待と言われても言い逃れはでけへん」
「美空は虐待って言うか、前半の部分は認めている。でも最後の部分は否定しているんや。つまり、岸本さんを罵倒したけど暴力は振っていない。多分、罵倒だけなら市の注意だけですむが暴力行為で訴えられたら美空は捕まってしまう。裁判にならば厄介や」
二宮リーダーが話終わった後、宇佐美が続けて話だした。
「あかんことやけど、美空の気持ちはわからんでもない。正直、今、それ言うみたいなことってあるやん。確かに利用者にしては関係ないけどな。イラつくことは確かに多いわ」
その言葉に意見を述べたのは5階のサブリーダー朝日智久(33歳)。宇佐美と同じ歳で朝日サブリーダーは真面目で融通が利かない。宇佐美サブリーダーとはまさに正反対の性格で何かあると仲違いしている。
「でも、イライラしたらあかんやろ。僕らは家族から大切な人を預かっているんや。プロとしてきちんと対応せなあかんと思うけど…常勤や非常勤とか関係ないし」
「そんなん、誰でもわかっとるし。職員同士やったら多少の愚痴は言うてもええんとちゃうの。プロでも何でもしんどいんはしんどいんや。話を聞いて同感したら少しでもストレスを取り除けると思うけど」
「剣心、その話ってまた今度にしようか。今はこの音声データを解析して真実を見出すことの専念させてもらってええかな?」
雰囲気が悪くなりそうなので二宮リーダーが話題をすり替えた。突破口を切り出したのは夏目介護主任だった。
「前半、後半に分けるんやったら暴力行為って後半部分やんな…確かに岸本さんて痛がってはいるけど、音声に叩いてる音とか入ってへんよな。音だけでも殴ってる殴ってないってなんとなくわかるやろ。これって暴力がおこなわれているとは思わへんけど…」
「確かにだけど、それなら後半部分って何って話やな」
「うちも気になったことがひとつあるわ。これって夜間の話やろ。その前半、後半にこだわるなら明らかに分かれているのは確かやし後半の部分て何か周りがざわついてへんかな。日中みたいな…」
島津リーダーがそう言うと宇佐美サブリーダーが続けて言った。
「ってことはこの音声データは偽造されているってことちゃうん」
「そうなると話は変わってくるな。偽造となれば逆に向こうが不利になるし、望が嘘をついてないって証明される」
二宮リーダーが言うと朝日サブリーダーもコメントする。
「でも証拠としてはかなり弱い。岸本さんが痛がっているのは確かやし、それがなんであるか突き止められればええんやけど…」
ここでNCが鳴る。岸本からである。すぐに本日の夜勤である浅川が居室に向かう。
「どうしました?」
「喉が渇いた。何か飲ましてくれ」
「お茶しかないけどいいですか?」
「何でもかまへん」
浅川は複雑な思いでお茶を持って行った。これだけの騒ぎになっているのに当の本人は何も知らない。この人に証言が取れれば問題は解決するのに…しかし、岸本は苑に対していいようには思っていない。恐らく聞いても不利になるだけだろう。岸本はお茶を飲みほして浅川は退室した。リビングに戻ると会議は終わり皆、帰り支度をしていた。二宮リーダーが浅川に話しかける。
「岸本さん、何やったん?」
「喉が渇いたってお茶を提供しました」
「そっか。また、盗聴しているかもしれんから言葉使いや対応に十分に気をつけてな」
「はい。(会議)終わったんですか?」
「ああ、明日早出の人もいるし、薄っすらではあるが美空を助けられる収穫はあったし、後は各自、岸本さんが何で痛がっていたか原因を探すことにしてん。浅川も頼んだで」
「わかりました」
「後は頼んだぞ」
「はい…」
同じ頃にテレビ局のミキサー室で何度も音声データを松本レポーターが聞いていた。
「確かに…これは」
ヘッドホンを外してミキサー室を出るとワイドショーのディレクターの南原を探した。南原はデスクの椅子を3つ並べて仮眠を取っていた。
「南原さん、ちょっといいですか?」
松本が揺さぶると南原は目を覚ました。
「なんや、松本どないしたん?」
「今日の施設の虐待の件なんですが、あの音声データだけで家族よりの報道するのは大変、危険だと思うのです」
南原は起き上がり机の上に置いていた飲みかけのコーヒーを中身を一度確認して一口飲んで松本を見てた。
「どう言うことや?」
「今日、取材した施設の関係者が言ってたんですが、音声データを当事者が認めている部分と否定している部分があると言っていたんですよ。それでさっきミキサー室で音声を解析していたら改ざんされているであろう部分がいくつもあったんです。ここの部分を聞いてください」
松本はタブレットを取り出して音声を再生した。そして後半に差し掛かる部分で南原に指摘する。
「次の部分を聞いて下さい」
南原が耳を澄ます。
「ぶちって音がしていたの気づきませんか?そしてこの瞬間から介護士の声がなくなりました。更に暴力行為が行われているにも関わらず暴力音が聞こえないんです。偽造っぽくないですか?」
南原は少し考えて行った。
「う~ん、で?」
「え?でって」
「だから、何や?」
「いや、ですからこの案件は家族びいきで取り上げるのは危険ではないんですか?」
南原はイラついて表情に変わった。
「なんや、お前は安藤かクリステルかレポーターごときが何調べてんねん」
「私はただ、真実が知りたいだけです」
「お前の仕事は何や。レポーターやろ。真実とかはどうでもええねん。言われたところに行って与えられたレポートをしていたええねん。今日ももう少し踏み込んだレポートしたらよかったんちゃうか。代わりはなんぼでもおるんやで。明日から違うレポーターに取材してもらうから自分もう、ええわ」
「なんですか。それ」
南原はそっぽ向いてその場から離れて行った。
(なんか…頭にきた)
愛美は仕事終わりに保育園の同僚と行きつけのたこ焼き屋でタコ焼きを食べていた。たこ焼き屋と言っても専門店や屋台ではなく保育園の近くにある80代のお婆ちゃんがやっている駄菓子屋の手間にやっている6個100円のたまにタコが入っていないはずれがある当たりの時には2つ入っているようなたこ焼き屋である。近所なので現役保育園生やOB(と言っても小学生くらい)に見つかる。その時の決まり文句は…
「ごめんなさい。今、プライベートなので」
…である。
愛美はそのたこ焼きと聞いたこともない会社のビンに入っている炭酸水を飲みながらあーだ、こーだと女子会を楽しんでいた。そこにスマホの着信音が鳴った。和馬からである。
「もしもし、どないしたん?」
普段はラインでやり取りしているので電話がかかって来ることは珍しい。
「大丈夫?いまどこ?」
「やしろちゃんとこ。何が大丈夫なん?」
やしろは駄菓子屋の店主の名前である。屋号ではない。店の上にペンキで書かれた屋号はあるが風化されてなんて書いてあるのかわからない。和馬と一緒に行ったことはないがよく話には出てくる。
「ニュース見てへん?お兄さんの施設で虐待があって、しかも虐待したのはお兄さんらしい。今、こっち(役所)も色々動いている」
愛美はすぐに理解できずに固まってしまった。
「もしもし、聞こえてる?」
和馬の呼びかけにはっと我に戻った。
「ああ、ごめん。で、兄貴はどうなるん?」
「まだ、くわしいことはわからへん。こっちもニュースが出て慌てているところやから何かわかったら連絡する」
「あ、うん…お願い」
和馬の電話を切るとすぐに家に連絡する。知子が興奮してフライング気味に電話に出た。
「愛美、今大変なんよ。マスコミが外におってな。お母さん、上木におばはん呼ばわりされるし…」
愛美が話を切り出す前に知子はどうでもいい情報まで知らせてくれた。いつものことなので基本無視した。
「今、和馬から聞いた。で、兄貴は?」
「あー、引きこもってる」
電話ではどうも状況がつかめない。同僚もいるので詳しくも聞けない。
「今から帰るわ」
「まだ、マスコミがいるから気ぃつけてな」
愛美は電話を切ると同僚に断わって席を立った。
「麻里子先生、ごめん。用事できたから先に帰るわ」
何かあったことは愛美の電話で察した。
「あ、うん。じゃ、明日」
愛美は急いでカバンにスマホを入れてその場を立ち去ろうとした。動揺しているのは感じ取れる。
その姿を見て麻里子先生が声掛けした。
「愛美先生、大丈夫?」
「あ、うん。ありがとう。どうかな?へへっ」
愛美は苦笑いをして店を出た。
「お父さん、愛美も帰って来るって」
愛美が自宅に電話した時にすでに正義は帰宅していた。事件は知子から電話をもらってから知った。外に出られないので一週間分の食料を買って来てもらった。正義は仕事のユニフォームそのままで宅配員を装って帰宅した。正義の苦肉の策ではあったが思っていたほどマスコミの姿はなかった。
「望は何て言ってるんや?」
「よう、わからへん。何にも言わんと部屋に帰って出て来いへん」
「愛美が帰ってきたらちゃんと話を聞かんとあかんな。話を聞かんとどうすることもでけへんやろ」
暫くすると愛美が帰宅した。玄関で2~3人の記者に囲まれたが振り切って家に入った。
「何なん。あいつら。めっちゃぐいぐい来るやん。芸能人になった気分やわ」
母親ゆずりの能天気かまだ、この時は少し余裕があった。
「お帰り、取りあえず皆揃ったしご飯にしようか。お父さん、望呼んできて」
正義が望の部屋をノックした。
「望、飯やで」
勿論、望はご飯を食べるような気分ではない。
「…。いらん」
正義は部屋の前で数秒立ち止まった。かける言葉を探していた。
「そうか…なぁ、愛美も帰ってきたし、ちょっと話せえへんか。一遍、出てこいや」
「…」
「待ってるで」
正義はリビングに戻った。
「望は?」
「いらんて。食欲はないやろうな。出てきて話をするようには言うたけど…飯、食おうか」
いつもは食事中に1人で喋っている知子も今日は大人しかった。誰も見ることもなくテレビもただ流れているだけだった。ゆっくりと静かに望がリビングに入って来た。
「望、飯は?」
「いらない…」
望がソファに座ると自ずと食事を終えて皆も周りに座った。
「兄貴、どういう事か説明してくれる。ほんまに虐待したん」
愛美にいきなり確信を突かれて望は言葉を失った。
「まぁ、そんなに言われても望も言い分があるやろ。出来たら最初から話してや」
正義のフォローで望は話始めた。
「夜間な、忙しかってん。寝えへんと居室から何回も出てきたり、10分おきにコールを鳴らしたり対応に大変やった。ほっといたら転倒してけがするやろ。岸本って言うねんけど飲み物が欲しいと言うだけでこっちは待ってくれると思うやん。何度も待ってて言うても何度もコールを鳴らすからイライラして思わず怒鳴ってしまったんや。そこを録音されていて家族が苦情に来たんやけど施設長が話して解決したって聞いてたんやけど。何でネットに挙げられたんかわからへん。しかもこんなに騒がれるなんて思ってなかった」
「嵌められた感、満載やん。でも、イライラしたから言うて怒鳴ったらあかんやろ」
愛美がふれたら一番痛いところを突く。勿論、望はいらっとくる。
「そんなん、わかってる」
「もう、過ぎたことを言うてもしゃあないやろ。これからどうなるんや」
「もしかして望、捕まるん?」
飛躍した考えの知子は空気が読めない。恐らくこの家族は会議下手である。
「そんな簡単に捕まらへんやろ。多分やけど、傷害とかでないと警察は動かへんと思うで。多分やけど市から何らかの処分はあると思う。保育園でもそうやし。和馬が市も何か動いてるって言うてた」
「今日テレビで言うてたけど3つか4つなんか言うてたわ」
「怒鳴ったから精神的虐待。水を持って行かへんかったからネグレスト。後、テープでは叩いてるようになってるけど、絶対叩いたりしてへんし。あの音声は絶対、細工されているんや」
「叩いたら傷害ちゃうん」
「だから、絶対叩いてへんて」
「やっぱ、嵌められてるやん。それやったら逆に訴えられるんとちゃうの?」
「証拠があらへん。リーダーが今、探してくれてるんやけど…」
その後、少しの沈黙があり正義が口を開いた。
「仕事、どうするんや?こんな騒ぎになったら今まで通りって訳にはいかへんやろ」
「…まだ、何も考えてへん…てか、考えられへん」
「そやな。ほとぼりが冷めてマスコミがいなくなるまでどうしようもでけへんな」
「お父さんと愛美はどうするん。会社?」
その時、愛美のスマホが鳴った。
「あ、和馬からや」
愛美は席を立った。
「主任に事情を話して取れたら有給取るわ。有給溜まってるから何とかなるやろ」
しばらくすると電話を終えて愛美がリビングに戻ってきた。
「愛美は仕事、どうするん?」
「ん、うちは行くわ。休めへんし、何か和馬も話がある言うてるから、朝早く出たら大丈夫やろ。帰る時にまだ、おるようやったら友達んとこに泊まらせてもらうわ。和馬、言うてたけど、近々、兄貴の仕事場に監査が入るらしいよ。叩いてないって証明できたら厳重注意だけで終わるんやて」
「和馬君の話って何なん?」
「んー、わからへん」
「これで向こうもだいぶと慌てとるやろ」
浩市は焼酎を片手にリビングでテレビを見ていた。例のバブルの残物である。『昼過ぎステーション』を録画したものである。側面には守男が座っている。
「100万くらいやと思うてたけど200はかたいな」
「わし、言われるままにネットに投降したけどよく、テレビが取り上げてくれましたな」
「これにはからくりがあるんや」
「からくり…でっか…」
浩市のスマホの着信音が鳴った。
「おっ。噂をすればや…」
浩市は電話に出た。
「もしもし、今ちようど録画していた番組を見てたとこや。ええ出だしやな。もう少し煽ってくれるか。礼はするさかいに」
「礼なんてそんな…田中さんには恩がありますから…これくらいは。それより音声データなんですが、うちのレポーターが偽造しているんではないかと騒いでたんですが大丈夫でしょうか?」
「なんやもうばれてたんか。そやで。素人はあかんな。前半の会話だけやったら少し弱いから付け足してん。何か丁度ええのが入ってたから切り足したんや。そっちのほうがインパクトあるやろ」
「そればれたらやばいですよね…」
「心配せんでええわ。手は考えている。南原はんには迷惑かけへん」
「そうですか…それならいいんですが…」
「ま、よろしゅう頼むわ」
浩市は電話を切った。
「誰からですか?」
守男が聞いた。
「近畿テレビの南原ちゅう、ディレクターや」
「えらい人と知り合いでんな」
1年前…合い席居酒屋で南原はADと2人の女性の前に座っていた。南原とADは既に酒を飲みすぎていい気分になっていた。そして思った以上に若く可愛い子が座ってきたので更にテンションは上がっていた。
「自分ら若いな。まさか未成年とちゃうやろな」
「さあ、どうやろ。よう、JKに間違えられるけど、一応、大学生やで」
「ほんまか。頼むで。わしら、将来あるおっちゃんやからな」
「そうなん、何してんの?」
「報道関係。昼に上木がMCのワイドショー知らん?」
「あっ。知ってる。『昼時過ぎ』や。たまに見てるで」
「その番組の裏方や」
ADが南原ほうを指さして言った。
「この人はディレクターで一番偉い人やで」
「まじで。すごいやん」
女の子はテレビ局勤めの南原達に興味津々で場は盛り上がった。2件目にカラオケボックスで更に盛り上がり、それぞれカップルになり別れ南原と女性はファッションホテルに入っていった。
「うち、汗かいたから先にシャワー浴びてきてええ?」
「そんなこと言わんと一緒に風呂入ろうや」
「う~ん、でも恥ずかしいから先に浴びさせて。ビールでも飲んで待ってて」
「わかった。ほな待ってるわ」
南原は余裕を見せたかった。20分くらいで女性はバスタオルを巻いて出て来た。南原は言われた通りにビールを飲んでテレビを見ていた。
「南ちゃんもシャワー浴びてきて」
「そやな、ちょっと酔いを醒ましてくるわ」
南原がシャワーを浴びに行った。女の子はカバンからスマホを取り出してメールを送った。そして玄関のドアのカギを開けた。そしてベッドにもぐりこんだ。10分くらい経って南原が戻ってきた。そしてベッドに入っている女性を見て少しにやけてベッドに入り込んだ。すぐにドアが開いてゆっくりと男が歩いてきた。布団をはぎ取られ写真を取られた。南原は一瞬、驚いた。
「何や、誰や」
南原は自分が嵌められたことをすぐに察した。
「ここからは大人の話やから自分帰ってええで」
男は女性に3万円を渡した。
「毎度、おおきに。おっちゃん。また使ってな。南ちゃん、楽しかったわ」
女性は南原のほっぺにキスして服を着て部屋を出て行った。
「目的は金かなんぼや」
男は冷蔵庫からビールを取り出してソファに座って裸でベッドに上半身だけ起こしている南原に言った。
「今日は泊まりやろ。時間はあるさかいにそう慌てんと息子さんを閉まってこっちで話しようや」
南原は言われた通りに服を着て男の対面に座った。男はコップにビールを注いで南原に差し出した。そして南原のソファの横に置いてあった南原のカバンを渡した。
「最初に身分を証明するものと名刺をもらおうか」
「別にお金は渡すって言うてんねんから身分を明かす必要はないやろ。それ以上やとこっちも大人しくしているわけにはいかんな」
男は落ち着いていた。タバコに火をつけて一吹かしして言った。
「南ちゃん、あんたがどういう仕事しているか、もう、とっくにばれてんねん。ただ、確認するだけや」
女は隙を見て南原をメールでどういう人物か男に教えていた。
「こっちが有利に進めんとあかんから先に言うておくけどこの写真ばれたらあかんとこ、2つあります。1つは家族。その歳なら妻と子供もおるやろ。でも独身か別に家族なんか関係あらへんなら脅しにはならんわな。もう1つは会社。でもそれなりに地位があるなら、もみ消すこともできるやろ。それだけなら強気でおられるけど残念なことに彼女、未成年やねん。これは世間は厳しいでいくら騙されたと言っても淫行は社会から抹殺されるで」
「卑劣やな」
南原は渋々、言うとおりに免許証と名刺を渡した。男は名刺を受け取り免許証はスマホで写真を取って南原に返した。
「悔しいのはここまできてHでけへんかったことか、騙されたことか恐らくはその両方やろな。遅くなったけど、わし田中と言います。もう、わかっていると思うけどあの子は居酒屋のさくらやし、これは美人局や。普段なら自己紹介なんてせんと5万円もらって、はい、さよならなんやけどな。あんたからは金は取らへん。その代り何かあった時に協力して欲しいんや。心配せんでも無理は言わへんし、捕まるようなことは頼まへん」
「どう、考えても5万払った方がええような気がするが…でも、こっちに選択権はないんやろ」
「南原はんは理解力があるし、ええ付き合いができそうやわ」
こうやって田中はマスコミという権力を手に入れた。
午前5時過ぎ、外はまだ、夜が明けきれてない薄暗い頃、既に起きて起床介助を行っていた浅川亜美は階段室のドアが開く音が聞こえた。そこは職員が出入りする扉。まだ、早番が出勤しているには早すぎる時間。不審に思いながら介助を終えてリビングに出ると普段は絶対見ることのない人物が立っていた。
「お疲れ様。問題ないですか?」
「施設長…おはようございます」
足立施設長が出勤されるのは午前9時。この時間帯にまた、ユニットで会うことはほとんどない。
「早いですね」
「記者が待ち受けてるでしょ。めんどくさいからいない時間帯を狙って早めに来ました。普段、夜勤者の仕事を見ることもないですからね。これどうぞ」
足立施設長はカップに入ったコーヒーを亜美に渡した。まだ、温かい。亜美はお礼を言った。足立施設長は起床介助が終わってリビングのソファに座っていた利用者に会釈をした。
「もう、起きてはるんですね」
「この時間帯からコールは鳴りっぱなしです。早出が来るまで1人で回らなければならないのでほんと、地獄です。自立されている方はいいんですが、歩行が不安定でコールを鳴らさずに起きている方は大変です。リビングに出てこられてもじっとされてないし…」
「はい、頭が下がる思いです。大変ですが、事故のないようにお願いします。岸本さんの様子は?」
「まだ、休んでいます。岸本さんは6時になるとコールを鳴らされます。他の方の介助ですぐに行けない時は30秒おきぐらいに何度もコールを押されます。一応、すぐに行かれないからとピッチで声掛けするんですが聞いてくれないですね」
「利用者には関係ないですからね。上手く対処して下さい。焦ったり感情を露わにするとろくなことがないですよ」
「はい」
そこにNCが鳴る。
「行ってあげて下さい。早出が来るまでもう、少し頑張って下さい」
「はい、ありがとうございます」
足立施設長は他の階を回って夜勤者に声掛けした後に事務所に戻ってコンビニの袋からサンドイッチとカップコーヒーを出して朝食を摂る。テレビをつけるとモーニングショーで今回の事件が取り上げられていた。
「すっかり有名になったな」
足立施設長は自身の進退について危機感を感じていた。
9時過ぎ、苑の駐車場に白のハイブリットカーが止まった。出勤してきた関口統括が車から降りるとすぐに記者たちに取り囲まれた。
「すみません、少し話を聞かせて頂けますか?」
「今は何もお答えできません。真実が分かり次第きちんとお答えしますので今日の所はお帰り下さい」
「何時、真実は分かりますか?音声テープが真実を語っているのではないですか?」
「すみません…通して下さい」
関口統括は記者たちを避けながら苑の中に入って行った。事務所で足立施設長がデスクワークしているのが目に入り挨拶をする。
「おはようございます。あいつら、追い払わないとやばいですね。大丈夫でした?」
「今日は5時過ぎから出勤してきた。ややこしいと思ったからな。たまには夜勤者の様子も見たかったしな」
「そうでしたか。えらい早くから来てはったんですね」
そこに苑の固定電話がなった。関口が受話器を取り話を聞いた後足立施設長に変わった。
「市からです」
殆ど頷くだけで電話を切った。
「明日、監査に入るそうだ。二宮たちは昨日の会議で何か見つけてくれたやろうか」
それから2時間が経ち、遅出で二宮リーダーが出勤してきた。
「おはようございます」
「おはよう。外、大丈夫やったか?」
「ちょっと、大変でした。何とかしないと。職員もやけど利用者の家族が面会に来たら迷惑ですよ」
「せやな。こっちは何とかするわ。それよりさっきな市から連絡があって、明日監査が入ることになった。昨日の会議で何かわかったことあった?」
「音声テープは偽造されていると思われる個所があるんですが多分、2つの場面を合わせているのではないかと。1つは美空の夜間の場面なんですがもう1つが分からない。そっちが暴力行為が行われている場面何ですが、そっちがはっきりすれば真実が見えてくると思います。結局、時間がなくて(問題の)持ち帰りして帰ってからも何度もテープを聞いたんですがわかりませんでした」
「問題解決の糸口が見つかったならそれで十分に成果があったな。時間はなく、業務を行いながら大変やと思うがもう少しがんばってくれへんか」
「はい…皆にも協力してもらいます」
「頼んだ」
二宮リーダーが事務所を出た後、足立施設長は関口統括に言った。
「外を厄介払いをした後に理事の所に行ってくる。私が出て行った後にまだ残っているマスコミがいたら名刺をもらっといてくれ」
「どう言うことですか?」
「監査が終わった後に会見を開く。その時に言うことを聞かないやつは会見に応じない」
「なるほど、そう言うことですか。わかりました。お気をつけて」
足立施設長が外に出ると記者が集まってきた。
「この施設で長をやらせてもらっている足立です」
足立施設長が口を開くと記者が一斉に質問を始めた。
「足立さん、実際、虐待はあったのですか?」
「暴力行為は?被害者はまだ、苑にいるんですか?危なくないですか?」
「虐待された職員に対しての処分は?」
「ちょっと、待って。話を聞いて下さい」
勢いよく迫りくる記者たちに押されながらも冷静に対処した。
「現時点で話すことはありません。まだ、事実確認を行っているのではっきりしたら、包み隠さずに会見でも何でも開いてお応えします。それまで迷惑ですからここから退去して下さい。退去しない場合には警察を呼ぶことになります」
「逃げるんですか?」
「話、聞いてましたか?事実確認を行った後、きちんと対処すると言いました。逃げるわけではありません」
「それは何時ですか?」
「なるべく早く。もし、これ以上迷惑をかけるのならばその記者に対して一切、取材には応じませんのでよろしくお願いします。後、職員の自宅にいるマスコミにも同様ですので直ちに撤退するように連絡して下さい」
そう言って国産の高級車に乗り込みエンジンをかけて前にいる記者にクラクションを鳴らして苑から出て行った。
「すみません」
「はい、何か御用ですか?」
「有村さんですね。週間スポットライトの者ですが少しお話を聞かせて頂きたいのですが…」
「それは朝早くからごくろうさまですな。どうぞ本堂の方へお上がりください」
真心寺にも青雲から話を聞こうと記者が来ていた。青雲は普段着から袈裟を纏って本堂に入り、記者に一礼をして本尊の前に座ってお経を始めた。記者は話しかけることが出来ずに暫くお経を聞いていた。お経は一時間続いた。やっとお経が済んで青雲は記者の方に体を向けた。やっと終わったと思い記者が話しかけようとすると先に青雲が話を始めた。
「説教とか説法と言うものはとかく嫌われがちですが、元来…」
「あの、有村さん、有村さん?」
「ん。どうされました」
「私たちは取材がしたいのですが…」
「え。話を聞きに来たのではないのですか?私はてっきり、朝早くから仏の心を聞きたいと功徳な人がいるものだと感心していたのですが。違いましたか」
「あなたが理事をしているふるさと苑での虐待のことで色々と話を聞かせて頂けないかとお邪魔させて頂いたのです。仏の心とかどうでもいいです」
「申し訳ないが苑の事は今のところ私の耳には入っていません。ここにそのことを聞きに来るのは筋違いです。それに仏さまをどうでもいいと言う方にここで話せることは何もありません。お帰り下さい」
「なんちゅーばばあや…」
記者はぶつぶつ文句を言いながら寺を出て行った。すれ違いに足立施設長が寺に入ってきた。
「どうかされましたか?」
青雲は笑いながら足立施設長を寺に招いた。
「今回のことでここにまで記者が来よったからひまつぶしにからかっとったんや。1時間ずっと、お経を聞かせてやった」
足立施設長も苦笑いした。
「さすがですね」
「お腹すいてへんか?朝飯食べるか?」
「いや、お腹は空いてません。それより話があって来ました」
「まあ、そない慌てんでも。お茶でも入れるさかいにちょっと待ゆっくりしといて」
真心寺には中庭がある。真ん中に池があり鯉や亀がいる。周りにはよく手入れされた木々が植えてあり秋には見事な紅葉が見られた。朝早く毎日、青雲が手入れをしている。足立施設長はこの情景をながめるのが大好きだった。縁側に座ってずっと眺めていると青雲が抹茶とお茶菓子を持ってきた。青雲は抹茶を手渡すと足立施設長の横に座った。足立施設長は一礼して抹茶をすすった。
「明日、市から監査が入ります。今回、虐待の事実は逃れられないと思います。但し、音声データが改ざんされている可能性が高いし内出血などの痕跡がなかったことから、本人も言っているように暴力行為はなかったか美空ではないと思われます。でもその改ざんされた部分が何なのか二宮たちが色々と探してくれてはいるんですがわかりません。それさえわかれば、美空は訴えられることなく監査も厳重注意で済むのではないかと…」
「岸本さんのご家族は納得されたんやろ」
「恐らくフェイクでしょう。こちらを油断させたんです」
「なぜ、そこまでせんとあかんのや。それほど母親を労わっているような感じでもなかろう」
「目的は金でしょう。誰にも言っていませんが私も色々と調べてみたんですが、あの息子、反社会勢力とまでは言いませんが犯罪スレスレの所で色々と金儲けしているみたいです。岸本さんがうちに来たんも息子が家を売ったかららしいです」
「なんぎやな。で、どうするんや」
「暴力行為がなかったと言う証拠があれば一番ええんやけど…向こうはどんな手を使っても金を引き出しに来ると思います。最悪、裁判になるかも知れません」
青雲の表情が険しくなり一点を見つめた。足立施設長も口を閉ざし暫く沈黙が続いた後、青雲が口を開いた。
「うちはあの子を介護の世界に引き込んだ責任がある。暴力が事実なら仕方ないがやってないと言うなら何とか助けてやってほしい。たまたまとはいえ色々と裏切られてうちの前で倒れていた。ここで突き放すことはしとうない。そうしたらほんまに立ち直らへんくなる。自分ならようわかるやろ」
足立施設長は若い頃、介護職とは全く無関係の仕事をしていた。出版社で編集に携わっていた。妻・紗子と生まれて間もない子供・優香もいた。
ある日のこと。知らない番号から足立の携帯に電話があった。電話に出ると紗子がいつも行っているスーパーの店長からだった。
「足立さんのご主人の携帯ですよね。奥さんのことでお話がありまして…」
「どのような用件ですか?」
「大変、申し訳にくいんですが…奥さんがうちの店の商品を万引きしまして。今、事務所で話を聞かせてもらっているとこなんですわ」
足立は耳を疑った。紗子は普段、大人しく真面目で万引きするようなタイプではなかった。
「何かの間違えではないんですか?」
「お忙しいとは思いますが、できれば店の方に来れないでしようか。詳しい話はその時、ゆっくりうちとしましてもこのまま奥様をお帰り頂くわけには行きませんので」
「警察に通報するのですか?」
「それは来てから。警察に通報するなら多分、ご主人に電話することなく呼んでます」
足立は一旦、電話を切って上司に妻の病気を理由に早退を申し出た。もう一度、スーパーに連絡して今から行くことを伝えてすぐに向かった。電車を使って30分でスーパーに着いた。事務所に案内されると紗子が眠っている優香を抱きかかえてテーブルにうな垂れていた。顔を上げて足立の顔を見ると目から大粒の涙を流し何度も謝った。
「ごめんなさい、ごめんなさい…」
横に座っていた女性が宥める。彼女はで紗子に声かけた万引きGメンだった。
「なんで…こんなことをしたんや」
「すみません、ちょっといいですか」
紗子の対面に座っていた男が立ち上がり足立をバックヤードに連れ出した。恐らくこの店の店長と思われる。
「この度は大変ご迷惑をおかけしました」
足立は深々と頭を下げた。店長は更に追い打ちをかけるような言葉を発した。
「実は奥さん…初めてではないんですわ。今日で3回目。2回までは話だけで帰ってもらったんですが、さすがに今回はそのまま帰すわけにも行かず…盗んだ商品は大した額ではないんです」
足立は驚きを隠せずにわなわなした。
「警察ではなくご主人を呼んだのは理由があります」
「どう言うことですか?」
「奥さん…育児ノイローゼではないかと思われます。かなりストレスが溜まっているんではないかと。この商売をしているとなんとなくわかるんですわ。本当に物が欲しくて万引きするやつは限られています。いじめで無理やりやらされているとか受験や子育て、介護のストレスでやってしまうとか…今回はご主人とよく話し合ってもう一度、見つけたならば警察に通報させてもらいます」
「じゃあ、今回は…」
「はい、帰って奥さんとゆっくり話をして下さい」
「ありがとうございます」
礼をして紗子の許に行こうとしたときに店長が呼び止めた。
「あと、これはお節介かも知れませんがお子さんの体にあざや内出血があるかもしれません」
「それって虐待していると言うことですか」
「取り越し苦労ならいいんですが…」
紗子は釈放された。自宅があるマンションまで徒歩で15分。紗子は足立から後ろに離れて俯いたまま歩いた。優香はベビーカーに乗せて足立が押した。マンションに着くと優香をベッドに寝かせて先に足立がキッチンテーブルに座り紗子に座るように言った。
「お茶、入れるわ」
「私が…」
立とうとする紗子を止めて足立はお茶っ葉を茶瓶にいれてお湯を注いで湯呑に注ぎ紗子に差し出した。足立も湯呑にお茶を注いで紗子の対面に座った。
「ごめんなさい…お仕事中に…」
「別にええよ。それより、何でなん」
「私…わたし…」
紗子は感情がこみ上げて急に立ち上がりキッチンに置いてあった包丁を取り出して心臓に刺そうとした。
「何してんねんな」
もみ合いになり紗子から包丁を取り上げた。
「責めたりせえへんから、ゆっくり話してなぁ」
紗子はテーブルに伏せて大声で泣きじゃくる。足立は泣き止むまで黙っていた。10分経った頃に紗子は泣き止んで落ち着きを取り戻した。話をする決意がついたのだろう。語り始めた。
「不安で仕方ないの。優香が泣くとね…始めはがんばらなきゃと、しっかりしなきゃって…でも泣き声が段々、煩わしくなって…誰にも相談できなくて。あなたは毎晩帰って来るのが遅いし…気付くと優香の顔をまくらで覆っていた…」
紗子の告白に足立は驚きを隠せずにいた。更に紗子は話を続けた。
「はっと我に返り優香を泣きながら抱きしめた。このままでは自分がダメになると思って不安しかなかった。不安がいら立ちに変わって気が付くとスーパーから出てきた時に商品を持っていた。一瞬だけど、万引きすることで落ち着いたの。勿論、後から何度も反省した。けど…やめられなかった…」
紗子は典型的な育児ノイローゼだった。相談できる親友もなく一人悩んでいた。幸い優香に内出血の痕はなかった。足立は紗子に暫く実家に帰ることを提案し紗子もそれに応じた。優香も一緒に実家に帰った。半年後、紗子の父親が足立を訪ねて来た。義父は足立に封筒を渡した。中に離婚届が入っていて紗子の署名があった。義父は足立に頭を下げた。
「優君、本当に申し訳ない。娘は今は非常に落ち着いている。私も妻も折を見て何回も帰るように説得した。しかし、その話になると娘は頑なに拒み続けた。それ以上話は出来なかった。親バカなのは充々に承知しているが…君と別れることを受け入れることにして私がここに来たと言う訳だ」
「僕とはもう、話は出来ないということですか?」
「本当に申し訳ない」
足立は仕方なく離婚届を預かり暫く考えさせてほしいと義父に申し出た。それから1週間、足立は無断欠勤した。無気力になりとても仕事をする気にはなれなかった。子供も生まれて家族の為にと作家の我侭にも耐えて来た。それが裏目となり家族を失うことになった。もう何を信じていいのか。当然のように酒に溺れて行った…
「よお、手入れしてあるやろ」
振り返るとふくよかないかにも人のよさそうな住職が笑顔で立っていた。足立はふらつきながらマンションを出て目的もなく、歩き気が付くと真心寺の中庭を眺めていた。話しかけたのはまだ、生前の青雲の夫である福雲だった。
「お茶入れるさかいにゆっくりしていきや」
足立と福雲はお寺の縁側に座った。
「お~い、お茶入れてくれ」
暫くするとまだ、出家してなく普通の主婦だった青雲がお茶とお茶菓子を持ってきた。足立は礼を言ってお茶をすすった。
「おいし…」
福雲は細い眼をさらに細めながらやさしい顔でストレートに足立に問いかけた。
「何か悩んでるやろ」
「え?」
今度はお茶をすすりながら目を細めるが遠くを見て真面目な顔で言った。
「平日の昼間にそない有名でもない寺に来て中庭や仏像を眺めている若人は何か悩みがあるしか考えられへんやろ。それに今にも死にそうな生気のない顔をしてたらわしみたいな坊さんやなくても誰かてわかるわ。解決できへんかも知れんが誰かに話せば楽にあることもある。他人やから話しやすいってこともあるさかいな」
確かに今の自分の事を誰から話をしたかったのは確かだ。だが、足立には話をゆっくりと聞いてくれる人は誰もいなかった。足立はこれ幸いと思い一部始終を福雲に打ち明けた。紗子の事気付いてやれなかった自分を情けないと嘆いた。福雲は黙って話を聞いていたが足立が口を閉ざした時点で福雲が口を開いた。
「そいつは災難やったな。気持ちはわからんでもないが、そう自分を卑下することはない。いくら夫婦いうても全部を理解することはでけへん。実際、父親がおらんでも立派に子供を育てている母親はいくらでもおる。逆に奥さんのほうがあんたのことを理解してくれてへんのとちゃうか。大切と想う人が去っていくんはつらいけどあんたが身を引いて奥さんと子供が幸せになるんやったらそれはそれでええんちゃうか。自分がおらんと幸せになれへんとか自分が幸せにしてやろうとかは自惚れやで」
足立は福雲に話をすると心に仕えていたものがすっと消えて行った。そして離婚届けを提出した。足立は離婚してから仕事をやる気がなく休みがちになっていた。そして真心寺の中庭に訪れてはお茶を頂いていた。
「わし、思い当たる所があって今度、特養の老人ホームをしようと思っているんや。足立はん、スタッフとして働かへんか?」
一緒にお茶を飲んでいた福雲が突拍子もなく足立に言った。
「老人ホーム…ですか…」
福雲とは随分と親しくはなったが正直、今の仕事を辞めてまでする魅力的な要素は何もなかった。しかし、福雲の話を聞いてそれもありかなと考えた。
「もう一度、人生やり直したらどうや。給料は安いけど色々と考えさせられる仕事やで。だらだらと今の仕事を続けるよりはずっと為になると思うで」
足立もこのままでは堕落するのは自覚していた。しかしどうしていいのかわからないでいた。悩んだ挙句、会社を辞めて介護職の道を歩くことになった。その後、スキルを身に着けて施設長まで上り詰めた。ワーカーも経験しているのでその辛さも実感はしていた。
「足立はん、ふるさとはあんたらの好きにしてくれたらええ。うちやお父ちゃんに気兼ねすることはいらへんよ。あんたが考えたことは間違えないと思ってる。それでそれで仕方ないことやさかい」
「ありがとうございます」