砂漠姫 ルカイヤ=ネフェルティティの婿選び
赤砂国
黒いインクを倒したような夜空の下半分を横一文字に赤が切り取る
月光に浮かぶその赤い砂を、のっそりのっそり鞍を付けた長毛のパルダが進む。
ただよう薫香
細く震えながら上下して艶めく妖しげで切なげな音楽
国土のほとんどを不毛の赤砂に覆われたこの国には
次期女王の地位を約束された、16歳の姫がいる。
荘厳な石造りの、この国で最も大きな城の中。
ウードとラバーバの弦が作り出す音色と鮮やかな装飾が満ちる場所に、現王の一人娘は豪奢な黄金の衣装を身に纏って立っている。
美しい彩の化粧が、つるりとしたまだ幼い顔を引き立てる。
極彩色の鳥の羽を編んで作った髪飾りが、その黒のまっすぐな髪を覆っている。
「アメンホテプ」
「は」
「どうじゃ。本日のわらわは美しいか」
「は、目が潰れそうでございます」
「よし本音は」
「まさにパルダ子にも衣装」
「言うと思ったわ!」
ふんと王女ルカイヤ゠ネフェルティティは胸をそらせた。
パルダとは砂漠で移動に使われる、月形の目をした動物である。
塩水でも飲むことができ、一度に飲んだ水を背中のコブにためておくことが出来る不思議で便利な動物だ。
「わらわもそう思うぞアメンホテプ。よくぞここまで仕上げたものじゃ。衣装係、化粧係には褒美を取らせよ」
「既に取らせております。よくぞここまで盛ったと。シミスの赤砂で城を建てたごとき奇跡であると」
「出来る男よアメンホテプ。褒めて遣わす」
「ありがたき幸せ」
涼しい顔で男は礼をした。
黒のローブに金の刺繍と簡単な金のアクセサリーのみを身に着けたシンプルな装いの、浅黒い肌を持つ若い20代前半の男だ。
ルカイヤの父である王がかつて外遊に出かけた帰り道、村を内戦で焼かれて泣いている子供を拾った。
赤砂の国には旅の帰り道の拾い物を捨ててはいけないという神との約束がある。暗殺者のようにも見えないしなかなか賢そうな顔をしているからと連れ帰り、様子を見てから当時3歳だった娘ルカイヤの世話役兼遊び相手として置いたのだ。
メキメキと頭角を現した彼は今やルカイヤにとって、なくてはならない存在となっている。
何故なら
「姫様」
「なんじゃ」
「婿候補の名と出身は覚えましたね」
「もちろん」
「どうぞ」
「火族より戦士メラエンラー、水族より賢人ホル、砂族より音楽家テティであったな!」
「大当たりでございます姫様。口頭でお伝えしたのみでよくぞここまで」
「何度も字を書きさらったぞ。口には20回ほど乗せてみた」
「たかだか3名を覚えるのにその努力。流石にございます」
「姫として当然のことよ。恥ずかしいではないかあまり褒めるなアメンホテプ」
このとおり姫様は少々おつむりが残念であらせられるからだ。
馬鹿ではない。ただし何かを覚えるのに人の3倍の手間がかかる。
しかし一度覚えたことは忘れない。なんというか広くて探すのに時間のかかる図書館のような、効率の悪い頭をしておいでなのだ。
なので頭の回転速度が常人の5倍はあるアメンホテプが横にいないと、公務もままならない。
何かを覚えるのに人の3倍の手間をかけなくてはならないので、何かがあるごとに徹夜して暗記する羽目になる。
「婿選びの作法はご理解いただいておりますね?」
「誰にものを言っておるのだ。今から3日間婿候補たちと共に過ごし、最終日、婿に選ぶものに口づけを与えればよいのだな。1人でも3人全部でも、気に入らなければ選ばず儀式を終了しても良い。選ばれた者は姫の夫となり、選ばれなかった者は金をもらって帰る、と」
「はい。流石に覚えましたね。結構でございます。まだございましたね」
「……気に入れば候補者とはいつでも、ね、ね、閨を共にしてよい。王配は体の相性も大事であるから。それゆえの3日である」
「はい。伝統的な王配選の形式を踏んでおります。伝統とは無駄も多いですが形式通りに行っておけば誰にも文句は言われない優れもの。過去の王配選による婚姻率は五分と五分にございます」
「五分か……それほど高くもないのだな。こんなにも広く集め行う必要があるのだろうか」
「『王家が国民に王の配偶者になる機会を与えた』その事実が大切なのです。それさえ整えていればのちに誰が夫となろうとも問題ございません。女王の場合大事は畑。子に王家の血が受け継がれれば問題なし。どうぞ3日間気楽に頑張って下さい。姫様にアマルのご加護を」
「うむ、わかった。やれ」
「は」
ジョワーンとアメンホテプが黄金の銅鑼を打ち鳴らす。
「これより、ルカイヤ゠ネフェルティティの王配選を開始する!」
アメンホテプが高らかに叫ぶ。
ルカイヤは皆にわっせわっせと盛ってもらった胸をこれでもかと張り、しなやかに腰を曲げて優雅に椅子に座している。
扉が開き三人の男が現れた。
誂えたように動きを揃え、右手を地と水平に掲げてから胸の前に曲げ、礼をしてから裾を翻し膝をつく。
一連の動作をルカイヤはふんぞり返って見ている。
「王スコルピオンが娘ルカイヤ゠ネフェルティティである。本日はよくぞ参った。面を上げよ。そして一人ずつ名を名乗れ」
ルカイヤの言葉に、男たちは顔を上げる。
まず黒髪の、眉の上に傷のある大柄な男がよく響く声を腹から発した。
「火族の戦士メラエンラーでございます。本日は姫様のご尊顔を拝見でき恐悦至極にございます。アマルの娘、イシスの依代たるにふさわしきお美しさに、お恥ずかしながら胸の高鳴りを抑えきれませぬ」
うむ、とルカイヤは重々しく頷いた。
たくましくて強そうなイケメンに美しいと褒められた嬉しさに唇の端がピクピクしている。
戦士らしい太い腕、大きなてのひら
あんなものに抱かれたら壊れてしまうのではないかという妄想をして、にんまりする。
無論そんな思いは顔には一切出していない。
続いて先の男に比べれば線の細い、薄い水色の髪と白い面を持つ涼やかな目元の男が声を発した。
「水族の賢人ホルにございます。本日は姫様の王配選にお招きいただいた望外の喜びに打ち震えております。本日より3日間、姫様と有意義なときを共有させていただけますこと、心待ちにしております。きっと星の光のごとく私の人生に残る、豊かな時間となりましょう」
この賢者、なかなかいい声をしておるとルカイヤは思った。
理知的で落ち着いた、ひんやりとした水のようないい声である。
こんなものを耳の近くで聞かされたらと、これまた妄想にムズムズした。
無論そんな感情は、顔には一切出していない。
最後に長い金の髪を後ろで一つにまとめた、甘い顔立ちの男が歌うように言った。
「砂族の音楽家テティと申します。姫様のご尊顔を拝見し胸の中で、喜びの歌が溢れて留まるところを知りません。嗚呼、砂漠の夜の月光のような、夜のファヌースの光のごとき美しさよ! いずれわたくしの恋歌をそのお耳に入れて差し上げましょう。出来るならば月光のなか、舟の上、二人きりで」
余韻を残して消えた声、恋人を見るように甘やかに見つめる瞳にルカイヤは悶絶した。
流石音楽家。パトロンを渡り歩いて培ったのだろう色気を、出したり引っ込めたり自身の思うままに操れるのであろうことが容易に知れる。
これはきっと悪い男だ。
だが、わかっているのに流されたい。
そんなときが女にはある!
当然そんな感情は顔には出していない。
ルカイヤは姫。この赤砂の国における最も高貴な娘である。
「うむ。各自に部屋を用意してある。追って一人一人話をするため使いを出すので、そこで待っておれ。中央の広間は誰でも入ってよい。酒と軽食、果実、セネトの盤、本を置いてあるので、好きに過ごせ。ではまた後程、わが未来の夫たちよ」
男たちが入場のときと同じ礼をして退室した。
バリンとかぶっていた王女の仮面をぶち破って放り投げルカイヤは従者に向き直る。
「……よいではないか! よいではないか! 3人みんなにしようアメンホテプ! 何人でも子を産んでやろうではないか!」
「王配にもかける予算の限度がございますので、できれば誰か1名に絞っていただきたいものです」
「せっかく来たのに、追い返すなどもったいな……気の毒ではないか」
「王配選に出たというだけで男には死ぬまで威張れる箔がつきます。金も受け取り彼らはなんの損もしない。お気になさらず」
「だってみんなよいのだ……あれらを選んだものを褒めて遣わす」
「担当者に申し伝えます。さて語らいはどうなさいます姫様。いきなり各部屋で密室対談をご希望ですか? そうであれば料理長に言って祝い用の牛をさばいてもらわなくては」
「牛はまだよい。わらわは好きなものは最後に食べるタイプじゃ。まずは平たく語らおう。一人一人ここに呼びよせよ」
「承知いたしました」
一人目に使いを出した。
◇◇◇◇◇◇◇
「う~ん」
「どうなさいました」
「やはり皆よかった」
「それはようございました」
湯あみを終え侍女による全身マッサージを終えぽかぽかのふにゃふにゃの状態で果実の汁を飲みながら、ルカイヤが言う。
すっかり化粧を落とした彼女の顔からは王女の威厳が消え、スナネズミのようなぽやーんボケとろーんとした地味でのんきな娘の顔に戻っている。
王族らしい艶やかな黒髪だったはずの髪は、砂漠の砂のように真っ赤だ。昼の黒髪はカツラだったのである。
この国で赤は地にある砂の色。どこにでもある、つまらない、卑しい色なのだ。
どうして黒髪と黒髪の両親からこのような色が生まれたのかわからない。どういうわけかそうなってしまった。
どこにでもいそうな地味で庶民のような娘が、王女の椅子に座っている。
「今宵は誰かの閨に運ばれますか」
「よい。疲れたので今宵は眠る」
「本当によろしいので?」
「……まだよい」
「これだからき……箱入り娘は」
「生娘と言おうとしたな。なんの誰だって最初は生娘よ。まだ彼らがわからぬ。王族とてできるならば愛のある結婚をしたいと望んで何が悪い」
「広大な砂丘の赤砂から一粒の金を探すほどの難しさでございましょう。皆思うところあって申し込んでいるのでしょうから」
「……それはそうよな」
王配候補は一定以上の地位を持つ国民からの応募制である。
王族と国民の結婚は『アマルとイシスの再会』とも呼ばれる。
神聖な神アマルの子にして唯一神々との交信を行える大神官の役割を持つ聖なる王の血に、女神イシスの落とし子である国民の血を混ぜることで王の血をつないでゆく。
赤砂の国土は広い。そして大河の周囲以外には砂以外何もない。下流にある恵み深き三角州は軍事力のある他国が武力により血まみれで守っており、なんらのうまみもない大河の中流だけを持つこの国はただただのんびり砂にまみれて過ごしている。
口を開ければ砂が入る、大した名産もないこの土地を誰も欲しがらないから大きな戦争もなく、特に特別に親交を結ばなくてもならないような国もない。これまでそうやって王家はおっとりと、脈々と続いてきたのだ。
今日ルカイヤは三人に問うた。
王配となったら何を求め、何を成すかを。
火族の戦士メラエンラーは答えた。
「軍隊を所望する。北の国の国土を奪い、この乾いた国に潤いと豊かさをもたらそう」と
水族の賢人ホルは答えた。
「天と地の関係を解き明かしたく存じます。計測のための機器と、調査団を所望いたします」
砂族の音楽家テティは答えた
「大きな劇場を所望いたします。砂しかないこの国に、人々が夢を見られる場所と新たな国の名物を作りたい。歌や演劇をするものの価値を上げ、より高みに引き上げたいのです」
三者三様、いずれも頷ける、国益となるような気がする話だった。
皆かっこいい
誠実で、優しそうに見える
見える、が
それが本物なのか、わからない。
いや、見せかけでもよいのかもしれない。ルカイヤの髪も顔も、見せかけなのだからおあいこだ。
「明日の予定はなんじゃアメンホテプ」
「遺跡にて婿候補たちと逢引をして頂きます」
「またいろいろ盛らねばならぬではないか。普段ないものがあると疲れる」
「どうせいずれはばれるのですから、もうやめておいたらいかがですか。今ならまだ『あれ?昨日のあれは蜃気楼だったかな?』で済むでしょう」
「嫌じゃ。それぞれが里に帰ってからそこで『姫はスナネズミに近しくその胸はメソポの大地よりも平坦であった』と言いふらされたらなんとする」
「なんとメソポに失礼な。スナネズミはよく見れば愛らしくないでもありません。いずれも事実なのだから致し方ありますまい」
「いいや盛る。わらわは盛るぞ。天高く」
「天高く盛るのは衣装係と化粧係です。それでは本日はこれにて。イシスの眠りが姫様に訪れんことを」
「うむ」
そうして一日目は終わった。
二日目
火族の戦士メラエンラーの太い腕に、ルカイヤは抱かれている。
「うおおおおおおお」
ロマンチックな感じではない。荷物のように脇に抱えられ、後ろから転がる大きな岩から逃げている。
王家の洞窟
最初のうちは
『あっ』
『石が多ございますね。姫、どうぞお手を』
『……うむ、そなたの手は大きいな』
『姫のお手が可愛らしいのでございます』
『……そうか』
などと
男の大きな手のぬくもりに頬を染めながら、大変いい感じに歩いてたというのに。
「うおおおおおおおおお」
こうである。
「メラエンラー! あそこに横穴じゃ!」
「よし!」
ダッと駆けたメラエンラーがルカイヤを脇に抱きかかえたまま横穴に飛び込む。
ゴンゴロゴロゴロと大岩が通り過ぎていく。
「……ふう」
息を吐いて、前を見れば
黒髪を乱した、精悍な顔立ちの男と近しく目が合った。
気が付けばルカイヤは座り込んだ大きな男の足の間に座り、守るように抱かれている。
眉の上に傷跡のある戦士は走ったせいで息が上がり、汗をかいている。
「……」
これは歌で聞いたやつじゃとルカイヤは思った。
恋愛なるものを学ぶため吟遊詩人に唄ってもらった庶民向けの物語に描かれた、熱いロマンスの始まりのシーンに違いない。
「……よくぞわらわを守った。戦士メラエンラー」
「光栄にございます」
にっとかっこよく男は笑った。
ああ、かっこいいのうとルカイヤは思う。
こんな男に心底惚れられ惚れたなら、それはいったいどんなに楽しいことであろうか。
「……できることならばずっとこうしていたいですが、先に進みましょうか姫」
「うむ」
ルカイヤは立ち上がる。
服、よし、かつらよし、胸、よし。
自然に男の手が伸び、ルカイヤの手を取った。
「……足元が悪うございますので」
「うむ、許す」
ルカイヤは男を見上げる。
黙って歩く。
「……戦士メラエンラー、そなたはなぜ戦士になった」
「本当は文官になるべき家の生まれなのですが、頭の出来が悪かったものですから。出来物の兄とよく比べられ、笑われたものです」
「その気持ち、わかるぞメラエンラー」
「まさか。私にできることがこれしかなかったのです。幸い大きな体に恵まれ、腕力にも恵まれた。『家の仕事は私が継ぐ。お前は思うままに生きよ』と背を押してくれる兄がいたことも、誠に恵まれておりました」
「よかったな」
「はい。こうと決めたのならもっともっと上に行きたい。王配候補にお選びいただきましたこと、誠に光栄でございます。王配となった暁には私は必ずや姫に、この国に、新たな土地と富をもたらしましょう」
メラエンラーは燃える目で、未来を見ている。
ツンと鼻の奥がなぜか痛くなった。
火の戦士メラエンラーはルカイヤなど見ていない。
そのたくましい腕で抱きしめたいのは目の前の姫ではなく、未来の男としての栄光なのだ。
だが仕方のないこと。
それが王家の娘の結婚なのであろう。
歩んだ先に立っている男がいた。
ルカイヤは戦士メラエンラーの大きな手をそっと放す。
「では」
「はい」
水族の賢人ホルに向き直る。
「よろしく頼む」
「光栄にございます」
礼を取り、賢人ホルは手を伸ばした。
「お手を」
「うむ」
ルカイヤはホルの手を取る。
それはさらりと乾いた、ひんやりとしたものだった。
「そなたは天と地の関係を解き明かしたいと、そう申しておったな」
「はい」
「何を解くというのだ。天は大陸の四隅の山に支えられ、アマルの乗った舟が動くことを天が察し昼夜が変わっておるのだろう?」
「そういう説がとられておりますが、実際は違うと睨んでおります。きっと動いているのは天ではない……多くの裏付けが必要なので、まだ多くは語れませぬが」
「そうか。解き明かすことで何がある」
「さて。ただ正しい理を解き明かしたい。学者などそれだけにございます」
「何やら怖いような気がするな。突然に世界が色を変えてしまうような」
「それが、理でございます」
いっそ冷たいほど静かに彼は言った。
この静けさとは見合わない熱が、様々な言葉、膨大な量の知識が、日々すさまじい勢いでこの体、頭の中を夜の星のように回っているのだろう。
そのさまを、かたわらにあってのぞき込みたいような気がした。
寝転んで星座を辿るように、この者はルカイヤに、その広大な世界を語ってくれるだろうか。
「!」
ホルが足を止めた。
「どうした」
「毒サソリにございます」
「なんと」
道の先に、黒っぽい大きなサソリがそこだけ赤いしっぽを上げて威嚇している。
ルカイヤは籠に入っていないサソリを初めて見た。
「ど……どうする!?」
「どうぞお下がりくださいませ」
ルカイヤの前に歩み背で守り
首に巻いていた布を引き抜き、手に掲げていた炎をそれに灯す。
パッと手を離れた火のついた布が燃え上がりながらサソリを覆う。
ピイともキュウとも言わずに、ぶすぶすと黒い煙が上がり、やがてひっくり返って黒焦げになったサソリが現れた。
「……冷静なことだ」
「まさか。武力があれば一閃でできることが、私にはできません。大変狼狽いたしました」
彼は背中にかばっていたルカイヤを振り向いて見て、穏やかに微笑んだ。
「アマルの娘、イシスの依代たる大切な御身をお守りできてよかった」
「……」
アマルの娘、イシスの依代
それは赤砂の国の王女、ネフェルティティの娘の役割だ。
賢人はそれを、武力を持たぬにも関わらず身を挺して守ったのだ。
しがみついていたメラエンラーよりは細いそれでもしっかりと男の形をした背から、ルカイヤはそっと離れた。
「……大儀であった」
「光栄に存じます」
また彼は微笑んだ。
ルカイヤはまた、泣きそうになった。
やがて地底湖に到着した。
舟に、何者かが乗っている。
ランプのあかりが近づいてくる。
「……音楽家テティ」
「はい。お乗りください姫。よきものをお見せいたします」
ルカイヤは賢人ホルの手を離した。
「では」
「はい」
そして音楽家テティに向き直る。
「よろしく頼む」
「お手をどうぞ」
舟から伸ばされた手は、しっかりと男の形をしていた。
「あ」
「おっと」
ぐらりと揺れた舟に驚きバランスを崩した体が、優しく柔らかく抱き留められる。
顔を上げればとろんととろけたような美しい瞳と目が合った。
音楽家テティの胸に抱かれていた。
「……さても役得でございますね。このまま参りますか」
「……いいや離してよいぞ。礼を言う」
「光栄にございます」
ふふと男は笑った。
優し気なその瞳には一つの情欲もなかった。
甘い声、熱いようなまなざしは真実ではない。ただの見せかけだ。
ゆっくり、ゆっくり小舟は進む。
ルカイヤは息を飲んだ。
「まさかここにこのような湖があるとは」
「はい。わたくしも案内されたときは驚きました。大変に美しい」
どこからか差し込んだ日の光が、驚くほどに透明な水を青の宝石のように浮かび上がらせている。
「……不毛の赤砂の中に、このような」
「美しいものは皆、見えないよう奥に大切に隠されておるのでしょう」
すうとテティは息を吸った。
聞いたことのない不思議な言語。
澄み渡り透き通った心地のよい声。
反響し、水の色をうつし、のびのびと甘く透明に広がった。
「今のは……?」
「『星渡の歌』と申します。天上の神々の夜の散歩を描いた歌とか」
「――美しいの……」
すう、と
己の頬を涙が伝っていることに気づきルカイヤは手をやった。
「許せ」
「光栄にございます」
「……どうしてであろうな。美しいものは、なぜかいつもどこか悲しい」
「わたくしもいつも不思議に思います。何故でございましょうね」
「……奥に、隠されたものがあるからだろうか」
「ええ、きっと。だからこそ美しいのでしょう」
目を見合わせ、二人は笑った。
「何故そなたは音楽家になった」
ルカイヤは美しい男を見上げる。
「魔物に村を襲われ、家族を失い砂族の吟遊詩人に拾われました。所属は砂族ですが、もとは風族の出でございます」
「力及ばず苦労をかけた。許せ」
「姫様がお生まれになる前の話でございます。そしてそれもまた流れ。わたくしは歌が好きでございます。これもまた大いなるアマルの意思でございましょう」
また息を吸い
今度はルカイヤにわかる言語で彼は歌った。
それは昨日言っていた恋の歌ではなく、旅立ちの喜びと別れの悲しみを謳った、美しい歌であった。
「……16歳の少女を、愛の歌で騙すことも考えました。しかしご聡明な姫様に、そのような小手先の技は通用致しますまい。姫様、美しく歌うもの、滑稽な話を物語るものもまた孤独で、悲しい生物です。わたくしは世界を巡る音楽の芸術家たちをこの国に集めたい。より高みに、より美しく。互いに高め合いながら天上を目指したい。けして後悔させませぬ。天を巡る星々のようなたとえようもなき美しきものを、きっと姫の手にお贈りいたしましょう」
澄んだ声の余韻が消えて、しん、と静まり返った。
きい、きいいと舟が岸に戻る音を聞きながら
ルカイヤは闇の中、ひっそりと涙した。
夜
湯あみを終えいつも通りのスナネズミになった王女はやはりとろんと果実の汁を飲んでいる。
「姫様。今宵はいかがいたしますか」
「閨か。行かぬ」
「候補者を気に入りませぬか」
「いいや気に入りすぎておる。これ以上心奪われたくない」
「そうですか。ああ、そういえばいいものが届きましたよ」
「なんじゃ」
アメンホテプが恭しく掲げたものを見たルカイヤはぱあっとそのおっとりとした顔を明るくした。
「新作の絨毯か!」
「さようにございます」
頬を染めて手に取りルカイヤはそれを顔に近づけた。
「なんと美しい」
赤、青、黄、金
鮮やかな色で染められた羊毛と綿の糸を手作業で織り込んだ、宝のようなものがそこにある。
「……わらわが女王となった暁には、世界にもっと、もっとこれを広めよう」
「姫は絨毯がお好きですね」
「もちろんじゃ。……本当に美しい」
そっと、慈しむ手つきでルカイヤは絨毯の文様を撫でる。
「羊飼いが羊を育て、農民が綿花を育て、羊から取った毛を、綿花から取った綿を糸に縒り、それらを様々な色に染色師らが染め上げる。ある者が文様を考え、ある者が織り、洗い、乾燥させて。この一枚が一体何人の人間の手を経て編まれたことか。何人に職を与えてきたことか。なんと得難い、美しきものであることか。これは人を巡りて潤す大河のごとき、我が国の宝じゃ」
「……」
「一人の天才が作り上げたものではない。当たり前の、たくさんの人間が、それぞれ自分に出来ることを精一杯やって次へと繋ぎ、繋がれ、繋がって。そうしてこれはこんなにも美しい。……褒めて使わすアメンホテプ。よくぞ今宵これをわらわの目に入れた。これこそがわらわの求めるものであったわ。浮かれはしゃぎ危うく忘れるところであった」
涙を浮かべるルカイヤを、アメンホテプはじっと見ている。
「どうしたアメンホテプ」
「……わたくしの生家は赤専門の糸の染め物師でした」
「初耳ぞ」
「これまで特に申し上げる必要がございませんでしたので」
「そうか」
「はい。それゆえ母の指は常に赤く染まっておりました。母がそれを恥じることは一度もなかった」
「……そうか」
「わたくしは赤が好きでございます」
アメンホテプはじっとルカイヤを見た。
「好きでございます。とても」
「そうか」
そうして二日目は終わった。
翌朝、最終日
何をするかはルカイヤが決めてよいとのことなので
ルカイヤは婿候補たちを最初の部屋に集めてもらった。
廊下を進むルカイヤに、涼しい顔でアメンホテプが付き従う。
入室し、王女の席に着く。
「面を上げよ」
響いた姫の声に顔を上げた婿候補たちは
そこに優雅に座る赤髪の娘を見て目を見開いた。
「ルカイヤ゠ネフェルティティである。昨日は皆、わらわを楽しませてくれたこと、礼を言う」
確かに姫の高貴な声で、スナネズミのごときぽやーんボケとろーんとした地味でのんきな顔の娘が高貴な仕草で言う。
ぶふっと吹き出しそうになるのを戦士メラエンラーは必死に堪えた。
何か不自然なほどに盛られているとは、特に胸が偽物なのはわかっていたが、まさかここまで
ここまで反対方向にけなげに頑張っておいでだったとは。
思わず感嘆の声を上げそうになったのを賢人ホルは堪えた。人の生み出す知恵と技術とは、実に素晴らしいと。
立ち上がり拍手しそうになったのを音楽家テティは堪えた。あれはまさに芸術であったと。
男たちが必死にそれぞれを抑えているのを見渡して、とろんボケーとしたスナネズミはふう、と息を吐いた。
「……誰一人笑いもせず、馬鹿にもせぬか。そのような下衆であればまた考えたものを」
少女は優雅に扇を動かした。
「アメンホテプ。金を持て。皆ご苦労であった。各々里へ戻ってくれ」
「なんと」
「何ゆえ」
尋ねる男たちを少女はじっと見つめる。
「王配となった暁には何を求め何を成すか、わらわは尋ねた。誰一人言わなんだな。『女王を愛し、その支えになりたい』とは。嘘でもいい。そなたらはそう言わなくてはならなかった。これは王配選であるのだから」
「……」
「男の夢を叶えたくば己の力で成せ。だがそなたたちの語った野望をわらわは買っておる。わらわが王となった暁には、またそれぞれの目指すところについて支援を検討する。その日まできっと志を曲げず、それぞれの道で励むように。以上じゃ」
「は」
「これにて、ルカイヤ゠ネフェルティティの王配選終了を宣言する」
ジョワ~ンとアメンホテプが銅鑼を打ち鳴らした。
男たちは誂えたように動きを揃え、右手を地と水平に掲げてから胸の前に曲げて礼をした。
そして扉の外へと去っていった。
「……よろしかったのですか」
「何がじゃアメンホテプ」
「泣いておいでです」
「……もっと凡庸な男を連れてこい。あれらは魅力的すぎる」
ルカイヤはぼろぼろ泣いた。
彼らに言った事など、ただの建前である。
己の夢を語る彼らは皆熱く、皆実に美しかった。
これ以上そばにいれば、きっとルカイヤはあのなかの誰かに心奪われた。
己の夢に燃える男らしい誰か
その夢のために女王を利用する野望のある誰か
ルカイヤを愛さないだろう、己の夢の先しか見てない魅力的な誰かを愛しただろう。
ルカイヤはきっと惚れて惚れて、その心が欲しくなって
男の夢を贔屓し優先し手助けすることに夢中な、国民を忘れ男に溺れる暗愚の女王になったことだろう。
絨毯の細やかな模様を撫でながら、それが辿ってきた道を思いながら
その道にだけは進まぬと、昨夜ルカイヤは心に決めた。
「承知しました。ところで姫」
「なんじゃ」
「わたくしアメンホテプ、隣国サンドライトの女王陛下から直々に引き抜きの声をいただいております」
「……」
まじまじとルカイヤはアメンホテプを見た。
「先日の外交の際の手際の良さが目に留まったようで。こちらの2倍の給金を出すうえ7日に2回休みがあるとか」
「……うちも出す」
「人件費にも予算がございます。優秀な衣装係と化粧係を含めた数名を手放すこととなりましょう」
「……」
隣国サンドライトは大きな船により交易を行う、実に裕福な国である。
だが
「……女王陛下は御年62歳。にもかかわらず閨は毎晩大戦争であると聞くぞ」
「無論その役目も含めての引き抜きでございましょう。だがしかしわたくしは優秀な男。役に立つべきところで必ず役に立つ男でございます」
「まったく出来る男よアメンホテプ。わらわは心より感服した」
ルカイヤは俯き顔を羽根の扇で隠した。
「そうか……」
父が帰り道に拾ってきた、物心ついたときから傍にいた、人の5倍頭が回る優秀な側近。
「そなたを恩で縛れるときは、もはや終わったか……」
扇の下を涙が玉になって落ちていく。
報われぬ恋には溺れないと決めた。ルカイヤは男の心を捉えられるほど美しくないから。
人の3倍勉強しないと頭に入らない馬鹿だから。
きっとこの男を失えば、3倍どころが10倍くらい時間がかかることをルカイヤはわかっている。
この男が覚えるべきことをちゃんと順番に並べて置いてくれたから、ルカイヤは何も考えず、それを必死に頭に入れるだけで良かったのだ。
「今回断ったところで徐々に金額が吊り上がるだけのことでしょう。断り続ければ最後は麻巻きにして連れ去られるやもしれません。まったく見目が良く優秀というのはそれだけで罪でございます」
「まったくもってその通りよ。隣国で、やがて伝わるであろう愚王の噂を聞いてくれアメンホテプ。本日まで大儀であった」
「姫様の優秀な従者が麻巻きにされず隣国の夜の合戦にも赴かず、永久に御身を離れぬ方がただひとつ」
「申せ」
「その者を恩以外のものにて縛り直し、他国が手を出せなくなる正式かつ公式な理由を作ればよいのです」
「?」
「王女の横にいる男はなんでしょう、姫様」
「?」
アメンホテプはじっとルカイヤを見ている。
「……?」
ルカイヤは首をひねる
アメンホテプが背を屈め傾き、頬をルカイヤに差し出す。
「?」
ルカイヤは考える。
考える。
考えて
「!」
そしてやがて、ゆっくりピンと稀代の名案をひらめいた。
扇をどけ、背伸びして、そっと男の頬に口づけた。
唇を離し、合ってるか? 合ってるか? とルカイヤがアメンホテプを見る。
にっこりとアメンホテプが笑う。
「おめでとうございます姫様。大正解でございます」
「よし!」
ルカイヤがほのぼのとしたスナネズミ顔を赤くして綻ばせた。
「やれやれこれで王配用の予算も浮いた」
「まったく優秀な男よ! ところでアメンホテプ」
「は」
「王配となるそなたは何を求め、何を成す」
アメンホテプは真面目な顔で答えた。
「一人の娘ルカイヤ゠ネフェルティティの心を求めます。いずれこの国を統べるその女性を心より愛し、必ずやその支えになりましょう」
「……」
「本日のご判断、まこと潔く見事にございました。人の3倍の時間をかけても、これまであなた様はどんなことであろうと覚えること考えることを一度も諦めなかった。そして一度頭に入れたことは何があっても忘れない。お小さいころより国と国民のことを、心より思いやっておられる。時間はかかるやもしれませんが、いずれ思慮深く慈悲深い、よき女王になりましょう。この命尽き身メソポに朽ちるその日まで、わたくしは己の全てを賭して、あなた様をお支え致します」
「……」
こやつめこんなにいい男であったかとルカイヤは顔を赤くした。
ポロポロポロポロなんの涙かわからない涙が落ちた。
「……いずれはそなたの子を何人でも産んでやろう。だがはじめは手をつなぐとこから頼む。わらわは閨がこわい。箱入り娘ゆえ」
「承知いたしました」
恭しくアメンホテプが礼をする。
「では今度、遺跡で手に手を取ってのんびり逢引と参りましょうか」
「あそこは危ないぞ。転がる大岩と、毒サソリがおる」
「ありませんしおりません。当然全て仕込みでございます。胸の高鳴りを恋と誤認していただくための。岩は張りぼて、サソリは毒のないものに色を付け、湖の周りには泳ぎ上手が何人も張っておりました」
「……恐ろしい」
「真実は、いつも奥に隠されておるのでございます」
その言葉に、ルカイヤは男を見上げた。
物心ついたときから目の前にあったはずの顔を、初めて見たような気がした。
「……心もか? アメンホテプ」
じっとルカイヤは彼を見た。
ふ、と彼は優しく笑った。
「ええ、真剣で美しいものほど奥深く、誰にも知れぬようずっと大切に」
黒いインクを倒したような夜空の下半分を横一文字に赤が切り取る
夜の赤砂の砂漠を、のっそりのっそり鞍を付けた長毛のパルダが進む。
天に浮かぶ冴え冴えとした月に照らされた赤砂に
きらり一粒、金色の石が瞬いた。
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