第8話
瞼の重い感覚で目を開けようとしたけど瞼は開かない。思わず手を目元へと伸ばせば、濡れた感触が指先に触れる。何かと思って持ち上げてみれば水に濡れたタオルで、そのタオルの向こう側には見慣れない低い天井が見える。
「起きたか?」
問い掛けるその声は上から降ってきて、タオルから少し視線をずらせば自分を見下ろすクラウがいる。
「……起きた」
「酷ぇ声だな。起きれるか? これでも飲んどけ」
そう言って差し出されたのは水筒でゆっくりと頭を上げればすぐ近くにテオフィルもいた。どうやら馬車内で泣きながら寝るという失態をしたらしい。昨日もよく眠れなかったから、そのせいもあるんだと思う。重い瞼で何度か瞬きをしてからクラウの差し出す水筒を受け取ると少しだけ水分を口に含む。喉を流れ落ちる水は冷えたものでは無かったけれども、それは十分に潤いを取り戻してくれる水だった。
「……頭痛い」
「そりゃあそうだろ。あれだけ派手に泣けば」
こういう時は泣いてることに触れない優しさが欲しい。そう思いつつもテオフィルをチラリと見れば、テオフィルは苦笑している。いつも無表情を決め込んでいるテオフィルにしては珍しいものがある。
「あと少しでダリンにつく。その間に腹括れ。ついでに、しばらくの間、これあてとけ。まだ目が腫れて不細工になってんぞ」
「言うに事欠いて不細工って何よ。失礼ね」
それでも不細工と言われたら気にもなるからクラウが持っているタオルを奪い取ると、しっかりと目に当てる。生温い感触にタオルを引っくり返すと裏側から今度は当てた。少しだけひんやりしたタオルの感触にホッとした気分になる。
「何か、ちょっとすっきりした」
「そりゃあ良かったな」
どこか投げやりな、でもいつもと変わらないクラウの答えにホッとしつつも背凭れに身体を預けると小さく息を吐き出した。
もうすぐダリンに到着する。その為には気持ちをもっと冷静に落ち着かせないといけない。何よりもここまでしれくれたみんなに迷惑が掛かる。
でも、まだ今なら引き返せる。引き返すなら今だと思うのに、それを口に出来ないのはそれ以上に真偽をはっきりさせたいからだ。もう、分からないことでクヨクヨ悩むようなことはしたくない。
沢山泣いて、頭痛はするけどすっきりした頭でそれだけ考えると、目元にタオルを当てたまま口を開いた。
「行く。そしてきちんと聞くよ。もう分からないことを想像して泣きたくない」
「そら良い傾向だな。まぁ、想像だけで泣けちゃう辺り、マジでおバカだけど。そう思わね?」
「まぁ、程々に想像力は必要だなものだ。シェスはそのままでもいいと思うがね。だがシェス、本当に領主が指示したと分かった時にはどうするつもりだ?」
「成るようになる。もし、殺したくなっちゃったらクラウが全力で止める、と」
他人任せともとれるその言葉にはからかい半分、本気半分。次に、どういうタイミングでそういう感情が飛び出すのか自分でも想像がつかない。もし感情が溢れたら自分を止める自信なんて全然ない。だって、本当に憎らしいと思っているんだから。
「お前、面倒くさいところは俺任せかよ」
「いいじゃない。クラウにとっては大した手間じゃないでしょ」
隣から大きな溜息が聞こえ、正面に座るテオフィルからは笑う気配がする。見えないけど、二人がどんな顔をしているのが想像出来るくらいには会話を交わしている。大丈夫、こうして自分を甘やかすばかりじゃない人が近くにいる内は大丈夫だと信じたい。
横の壁にも身体を預ければ、雨の当たる音が反響して聞こえる。でも、先までの大雨じゃない。小雨程度で小さな音がパラパラと馬車を打つ。静かだけど居心地の悪い空間じゃない。
心を落ち着けながらも外の音に耳を済ませていれば、徐々に馬車につけあれている車輪の回転がゆっくりへと変化していくのが音で分かる。そしてしばらくすると物音が止み振動も無くなる。外で話す声が耳に届き、派手な音を立てて何か歯車が回るような音がした。恐らく、城門前にあるつり橋を降ろした音に違いない。
再び振動と車輪の音がしてしばらくすると止まった。恐らくもうそこは見たことのない城内に違いない。
「シェス、ついたぞ」
目に当てていたタオルを取れば、二人が自分を見ている。自分の顔は緊張に強張っているだろうか。それとも、情けない顔をしているのだろうか。先まで笑っていたのに、やっぱり緊張がまとわりつく。
「出来るだけ晴れやかな顔で挨拶をするといい。昔、僕に挨拶したようにね」
昔と同じようにどこか楽しげなからかうような笑みをうかべたテオフィルの言葉で、最初の出会いを思い出す。それはもう、きわめて失礼な態度だったけど、今その話しを出すところは意地が悪い。
「もう、忘れてよ、あんな昔の話」
「あんなインパクトの凄い挨拶を忘れるとでも?」
「……もういい」
そんな遣り取りの後に扉は開いた。クラウとテオフィルが先に出て、二人して手を差し出してくれる。少し気合を入れてから二人が差し出す両手に手を乗せると馬車を降りた。降りた先には石畳の広場が広がり、その少し先に門が見える。騎馬隊の人間に護衛されながら三人で歩き正門前に到着すると、城内警備に当たっている兵士が声を掛けてきた。
「申し訳ありません。ティル領の騎士団の方はここまで、ということでお願い致します」
「警戒されてんじゃん。お前の不敵さが滲み出てたんだろ」
「おや、僕は不敵に見えますか? とても大人しく生きてきたつもりなんですが」
「その発言が既に不敵だろ、お前の場合」
クラウの発言に納得しながらも、口に出すことはしない。ここで口に出した所でクラウ以上に突付かれるのは目に見えてる。
テオフィルは笑顔のまま後ろからついてきた騎士団の人たちに声を掛けると、少し納得し難い顔をしながらも騎士団の人たちは了承の意を返してきた。
「ですが、大丈夫ですか? こちらの騎士団の方たちもいらっしゃっていないみたいですし」
ダリンの兵士には聞こえない声量で問い掛ける騎士団の人たちにテオフィルは余裕の笑みを浮かべた。
「あぁ、僕に何かあれば君たちがブレロに出向いて救援を乞うといい。話しはつけてあるからな」
その答えに驚いた顔をしたのは騎士団の人たちだけではない。兵士たちもそしてクラウも余り表面には出ていないが驚いているのは確かだった。
「おいおい、いつの間に」
「念には念を入れてね。一応、国民的有名人である君が一緒なんだ。ブレロに声を掛けておくのはありだと思うんだが」
「そりゃあそうだろうけど、うちの領主と繋がりなんてあったのか?」
「当たり前だ。近隣の領主とはそれなりに上手くやっているよ。勿論、ここの領主ともね」
シニカルに笑うテオフィルはどう見たってクラウが言うように不敵な人にしか見えない。いや、ここまで落ち着いているのは逆に怖い。
「ど、どうぞ」
兵士の一人が声を掛けて手を上げれば重苦しい音を立てて城門が開く。そこが開けば城までの距離は大したものが無かった。中央に通路があり、その両脇には見事に手入れされた緑の庭園が広がっている。所々にベンチが置かれ、普段天気が良い日であれば気持ちのいい庭園に違いにない。
兵士の案内に従い城の中へと入れば、今度は城内兵士の案内で大広間へと連れて行かれる。けれども扉の前に立った段階で中からは叱責の声が響く。こんな怒鳴り声は聞いたことが無かったけれども、間違いなくそれはダリンの小父様の声だった。もっと懐かしい感情が芽生えるものかと思っていたけど、感情のスイッチが無くなったみたいにそんな感慨は沸かない。
しばらくすると怒鳴り声は成りを潜め中から扉が開けられた。部屋の奥、中央には確かに見覚えのある顔がそこにはいた。そして、部屋に足を踏み入れた途端、目が合ったかと思うと驚愕の表情で小父様は立ち上がった。
「シェスティン……」
声は聞こえなかったけれども、その唇は確かにそう動いたようにも見えた。動揺を露わにする小父様に対してスカートの裾を軽く上げると軽く頭を下げた。
「ご無沙汰しております。シェスティン・ケイリー・ハドリーです。この度はお目通り頂きまして非常に感謝しております」
たちまち顔色を無くした小父様は、椅子に腰を落とすと、こちらを見ている。
「いや、そんなバカな……何故ここいる。君は死んだ筈だ」
「えぇ、姉が助けて下さいまして一命を取り留めました。証拠が必要でしょうか?」
「あ、当たり前だ。いや、こんなことはありえない」
「おや、領主はシェスの遺体を確認したんですか? あの焼け野原を?」
「いや、そういう訳では……」
テオフィルの質問に視線を泳がせると近くに立つ青年へと視線を向けた。
「父上、私にはどう見てもシェスティン・ケイリー・ハドリー嬢にしか見えません。あれから数年経って何故あの頃のままなのか気にはなる所ですが、あのハドリー家ですからそういうこともあるのでしょう」
どうやら、隣に立つ青年は小父様の息子、キリルかレオニードなのだろう。確かにあの最後の舞踏会で彼らに会ってはいるし、あの服装から見ても兄のキリルに違いない。元々、キリルはシンプルな服装を好んでいたけど、あの頃よりも随分と大人びて見えるだけに別人のようにも思える。。
「だが、そんな筈は無いだろう! あの状況だぞ!」
「あの状況と言われても僕は見ていないので分かりません。ただ、あの状況というものをあなたが火をつけて全てを焼き払ったことだけは知っています。だから誰の遺骨も残らなかった。テオフィル殿、あなたのところにある遺骨もレイチェル嬢の物ではありませんよ。あれはこの領内で病死した者を火葬しただけですから。そうだよね、イヴァン」
何だか予想していなかった事態になっている気がする。部屋に響くイヴァンを呼ぶ声に、壁際に立っていたイヴァンが一歩前に出た。
「御意でございます、キリル様」
壁際には気付かなかったけど、服装からいってダリン騎士団の姿が並んでいた。その中にはイヴァンの他にロゲールの姿も見える。どういう訳だか騎士団を辞めた筈のロゲールも騎士団の鎧を身に着けていた。
「父上、あなたはシェスティンの家族に何をした説明するべきではありませんか。あなたが手を下したのですから」
「別に私が何かをした訳じゃない! 全ては、あいつだ! あいつが行ったことだ!」
そう言って小父様が指を指した先にはいつもよりも固い表情で立っているロゲールだった。その顔は普段見慣れたものとは違い、どこか緊張感に包まれていた。そして、ロゲールがこちらを見る。その顔にいつもの笑みは無い。
それを否定する気配のないロゲールの態度に、頭から冷や水を掛けられた気分だった。
「ごめん、シェス。騙すつもりは無かったんだ」
「それは私の家族を殺したこと? それとも騎士団を辞めていなかったこと?」
思っていたよりも冷静な、いや、冷たい声が出た。その問い掛けにイヴァンが一歩前に出たけど、それをロゲールが手で制した。
「騎士団を辞めたことは本当。けれども、君の家族を殺したのは確かなことだ。だから、俺は君に殺されても仕方が無いと思っている。でも、それと同じくらいの気持ちで君を人殺しにしたくないと思っている。傲慢に聞こえるかもね」
そう言って苦笑するロゲールの顔は辛そうに見える。でも、波立ち始めた気持ちを押えることは出来ない。
「何故騎士団の辞めた人間がここにいる! 早くつまみ出せ!」
「僕がここへ呼んだんですよ、父上。シェスがここへ来た。役者はほぼ揃った。真実を明るみにするべきだと思いますよ」
「何を! 私は何も知らん! あいつが勝手にハドリー城を滅ぼしたんだ! 簡単に殺される方が問題だろ! 私が何をした!」
「命令したのはあなたですよ。知らないふりもするのもおかしな話ではありませんか」
「知らんものは知らん! 気分がすぐれぬ、私は部屋へ戻る!」
椅子から勢いよく立ち上がったエヴゲニーは顔を赤らめたまま、そのマントを翻した。それはまさに衝動だった。服に隠し持っていたステイレットを手にすると、勢いのままに駆け寄ればそれに気付いたエヴゲニーが振り返り顔を引き攣らせた。振り上げたステイレットを持つ手が背後から捕まれ、身動ぎが取れない間に私とエヴゲニーの間にイヴァンが割り込む。
「人殺し! 私の家を、家族を返して!」
「シェス、落ち着け」
「だって、この人が、この人が全ての原因じゃない! 許せない!」
ステイレットを持った右手だけじゃなく、体全体を背後から拘束され闇雲に腕を振り回す。激しく金属を打つ音と共に、ステイレットから重い感触が返ってきて痺れるような感覚に握っていたステイレットが床に落ちる。
「離して! 離して!!」
「お前があいつを殺して本当に家族が返ってくると思ってるのか!」
「だって、許せない! 何で殺したあいつが生きてるのよ! ありえないじゃない!」
「別に君の手を汚す必要はない」
どこか張り詰めた緊張感のある声が響き、そちらへと視線を向ければキリルがこちらを見ていた。そしてその手には鈍く光るナイフが光っている。イヴァンの背後でキリルがエヴゲニーへと近付く。
「何を、するつもり?」
声が震える。ありえないことが目の前で起ころうとしている。
「キリル、何を……」
ゆっくりとキリルはエヴゲニーへ一歩、また一歩と近付くとそのナイフを振り上げた。
「や、やめて――――――っ!」
その叫びに重なるように耳を劈くような悲鳴が大広間に響く。けれども、どうなったのかその光景を見ることは叶わなかった。ただ、その絶叫から何が起きたのかは想像が出来る。背後からの手によって覆われた視界では何も見ることは出来ない。ただ、どうしようもなく涙が溢れる。
しばらくは唸るような声が耳に届いていたが、やがてそれは小さくなり、そしてただ静かな空間へと変化する。その中でキリルの声だけが響いた。
「父上は昔からハドリー家の家宝を手に入れたくて色々と画策していた。君やレイチェルを僕たち兄弟と結婚させるつもりでいたが、それは君の父上、ブライアン小父様に断られた。恐らくそれだけなら父としても我慢出来たに違いない。けれども、ブライアン小父様は水面下で敵対しているティル領へレイチェルを嫁がせると言い出した。父にはそれが我慢出来なかったらしい。元々父が欲していたのはハドリー家の家宝だ。だから、そこにいるロゲール率いる騎馬隊に命令を出した。ハドリー家は我がダリン領に害を成すべく動いてる。これを殲滅しろと」
「そんな……だって、ハドリーは武力を」
「そう、ハドリー家には騎士団が存在しない。城を守る兵士すらいない。いるのは精々警備兵、その程度のことは僕にも父にも分かっていた。けれども、ハドリー領へ行ったことの無かったロゲールは知らなかった。そして、戦いは一方的なものになり、ハドリー家は一夜にして滅亡することになった。そして、父上はその証拠を消すために更に火を放つことを命令し、ハドリー領は三日間、火に包まれることとなり、残ったのは焼け野原だ」
だとすれば、私はもの凄いタイミングで助かったかもしれない。少なくとも、私が見た時には焼け野原という程、焼け焦げてはいなかった。そのまま眠りから目覚めなければ、自分も死んでいたのかもしれないと思うと身震いをしてしまう。
「話は変わるがテオフィル殿。一つお願いがあります」
「何でしょう。難しいことで無ければ」
「ここダリンをティルの領土として統治して頂けないでしょうか。難しいかどうかは分かりませんが、少なくともあなたにとって不利益は無い筈ですが」
「別にここはあなたが継げばいいではないですか。少なくともあなたの父上よりかは領民の為になりそうだ」
「父殺しの私が?」
「それくらい、歴史上にはよくあることです。まぁ、それに対する批判はあるでしょうが」
「まぁ、歴史上にはよくあることですが、私にはそれだけの批判を受け流す器はありませんよ、残念ながら」
見えないからキリルとテオフィルがどのような表情でこの会話を交わしているのは分からない。顔が見えないだけでその感情が見えなくなってしまうのは怖いことだ。だから目を覆う掌を剥がそうとしても、更に力を入れられてその光景を見ることは叶わない。
「私の最後のお願いと言っても聞いては貰えませんか?」
「残念ながら。これ以上領土を広げてしまうと、僕の目は領内全てに目が届かなくなってしまう。それは僕にとっても領民にとっても不幸なことだ」
「あぁ、そういう考えもあるんですね。僕には領土を広げることが領主の喜びだと思っていました。やはり私は領主には向いてないようだ」
「それなら代案としてこういうのはどうでしょう。あなたが信頼する部下一人に領主としての権限を与えてはどうでしょう」
「あぁ、そういうことも出来すね。ハドリー家と違って、血筋が全てではありませんから。そうですね……イヴァン、次の領主はあなただ。ここにいる全員が証人となる」
「キリル様!?」
「あぁ、イヴァン殿であれば領民に対しても公平な政治を行えるに違いません。僕としても反対しませんよ」
「な、何を勝手に話を」
「イヴァン、私からの最後のお願いだ」
「最後、最後と、キリル様は一体何を!」
「ダリンの血筋はここで滅びる。この城にいるダリンの血筋はもう僕しかいない」
そんな筈は無い。見ていないから想像でしかないけど、エヴゲニーが亡くなったとしても、まだキリルには母親も弟もいる筈だ。
「いるじゃない! キリルの母様も、レオニードも!」
「もういないよ、誰も。父上以外は誰もがハドリー家にしたことを後悔していた。私も、そしてレオニードは精紳を病んでしまう程に」
そんな事情がダリン家にあったことは知らなかった。昔会ったことのあるレオニードは柔らかく朗らかで、とても可愛らしい少年だった。まさか、そんなことになっているとは思いもしなかった。
「レオニードを殺して母上は自殺したよ。数時間前に。私が見取ったから確かだ」
「キリル様!?」
慌てたイヴァンの声が響く。ざわめきからいっても騎士団の誰も知らなかったらしい。
「動かないで。ロゲール、例の物はきちんとシェスに返してやってくれ。それからシェス、レオニードは君のことが本当に好きだったんだ。だから、父上を許せずに精紳を病んだ。私はそれを止めることが出来なかった。それだけは知っていて欲しい。そしてイヴァン、私はね、最初からこうするつもりだったんだ。クラウディオと言ったな、この部屋の外に出るまでその手を離すなよ」
その言葉を最後に奇妙な静寂が部屋を支配する。それから何かが倒れる気配があって、イヴァンの叫び声が響く。ざわめきは更に酷くなりバタバタと辺りを走り回る足音が響く。
「な、何? 何が起きたの?」
「お前は何も見るな」
「でも、でも!」
「あいつの最後の願いだ。見てやるな」
「最後って、最後って何よ! キリル、キリル答えて! 答えなさい!!」
イヴァンがキリルを呼ぶ声に重なるばかりでキリルからの返答は無い。ただ、ざわめきだけが耳に届く。それだけで見えなくても想像は出来る。
「イヤよ、こんなの、こんな結末誰も望んでないわよ!」
一度は引いたと思った涙はボロボロと零れ落ちる。そして引き剥がそうとするクラウの手は緩むことなく体全体を抱き締めるように押さえつけている。
どれだけの時間そこに立っていたかは分からない。そんな中で近付いてくる足音がある。そして、その足音は私たちの目の前で立ち止まった。
「シェス、いや、シェスティン様。手を出して頂けますか」
その声で目の前に立つのがロゲールだと分かる。その声はくぐもったものでロゲール自身も泣いていたことが分かる。
ロゲールに促されるままに両手を前へと差し出せば、差し出した手の上に何かを落とされた。固く小さなその手触りだが、私の目はそれを見ることが出来ない。
「キリル様の遺言通り、これはあなたにお返し致します。レイチェル様が身に付けていたネックレスです。本当に……本当に申し訳ありませんでした」
もう、今はこれ以上何も聞きたくなかった。思考が焼き切れそうな中でどうにか頷くと手の中にあるそれを握り締める。
「クラウ、シェスを連れてここを出て行くんだ。これからここはもっと騒ぎの渦中になる。テオフィル様と一緒に一度ティルへ戻れ」
「あぁ、分かった。お前はどうするんだ」
「こうなった以上ここへ留まるよ。責任の一旦は俺にもあるからな。キリル様がそういうことをするんじゃないかってことは薄々分かっていたのに止めることが出来なかった」
それから小さな嗚咽が聞こえて、目の前でロゲールが泣いていることが分かる。でも、それが分かったからといって、何の感情も湧いてこない。
「君にこれを今言っても慰めにはならないかもしれないが、死ぬことよりも生きることの方が辛いこともある。キリルにとって、これからの人生、父親のしてきたことを繰り返し聞かされるよりも、ここで蹴りをつけたかったんだろう。分かってやれとは言わないが、地位ある者の辛さも知っていてくれ」
「テオフィル様は辛かったですか?」
「そうだな、親が偉大であれば偉大であるほど辛いものだ。そしてその逆もしかり、親が最悪であれば最悪であるほど辛いものだ。余程でなければ親を憎むことは難しいからな。クラウとシェスの身柄はティルで預かる。イヴァンにもそう伝えておいてくれ。それから落ち着いたら話をしようとも」
「分かりました。必ず伝えます。シェス、俺を許してくれとは言わない。君に恨まれたくないと思って黙っていたことも謝るよ。本当にごめん」
しばらくすると足音が遠ざかっていくのが分かる。もう、涙すら出てこない。枯れてしまったのか、自分でも色々なことが覚束ない。背中を支えられながらどうにか歩いて部屋を出ると、背後の扉が閉ざされる。それからようやく視界が開けた。周りをバタバタと駆け回る兵士が視界に入り、それから長く真っ直ぐに敷かれた赤いカーペットが目に映る。
「私、もしかして、とんでもないことを……」
「してねーよ。お前は何もしてねー。今は何も考えるな。行くぞ」
背中を押して促されたけど、震える足がそれ以上先に進まない。自分が進みたいのか戻りたいのかももう分からない。
舌打ちをしたクラウが屈み込んだかと思うと、足元が宙に浮き、クラウに横抱きにされたのが分かる。
「もう、お前黙ってろ。何も考えるんじゃねーぞ」
「君は無茶を言うな。まぁ、賛成ではあるが」
結構な振動と共に視界が進む。クラウの表情は酷く険しく、隣を歩くテオフィルの表情も硬いものだ。バタバタと駆ける兵士たちと擦れ違いながらも城を出れば、階段を下りた所に乗ってきた馬車とティルの騎士団の人たちがいた。
「戻るぞ」
テオフィルの言葉で騎士団の人間が馬車の扉を開け、クラウに抱え込まれたまま馬車へと乗り込む。テオフィルも乗り込み腰を落ち着けたところで馬車は出発した。
雨は嵐のような勢いで馬車に叩きつけられて雨音を響かせる。確かに雨はいつでも自分の心境とシンクロしている。僅かに手を握り締めれば手の中にあるネックレスの存在を思い出し、それを強く握り締める。視線を落として手元へ向ければ、先程まで汚れていたドレスの裾がすっかり綺麗になっている。
そういえば、いつでも姉様が服を汚すことの無かったことを不意に思い出した。テオフィルから聞いた話しでは、このネックレスにつけられている硬貨は地の精霊から力を借りる。恐らく姉様も私が無意識に雨を降らせるように、姉様も無意識に地面からの汚れを寄せ付けなかったに違いない。だとすれば、ラナが言うように歩き方とかの問題じゃなかったんだろう。
馬車の中はただ重苦しい沈黙が流れている。だからといって自分が沈黙を破る気にもなれず、ただ、黙って外を眺める。外の雨は相変わらず激しく、それに反して自分の気持ちが凪いでいるのがわかる。
「シェス、何を笑ってんだい?」
正面を座るテオフィルが珍しく不可解さを隠さない表情で自分を見ている。
「何かこんなに雨が降ってるのがおかしくて。だって、私落ち着いてるし」
「それは……どういう意味なんだい?」
「ここへ来る時に比べて、凄く落ち着いているわ。だって、全てが終わったんですもの」
「シェス……?」
訝しむテオフィルに笑顔を向ければ、隣に座るクラウが小さく首を横に振った。
「どうかしたの?」
「いや、何でもない。お前、少し疲れてるんじゃねーの。結構歩いてるし」
「そういえば」
「ティルにつくまでこの雨だから時間も掛かる。少し横になってろ。ここで横になってていいから」
クラウは立ち上がると、テオフィルの横へと移動する。私の隣はぽっかりと空いて、少し悩んだ挙句椅子にコロリと横になった。
いつもよりも優しげなクラウの笑顔に満足しながら、笑顔を返すと目を閉じた。何だか色々あったかもしれない。でも、これも今日で終わる。色々と悩んでいたことがまるで嘘みたいだ。今までにはないくらい穏やかな気持ちで眠りに落ちた。最後の最後まで、うるさいくらいに叩きつける雨音が耳に残った。