第2話
外に出れば夕暮れ時の長い影と、肌寒い風が吹き抜けて少しだけ身震いすると布干し台へ駆け寄り手早く干してある布を降ろしていく。今日ほどの晴天だと布の乾きも早く、カーラも早く仕立てに入れるから助かるに違いない。何枚も干してある布を両肩に掛けながら干し台の間を縫うようにして歩く。
もう、こうして手伝いをすることにも慣れたし、雨に降られて泣くようなことはしない。どうしていいか分からずにいた私を受け止めてくれたのはカーラと、時折戻ってくるクラウだ。カーラが言うようにクラウは私がここにいてもどこだかで財宝の情報を入れると旅立って行った。それでも、最初の一年は出掛けても一週間しない内に帰ってきたし、呆れながらも色々とカーラと共に教えてくれた。
そして、私はクラウに言われるまま、深い意味も理解せずに仕立てて貰った服を着て相変わらず男装をしている。時折、カーラはドレスを縫う時に試着させてくれるけど、それを着て外に出ることはない。でも、ここでの生活にも慣れてきて、徐々に毎日の生活が楽しくなってきた。何よりカーラが一緒にいて面倒を見てくれた功績が大きい。
ただ、最近は本当に自分はここにいていいのかと自問自答することが増えてきた。ここにいれば居心地は良いけれども、カーラにいつまでも甘えている訳にはいかない。何よりも、私の生活費をクラウが出していることを知ってからは色々考えるようになった。
多分、私も変わったと思う。少なくとも昔だったら、出して貰うのが当たり前だったし、知ったからといって色々考えたりすることも無かったに違いない。そういう意味でも、それを教えてくれたカーラには本当に感謝している。
考え事をしながら布を肩に掛けようとした所で、背後から延びてきた手がその布を奪った。慌てて振り返ればそこには三ヶ月ぶりに会うクラウが立っていた。
「相変わらずトロくさいな」
久しぶり会った筈なのに、その時間を感じないのは既に慣れ親しんだ相手だからかもしれない。それでも、こいつに対して素直になれないのは口の悪さに煽られるからだ。それはそれで少し情けないことだけど……。
「ほら、それ貸せ」
こっちが差し出すよりも先に両肩に掛かっていた布を手にすると踵を返してしまう。干し台に掛かっているのはあと数枚だけで、こんな量なら片手でだって運べる。
「少しは持つから」
「別にいい。それよりも他の布持ってこいよ。昔みたいに落としたりしないようにな」
からかうような響きに腕を伸ばしたけど、しっかりと逃げられて殴ろうと思っていた腕は中空を空振りした。地団駄を踏みながらクラウの背中を見送ると、小さく溜息をついてから干し台から布を下ろす。全ての布を持ち家の中へ戻ろうとすれば、クラウが扉を開けて待っていてくれる。
「ありがとう」
それに対してクラウからの返事はなく、布を手にしたまま作業場へと向かっていく。すぐ後ろをついていきながら、目の前にある背中を見上げる。
クラウと出会ってからもう三年、あの時はまだ私は小さくてクラウが凄く大人に思えたけど、でも全然違う。今のクラウを見るとやっぱり出会った時よりも大人になったと思う。あの頃よりもずっと背も伸びて背中が大きくなったように思える。
それに比べ、どういう訳か自分には成長が見られないのはどういうことだろう。多少、本当に多少だけど身長は伸びた。でも、三年という月日を考えれば余りにも成長がない自分が恨めしい。別に姉様くらい成長したいって言ったら夢見すぎかもしれないけど、でも、あと少しくらい……。
「あらクラウ、久しぶりね。お帰りなさい。それはそっちの作業台に置いておいて頂戴。あら、シェスはどうしたの?」
「……ここにいます」
「ごめんなさい、クラウに隠れていて見えなかったわ」
そう、悲しいことにクラウの影にすっぽりと隠れられるくらい自分は小さい。そして謝られても、正直困る。
「つーか、お前、今周囲に幾つって言ってんだ?」
「十二。ここ来た時には九でごまかしてた」
「確かに男と考えれば十二でもおかしくないかもしれねーけど、十五の女としては色々と成長足りなさ過ぎだろ、平らだし」
「うるさい! トロい、チビ、言うに事欠いて今度は平らか!」
怒鳴りつければ、クラウはとっとと布を作業台に置くと逃げるように部屋を出て行ってやる。そんな後ろ姿に蹴りだけはしっかり入れると舌を出した。
「シェス、人それぞれだから気にすることないわよ。全く、クラウの口の悪さにも本当に困ったものだわ。女の子がそういう事言われるのって結構傷つくのにね。そういう子は夕飯を抜きにしちゃいましょう」
ニコニコ楽しそうに笑うカーラを見ていると、怒りも余り持続しない。カーラの持つ空気のせいなのか、いつもこののんびりペースに巻き込まれている気がする。でも、穏やかでいられるからそれはそれで気分は悪くない。
「今日はこの間塩漬けにした鶏の蒸し焼きを二人で食べましょうね〜」
楽しそうに、でも穏やかな雰囲気を崩さないカーラはどこか姉様に似ている。だから、自分で思っていたよりも傍にいて今まで不安が無かったのかもしれない。
「凄く楽しみにしてます! じゃあ、頑張ってこれ染めるお手伝いします」
でも、近所で十二の男の子となれば家業を継ぐ為に修行を始めるか、騎士団に入るために貴族へ養子となったり、遊んでいる子は少なくなってくる。その中で一応手伝いはしているものの、親戚の子供が十二になるまで家にいることに不信を持ち始めている人たちも出てきた。カーラは全く気にした様子は見せないけど、色々と言われているのを知っている。もし、女だと分かればそれよりも凄いことを言われるに違いない。十五の女の子は、殆どの場合、許婚がいて結婚しているのも珍しくない。
それを考えるといつまでもここにいる訳にはいかないことに気付いた。それでも、出て行くことを決断できないのは不安が大きいからなんだと思う。でも、これ以上迷惑を掛ける訳にもいかないし、三年という月日が流れて、ようやく色々なことが気になってきた。
何故、ハドリー家は滅亡へと追い込まれたのか、家宝と言われている物は一体何で、どんな力を持つものなのか。そして、何よりも誰がハドリー家を崩壊へと導いたのか、家族を殺した相手を知りたくなった。相手を知ったところでどうするのかと言えば、まだ気持ちは固まらない。でも、謝って貰って済むような気持ちでもない。
なら自分は何をするのかと言えば、色々と調べなければいけない。文献は多く残されてはいないだろうけど、それでも自分の身に起きたこと、起きた原因くらいは知りたい。少なくともそれが原因で父様や母様、そして姉様が亡くなったのだから。
「カーラさん、夕飯終わったら少しお話しに付き合って貰ってもいいかな」
「勿論よ、私がシェスのお誘いを断ったことなんて一度でもあった?」
言われてみれば、確かに断られたことなんて一度たりともない。そう思えば頭だって上がらなくなる。本当に凄い女性だと思う。お互いに少しだけ笑いながら染料の粉を手に取ると、染料用のバケツに量った粉を入れた。
染料に布を漬け終わると今度は二人揃ってキッチンに向かうと、料理の手伝いをする。こうしてキッチンに立つのはあと僅かな間だと思うと少し寂しく感じるけど、それを口にすることはなくカーラと色々な話しをしながら食事の用意を終えた。
食事になればクラウも出てきたけど自分の分がないと分かると、ふてくされながらもテーブルについた。文句を言えばカーラに先ほどのことをピシャリと言われてクラウは黙り込んでしまう。口の悪いクラウでもどうやらカーラには敵わないらしい。
ふてくされていたクラウだけど、途中から会話に加わり、今回はどこへ行って何を手に入れたとか、こんな人に会ったとか色々と話しをしてくれる。見たことのない世界の話しを聞くのは楽しかったし、そんなクラウにお礼の意味も込めて少しだけ夕食を分けてあげた。まぁ、あの言葉を許した訳じゃないけど。
食事を終えて落ち着くと、三人でテーブルについた。クラウは一旦席を外そうとしたけど、お願いしていて貰った。お礼ならカーラだけでなくクラウにもきちんとしなければならない。拾って貰った恩だってあるし、何より生活を支えてくれたのはクラウなのだから。
「まず、カーラさん、何も言わずにこれを受け取って貰えませんか」
前置きと共にカーラの前に置いたのは、あの日からずっと持っていた数枚の金貨と僅かばかりの宝石の数々。家宝かもしれないゴブレットと父様の指輪は別にしても、それは私が持っている全財産だった。ここで生活する内に持っていた金貨や宝石の価値も少し分かるようになった。少なくともこれだけあればお世話になっていた分は返せるに違いない。
「シェス、これは貰えないわ。少なくとも私が貰うべきものじゃないもの。そういう意味ではこれを受け取るのはクラウだと思うわ」
「俺はこれ貰うほど落ちぶれてねーぞ。つーか、何で今更こんなもんを出してきたんだ?」
「来週、ここを出ようと思ってます」
「もしかして、ここは居辛い? 一緒に暮らすことはイヤ?」
多分、ここへ来て初めて見たカーラの悲しそうな顔かもしれない。そんな顔をさせてしまったことに胸が痛む。
「違うんです。ただ、どうして自分の両親や姉が殺されたのか、一体何があったのか、色々知りたいことが出来ました。だからカーラさんが考えるようなことは全くありません。こんなに良くして貰ってむしろ、出て行くのが寂しいと思ってます」
「あー、この際はっきり聞くぞ。お前は敵討ちでもするつもりか?」
遠回しな言い方が嫌いなクラウらしい直球の質問に苦笑するしかない。
「正直、どうしたいのか自分でもよく分からない。でも、私は知る権利と義務があると思う。知った後、どうするかは分からない」
「知る権利と義務か……それは生き残りとして確かにあるだろうな」
「クラウ、そういう言い方はよくないわ」
窘めるカーラに私は首を横に振ると少しだけ笑う。
「実際そうだから。ここは居心地がよくて本当に楽しかったけど、家族が亡くなった理由を私は知るべきだと思う。たとえどんな理由だったとしても受け止めなくちゃいけない」
「だったら、なおさらこれは受け取れないだろ。これからの方がずっと金が必要なんだしな。俺は気になることが一つあるんだが、お前、戦ったり情報集めたり出来るのか?」
それは、当たり前だけどしたことがない。でも、出来ないで諦める訳にはいかない。
「これからどうにかする」
「いやいや、どうにかするでどうにかなるもんなら、旅の途中で死人なんて出ないだろ」
確かに考えが甘いのも分かってる。でも、ここで立ち止まっていられるだけの時間がもう少ない。何でもっと早くから準備を始めなかったんだとか思う所は色々あるけど、それも今更な話しだ。
「でも、私は今、どうしても調べたいの!」
「それなら、クラウと一緒に行けばいいじゃないの。女の子の一人旅なんて危険だし、今は可愛い男の子だって売られちゃう時代よ」
カーラの言いたいことは分かる。でも、いつまでもクラウに甘えてばかりもいられないし、そんなこと納得する筈もない。
「クラウ、そうしなさいよ。で、色々調べて二人で帰ってきたら、私ケーキだって作っちゃうわ。それに、このままシェスを放っておいたら男が廃るわよ。第一、拾ったら最後まで面倒見るのが当たり前のことじゃないの」
そ、それは正しいことなんだろうか……。何だかペットか何かの話しでもするようなカーラの言葉にクラウと二人、がっくりと肩を落とすしかない。それでも、クラウを大きく溜息をつくと私を見る。
「まぁ、でも母さんの言うことも間違えてはないか。俺も興味が無いと言えば嘘になるし、何よりも死なれたら目覚めは悪いしな」
「あら、じゃあ、私は来週のために準備しなくちゃ」
何だかとても楽しそうに椅子から立ち上がったカーラは、止める暇もなくキッチンへと消えていった。恐らく、今日届いた肉で塩漬けでも作るつもりなのだろう。
そして私は酷く気の抜けた気分で椅子に凭れた。色々と覚悟していた筈なのに、どうにも予想しなかった方向へ進んでいる気がする。いや、気がするだけじゃなくて、まさに進んでいるんだから困るというか……でも、少し安心した部分もある。
死ぬ覚悟があったかというと、そこまでの覚悟は無かった。でも、怪我をしたらどうしよう、とか、病気になったらどうしよう、とかは少しだけ考えた。それでもクラウ辺りから言わせると甘いのかもしれない。
チラリとクラウを見れば視線に気付いたのかクラウがこちらを向いた。
「余計な世話だったか?」
「……別にそんなことはない。助かったと思ってる自分もいる。甘い?」
「お前が甘いのは昔からだ。生まれ育ちが違うんだから仕方ないだろ。それよりも、それ片付けておけ」
顎で指し示した先はテーブルの上にある金貨と宝石。それを手に取ると、改めてクラウの前に置いた。
「これじゃ足りないのは分かってるけど」
「……お前、本気でバカだろ。例えばな、この宝石一個で家が買える。少なくともここの四倍はある家が買えるな。そういう価値が分かって言ってるのか?」
そこまで価値のあるものだとは思ってもいなかった。でも、価値を知ったからといって渡したい気持ちは変わらない。
「別にいい。こうして生きていられるのはクラウたちのお陰だと思ってるから」
「だから、それは俺の気紛れであって感謝されるようなもんじゃない。第一、お前についていくのだって俺の好奇心からだ。別にお前がどうなろうと関係ない。まぁ、一緒に行動する以上、足手まといはごめんだがな」
はっきりとそこまで言われると二の句が継げなくなる。いつもの勢いなら一つや二つくらい言い返したけど、これからの迷惑度合いを考えると簡単に文句なんて言えない。
「取り合えず、それはお前が持っとけ」
その言葉に頷きで返すと、クラウは背凭れから身体を起こすと机の上に肘をついた。
「俺が聞いてるハドリー家に関しては、前にも話したが家宝となっている物を代々受け継いでいく、ということを聞いた。その家宝は人智を越えた力を持つが、ハドリーの血族でないと使用することは出来ないらしい。それは硬貨、杯、棒、剣の四種類あり、それぞれ違う力を持つという。それがあることにより、ハドリー領は騎士団もないにも関わらず、他の領内から攻め込まれることは無かった」
少なくとも、今クラウが言った硬貨と杯に関しては恐らく自分は知っている。恐らく今持っているゴブレットは代々受け継がれる筈だった杯にあたるものだろうし、硬貨は姉様がペンダントにしていた物に違いない。だとしたら、棒と剣というのは父様と母様が持っていたんだろうか。もし、城内のどこかへ隠してあったのだとしたら見たことがないのも納得だ。少なくとも、あの城内全てを回った記憶は私にはない。
何よりも驚いたのが、他の領内に攻め込むという言葉だ。少なくとも私が住んでいたハドリー領では他の領主も出入りしていたし、それなりの関係を築いていたように見えた。ただ、それは子供の目線だったからで実際は違ったんだろうか。
「他の領内に攻め込むことってよくあることなの?」
「普通はな。だからハドリー領に関しては特例だ。普通、あんな低い城壁しか作ってない領主の館なんてない。第一、ハドリー領ってのは狭いし街だってない。普通は領内のどこかしらに街は存在するのに、あそこだけは街そのものが無かった。確かにちっぽけな領内だから見向きもしないっていう考え方もあるんだろうが、ちっぽけだからこそ統合してしまえっていう考え方もあっておかしくない筈だ。まぁ、城壁の低さやら何やら考えれば、それだけハドリー領は攻め込まれる心配が無かったってことだ。それを考えると、実際にハドリー家に代々伝わってきた物っていうのは実在するんだろう、って言われてる。俺は、今回それを巡ってハドリー家は滅ぼされたんだと踏んでる」
そうだとしたら、原因の一つを自分は持っていることになる。代々受け継ぐものだというのなら、自分は残りの三つを探すべきなんだろうか。ただ、姉様は聞いていたみたいだけど、私にはどういう物だったのか、どういう使い道があるのか全く聞いていない。恐らく父様もそんな事態になるとは思ってもいなかったんだと思う。
「ハドリー領って、今はどうなってるの?」
「今はダリンに統合されて、城があった場所には慰霊碑が建ってる」
「そっか、ダリン小父様が建ててくれたんだ」
何度もあの悲惨な光景は思い出した。それこそ夢に見て飛び起きたことだって幾度となくある。その度にカーラが抱きしめてくれたのも懐かしい話しだ。あのまま放置されたのであれば死ぬまで後悔すると思っていたけど、ダリン小父さんには感謝しきれない。
「ダリンの領主と知り合いか?」
「うん、うちの城によく遊びに来てた。だから、最初はダリン小父さんに話しを聞いてみようと思っていたくらい」
「でも信頼は出来ない、と?」
数年前の遣り取りだっていうのによく覚えていたもんだと思う。もっとも、信頼出来る相手であればここへ来ることも無かったし、きっかけではあったから覚えているのは当たり前かもしれない。
「父様がどういうつもりだったかも分からないし、今となっては聞くことも出来ないから自分が信じられない相手は信じないことにしてる。人を見る目があるなんて自信もないし」
「まぁ、妥当だな。何と言うか、さすがはお嬢様ではあるな。ダリンの領主と会ったことがあるってことは」
テーブルに置いてあるお茶を飲んだクラウは椅子の背に身体を預けると、中空を見据えて腕を組んだ。
「因みにブレロの領主に会ったことは?」
「少なくとも私の記憶には無い。舞踏会には近郊の領主は呼んでいる筈だから来てはいたんだろうけど、顔を見ないと分からない程度だからそれ程付き合いがあったとは思えない」
「なら、取り合えず行き先はダリンだな。色々と情報があるだろうし、上手くいけばハドリー家のことも分かるかもしれない」
城内から出ることの無かった私にとってダリン領というのは初めての土地だ。このブレロ領に来た時には色々と違いがありすぎて驚いたけど、やっぱりダリン領にも違いはあるんだろう。ダリンの小父さんが統治する領は一体どんな領なのだろうか。
* * *
クラウに選んで貰った二本の短剣を手に家へ戻れば、カーラが出迎えるなり鞄を一つ差し出してきた。
「旅に出るには鞄は必須でしょ。だから、これはシェスの鞄。それから服も用意したのよ」
腕を引かれて作業場へと足を向ければ、作業台の上には私の身長に合わせた服が用意されていた。上着にズボン、砂よけのストールとマント、そして髪を隠すための布は被りやすい帽子状になっていてカーラ独自の作りになっているそして、その他には掌より少し大きめの小袋があった。恐らく、私の持っているレースのついた袋が破れていることに気付いたカーラは、態々これを用意してくれたに違いない。
「私、こんなに沢山のことをカーラにして貰ってるのに、何一つ恩返し出来ない」
「あら、そんなものはいらないわ。私はここにシェスがいてくれて本当に嬉しかったから。そうね、強いて一つ言うなら、クラウと二人、必ず生きてここへ戻っていらっしゃい。私にはそれが一番の願いよ」
温かいこの人に会えて、本当に良かったと思う。カーラの存在がどれだけ自分の助けになったか、そんなことは言葉で表せないくらい感謝してもし足りない。無知で世間知らずだった私に根気よく教えてくれたのはカーラだった。
「戻って来る。絶対に戻ってくるから」
「そうして頂戴。そういえば、予定通り来週ここを発つってクラウから聞いたわ。何だか寂しくなるわね」
私もクラウもここを出て行くとなればカーラはここで一人残ることになる。散々迷惑を掛けてきたこともあるから、確かに寂しくはなるに違いない。
「あ、あの、もしだったら、クラウ置いていきますから」
「あら、イヤよ。どうせあの子を置いていかれてもどこかにフラフラ行ってしまうんだから。大丈夫よ。寂しいけど、楽しみもあるんだから。シェスたちが帰ってきたら、腕によりを掛けてケーキを作ること」
笑顔で言われてしまえば、二の句が告げない。呆気に取られる私の顔を見て、カーラは楽しそうに笑う。
それからカーラの手伝いを申し出たけど、カーラは旅の支度をしなさいとその申し出を受け付けることはしなかった。馴染んだ自室に戻り、カーラから渡された布袋に必要な物を詰めていく。元々物はそんなに多くない。幾つかの着替えと、それからと数枚の金貨と宝石、そしていわくつきのゴブレッド。着替えはそのまま布袋へ入れると、残りをカーラが作ってくれた小袋に入れてから布袋へと入れると荷物は全てだった。
昔は溢れる程の物に囲まれて暮らしていたけど、無ければ無いなりに過ごせることも知った。それと同時に、自分は恵まれた暮らしをしていたことも知った。最初ここで暮らし始めた時こそ、何で私がこんな所に、なんて思ったことも今となっては思い出の一つだ。
知らないよりかは知った方がいい。例えどんなことだったとしても、自分の糧にはなる筈だと信じたい。あの城の中は確かに居心地が良かったけど、あの中にいたら生きていく術を習うことだけは一生出来なかったに違いない。今もこうして助けられてはいるけど、あの頃よりも色々と知ったことがある。
誰かの手によって作られた食事、誰かの手によって作られた服、そして誰かの手によって綺麗にされていたベッドや城、そして姉様とよく過ごした花畑。あれら全てに人の手が掛かり、それを仕事にしている人たちがいた。今はその全ての人たちに感謝したいと思う。
短剣二本を乗せた机の上に、全ての荷物を纏めた布袋を置く。この部屋から持ち出す物はそれが全てだった。随分と長い間、この部屋にもお世話になった。古い作りの木の椅子は確かに座りごこちこそ良い物では無かったけれども、毎日掃除されて汚れはない。ただ、この机や椅子、そしてベッドは長い年月で使い古したからこそ出る輝きがある。そんな机の上を軽く撫でると部屋を後にした。
三人で取る最後の晩餐という気負いもなく会話は弾み、片付けや風呂を終えると自室へと引き返してきた。
安らかな睡眠をたっぷり取り、朝は日も昇る前から起きると全ての荷物を持って自室を出た。テーブルには既に食事が用意され、片隅には二つの袋と水筒が用意されていた。
「あら、その服ぴったりだったみたいね、良かったわ」
再度お礼を言えば、カーラは嬉しそうに笑いながら椅子を勧める。椅子に座って待っていればクラウも部屋から出てきた。服装はいつもと違い、旅仕様になっていて腕にはマントを抱えている。
クラウが椅子に座る間にもカーラの手によってテーブルの上は更に彩りを増し、三人揃って食事を取った。
昨日に比べたら言葉数は少なく、自分も少し緊張していた。食事を終えて片付けを手伝って、最後に手を洗うと頭に帽子を被る。一見、帽子に見えないそれは、長くなった私の髪を押えて丁度いい大きさだった。そしてマントを手にした所でカーラに呼び止められる。
「ほら、二人とも、折角の干し肉と飲み物、忘れないで頂戴」
渡された袋と水筒を布袋に収めるとマントを羽織り、布袋を肩に担ぎ上げる。それなりの重量にはなったけど、これは生きていくために必要な物ばかりだから、この重さは甘受しなければいけない。
クラウを見上げれば、既に用意が整ったクラウが視線で外へと促す。
「本当にありがとうございました」
深々とカーラに頭を下げれば、帽子の上からカーラ優しく撫でられた。
「辛くなったらいつでも戻ってらっしゃい」
それはカーラさん最大の優しさだったかもしれない。大きく返事をして三人揃って家を出れば、丁度朝日が昇る所だった。三つの長い影を作りながら、カーラさんにもう一度挨拶した所でクラウに呼ばれる。カーラさんと共にクラウの元へ行けば、そこには聞いていない話しが一つあった。
「……何で馬がここに」
「そりゃあ、俺の馬だからな」
聞いてはいなかったけど、それは分かった。でも、今ここに馬がいるということは、もしかしなくても……。
「もしかして、この馬で出掛けるの? 一日くらい歩き続ければ」
「バカか、馬でも三日掛かるわ!」
だとすれば、歩いていけば一週間以上は間違いなく掛かるということだろう。それは余りにも気の遠くなるような場所で、これから旅に出るというのに頭の痛い問題だ。
「私、馬に乗れないんだけど」
「んなことは知ってる。初めて会った時に聞いた。だからお前はここ」
そう言ってクラウは馬に跨り指差した先はクラウの前。正確にはクラウと馬首の間の狭い空間。
「……私、クラウの後ろでいい」
「お前、本当にバカだろ。後ろになんて乗ってたら、落っこちた時に気付けないだろ。お前、ただでさえチビなんだから」
チビという言い分には文句を言いたい所だったけど、落ちない保証は全くない。だからこそ悔しく思ったけど、クラウはそれをからかうこともなく手を差し出してきた。
「ほら、早く乗れ。行っちまうぞ」
差し出された手に渋々ながら捕まれば、凄い力で引き上げられる。そして、次の瞬間には馬の上に自分も跨っていた。しばらく乗っていなかったけど身体は忘れた訳じゃないらしい。例えどんなに苦手だったとしても……。
「んじゃ、ちょっと行って来る」
「気をつけて行ってらっしゃい。シェスに怪我させないようにね」
「分かってるっての」
言葉と共にクラウが馬の腹を軽く蹴れば、馬がゆっくりと歩き出す。独特な振動に揺られながらも振り返ればカーラは笑顔で手を振っていた。でも、その目には涙があって、馬の上だというのに大きく手を振る。さよならとは違う。違うと思いたい。だから「行ってきます」という言葉を大にして言えば、カーラの笑みが深くなったように見えた。しばらくすればカーラの姿も小さくなり、街の外れに来る頃には姿は見えなくなった。
クラウはがもう一度馬の腹を軽く蹴ると途端に馬は足早になりすぐに街の外へと出た。泣いてる自分を知られたくなかったからこそ涙すら拭わなかったけど、クラウには分かっているのかもしれない。馬上で吹き抜ける風は程よく涙を乾かしていく。
お互いに会話はなく、ただ流れる景色を眺めていく。街を出てからはすぐに砂漠が広がる。どれだけ進んだのか分からない中で日差しだけが強く、ジリジリと肌が焼けるような感覚すらある。
「ストール出せるか? しばらくは砂漠だ、巻いとけ」
背後でクラウが動く様子から、クラウもストールを巻いてるのだと分かる。言われるままに布袋からストールを取り出すと首にぐるりと回すと最後に口元を覆うように巻きつける。途中で水筒の水を取りながら馬に揺られてしばらく行くと、ようやく砂漠の向こう側に砂以外の物が見えた。
「あれは何?」
「遺跡だ。過去に繁栄した文明の成れ果て。あそこで休憩するぞ。あそこは日陰もあるしな。ただ、降りたら必ず手に剣は持ってろよ。何が出てくるか分かったもんじゃねーし」
「動物でも出てくるの?」
「バカ! 盗賊だ、盗賊。相手に怯まず迷わず切るなり刺すなりしろ。じゃねーと、面倒なことになるし、殺される可能性もある」
頷きで返せば額から汗の雫が馬の背に落ちた。最初は砂漠の広大さに感動もしたけど、今となってはただ熱い。うんざりした気分で馬に跨っていたけど、跨っている足も痛い。はっきりいって馬の上っていうのは慣れないせいか疲れも倍増している気がする。
徐々に近くなってきた遺跡は遠くから見ていたよりもずっと大きく重厚なものだ。遺跡に入るだけで日陰ができ、それだけで温度が全然違う。ひんやりとした空気が火照った肌に気持ちがいい。崩れかかっている建物をマジマジと見てしまう。掘り込まれた柱は今まで見てきた物よりも細やかな模様で描かれていて、象られた飾りは掘り出した物だと分かる。これを見ているだけでも、私が知っている文化よりもずっと進んだ文化があったんだろう、ということだけは分かる。
「凄いなー、これだけの技術がある文明が滅ぶって凄いことだよね。何か勿体無い」
そんな呟きに背後から溜息が聞こえた。またおかしなことでも言ったのかと考えてみるけど、分からないものは分からないし、今更無知を取り繕った所でどうなるものでもない。
「お前、少しは史実みたいなの習わなかったのか?」
そこを付かれると非常に痛い。小さい頃から色々な先生がいたから、礼儀作法や学問もそれなりにやった。でも、そんな中で嫌いだったのは歴史とスポーツ全般だ。
「……嫌いだったし。だって、過去なんて習っても意味ないじゃない」
「お前、過去から学ぶことは多いんだ。歴史は繰り返されるって言うくらいだしな。ここだってどの領地の文化よりも進んでいたし、それ専門の研究だって進められてたこともある。それを領家の人間が知らないなんて恥ずかしいことだろ」
耳に痛い言葉ではあるけど、領家の人間だからって過去の全てを知らなくちゃいけないなんてことは無い筈だ。少なくとも、過去を知らなくたって生きていける。
不貞腐れている空気を読んだのか、クラウは小さく舌打ちすると馬のペースを落とした。しばらく進んだ後にクラウは馬の手綱を引いて止めると馬から下りた。しばらくクラウはあちらこちら見て回ったけど異状が無かったのか、こっちへ戻ってくると私の脇の下に手を入れて抱き上げる。
文句を言いながら抵抗しても身長差も体格差もあり簡単に振り解けるものじゃない。
「お前、少しは大人しくしてろよな!」
言葉と共に少し乱暴に地面に降ろされて、ようやく馬から降ろしてくれたのだと分かった。でも、少なくとも女の子にするような降ろし方じゃない。
「普通、こういう降ろし方はしないでしょ。手を差し出してこう降りるのを手伝う程度でしょ。それなのに人のこと軽々と抱き上げて!」
「……お前、今の自分ってのを理解してるか? 少なくとも手を貸して降りられる身長じゃないだろ。それ以前にお前場合、手を貸しただけで馬から下りられる運動神経持ち合わせてねーだろ」
次から次へと人の痛い所をついてくれるのは意地が悪いのか、そういう性格なのか、知り合ってからもう何年もなるのに未だにクラウという人間がよく分からない。
「うるさい! どうせ運動神経無いわよ! それがどうしたってのよ!」
「……逆ギレかよ」
呆れたその声にも頬を膨らませていれば、クラウはそんな私を気にもせずに馬に水をやっている。こういう所が本当にムカつく。勢いのままに瓦礫へ腰掛ければ、背後から唐突に腕を捕まれた。
声を出す間もなく、背後から手が伸びてきて口を塞ぐ。迷うな、そう言ったクラウの声を思い出し、開いている右手で腰に刺さっているステイレットを取り出すと容赦なく背後の人間を刺した。
短い低い呻き声を聞きながら慌てて離れると、背後の男を見遣る。その瞬間に足が宙に浮き、一瞬何が起きたのか分からない。ただ、腰から脇腹に掛けて回るクラウの腕の熱さだけが変にリアルだ。慌てて背後を見ればクラウが自分を抱えて馬に乗り、物凄いスピードで景色が流れていく。
手の中にあるステイレットを落とさないように握り締めるのが精一杯だ。刃先には血がついていて、剣先から振動で流れ落ちる。この刃先なら死なないと言われているけど、もしかしたら自分が思っていた以上に深く刺さったんじゃないかと不安になってくる。
身を守るためだったから仕方ない。そう思い込もうとするのに、どうにも自分を納得させることが出来ない。もしかして、殺してしまったんじゃないか。そう思ったら頭の中が一瞬にして真っ白になった。
「シェス」
名前を呼ばれて我に返れば、自分と変わらない視線の高さにクラウがいる。クラウの後ろには馬がいて、布袋が二つ乗せられているのが見える。
「あの人、死んじゃったかもしれない!」
「よーく考えろ。別にお前は柄の部分まで刺した訳じゃない。精々傷なんて刺さっても四インチも刺さってねー。お前、人間刺すってどれだけ力いると思ってるんだ。第一、お前が刺したのは足だ、足!」
確かに闇雲に刺したからどこを刺したかなんて見てもいないし、その後、すぐにその場を離れたから確認も出来なかった。けれども、刺した場所が足なら確かに死に至ることは無いと思う。
「そのままにしてたら死んじゃうかも!」
「まぁ、そうかもな。だが、それは自業自得でお前には責任がない」
「でも、それなら助けに行かないと」
どんなに頑張っても人を殺す覚悟なんてものは出来てない。自分でも無茶を言っているのは分かるけど、怪我させた人をこのままここへ置いて行くのは余りにも気が引けた。日中、砂漠は酷く暑い場所だけど、夜になると冷え込むというのをクラウから昔聞いた覚えがある。温度差を考えても、ここに人を置いて行く訳にもいかない。
「お前、本気でそういう甘い考え捨てろよな!」
「でも、イヤなの! どうしても私がイヤなの!」
それだけ言うと、馬へ近付き自分の布袋を手に取るとクラウを置いて歩き出す。
「どこ行く気だ」
「さきの人のところ。大したことは出来ないけど、手当てくらいなら出来る筈だから」
「……勝手にしろ」
怒気を孕むクラウの声には答えず、ただひたすら歩き始める。一体、どこをどう馬を走らせたのかなんて覚えていない。でも、何としてでもその人の元へと辿り着きたかった。瓦礫が転がる中、歩きなれない道を走るとなると息も切れる。こんな時、年齢通りの体格だったらたった一歩だって大きく違うのに。そんなことを思いながら先へと進めば、道が二又に分かれる。右か左か――――。
「お前、本当にバカだろ」
呆れた声に振り返れば、馬に跨ったクラウが声の通り呆れた顔をして自分を見下ろしている。でも、先のように怒っている様子はなく、ただ呆れているという感じに見える。
「連れて行ってやる。どうせどこだかも分かんねーだろ」
「本当に連れて行ってくれるの?」
問い掛けた途端、クラウの顔がムッとしたものになり機嫌が急降下したのが分かる。
「……なら勝手に歩け」
「……ごめんなさい、乗せて下さい」
こうなったクラウには下手に出るしかない。基本的にクラウは疑われることが嫌いだ。そんなのは数年の付き合いで知っていた筈なのに、つい、先までの猛反対を見ていただけに俄かに信じ難いものがあって聞いてしまった。でも、クラウは嘘をつくことはしない。
差し出された手を掴み馬に跨らせて貰うとクラウが馬の腹を蹴った。走っていた時よりも格段に早く景色が流れていく。
「まぁ、お前が刺した状態で転がってるとは限らないから覚悟しとけよ」
それ以上クラウは何も言わずただもう一度馬の腹を蹴った。更にスピードが上がり、幾つかの角を曲がる。しばらく走った所でクラウは馬の手綱を引いた。そしてクラウは早々に馬を下りてしまう。慌てて後を追うために馬を下りようとした所でクラウの尖った声が聞こえる。
「お前はそこにいろ。いいか、絶対に降りるな」
いつもとは違う強い口調に頷きだけ返せば、クラウは辺りを見回しながら慎重に進んでいく。クラウの進む先には大岩があり、ようやくそこに血痕があることに気付いた。血を見ただけで、どうしようと思ってしまう辺り、自分にはやっぱり色々な覚悟が足りないのかもしれない。
「おい、生きてるか?」
「……このまま放置されたら死ぬな」
クラウの声に続き、耳慣れない男の人の声が聞こえた。大岩の影に隠れているのかその姿は見えないけど、恐らく私が刺してしまった人らしい。慌てて馬を下りようとしたけど、慌てすぎて視界が一転し、次の瞬間には肩から腕に掛けて痛みが走った。それでも慌てて立ち上がるとクラウのいる場所へと駆け寄る。
抗議の視線を投げてきたクラウだったけど、続く言葉は無い。クラウの横から大岩を覗けば、傷だらけになった男の人が倒れていた。
「だ、大丈夫ですか?」
「……ダメ、死ぬ」
「クラウ、ど、どうしよう!」
「バーカ、これくらいじゃ死なねーよ。ここら辺は盗賊も多い。手負いになれば寄って集って奪ってく連中がいるってだけの話しだ。元々、お前がこのバカに手出しなんかするからこんな目に合ったんだ、自業自得だろう。のたれ死ぬのも仕方ないってヤツだな」
「クラウ!」
辺りに響き渡るような声で名前を呼べば、クラウはこちらへと視線を向けてきた。その視線はいつもよりも冷たい。
「自業自得だ。お前が責任感じる必要は全く無い。よってこいつを助ける義理は無い」
きっぱりと言い切ったクラウの声に揺らぎは無い。本心からの言葉なんだとその言い方からも分かる。冷たいその声に続く言葉が出てこなくて唇を噛む。そんな私を気にした様子も無く、クラウは動けないだろう男の人へと視線を落とす。
「第一、目的は何だ? ただの盗賊じゃねーよな。ここらにいる盗賊は単独行動はしない」
「理由、言ったら助けてくれるか?」
「さぁな、気が向いたら」
しばらくの間、クラウとその男の人の間で睨み合いがあったけれども、先に息をついたのは男の人の方だった。顔を顰める様子からも、かなり傷口が痛むらしい。
「……頼まれたんだよ。そのガキ攫って来いってな。知らない奴だった。攫ってダリンに連れて来たら報酬で五百万フォン払うって言われた」
「どこで」
「ブレロの酒場。因みに引き渡しはダリンの酒場。あーあ、せめてお前の噂を聞いてからにすれば良かった。後から聞いて嫌な予感はしてたんだよねー」
そこまで聞いたクラウはあっさりと背を向けて馬の方へと歩き出す。相変わらず横たわる男の人とクラウの二人を見ながらオロオロしていればクラウに名前を呼ばれた。
「行くぞ」
「行くぞって、おい、ここまで話しをさせておいてそれか?」
「俺は気が向いたらって言っただろ。お前が野たれ死んだって俺には痛くも痒くもない」
そのままどんどん馬の方へと歩いていくクラウに駆け寄ると、慌ててクラウのストールを引っ張った。勢いよく引っ張りすぎたのかクラウは一瞬上体が反り返る。そして振り返った時には、しっかりと睨みつけられた。その視線が少し怖い。
「お前……俺を殺す気か?」
「そんなことする気ない……」
いつもの口調で話そうとしてしまい、他人がいることに気付き言葉尻が萎む。けれども、改めてクラウを見上げた。
「助けてあげようよ」
「お前はバカだな? 何度も聞くが本気で大バカだな? どうしたら自分を攫おうとする人間を助けたりする。別に神なんて信じちゃいないが、何か悪さをしようとすればそれ相応の報いはある。あいつにとって、それが今ってだけの話しだ」
クラウが言いたいことは確かに分かる。けど、怪我している人を見捨てるような真似はしたくない。例え悪い人だったとしてもだ。
「お願い、クラウ!」
ストールを掴んだままの手に自然と力が篭る。見上げるクラウはどこか冷めた目をして小さく舌打ちすると、掴んでいた手を振り払って再び馬の方へと歩き出してしまう。
「クラウ!」
「叫ぶな、聞こえてる。少し黙ってろ」
強い口調で言い放たれて首を竦めれば、クラウは馬の首についてる束ねたロープを持ってくると再び戻ってきた。何を言う訳でもなく私の横を擦り抜けると男の前に立った。
「俺たちはこれからダリンへ向かう。従って近くの街にお前を連れて行ってやるなんて親切なことをするつもりはない。どうする?」
「俺は一応、言ってやったんだがなー。ダリンで引渡しを要求されてるって。知らねーぞ、何があっても」
どこか呆れたようなその声にクラウは唇の端を上げた。確かに元々善人顔ではないと思うけど、こういう時のクラウの顔はちょっと凶悪だ。
「望むところだ。俺としては意図も知りたい所だしな。お前を餌にするのもいいだろう」
「おいおい、冗談だろ。そんなことされたら俺、マジで殺されるだろ」
「知ったことじゃない。さぁ、どうする? ここで野たれ死ぬか、ダリンに運ばれるか」
「お前、それ、聞きようによっては一択しかないような気がするけど、気のせいかな〜。因みにそのロープが何に使われるのか気になる所なんだけどな〜」
「勿論、お前を縛る。一緒に行動してて背後から刺されたらシャレになんねーし。死んだら投げ捨ててやる。勿論、ロープを解いて捨てるくらいの慈悲はある。有り難く思え」
ロープで縛る? 怪我人を? 信じられない言葉を聞いたような気がするけど、言ってるクラウは至って本気らしい。
「クラウ! そんなことしたら本当に死んじゃうよ!」
「だから、何度も言ってるだろ。俺はこいつが生きようが死のうが興味ねーって。お前がギャーギャーうるせーからそういう選択を増やしてやったんだろ」
「だからってありえないでしょ、常識的に考えて」
「お前の使えない常識で物言われてもなそれこそありえねーだろ。第一、お前攫うのが目的だったら、邪魔な俺を殺すのが一番てっとり早い。こいつを自由にしておいて殺されたんじゃそれこそシャレになんねーだろ」
確かにそう言われると信用するには危険な人なんだと分かる。でも、怪我人だと思えば縛るのもどうかと思う。だからといって名案がある訳でもないし口を噤むしかない。
何も言えなくなった私にそれ以上何を言うつもりはないらしく、クラウはロープを持ったまま男に近付くと一定の距離で止まる。
「両手を地面につけ。手は握るなよ。そうだ、そのまま動くなよ」
仰向けに転がる男の人はどこか諦めたように小さく溜息をつくと、こちらを見て苦笑した。そのまま動くつもりはないのかゆっくりと目を閉じた。
クラウは男の人に近付くと、手早く両手を纏め上げてしまう。それから足元へ回り両足首を纏め上げると、最後に肘の高さで身体全体にロープを巻きつけた。
「お前の名前は? ダリンの人間なのは分かってる。ダリンの騎士団に問い合わせるから偽名は無しだぜ」
「騎士団!? ちょっと待て。本名言うから騎士団に突き出すのだけはマジで勘弁してくれ。ロゲール、ロゲール・アイスラーだ。騎士団はマジでヤバいんだよ〜。なら、有益な情報を一つ提供するから妥協しないか? 少なくとも、有益な情報だと思うんだけど」
「……言ってみろ。使えねー情報やガセだったらこの場に置いていくからな」
「酷すぎる……まぁ、いいか。どうも、ガキの誘拐は俺以外にも何人か手分けして頼まれてるらしい。で、必ず確認しろって言われたのが、ガキが女かどうか」
これはどいうことだろう。鵜呑みにすることは出来ないけど、どうやら本当に自分が狙われているような気がしないでもない。
「既に攫われたガキはいるのか?」
「いるらしい。まぁ、どのガキも目的のガキじゃないらしく、今頃どこかに討ち捨てられてるだろけどな。因みにこのガキは女か?」
「男だ。見りゃ分かるだろ」
「あーあ、無駄骨だったか〜」
悪びれた様子もなくロゲールは言うと目の合った私にウィンクなんてしてくる。おちゃらけ具合から一体何を考えてるんだか分からない。ただ、最初に見た時よりも人当たりの良さそうなヘラリとした笑みを浮かべている所を見ていると、クラウとは対照的だ。
不機嫌そうな顔をしたクラウはロゲールを肩に担ぎ上げると、馬の上へとロゲールを投げるように乗せる。さすがに傷が痛むのかその時ばかりはヘラリとした笑顔は消えたけど、何が楽しいのかその顔から笑みが消えることは無い。
「シェス」
呼ばれてクラウの元へ歩いていけば、クラウは屈み込んだかと思えば脇の下へ手を入れると軽々と私を担ぎ上げる。前回あれだけ文句言ったにも関わらず気にした様子も見せないクラウに、文句一つ言う気にならない。いや、この場合はクラウの不機嫌さからも文句を言えば何を言われるか分からないという回避行動の一つかもしれない。
馬の背に、縄で縛られたロゲールの後ろには私とクラウの荷物があって、その後ろに私が座る。そしてクラウは何も言わずに手綱を掴むと歩き出した。
「クラウ、僕、降りる」
「いいから黙って乗ってろ。お前の足の長さでトロトロ歩かれてもこっちが面倒だ」
相変わらず口が悪い。でも、その言葉の裏には気遣われていることが分かる。分かるだけに口を噤むと、のんびりと流れる景色へと視線を向けた。
「君の名前、聞いてもいい?」
唐突な言葉に視線を向ければ、まるで荷物のように乗せられているロゲールが笑顔でこちらを見ている。ただ、上半身を少し上げたその姿は笑顔とは反してかなりきつそうだ。そしてその顔にはかなり派手な傷が幾つかあって、浮かべる笑顔とのずれが少しだけおかしい。答えようと口を開きかけた所で、冷たい口調が間に割り込む。
「答える必要ねー。つか、むやみやたらに人に答えるんな」
クラウの声に開きかけた口を閉ざせば、大げさとも言える声でロゲールが「え〜」などと言っている。不服そうな声ではあるけど、表情はそれを裏切っている。相変わらず人好きのする笑顔を浮かべるロゲールにどういう顔をしていいのかも分からず景色へと視線を逸らす。
名前を聞かれても安易に答えるな、その言葉はクラウの家に行ってから幾度となく言われてきた。既に耳にタコが出来そうなくらい聞いていた筈なのに、答えそうになった自分が不甲斐ない。それでも、本名を漏らす危険性は分かっているから本名を言ったことは一度たりともないけれど、クラウにしてみれば偽名を口にするのも不服らしい。
勿論、偽名と言えどもそれなりの危険があるのは分かっているから気をつけてはいるつもりだけど、ついロゲールの笑顔を見ていたらあっさりと答えそうになった自分がいる。
「だからお前はバカだって言ってるんだ」
人間反省している時に畳み込まれると、ムッとしたりカチンとしたりするもんだったりする。そして、やり返されるが分かっていながらも反論したくなるのが人間ってものだ。間違いなく、他人から見れば逆ギレ以外の何者でもない。
「バカバカ言わなくても分かってる。でも、言い方ってものがあるでしょ!」
「遠回しに言ってもバカはバカだろ。他にどう言えと」
分かってる、口でクラウに敵う訳がないことなんて数年過ごしてきて分かってる。でも、丸め込まれるのは腹が立つし、言い返せない自分の語群の無さにも腹が立つ。
「バカって言う方がバカなんだからね!」
「ほー、そんなこと誰が決めた? 誰だ? ほら、言って見ろ。つーか、ガキみたいな返しをするんな、バカ」
あー、もう、本当にムカつく! 一層のことシレッとした顔を蹴り飛ばしたい衝動にだって駆られる。勿論、そんなことはしない。だって、倍返しが怖いから……。
「まぁ、まぁ、そんないちゃいちゃしなくても〜」
途端にクラウの周りの空気がピリピリとしたものに変化した。何だかこの熱い砂漠の中だというのにクラウの方から冷気すら漂うような気がするのはその表情に他ならない。
「ロゲールとか言ったな。お前、随分元気そうじゃないか。どうせだから、縛られた状態でここに投げておいてやろうか?」
「それはご辞退致します。そんな怒らなくたっていいじゃないか、なぁ」
同意を求められても困る。元はと言えば不用意な質問を投げられたことが原因での口論だけにフォローできない。いや、この場合、クラウが怖すぎてフォローすらしたくない。
「だったら、お前はもう口を……そういえば、俺の噂を聞いたって言ってたな。ということは、こいつの名前だって今更聞く必要なんて無いだろ。一体どういうつもりだ?」
「別にコミュニケーションじゃないか〜。質問から入るのはお約束というか、ナンパの手口というか。ほら、これだけ可愛ければ男でもオッケー! 俺は小さくて可愛いものが大好きだからな。いやー、実は見た時から金よりもこの子が欲しい状態でさ〜」
「ほぉ〜、先までガキとか言ってなかったか?」
「……すみません、嘘をつきました。まぁ、正直、二人のことは遠目でしか見てなかったからなー。いや〜、後を追いかけてきたのはいいけど間違えてたらどうしようかと思ったよ、あはははは」
この好い加減さは真似たいものじゃないけど、ご立腹のクラウにここまでヘラヘラと答えられる神経は少し分けて欲しいかもしれない。クラウの機嫌が急降下してるのが分かるだけに、ヘラヘラ笑うロゲールに感心すればいいのか呆れたらいいのか分からない。
「一回死んでみるか?」
ロゲールからは見えないだろうけど、クラウはしっかりと剣に手を伸ばしていて戦闘準備オッケー状態になっている。さすがにこれ以上クラウを逆撫でするのは本当に辞めて欲しい。そんなことを念じていれば、ロゲールにも通じたのか、はたまた空気を読んだのか、ジョークで〜す。これ以降、黙りまーす。そう言ってロゲールは口を閉ざした。
良いんだか悪いんだか、よく分からないままに三人で砂漠を進む。日が傾き長い影を作る頃になると、急激に温度が下がってきて吹き抜ける風の冷たさが身に染みてくる。やっぱり建物がある街中で吹く風と、何もない場所で吹く風の感触は違うものに感じる。
疲れもあり口数も減り、夕暮れを通り越えて月光で影ができる頃に、ようやく岩場で休憩を取ることになった。岩場の影に馬を繋ぐと、馬に積んできた薪でクラウは火を起こしている。そして、そんなクラウを眺めながら私は岩場に寄り掛かりながら座り込んでいた。慣れない馬に乗ってきたせいか、お尻やら腰やら身体のあちこちが痛い。そして、荷物のように乗せられていたロゲールは、クラウによって馬の上から有無を言わさず投げ出されている。勿論、ロープを解くこともない。
「シェス、鞄から薬草とって擦っておけ。死なれても面倒だしな」
「おぉ、さすがクラウディオ様」
途端にクラウがロゲールを睨みつけるけど、ロゲールの方はどこ吹く風という感じでヘラヘラと笑っている。小さく溜息をつくと馬の背からクラウの鞄を持ってきて中から薬草とすり鉢を取り出す。最初こそ、一体すり鉢なんて何をするものかと思っていたけど、もう遣り方も覚えているし、その効き目も分かってる。
すり鉢で薬草をすり潰し、当て布に塗りつけたところでクラウがそれを手にしてロゲールの服を捲り上げる。それを見ているのは何だか気恥ずかしくて背を向けてしまう。そしてまた次の当て布を取り出すと、擦ったばかりの薬草を塗りつける。四枚、五枚とクラウの手に渡りそんなに必要なのかと振り返ろうとした所でクラウに「振り向くな」と言われて再び顔を正面へと向ける。
一体後ろで何が起きてるのか気にならない訳じゃなかったけど、もういらないとも言われないので再び当て布を取り出して薬草を塗りつける。
結局、当て布を八枚作った所でクラウに「もういい」と言われて薬草と当て布をしまう。最後に一枚だけ残してあった当て布ですり鉢を綺麗に拭くとクラウの鞄の中へとしまった。
「もういい?」
問い掛けにクラウが短く「あぁ」とだけ返事をしてきたので振り返れば、いつもと変わらない顔をしたクラウと、やっぱりヘラヘラと笑うロゲールがそこにいる。クラウの鞄を差し出せば、手を伸ばしてクラウは受け取り、その中から毛布と干し肉を取り出すと干し肉の一枚を自分の口の中に入れ、もう一枚をロゲールの口元へと運ぶ。
「シェスも食べておけ。今日はここで野宿だ。寒いなら毛布にくるまってろ」
頷きで返してから自分の鞄も馬の背から取ってくると、鞄の中から干し肉と毛布を取り出し早々に毛布に包まった。昼の暑さからは一転、座っている砂すらも徐々に冷たくなりマントを着ていてもかなり寒い。毛布に包まった状態で干し肉をもそもそ食べていると、早々に食べ終わったクラウは自分の毛布を転がっているロゲールの上に掛けた。
「優しいね〜。まぁ、何にせよ、クラウディオ一人の時じゃなくて良かったな」
そう言ってロゲールは私を見てから意味深に笑う。でも、その顔色は月光の下だからなのか幾分青白く見える。
「どういうこと?」
「シェスがいるからクラウディオも優しいって話しだな」
「お前、余計なことは言わなくていい」
「怒られちゃったよ、ははは」
それだけ言うとロゲールはゆっくりと目を閉じた。先の当て布の数といい、砂漠の中の移動といい、疲れと傷の調子がよくないのかもしれない。
「大丈夫?」
ロゲールへの問い掛けに答えたのはクラウの方だった。
「死なねーからほっといて寝かせておけ」
「でも、クラウはどうするの? 毛布……」
「俺は火の番。お前もとっとと寝ろ。明日も砂漠の中だ、ここできちんと寝ておかないと疲れが取れねーぞ。こういう旅に俺は慣れてる。だから早く寝ろ」
気にならない訳じゃないけど、それでもクラウに言われるまま横になると「お休みなさい」と挨拶をして目を閉じた。クラウからの返事は無かったけれども、すぐ隣にいるクラウが頭を二度軽く叩いてくれた。その普段とは違う優しさにホッとしながらも疲れからなのかすぐに眠りに落ちた。