後編
「今からなら追うこともできます。もしあなたが望むのなら」
里長の言葉に、ぼくは勢いよくふりかえった。里長はものかげから、船をもう一そう引きずってきたのだ。けれどもぼくは動けなかった。
「怖いのですか?」
「怖くなんて」
ぼくは口をつぐんだ。深く深呼吸すると、里長の細い目をじっと見つめた。
「記憶なんていらない、リオンさえいればいいよ。でも、どうしようもなくふるえて、動けないんだ。いったいなんなんだ、人間っていうのは?」
「これはわたくしの推測ですが、もしかしたらあなたも、『人わずらい』にかかっているのかもしれませんわ」
「ぼくが?」
「そうです。ですが、リオンさんとは違って、つらく、悲しい記憶が残っているのでしょう。あなたが夢を見なかったのは、たましいがその記憶を、無意識のうちに封印したからでしょう。あるいは――」
里長は言葉を切った。静かにため息をつくと、再びぼくに向かいあった。
「人間の世界に戻れば、一時的にですが、その記憶も戻るでしょう。つらい記憶があなたを襲うはずです。ですが、もしリオンさんを追わなければ、あなたはわたくしと同じ思いをするでしょう。ずっと後悔するはずですわ」
まぶたを閉じたリオンの顔が、ふっとよぎった。口づけの感触が、まだほおに残っている。里長はもう一度ぼくにたずねた。
「リオンさんを追いますか? それとも、この里で暮らしますか?」
今度はぼくは迷わなかった。船を川に浮かべると、それにゆっくりと乗りこんだ。船は静かに川をさかのぼり始めた。あたりの景色が、だんだんとぼやけていく。光に包まれ、なにも見えなくなった。
どこか遠くで、誰かの泣き声が聞こえる。すすり泣きのようだ。どこからだろう。それに、ぼくはいったいどこに立っているんだろうか。いや、立っているのか、座っているのか、わからない。声をあげようとしたけれども、声が出せない。まるでからだが自分のものじゃなくなったみたいだ。動けない。ああ、そうだ、ぼくは人形だったんだ。自分の意思では、動くことができない。怖いよ、動けないって、こんなに恐ろしいことだったんだ。
誰かの影が、ぼくを見おろしている。ああ、この光景は、前に何度も見たことがある。そう、ぼくはこの大きな影に、いつもひどい目にあわされてきたんだ。乱暴にたたきつけられて、手足をむちゃくちゃに動かされて。怖い。でも、目をつぶることはできない。ぼくは人形だから、まぶたはないんだ。怖い。怖い。怖い!
「大丈夫だよ。ロックは、わたしが守るから」
どこかで聞いた声がする。なんだろう、ずっと昔に聞いたことがある。ううん、違う、ぼくはこの声を知っている。
ぼくを見おろしていた影が、ぼくのとなりにいたなにかをつかんで、抱きしめた。そのとたん、目に光が戻ってきた。恐ろしかった影は、目がくらむほどにまぶしい笑顔に変わっていた。光とともに、ぼくの記憶も波が押し寄せるように戻ってきた。そうだ、あの笑っている人が、抱き寄せてほおずりしている人形は――
「リオン!」
聞きなれた自分の声が、くぐもって頭の中にひびいた。いったいどうして?
「わたしたちはもう、人形に戻ってしまったのよ。だから声は出せないわ。でも、声は出せなくても、話すことができるの」
「でも、どうして記憶を? 里の記憶は、全てなくしてしまったんじゃ」
「あなたが人間の世界に来たから、わたしは思い出すことができたの。だって、わたしたちのたましいは、つながっていたのだから。ロック、あなたとわたしは姉弟だったのよ。同じ職人が作った人形だったの。わたし、全て思い出したわ」
頭の中に、いくつもの思い出がよみがえってきた。ぼくとリオンは、同じ職人に作られ、一緒に売りに出された。けれども別々に買われて、別れたんだ。そしてぼくは、そのときの主にひどく扱われて、最後には忘れられた。離れていても、リオンはそれを知っていたんだ。だから、幸せだった主との生活を捨てて、ぼくのいる人形の里へやってきたんだ。ぼくのことを助けようとして。
少しの沈黙のあと、再びリオンの声が聞こえてきた。震えるような声だった。
「ごめんなさい、ロック、あなたの記憶も思い出したわ。あなたがどれだけつらい思いをしてきたのか、どれだけ苦しい思いをしてきたのか、わたし、ずっと忘れていた。それでも、あなたはわたしを追って、人間の世界に来てくれた。記憶が消えてしまうのに、わたしを追ってきてくれた」
「もちろんだよ、リオンはぼくの大切な家族なんだから!」
「家族……うん、家族だね。それに、わたしたちだけじゃない、ひかりさんも」
「ひかりさん?」
リオンにほおずりをしていた女の子が、ぼくのからだを持ち上げた。温かい手のひらにつらい記憶が消えていくような気がした。
「リオン、ごめんね。さびしい思いさせて。わたしもさびしかったの。お引越ししたときにあなたがいなくなって、どれだけ探したことか。また戻ってきてくれてよかった。それに、新しいお人形も見つかるなんて。きっとリオンの恋人なのね」
ぼくをじっと見つめる目も、それにまばたきするしぐさも、リオンにそっくりだった。きっとこの人ならぼくを、ぼくたちを大切に扱ってくれるだろう。だんだんとうすれていく記憶の中で、ぼくはリオンにつぶやいた。
「ありがとう、リオン。また会えるよね」
「ええ。また会えるわ。また二人で、新しい記憶を作っていきましょう」
幸せな気持ちで胸が満たされると、だんだんと目の前に幕がおりていった。ああ、まぶたを閉じるっていうのは、こういうことだったんだ。
「おやすみ、リオン。また明日」
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