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東部戦線の英雄という偶像……彼が比較的身近に接している相手ですら、ヴィクトル・ソレイユという男を偶像として拝するばかりで、成人している男ならば当たり前に持っているべきの私的な礼装を持ち合わせていないことに疑問さえ感じなかったのかとオーレリアは唇をへの字に曲げた。
ヴィクトル本人は質素でつましい生活を好むのかもしれないが、それでも場への敬意を示し、貴人たちと会話を弾ませるためにも彼自身のために用意された礼服は絶対に必要なものだとオーレリアは確信していた。
女性のドレスとは違い、男の礼服は地味で目立たないものだと思われがちだが、それはまったくの誤解だ。
襟の切り替えしの高い低い、ジャケットの襟の位置、ボタンの細工……どれも一つとして手抜かりなくしあがった服は着ている人間の魅力を語らずとも詳らかにしてくれるのだ。
今日は流石に時間がないため既製服を取り扱っている店に入るしかなかったが、オーレリアはちらりとヴィクトルの顔を見上げた。
「お前、顔はいいのだからもう少し気をつけなさい」
「……」
ヴィクトルは突然告げられた言葉にそれが純粋な褒め言葉なのか、彼女なりの罵声なのかの判断がつかず、沈黙していた。
「いらっしゃいませ、ロスタン様……失礼ですが、そのお連れの方は」
恭しく頭を下げてオーレリアへと挨拶をする店員はいかにも労働者風の服装のヴィクトルへと視線を向けると口籠ったような口調になった。
これが今のお前の服装への評価よ、とオーレリアはヴィクトルを一瞥してから店員へと視線を向けた。
「東部戦線の英雄、ヴィクトル・ソレイユ大佐よ。 目立つのを避けるため、このような服装をさせていたのだけれど……向かう場所には不似合いなの。 服を用意してちょうだい」
ヴィクトル・ソレイユと名前が出たことで店員はさっと顔色を変えて頭を下げると、すぐにヴィクトルの背丈などを聞き始めた。
一見すれば客の身分で態度を変えるように思われるが、これも店舗からすればブランドの品質を保つために必要な行為なのだ。 品の悪い客が自社の製品を愛用している、たったそれだけのことでその店の製品すべてが売れなくなることが起こりえる。 ならばこそ、得体のしれない相手には商品は売れないと突っぱねるのは企業の体制として正しい、とオーレリアは思っていた。
だからこそ、単純に普段着のセンスがこのざまなのだとヴィクトルを紹介できなかった。
ヴィクトルの方は仕立て屋にくること自体珍しかったのか、いくらか戸惑ったように視線をさまよわせていた。
「こちらの生地はいかがでしょうか、普段使いもできるような丈夫な生地ですが」
「オペラに行く用のものと普段使いのものと二種類用意して。 オペラ用はここで着替えさせていくわ」