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ヴィクトルはコーヒーを飲み干すと空になったカップをテーブルの上へと置いた。
翌朝、ロスタン伯爵邸から出た馬車の中でオーレリアは背筋を伸ばして座っていた。
淡い緑のドレスに身を包んだ姿は未婚の令嬢らしい清楚さを保っていた。 花飾りのついた帽子を被り、手には革製のハンドバッグを持っていた。 昼歩きの令嬢としては相応の服装で馬車から降り、待ち合わせ場所として指定していた中央通りの噴水の前でオーレリアは表情を引きつらせていた。
どこで買ったか分からないこげ茶の地味なジャケットに普段使いのシャツ、サスペンダーで吊り下げたズボンに留めには何故かハンチング帽姿のヴィクトルの姿があった。
なんだあの格好。 日雇いの労働者か猟場で働いている下働きか。 今日は私に付き合えといっていたのだから、あの服装が私に相応しいと思ってるのかあの男は。
今すぐハンドバッグで殴ってやりたかったがひとまず深呼吸をはさんで自分を落ち着かせ、オーレリアは馬車から降りていった。
目立ちすぎないようにアルルに日傘を掲げさせて昼前の日差しを遮りながらオーレリアは近寄っていった。
「ああ、来たか」
「何が来たか、よ。 お前、その服装はなに」
「休日に軍服というのも落ち着きが悪いだろう。 私服で来ただけだが、おかしいか」
この男は正気なのだろうか? いや、本心では婚約破棄したいが平民である彼からは貴族の申し出が断りにくかった……いや、それはないな、とオーレリアは目を細めた。
この男に一般的なアウローラ王国民のような平民や貴族といった意識は微塵もない。
つまり、この男、東部戦線の英雄と呼ばれこの国の平民の憧憬を一身に集めている男は私服のセンスが労働者階級ということだ。
もとの出身が貧民窟であることを思えばそれでもきちんと清潔な服を着る、という意識があるだけ良心的だったかもしれないがオーレリアは心底溜め息をついた。
「まずは服屋に行くわよ」
「既製品のドレスも着るのか、意外だ」
「お前の服よ! そんな恰好でオペラに行けるわけないでしょう!」
きっと睨むように返すとヴィクトルは心外だとでもいうように眉根を寄せ、オーレリアに付き添う形で歩きながら仕立て屋の多い通りへと歩いていった。
「あらかじめ言ってくれていれば礼服で来た」
「お前には軍服以外の選択肢はないの? 私的なパーティに呼ばれたりしたことは」
「ないな。 元々平民の俺にはそういったパーティの招待状はきた試しがない」
「それなら友人は? 結婚式にも軍の服装でいくの?」
「そうだな、軍人としての身分証明にもなる……何より、平民の知人たちからはあの服装の方が喜ばれる」