第二部 輝石姫と永遠の美
子供のころ、私の生活は今よりずっと単純だった。
職人横丁の奥まったところにある川沿いの皮なめしの工房。 そこからあふれるいろんな悪臭に包まれながら私は育った。
皮なめしの工房はとにかく臭い。 獣のはいだ皮があるのだから当然のように生臭いし、皮を柔らかくするのに犬やハトの糞を使うからアンモニア臭だって半端じゃない。
可愛らしいものといえば生前母が作ってくれた毛糸の小さな人形がひとつきり。 それだってもう糸が朽ちていつ壊れてもおかしくないような代物だった。
父は昔は腕の良い職人だったと聞いたけれどそれも母が亡くなってからは変わってしまった。 毎日日雇いで少し働いてはお酒を浴びるように飲んで寝る。 私に振り向いてくれることはなくて、パンと水だけで毎日過ごしていた。
そんなある日だった。 工房のある横丁を妙に身なりのいい男が訪れた。
男は父と話をして、金貨が入った袋を手渡していた。
そして、その夜、父は私に言った。
「お前の母さんは貴族の傍流の娘だった。 いま、本家じゃ子供が生まれねえってんで跡継ぎになるガキがほしいんだとよ」
私は背中の辺りに冷たいものを流し込まれたように身を強張らせて話を聞いていた。 固くなった黒パンを手にしたまま話を聞く私に、父は目も合わせず言い切った。
「金は受け取った。 来週にはお前はお貴族さまの仲間入りだ」
私は父に売られたんだ。 そんな思いで手は震えているのに声も涙もでなかった。
結局、その後父は何も言わずに寝室に行ってしまった。
その夜、ベッドに入った途端に私はなんだか目頭が熱くなってきて、涙が止まらなくなった。 酒におぼれていようと、ほとんど会話がなかろうと、今までずっと一緒に生活してきた父さんが私を売ったんだ。 そう思うだけで涙はとまらなくて、私は薄い毛布を体に巻き付けたまま泣きつかれて眠るまで泣き続けた。
この日から、父は朝早くに家を出てきて、夜遅くに家に帰るようになった。 私は遊びに行くような気持にもなれなくて塞いだ気持ちでただ部屋にこもり、毛布にくるまって、時間が過ぎるのも食事を食べるのも忘れていた。
夕飯の時だけは父が呼びにくるから食べていたけれど、ほとんど何も味がせず、父の方を見ることもできずにいた。
そんな風にして一週間はあっという間に過ぎた。
職人横丁から離れた大通りに場違いな馬車が止まっていた。 大きな白い箱型の馬車で扉には家紋らしいレリーフが描かれている。
隣にたつ黒いスーツを着た男は使用人なのだろうが、父はその相手にぺこぺことしきりに頭を下げていた。
私は父に売られて、いまからこの馬車の家に行くんだ。 口の中に砂が入ったような違和感を噛み締めながら私はじっと地面を見つめていた。
ぎゅっと手を握り締めていると父が私の肩を叩いた。