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だが、王女の言葉と振る舞いを許さないものがここにはいた。
怒りは既に通り越えていた。 炎は逆に熱と感じさせぬまでになり、触れれば消し炭に変わる死の毒となっていた。
ヴィクトルは先ほどまでの憤怒を表情から消し去ると自らの腰にはいていた軍刀に手をかけた。 ベルトに吊るしていた剣の真鍮と革ひもで装飾された柄に手をやるとすらりとした剣を引き抜いてマルゴー王女を真っ直ぐに見据えた。
「よしなさい! ヴィクトル!」
止めようとするオーレリアの細い腕も国王の声ももはやヴィクトルの耳には入っていなかった。 目の前で青ざめた表情を歪め背後へと尻もちをついたマルゴー王女を見下ろしながら剣を手にしたヴィクトルは一歩踏み出した。 手に握る剣の刃先は天井のシャンデリアの照明を受けて冴え冴えと輝いていた。
「他人の命をなんだと思っている」
どこまでも冷たい鉄のような声が響く。 許せない、見過ごせない、放置しておくことができない。 他人を踏みにじって平然と居直れる人間がいることが看過できない。
単純に自分が一番でないから。 自分よりも注目を集めるから。 そんな理由だけで人を殺そうとする人間がいる。 それがヴィクトルにとってこの世に存在することを見過ごしておけないほどの悪だと感じられた。
「や、やめて……」
マルゴー王女はか細い声をあげて後ずさりをした。 もはや居直ることもできない。 今から振り下ろされる剣さえ止められるならなんでもするとばかりにマルゴー王女は引きつった声を上げていた。 両手は何かをまさぐるように背後の空間をかいていたが、そこには何もなかった。
そして、如何なる哀願をもってしてもヴィクトルを止められるはずなどなかった。
ヴィクトルを突き動かすのは純粋な怒りだ。
他人を踏みつけ、虐げる人間を許せないという思い。 今もなお、しっかりと彼の目には焼き付いている。 無念の中殺された子供の空虚な眼差しがはっきりと焼き付いている。 文字通り、死んでなお忘れることのできなかった強烈な、ヴィクトルの怒りの原風景。
悪は根から断ち切るしかない。 これは生かしておけばまた他者に苦しみを与え、命を踏みつけていくものだ。
だからここで殺そう。 悲しみを根から断ち切ろう。 もう二度と、誰も無意味に傷つけられ、虐げられることがないように、ここで殺そう。
その決意のもとに剣を振り下ろそうとしたヴィクトルの前に不意に黒い影が飛び出し、その剣をステッキが食い止めた。
樫の木でできたステッキは中に鉛でも入っているのかそのままヴィクトルの剣を食い止めた。