「お邪魔します」 僕side
頬から流れ落ちた汗が、また僕のシャツの襟を濡らした。
天気予報によると今の時間帯が今日の最高気温らしい。なにも下校時刻に合わせて暑くならなくてもいいと思う。
カバンを背負うと背中が蒸れて仕方がない。やむなく重たいカバンを右手にぶら下げている。
だけど、カバンに苦しめられる僕の隣で、夜野さんは涼しい顔をして歩いていた。
「……暑くないの?」
「暑いに決まってるじゃん」
「だ、だよね……ごめん」
よく見ればわずかにだけど、夜野さんの頬にも汗があった。汗をかきにくい体質なのかもしれない。
申し訳ないのとカバンが重たいのとで足が鈍くなる。隣を歩いていた夜野さんと少しずつ距離が空いていった。
「……本当に体力ないんだね。もうバテたんだ?」
僕にそう聞きつつも、夜野さんはどんどん歩いていく。
「い、いやっ、まだ大丈夫……」
「顔真っ赤にして、大丈夫には見えないけど?」
「そう思うなら、少しだけ止まってよ……」
言うと、夜野さんは本当に足を止めてくれた。
「あ、ありが──」
「はい到着」
「え?」
夜野さんは傍らに建つ木造建築を見上げた。それは二階建てのアパートみたいだった。
「ここが、夜野さん家……?」
「そ。佐倉荘」
そそくさと佐倉荘に入っていく彼女を追って、僕も中にお邪魔する。ようやく日光から逃げられるのが嬉しかった。
玄関には新しい緑色の絨毯が敷かれていた。夜野さんはそれを踏まないように遠回りして歩いた。
「……どうしたの?」
「なんでもない」
僕も倣うように絨毯を避けて通った。
夜野さんの部屋は二階らしかった。階段を登り、二○二号室の鍵を開ける。
「入りなよ」
「お、お邪魔します……」
友達の、ましてや女の子の部屋に入るなんて人生ではじめてだ。緊張しながら敷居を跨ぐ。
八畳くらいありそうな広い部屋を見回す。まず目に飛び込んできたのは、机の上に鎮座する巨大な蜘蛛だった。
「ヒイッ!?」
僕は思わず夜野さんの後ろに隠れてしまった。
「く、クモ!? クモがいます!!」
「……御手洗くん、蜘蛛苦手なんだ」
「クモというか、虫がダメなんです!」
というより、どうして夜野さんはそんなに落ち着いていられるんですか。そう言いたいけどパニックでうまく口が回らない。
しがみついた僕の手を払い、夜野さんはあろうことか蜘蛛を素手でわし掴んだ。
「夜野さん!?」
「よく見なよ。人形だから」
「にんぎょう……?」
慎重に近づいて確認する。太い茶色の足は妙にリアルだけど、ピクリとも動かない。本当にぬいぐるみみたいだった。
「触ってみる?」
「け、結構です……」
ぬいぐるみと分かっていても触るのは怖い。
夜野さんは蜘蛛のぬいぐるみを、なんの躊躇いもなくベッドの上に置いた。
「あの……聞いてもいい?」
「なに?」
僕はベッドと机から離れて、恐る恐る訊ねる。
「そのぬいぐるみは、夜野さんの趣味……?」
「そうだけど?」
あっさり答えられた。
「本当は本物飼いたいんだけど、佐倉荘はペット禁止だから」
ペット禁止じゃなかったら飼ってたかもしれない事実に戦慄する。
蜘蛛のぬいぐるみに気を取られて気づかなかったけど、部屋は虫に関するもので溢れ返っていた。カーテンは蝶模様だし、デジタル時計にはなぜかカブトムシみたいな角が生えている。一見普通に見えた本棚も、ほとんどが昆虫図鑑的なので埋まっていた。
「ま、座りなって。今お茶でも持ってくるから」
と部屋を出ていこうとする夜野さんを、僕は全力で引き止めた。
「待って! お気遣いなく! 僕すぐに帰るから!!」
「……あーそう?」
じゃあ、と夜野さんは部屋の隅にあった紙袋を机の上に置いた。中にはゴリラビの水筒がたくさん入っていた。
「これで全部。持ってっていいよ」
「ありがとう……じゃあ僕はこれで」
「本当にすぐ帰るんだ」
ベッドに腰を下ろした夜野さんが言う。
「少しくらいゆっくりしてけばいいのにさ」
「ごめんね……いつかお礼はするから」
そう言うと、ぷっと笑われた。
「ほんっと、律儀なやつ……そんなもん、昼のトマトで──」
不意に夜野さんが言葉を止めた。笑っていた顔が急激に険しくなる。
「……夜野さん?」
「静かにしろ」
睨まれて口を閉じる。耳を済ますと、誰かが階段を上ってくる足音が聞こえた。
「アオちゃーん? 帰ってるのー!?」
聞こえてきた女性の声に夜野さんが舌打ちした。
なんだか雰囲気がすごく怖い。今の夜野さんを見ていると、不良の方々と対峙したあの日を思い出す。
足音が近づいてくる。それにつれて彼女の殺気がより際立ったものになっていく。
ドアノブが回って、扉が開いた。
「おかえりアオちゃ──」
現れた金髪の女性の顔面に、蜘蛛のぬいぐるみが直撃する。
「ふぇっ」
と倒れる女性。両手ほどの大きさがある蜘蛛のぬいぐるみは跳ね返って、僕へ飛びかかってきた。
「ひゃうっ!?」
もつれる両足。たぶん僕は転けたんだと思う。気づいたら仰向けに倒れていて、目を開くと天井の代わりに茶色いものが視界を覆っていた。
それが蜘蛛のお腹だと分かったとき、僕は盛大に悲鳴を上げていた。