とある夫婦が不幸になる話
これは俺の兄と幼馴染みの話である。
最初に書いておくが、この話はハッピーエンドではない。幼馴染みは死に兄は姿を消した。誰も幸せにならない不幸な話だ。
本当はこんな話をするべきではないのだろう。しかし、俺は彼らのことを知ってほしいのだ。少しでも多くの人の記憶に残したい。それゆえこうして文字に起こそうと思う。
俺には兄と二人の幼馴染みがいる。兄は三つ年上で幼馴染みは同い年と一つ下。二人とも女で物心つく前からずっと一緒だった。 幼馴染み二人の家は隣同士に建っており俺の家は道を挟んだ真向かいに建っていた。
本名で書くわけにもいかないので仮の名前をつけるとしよう。俺たちに付けられたあだ名なので読む人が読めば分かってしまうだろうが問題ない。
兄は『月』。同じ年の幼馴染みは『冬』。一つ下の幼馴染みは『花』。
本名とは掠りもせず統一感も無いそのあだ名を付けたのは冬の父である。彼が一体何を思ってそのあだ名を付けたのかは知らない。知らないが便利なのでここで使用させてもらおうと思う。
さて、それでは話を始めよう。始まりは俺と冬が四歳の時まで遡る。
兄が冬に告白した。
いつからか兄は冬が好きだったのだ。
本人は隠す気も無かったようで俺と花のいる目の前での堂々とした告白であった。まだ幼稚園に通っているような年齢の子どもなら分かる。「○○ちゃん好き!大人になったら結婚しようね!」を他人の前で軽く言っても許される年齢だ。一週間で忘れても許される。そんな年頃なのだ。
しかし、その時の兄は七歳だった。小学二年生だ。俺と冬、それから花は正真正銘の幼稚園児だったが兄は小学生だった。流石に軽く言うのは憚られる年齢である。実際、彼は真剣だった。
「大人になったら結婚して」
そう言った兄に冬は幼稚園児特有の気軽さで了承した。
それからというもの兄は冬のストーカーに成り下がった。ことあるごとに結婚の約束を引き合いに出し冬を拘束した。結婚の約束をしたから常に一緒にいる。結婚の約束をしたから冬に抱き付いても許されるし結婚の約束をしたから冬のファーストキスを奪うのも許されると主張した。
見ていて可哀想なくらい付きまとわれていた。冬はいつも困ったように笑っていた。約束した手前、嫌と言うことも出来ないように見えた。俺と花で冬を庇うこともあったが「結婚の約束をしたから」と言われたら引き下がるしかなかった。中途半端に一緒にいたものだから俺と花はそれが嘘だとイチャモンをつけて兄から冬を引き離すことも出来なかった。冬は何も言わなかった。
そうして俺たちは小学生になり、さらに中学生になった。
兄は高校生になっていたが相変わらず冬に付きまとっていた。十年近く続いたストーカー行為に冬は慣れきっていたし俺と花もそれが普通のことのように感じていた。冬の父親が何故か兄を応援していたことも関係しているのかもしれない。ちなみに冬には母親がいない。離婚ではなく死別だ。冬が二歳の時に亡くなったらしい。理由は知らない。
その頃になると兄は冬のことを友人たちに彼女と言っていたようだった。冬は一度も肯定しなかったが否定もしなかった。
冬は全ての人に優しかった。だから兄にも優しかった。
俺はひょっとして冬も兄のことが好きなんじゃないかと思っていたが花がそれを全力で否定した。女同士で色々と話していたのかもしれないと俺は思った。実際には冬は花に何も言っていなかったのだけれど。
事件が起こったのは俺が中学二年の頃であった。
その日も冬はいつもどおり兄に付きまとわれていた。それは冬にとっていつものことであった。だから冬はいつもどおり兄を部屋に招き入れた。いつもなら花が一緒だが、その日はいなかった。そしてたまたま冬の父親が泊まり掛けの出張に出ていた。
その日、冬は兄と二人きりだった。
帰宅すると兄が母に叱られていた。無断外泊してとか連絡が全くつかなくて心配したと母が言っていた。
ギャンギャン喚く母を父が呆れた顔で見ていた。男なんだからそういうこともある。なんて呑気なことを言って母の怒りに油をそそいでいた。
「どこに泊まってたんだ?」
困ったように父が言った。
兄はしばらく無言を貫いていたけれど、母が再びギャンギャンと喚き始めると、「冬のとこ」とポツリと呟いた。
瞬間、家の空気が凍った。
母は冬の父親本人から泊まりがけの出張に出ると聞いていた。兄が冬のストーカーをしているのは家族どころかご近所の皆様まで知っていた。両親はその行為をよく思っておらず、冬や冬の父親と顔を合わせるたびに謝罪していた。一時は引っ越そうかという話が出たくらいである。しかし、冬の父親が何故か兄の恋を応援しており、引っ越したら寂しくなると言って本当に悲しそうな顔をしたため引っ越しは取り止めた。冬の意見は聞いていない。聞いても彼女は曖昧に笑うだけだろう。そういえば当時の俺は冬が怒ったり泣いたりするところを見たことがなかった。驚いたり照れたりすることも無かった。
冬はいつも静かに笑っていた。
話を戻そう。兄は冬のストーカーだった。そんな兄が冬の家に泊まった。しかも冬の父親がいない夜に。
兄は黙っていた。両親も黙りこんだ。俺は部屋の隅でその様子を見ていた。
当時、曖昧ながらもそういう知識のあった俺は、冬は兄ちゃんにヤられちゃったんだろうな。と思っていた。
兄は気まずそうにしていた。両親はついに息子が犯罪者になったというように顔面を蒼白にしていた。俺は冬の気持ちが全く分からなかったので何も言わなかった。だって彼女はいつも優しく微笑むだけで肯定も否定もしない。兄のしていることが迷惑なのかそうでないのか俺には分からなかった。
「二人で何してたんだ?」
父が少し怖い声でそう言った。
「別に何も……」
「何もってことは無いだろう?何をしてたんだ?」
兄の声を遮って父が言う。さっきよりも語彙が強かった。
「何もしてない。二人で話をしたり一緒に寝ただけ」
兄は言いにくそうにそう言ったけれど、それがまた空気を凍らせる一言になった。
「一緒に寝たって……」
「本当に寝ただけだよ!何もしてない!」
母の言葉を遮って兄が主張した。両親はその言葉を聞いて二人でゴニョゴニョと何か話し合っていた。そうしてしばらくすると兄を引きずるようにして冬の家へ向かった。俺も後ろから着いていった。
チャイムを押すと冬が出てきた。
「いらっしゃい。みんなでどうしたの?」
冬はいつもどおりだった。ひょっとしたら初めてじゃなかったのかも知れないと俺は思った。
「あのね、冬ちゃんに聞きたいことがあって」
母が非常に言いづらそうに切り出した。冬は不思議そうに首をかしげて俺たちを家の中に招き入れた。
リビングに通された両親は兄を真ん中にしてソファに座った。彼らの正面には冬の父親が座っている。台所で冬がお茶を淹れていた。俺はダイニングで冬が出してくれたお菓子を食べた。ちなみにこの家のダイニングはリビングと繋がっているため、声は丸聞こえだし姿も丸見えである。向こうからも俺の姿は丸見えなのだけれど。
「今日は大事な話があって来たんです」
「急にかしこまってどうしたんだい?」
父の言葉に冬の父親は不思議そうにそう言った。何も知らないのだろう。父は冬の父親の様子にひどくつらそうな顔をした。
「月が昨日の夜こちらに泊まったらしいんです」
父がそう言った次の瞬間。
「っ?!」
冬が持っていたお盆を落とした。
全員が冬に注目した。小さく謝罪する彼女の顔は赤い。いつもの笑顔は消え困ったように視線をさ迷わせている。目に見えて狼狽えていた。俺は、冬は笑顔以外の表情もできるのかと感心した。
狼狽える冬にたいして冬の父親は落ち着いたものだった。
「そうだったんだ。ごめんね月くん。大変だったろう?」
そう言って兄に声をかける冬の父親はいつもと全く変わらない。娘が男と一晩過ごしたというのにだ。
「大変では無かったですよ。冬可愛かったなぁ」
そう言いながら兄は思い出したのか嬉しそうに笑っていた。両親は話についていけないようだった。俺もついていけていない。
「つ、月くんちょっと来て」
そんな中、冬がそう言って兄を呼んだ。兄は軽く返事をして立ち上がる。冬の元へ行こうとする足は母によって止められた。
「待ってちょうだい。ちょっと聞きたいことがあるわ」
そう言って母は兄を再びソファに座らせた。
「聞きたいこと?」
冬の父親が不思議そうに首をかしげる。母はそれに頷くと冬も呼び寄せた。冬は彼女の父親の隣に座らせた。
「月が昨日泊まったのは本当?」
母の問いに冬はこくりと頷いた。母は続けて、二人で何をしてたの?と冬に問う。冬は真っ赤になって俯いた。俺は冬が笑顔以外の表情を浮かべることが不思議だった。
「あの……えっと……わ、私が月くんに我が儘言ったから月くんが泊まってくれて……だからその……」
混乱していたのだろう。冬は母の質問とは少し違うことを答えた。
「冬ちゃんが月に我が儘?」
想像がつかなかったのだろう。母は独り言のように呟いた。
「冬は甘えん坊だからね。月くんにはいつも助けられてるよ」
母の疑問に答えたのは冬の父親だったが、それは更なる疑問を呼ぶこととなった。俺と両親には冬が我が儘を言ったり人に甘えるところが想像できなかった。だって冬は怒ったり泣いたりしない。暴れたり人を困らせるようなことだってしない。彼女はいつだって全てに優しいのだ。
それでも子どもなのだから父親くらいには甘えるのかもしれない。我が儘だって言うだろう。だけどそれがストーカー行為を繰り返す兄に向くとは思えなかった。
両親も同じことを思ったらしい。父と母は冬と冬の父親に山ほどの疑問を投げつけた。冬の父親はその質問全てに答えていった。
そうして判明したのは冬の父親が兄の恋を応援していた理由であった。
冬は外では完璧に仮面を被っていた。いつも笑顔で全ての人に優しい。それは親戚から言われた「片親だから子どもがちゃんと育てられない」という言葉が起因している。冬の親戚たちは冬に少しでも悪いところがあると父親のせいだと言った。父親は気にしていないようだったが、冬にはそれが我慢なら無かった。自分が完璧に振る舞えば父親が悪く言われることはない。だから冬は仮面を被った。
しかし、それも外にいた時の話である。冬は父親にたいしても聞き分けのいい優しい子どもだったが、時々壊れたように癇癪を起こすことがあった。それはやはり、母親がいないことも原因であったのだろうし常に被っていた仮面のせいでもあったのだろう。父親は冬を愛していたけれど、それでも子どもには足りなかったのだ。冬には無尽蔵の愛をくれる人が必要だった。
そこで登場するのが兄である。
兄は冬が好きだった。常に付きまとい冬のことを知りたがった。冬にはそれが更なるストレスとなった。限界はすぐに訪れた。
ある日、冬は兄に酷い言葉をたくさん投げつけた。怒って叩いて二度と近づくなと喚き散らした。なのに兄は全く動じなかった。それどころか「怒ってても冬は可愛い」と言い放ったらしい。
それを聞いた冬は衝撃を受けた。全ての人に優しく常に笑顔でいなければならなかった。そうしなければ世界中の人から父親が悪く言われると信じこんでいた。だけど兄は冬の父親を悪く言わなかった。それどころか冬のことも嫌いにならなかった。冬は兄の前なら常に笑顔でいる必要は無いのではないかと思った。
そうして少しずつ冬は兄にも我が儘を言うようになった。兄はその全てに応えた。冬に愛を与えてデロデロに甘やかした。
「おかげで冬の癇癪が減ったよ」
そう言った冬の父親の横で冬は真っ赤になって俯いていた。先程から微動だにしていない。俺と両親はアホみたいにぽかんと口を開けていた。
「え?じゃあ昨日は……?」
「冬が帰らないでって言うから泊まっていった」
母の疑問に兄がムスッとした顔で応えた。彼からすれば自分と冬の秘密を暴かれたようで気分が悪かったのだろう。
「冬ちゃんに何かしたりとか……」
「何もしてない」
本当に睡眠を取っただけらしい。その後、兄は「結婚するまでしない」と俺たちの前で言い放った。それが本当になったかどうかを俺は知らない。
さて、ここまで読んだ方は「これのどこが不幸な話なの?」と思うことだろう。確かにここまでは多少粘着質だが愛情溢れる少年と優しい少女の恋の話である。彼らに不幸が訪れたのはそれからさらに十年後のこと。結婚してから一年も経っていない時期の頃だった。
幸せの絶頂にあった兄は気にも留めていなかったことだが、とある女が兄に目を付けた。女は他人のものを奪うのが好きだという歪な性癖を抱えていた。新品ではなく人の使ったものがいいなんて不思議なことだが一定数いるらしい。他人のものというのは他人の男にも置き換えられた。
もちろん兄は応じるわけがなかった。兄は冬を一目見たその瞬間から二十年以上途切れることなく愛し続けていた。その愛は海よりも深く山より高い。兄が冬を裏切ることなど有り得ない。
それゆえ女は搦め手をとった。兄を手元に落とすには冬を離れさせれば良いと。
その頃、冬は妊娠していた。身重の体で病院に通い母親になるための勉強に励んでいた。守ってもらうだけでなく守る存在にならねばならないと奮起していた。
しかし、子どもというのはすぐに死ぬ生き物だ。冬がどれだけ頑張ろうともどうしようもないことはある。
子どもは死産だった。
冬の落ち込みようは酷かった。冬の顔から笑顔が消えてしまった。落ち込む冬を兄は甲斐甲斐しく世話した。
そのタイミングで女が仕掛けた。
これは冬が死んだ後に判明したことだが、女は冬に何度か手紙を送っていた。封筒の中には数枚の写真と手紙。写真に写っていたのは誰がどう見ても女と浮気する兄の姿。手紙には兄が女をどのように愛したかといった内容の妄想が綴られていた。もちろん写真は合成だし手紙の内容も全部嘘だ。兄が冬を裏切るわけがない。
いつもなら冬も冷静に判断することが出来ただろう。だけど彼女は子どもを失ったばかりだった。
兄が冬の遺体を見つけたのは平日の夜のことだった。ソファに横たわる冬は息をしていなかった。慌てて救急車を呼ぶももはや手遅れ。冬はすでに事切れていた。
部屋の中には一通の手紙と空の瓶が残されていた。
手紙には謝罪の言葉がたくさん記されていた。
涙のあとがたくさん残った手紙は兄が持ち去ってしまった。手紙だけじゃない。兄は冬が大切にしていたものもそうじゃないものも全てを持ってどこかに消えた。
俺は冬が死んだ原因を調べる過程で女のその後を知った。女はどこかの金持ちと結婚したらしい。鼻持ちならない顔で笑っていた。俺はこいつこそ死ぬべきだろうと思った。頭のおかしい女に目をつけられて冬が死に兄が消えた。
こんなのおかしいじゃないか。兄も冬も何もしていないのに、どうして不幸にならなくちゃいけなかったんだ。
兄の遺体は冬が死んだソファの上で見つかった。警察の言う死亡推定時刻は冬が死んだ日のちょうど一年後だった。
どうしてみんな私を残していってしまうのでしょう?私が完璧じゃないからでしょうか。私が完璧になれば月くんはずっと一緒にいてくれますか?それとももう駄目ですか?
それならもう我が儘も言いません。あなたを困らせることもしません。だから捨てないで。
ごめんなさい。自分勝手なことを書きました。月くんに見限られるのも仕方のないことです。私はあの人のように美人ではないし月くんを満足させてあげることもできません。私は月くんに守られてばかりで頼りきっていました。
私たちの赤ちゃんはそれが分かっていたのかもしれません。私がちゃんとしたお母さんになれないということを。私が完璧じゃないから生まれてきてくれなかったのでしょう。
ごめんなさい。私がこうだから月くんは嫌になったのでしょうね。だから他の人を好きになった。それは仕方のないことです。
私はいつ月くんに捨てられますか?
怖いのです。あなたが私のことをいらないと言い出すのが。いつまでも震えていなければならないのが怖くてたまらない。どこかに逃げ出してしまいたい。
ごめんなさい月くん。私は自分のことばかりで月くんに何も返してあげられない。それどころか月くんが建ててくれた大切なこの家で死のうとしています。
死ぬのは怖いです。だけど月くんにいらないと言われることの方が怖いのです。
だから言われる前にこの世界から旅立とうと思ったのです。
月くん ごめんなさい。最後はここで死にたい。月くんと私だけのこの家がいいと思ったのです。
嘘です。本当は死にたくなんてありません。月くん助けて。私のこと捨てないで。お願いです。私が死ぬ前に見つけて。