2-2.その名はレディ・クロウ
コンビニの自動ドアが開くと、外の熱気が全身を包み込んだ。汗がにじむが、今日はそんな事で気持ちが萎えたりはしない。
連日の長く難解な抗議の日々を終えて、久しぶりに来た休日だった。大の友人達は金を貯めてそれこそ遊びに行ったり、恋人といちゃついたり、思い思いの休日を過ごしている事だろうが、大はアルバイトに精を出す日々だ。今日は給料日、大も欲しいものは本に靴に服、色々あるが今回はそう簡単に使う訳にはいかなかった。
「綾さんにあげたら喜ぶものって何かな……」
綾に想いを告げ、関係が始まってからというもの、毎日がわくわくと浮き立つものになっていた。ちょっとした事でもひどく楽しく、今まで自分でも気にもしていなかった、心の中の重石が取れたような気分だ。
綾が自分の気持ちを認めてくれたわけではない。だが今はそれで良かった。どれだけ時間がかかっても、自分の気持ちに嘘はないと伝えたい。伝えた気持ち綾にも受け取ってもらいたい。今考えているのはそれだけだ。
給料でプレゼントを買うか、それとも食事に誘うか。お情けではなく、綾に振り向いてもらうために何をするか、目の前の諭吉が見せるのは無限の可能性だ。
「ちょっとちょっとー、今すごい怪しい顔してるよ!」
背後から声がしたと同時に、背中をハリセンではたいたような美しい音がした。
「っ痛!なにするんだよ、凜!」
「アハハッ」
背中をさすりながら、後ろからの声に大は振り向いた。いたのは予想通り、支倉凜が立っていた。赤毛の短髪にすらりと伸びた長い手足、スポーティな印象を与える体ののバランスが美しい。大が通う大学の同じ学科生で、今日は同じアルバイト先のコンビニで働いていた。
「バイトも終わったしさァ、どっかご飯でも食べに行こうよォ。せっかくお金入ったし、どうせ暇でしょ?
「いきなりだな。まあ暇なのは事実だけどさ」
「綾さんにこないだの事件の事を引きずってないか、気にしておいてほしいって言われたからさ。優しい友達に感謝しなよ?」
「そういう事は言わずにおくもんだよ……」
近くの銀行で金を下ろし、ファミレスで昼食を取る事にした。窓際の席で、ちょうど頂点に登った太陽の光がアスファルトを焼いているが、店内は冷房が効いて寒いくらいだ。
凜は中学生の頃からの知り合いで、お互い気心の知れた仲だ。さっぱりした性格のおかげで、時々彼女が女なのか男なのか分からなくなる。もちろん、本人の前では口にしないが。
「こないだ映画見に行ってさ。知ってる?『エイジ・オブ・ダークサイド』。バリー・ギャリックがかっこ良くって」
「ああ、もう見に行ったんだ?上映開始したの昨日だろ」
「思い立ったが吉日って言うでしょ?来週はサッカー見に行くの。キミも来る?フォーアロウのファンクラブに入りなよ。紹介したボクにもお金が入るし、割引も効いて一石二鳥だよ」
凜はあらゆる方向に活動的だ。サークル活動に買い物、友人との遊び歩きにスポーツ鑑賞。大も何度か参加したことがあるが、自宅でのんびりというのは苦手なタイプらしい。つい数か月までそこにいたのだからある意味当然だが、やってる事はそこらの女子高生と変わらない。ついでにやたらとまくし立てて喋るせいで、会話をするのも一苦労だ。
食事をしていると、凜との会話は自然とこの間の事件についてになった。
「でさァ、こないだの強盗、目の前で見たんでしょ?どうだった?」
「どうだったも何も、怖くてあんまり覚えてないよ」
「そりゃあ銃つきつけられちゃねー。日本もどんどん治安が悪くなっちゃってるね。今こそヒーローが必要な時代だよ」
凜が神妙な顔で頷く。ミカヅチとなってぶん殴った瞬間はよく覚えているが、それを言い出すのはさすがに無理があった。
「ティターニアが10年ぶりに現れて、強盗みんなやっつけちゃったって話じゃない?もしそんなパワーがあったらさ、大ならどうしてた?」
「どうしてたって?」
「みんなまとめてぶちのめしてたか、って事」
大は目の前のカレーを食べる手を止めて、少し考えた。凜は知らない事だが、力は手に入れている。だが先ほどと同じだ。これを語ってもしかたない。
「手に入れてみなきゃ分かんないな」
「もし手に入れる事ができたら、大なら何に使う?」
「少なくとも強盗や犯罪には使わないよ」
「まあねェ。大って小心者だしね」
「どういう意味だよ」
「別に悪い意味じゃないよ。我がまま好き放題にできない、優しいタイプって事」
凜がくすくすと笑うのを、大は複雑な心持ちで聞いていた。友人同士ならよくある、なんて事のない雑談だが、大にとっては大事な事でもあった。力をどう使うか、これは超人にとっては一番重要な事だ。
そう簡単に答えの出ない問題を頭の隅に抱えつつ、大は箸を進めた。
二人は食事を終えて外に出た。駐輪場の自転車を取り出しながら、
「この後どうすんの?」
「今日はやけに突っかかるな。心配しなくても俺は大丈夫だよ。事件の事は引きずってない」
「そうじゃなくて、ちょっとお願いがあってさ……」
凜が頼みを話そうとした時に、突然背後から突然の悲鳴が二人の間を通り抜けていった。
「誰か!その人を捕まえて!」
向かいの歩道で尻餅をついた中年女性が、必死に引き止めるように虚空に手を伸ばしている。伸ばした手の先には高価そうなバッグを握り締め、マスクをした男が駅の裏通りへと走っていく。
「ひったくり?こんな大通りで普通やる!?」
凜が毒づきながら走り出そうとするが、目の前の道路は車がせわしなく通り過ぎ、渡るに渡れない。
「あーもう、まどろっこしい!ふっ飛ばしてやろうかな!」
「どうやるんだよ。どっかのヒーローじゃないんだから」
凜の無茶苦茶な発言に思わず突っ込んでしまったが、大としてもこのまま見過ごすのも目覚めが悪いというものだ。
だが、救助する手段は何があるか。ミカヅチになれば、走り寄って殴り飛ばすのに3秒もかからない。だがそうすれば人前に姿を晒す事になり、凜にも色々騒がれる事だろう。何より綾に知られるのが一番恐ろしい。
(……そうだ)
いたずらを思いついた子供のように、ニヤリと笑う。男が曲がり角に到達するまであと数m、その前に男に向かって、大は叫んだ。
「おい!レディ・クロウが来たぞ!」
「え?」
凜が素っ頓狂な声をあげた。ひったくりも思わず大の方を向くが、それより逃げようと思ったか前を向く。
瞬間、青空の下に影が翻った。男の目の前に黒い法衣を身につけた魔女、レディ・クロウが舞い降りた。男の目の前に優雅に着地したと思ったその時、弾かれたように放たれた右ハイキックが、男の頬を蹴り上げた。
「ぎゃん!」
男が情けない声をあげながら、地面へと転がり、倒れ伏した。
「レディ・クロウ!」
「レディ・クロウだ!」
周囲にいた市民が口々に驚嘆の声をあげる。
レディ・クロウは数秒、男を蹴り飛ばした状態で動かず、法衣から覗く脚線美を周囲にあますところなく見せつけた後、くるりと回って法衣を翻した後、また宙へと飛び去っていった。
(やったぜ)
大は心の中でガッツポーズをとった。ひったくりを蹴り飛ばしたレディ・クロウが、実は大が作り上げた幻影だと気付いた者は誰もいない。建物の角を曲がったところで幻は消え、後は姿も分からずじまいだ。レディ・クロウ本人は文句を言うかもしれないが、それは有名税と思って諦めてもらおう。
「ちょ、ちょっと!何あれ!何あれ!」
「ちょっと、叩くのやめて」
驚き我を忘れて乱暴に背中を叩く凜を制止しようとするが、凜は全く取り合わない。
「何でここにあれがいるのさ!おかしいよ絶対おかしいよ!」
「だからやめてやめろって痛い!あーもうしつこい!」
振り向きざまの大の手刀が、スナップを利かせて凜の額に叩き込まれた。よほど痛かったのか、両手で押さえて意味のよく分からない言葉を呻く。
「何もそこまでやる事ないじゃん……」
「あ、ごめん……。でもさあ、そっちも悪いぞ。一体何だよ。レディ・クロウがそんなに驚きだったのか?」
「ちがっ、違うって!あれはレディ・クロウじゃない!全然似てないよ!」
「……そうかなぁ?」
顔を真っ赤にして強硬に否定され、大が渋面を作る。即興とはいえ、あのレディ・クロウの幻は割と自信作だったのだが、大としてもそうまで否定されると面白くなかった。
「どっかおかしいとこあったかな?コスチュームだってあんな感じのローブだし、体もあんなもんだろ」
「全然違う!秩序の法衣はもっと黒真珠みたいにツヤのある綺麗な黒だし、足だってあれじゃ大根みたいじゃん!あんな太くないもん!」
「やけに細かく見てるな……。なんでそんなに詳しいんだ」
凜の顔色が変わった。怒りに赤くなったかと思えば、まずい事をしたと言いたげに青くなり、また焦っているのか恥ずかしいのか、真っ赤で冷や汗を垂らしながら喋りだす。まるで回転ドアだ。
「え?えーっとね、その……そう!ファンなの!ボクって昔っからレディ・クロウのファンでさ!綺麗だし美しいしかっこいいしミステリアスだし!あれこそ理想のスーパーヒロインだよね!」
「あ、うーん……そうだね……?」
勢いに押されて、大は曖昧に頷いた。言ってる事は良く分からないがすごい自信だ。
「あ、そうそうボクちょっと急用を思い出したから!ここで話す暇なくなっちゃったから!それじゃね!」
慌てふためき去っていく凜を、大は愛想笑いで見送った。
再度ひったくりに目を向ける。近くの銀行から出てきた警備員が取り押さえ、警察が来るのを待っているようだ。女性は取り戻したバッグを握り締め、安心の表情だ。
ちょっとした達成感を覚えながら、大は爽やかな笑顔で現場を後にした。
バイト先から天城家に帰宅するには、高台に立てられた住宅地を突っ切るのが一番の近道だ。。平日の昼過ぎ、人気のない坂道を、大は自転を立った姿勢でペダルを踏みしめて、のんびりと進んでいた。
右も左も似たような家が立ち並び、空には雲ひとつない。太陽の光を遮るものは何もなく、うだるような暑さで汗が吹き出る。早く帰ってシャワーでも浴びたいところだ。だがそんな気分と同時に愉快な気持ちが抑えきれず、大の顔には時々、耐え切れずににやにや笑いが出ていた。
「いい事をやった後は気分がいいな」
大は一人呟いた。先ほど初めて実行した、自分だけが知っている、自分にとっての偉業を思い出す。小さい事だとは思うが、ついつい一人悦に入ってしまう。
坂道を上まで登りきると、ちょうど住宅が二つほど入る程度の広さの公園があった。子供達もおらず、がらんとした園内に大は自転車を停めた。誰もいない事を確認する。隅に並んで生えていた手近な広葉樹に向かって、手を伸ばし……
「……シッ!」
呼気と同時に、指を弾いた。
瞬間、大気が色を持ち、形を作る。先ほどと同じレディ・クロウが現れて突進する。そのまま狙った木の幹に向かって、拳を打ち込んだ。
衝撃で木が揺れる……かと思われたが、拳は木を通り抜ける。そのまま煙のように掻き消えたレディ・クロウの幻影に、大は少し残念そうに鼻を鳴らした。
綾が得た巨神の加護と、大が得た巨神の加護の最も大きな違いは、この幻影能力だ。様々な物が作れるが所詮は幻、普通に使えば今の通りに消えてしまう。
だがその幻も、生き物相手に使うならば別だ。上手く幻が『そこに実在している』と相手に思わせれば、先ほどのひったくりのように現実に感じさせることができるというわけだ。
ティターニアには劣るが怪力や無敵の肉体、綾への巨神の加護の干渉、そしてこの幻影能力。傍から見ればなんとも贅沢な能力だ。だというのに、この力を綾との情事にしか使っていないのだから、これまた傍から見れば何とも情けない。
「いい加減、使い道を考えないとただの駄目人間だな……」
そう嘆いていると、ふと、大は気がついた。空が揺れ、赤褐色の液と交じり合っていく。空に生まれた渦は次第に形を作り、周囲の家々を浸していく。数秒もしないうちに周囲の家は見えなくなり、公園だけが切り離されて宙に浮いているかのように変化した。
幻覚なのか、魔術か何かなのか。
「おい、そこの少年!」
「ん?」
突然背後から声をかけられ、大は振り向いた。誰もいない。声をかけておきながら、木陰にでも隠れているのだろうか。そう思いながらあたりを見回すと
「そっちじゃなくて! こっちこっち!」
やっと大は気付いた。声の主は上方、宙を浮きながら両腕を組み、大を見下ろしていた。
「れ、レディ・クロウ? 本物!?」
大は思わず声を上ずらせた。影は法衣の裾をたなびかせながら、ゆっくりと降りて音も立てずに着地した。
「キミだね?さっき駅前でボクの偽物を作ってひったくりを倒したのは。ごまかしてもムダだよ?さっき木に向かって同じ力を使ってたのも、ボクは見てるんだ」
「げっ」
大が声をあげた。言い訳無用のこの状況、先ほどまでの達成感も一気に雲散霧消する。
「えと、その、どうしてここが分かったんです?」
「ふふん。ボクはレディ・クロウだよ? この世で行われる魔術の事は何でも知っているのだ。キミが使った神秘の力の波動を、この秩序の法衣が教えてくれるんだ」
大は本物のレディ・クロウをまじまじと見つめた。法衣は鴉の濡れ羽を思わせる、艶のある黒色で、金糸で刻まれた精微な紋様の装飾とあいまって、どこか神秘的な畏敬の念を感じさせる何かがあった。
なるほど、と大は心中で思い直した。凜の言うとおり、先ほど大が作った幻は本物の前ではまるで文化祭の仮装行列のように安っぽい。ただ目の前で両手を腰に当てて胸を張る彼女の姿は、とても神話の時代からの知識を持つ魔術師とは思えない。表情はフードの陰と目元を覆う仮面に隠れてよく分からないが、自信満々釣りあがった口元に、法衣と釣り合わない幼さがあった。
「それで、俺に一体何の用があるんですか?」
「え?」
「えっ?」
互いに反応が止まった。
「……なあ、ひょっとして、何も考えずに俺の前に来たわけ?俺の巨神の力を感じたから? それだけ?」
大の口調から敬語が消えた。やはり、とても神話の時代からの知識を持つ魔術師の発言とは思えない。
「べ、別に何も考えてないわけないし? そう、ボクの偽者なんて作られたら困るってこと! あんなかっこ悪い偽者じゃ、ボクの魅力は伝わらないって事よ!」
「……要するに、自分がどんだけかっこいいヒーローか、その魅力を伝えにわざわざ来た、って事?」
「うっ」
どうやら図星らしかった。
「器が小さいなー」
「小さいって言うな!それだけじゃないし! そう、あれだよ、キミの力は危険なんだよ。キミはその力に目覚めたばっかりなんだろ?きっと誰にも話してない。だからそんないたずらができるんだ」
「え? ……まあ、目覚めたばっかりなのは事実だけど」
「でしょ? でしょー! だと思ったんだ。やっぱりボクが来て正解だったみたいだね」
顔半分しか見えないが、おそらく彼女はしたり顔をしている事だろう。レディ・クロウは自信を取り戻したのか、大に向かって大袈裟に指をつきつける。
「一緒にアイに来てもらうよ。超人としての力に目覚めた者は皆アイの元で登録を受け、その力を正しく使う為の方法を学ぶべし。キミも知ってるだろ?」
大は渋々ながらも頷いた。グレイフェザーとブルーフレイムがトップに立つジャスティス・アイは日本が誇る超人の保護・管理を行う組織だ。先天的後天的問わず、超人的な力を手に入れたものがその力について理解を深め、コントロールできるように協力するというのが基本理念となっている。レディ・クロウもアイに加入し、その後ヒーローとして活躍するようになった。
だが、大の場合は色々と面倒だった。まずタイタナスで巨神の力について調べ、必要であればアイに協力を仰ごうと綾と既に話して決めている。それを考えると、ここでレディ・クロウに捕まるのは色々と不都合だ。
もっとはっきり言えば、綾に怒られる事間違いなし、という事だ。
「悪いけど、やめとくよ。あんたより信用できる人がいるし」
「なんだとぉ?」
不満そうにクロウが歯を見せて威嚇した。精一杯威圧的になるようにして睨め上げてくる。本当に最高の魔術師なのか、と大は出会ってから何度目かの疑問を頭に浮かべた。周囲に張り巡らされている結界という証拠がなければ、はっきり言って絶対信じない。
「ボクが信用できない? ボクがそんなに頼りないっての?」
「言ってないよそんなこと」
「じゃあ何だってんだよ?このレディ・クロウより信用できる人なんて世の中にそうそういないぞ?」
まくし立てられるクロウを両手で落ち着くように抑えていると、よく分からない引っかかりが頭の中で大きくなっていくのを、大は感じていた。何故か彼女と話していると、大も子供っぽく反応してしまう。同年代だからだろうか、何故か昔からの気心の知れた仲のように思えてならない。
身長や、ローブの隙間から見えるタイツに覆われた引き締まった脚線に、明るく響く声。テレビで見る分には考えもしなかったが、こうやって話しているとどこかで見た事がある気がする。
突然、ぴん、と頭に閃いたものがあった。
「……凜か、お前」
「げっ」
先ほどまでの剣幕が一瞬で止まった。誤魔化すように両手を振りながら目を反らして、今にも口笛でも吹きそうだ。
「な、何の事だか。ボクはレディ・クロウ。秩序の法衣の後継にして当代最高の魔術師だよ」
「いいから。大体正体分かったよ。俺が怪我した事を知ってたのも、秩序の法衣の関係で綾さんと繋がりがあったからなんだな」
「あう……ええい、もう!しょうがない」
渋々といった口調で、クロウは勢い良く仮面を外した。先ほど話していた凜の顔が、渋面を作っている。
「なんで分かっちゃったかな。知的で大人な女性のヒーローを演じてたはずなんだけど」
「さっきのお前が大人の女性なら、出たてのグラビアアイドルだってベテラン女優になるよ」
腕を組んで何がいけなかったのか悩む凜の姿を、大は半眼で睨んだ。