0-4.十年前~前夜~
夜は更け、日付も変わろうとしていた。
綾の住むマンションの広く寒々としたリビングで、ただソファにうずくまって体を縮めていた。動く気力も出なかった。深夜なのは分かっているが、今が何時か確認するのすら億劫だった。動けば暗闇にいる何かに食べられる気がした。綾が消えたように。
シュラナ=ラガの日本侵攻により、夜は照明を点けている家も少なくなった。夜の闇は一年前なら考えられない程濃い。治安も悪化の一途を辿り、夜に家の外に一歩出れば何が待っているか分からない。
叔父が死んだのは一週間程前だった。カーシアとジャスティス・アイの総力戦が行われた日、叔父は人々を守る為に戦い、そして殉職した。
今の状況では葬儀も行う事も大変だったが、なんとか家族と親しい友人数人で簡略化した葬儀をひっそりと行った。大も祖父母も、周囲の人々も心休まる時がなかった。叔父のおかげで大勢の人の命が守られた。優秀で勇敢な警察官だった。皆そう言うが、大にとってそれを慰めにするのは若すぎた。
それでも家族の前ではできるだけ、平静に務めようとしていた。自分が泣いても叔父は帰ってこない。むしろ泣けば皆を困らせ、さらに悲しませるだけだ。それだけはしたくなかった。
特に綾は悲しむはずだ。お互いに幸せを得ようとした矢先、互いに半身となるはずだった相手を失ったのだから。綾が好きだから、悲しませたくないから、ただそれだけで大は人前では必死に涙をこらえていた。
だから今日、綾と一緒に過ごす時が持てたのはとても嬉しかった。綾の親戚のリタは仕事の為タイタナスから来日し、綾とルームシェアして暮らしていたのだが、最近はリタが仕事で帰るのが遅くなる事が多く、寂しいからと、綾は大を部屋に呼んだのだった。
綾はきっと自分を元気つける為に呼んでくれたに違いない。そう大は思った。もちろん呼んでくれたのは嬉しかったから、こちらも全力で綾が喜ぶように元気よくふるまった。
綾達の香りが残る風呂場にどぎまぎしながら体を洗い、柔らかい布団でゆっくり眠った。
そして夜、悪夢に驚いて目を覚ますと、綾の姿は消えていた。
どこを探しても人影すら見つからない。友人に会いに行くような時間でもないし、それを確認する術は大には見つけられなかった。
布団に入って眠る気にもなれず、大はそのままリビングで綾の帰りを待っていた。目が覚めてからどのくらい時間が経ったか分からない。
「綾さん……」
声に出して呟いても、返ってくるのは時計の針が動く音だけだった。
不意に扉の鍵を開ける音がして、大は跳ね起きた。玄関に向かって走り出す。きっと綾だ。きっとどこかに買い物か何かしてきたのだろう。起こすのがかわいそうだから、大には何も言わずに出ただけに違いない。
大が玄関に辿り着き、なんとか笑顔を作ったところで扉が開いた。
「おかえり!」
「たーだいまーっと……?」
笑顔は落胆の表情に変わった。扉を開けた女の面立ちは綾によく似ている。だが髪は綾の黒いポニーテールではなく、ゆるくカールした亜麻色のセミロングで、少しきつい印象を与える釣りあがった眉をしていた。ワインレッドのスーツが洒落ているが、服装に似合わないスポーツバッグを持っているのは、今の時刻に外を出歩く為の護身具を大量に持ち運ぶ為だ。
「……リタ姉ちゃん」
「大。そういえば今日はうちに泊まりに来てたんだっけ」
自分の帰宅を大が待っていてくれたと思ったのか、リタは笑いながら靴を脱いでリビングへと向かった。バッグをハンガーツリーにかけると両手を組んで頭上に伸ばし、大きく伸びをする。
「綾さんは?」
「アヤ? 知らないけど、一緒にいるんじゃないの?」
頭から血が引く音が聞こえた。代わりに心臓が不安を送り込んでいく。ひょっとしたらリタに呼ばれて出かけたのかもしれない、その最後の期待と共に大の中で何かが壊れた。
「アヤはどこ? こんな夜遅くまで起きてるなんて、大好きなアヤさんに怒られちゃうぞー?」
「……いないんだ」
リタが振り向いた。予想していなかった答えに目を丸くした顔が、大の顔を見て更に驚きに固まる。
大の双眸から、けして人前で出すまいとしてきたものが零れていた。
「いないんだ! 綾さんがどこにもいないんだよ!」
「どういう事?」
「分かんないよ!」
一旦溢れた涙は止まらなかった。涙も声も、溜め込んで来た苦痛や悲しみと共に、全て吐き出さずにはいられない。綾に何か危険が迫っているのではないかと思うと、怖くてたまらなかった。
綾が自分に黙って消えるはずがない。きっと何かがあったのだ。とてつもなく重大な何かが。その起こり得る何かは、今の地球に無数に揃っている。
今の地球に安全なところなどない。誰でも簡単に死を迎え得る時代だ。例え離れたくない愛する家族であっても、それは変わらない。
「もうやだよ! 父さんも母さんも、叔父さんも死んじゃった! 綾さんも死んじゃう! 綾さんが死んじゃうよ!」
「大!」
頬に痛みが走って、大の叫びが止められた。叩くような勢いで頬に添えられたリタの両手は冷たく、爆発しそうだった頭の中が少しだけ落ち着く。
腰を落として大と目線を揃え、リタは静かに諭すように口調で言った。
「落ち着きなさい。あなたが騒いでもしょうがないでしょ?」
「でも」
「私も手を回して探してみるから、とりあえずあなたは寝なさい。アヤがあなたに黙って家を出たなら、きっとそれだけ重要な事があったのよ」
リタは大からゆっくりと両手を離していく。リタのこんな優しい声を聞いたのは初めてだった。必死に気持ちを落ち着かせようとしてくれているのが分かった。
「いいから落ち着いて。安心しなさい。アヤは強い。アヤはきっと帰ってくる。だから待つの。待って帰って来たら、心配したんだって思いっきり怒ってやりなさい」
「……うん」
リタは嗚咽を繰り返す大を抱き締め、背中を軽くさすった。その顔は大の悲しみを受けただけでなく、何か言うべき事を耐えるような、酷く苦々しげな表情だった。
既に日付は変わっていた。後にこの日は、ティターニア達ジャスティス・アイとターミナス率いるシュラナ=ラガの、最終決戦の火蓋が切って落とされた日として世界中に知られるようになる。
その日が来たのを最初に知ったのはこの二人だったという事を、当時の大は知る由もなかった。