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幕間2.近くのものほど気付かぬもので

瞼の奥を刺す光に、綾は目を覚ました。貫くような夏の太陽の光が開いた目に飛び込んできて、綾は思わず不満の声を上げた。

「ん……もう」


 上半身を起こし、周囲を見回した。綾が自宅としているマンションのリビングだ。クリーム色の壁紙に彩られた室内の北西、薄型テレビと向かい合わせになったソファに体を預けた跡が残っている。先ほどまで綾が頭を預けていたひじ掛けのあたりに、窓から日の光が差し込んできていた。


 綾は両手を組んで、大きく背伸びした。首筋がポキポキと気持ちよく音を立てる。固まった体をほぐしながら綾が目をやると、ソファの隅に一冊のペーパーバックが置かれていた。学生時代から大好きだった、タイタナス人作家の新作小説だ。

 新作は中々日本では手に入らない為、リタにお願いしていたものを先日渡してもらったのだ。軽く昼食を取った後送ってもらった小説を読んでいて、少しうとうととしてしまったらしい。


 本のような小さなもの以外にも、綾はリタにいろいろとよくしてもらっている。今住んでいるマンションもそうだ。ここは元はリタが日本で仕事をする事になった際の住居として、不動産業をしている綾の親戚を二人で訪ねて探したものだ。


 築年数、立地もそこそこだが、入居者が度々事件に見舞われるといういわくつきの為に、空きの多い部屋だった。建物についた幽霊が原因で、綾が片をつけた――もちろんティターニアとしてである――為、お礼として格安で一室を譲ってくれたのだ。二人で数年ルームシェアを行い、リタがタイタナスに帰国する際にそのまま部屋を預けてくれた。


「気にしないで。必要になったら使わせてもらうから。住み込みで別荘の管理人を頼まれたと思えばいいの」

 とはリタの台詞だが、それ以外にも事あるごとに様々な形で援助してくれている。彼女の心遣いには感謝しかない。

(私は恵まれている。色んな人に助けられている)

 最近は事あるごとにそう思うようになっていた。両親の援助があったからこそ、日本への留学が叶い、生涯の友人達に出会えた。愛する者にも出会えた。社会人になってここに住んでいなければ、大学に通う大を預かる事もなかっただろう。その結果……。

 羞恥に頬が染まるのを感じて、綾は両手を顔に当てた。頬の熱は午睡の最中に日の光を浴びたのだけが原因ではあるまい。


突然出入口のドアが音を立て、弾かれたように綾の背筋が伸びた。冷房の効いた部屋に、明るい声と熱気が入り込む。

「ただいま」

「だ、大ちゃん。おかえり」


 少し声が上ずっていたかもしれないと思ったが、大は気にしていないようだった。炎天下を移動してきたからだろう、Tシャツは汗がにじみ、頬に雫が垂れている。いつものように手早く荷物を自室に置いた後シャワー室に向かう大を見て、綾は軽く溜息をついた。


あの夜以来、最近は大を相手にする時にどうしても反応が硬くなってしまっている。だが昨夜リタにも言われた通り、いつまでも答えを出さないままでいいわけがない。自分の気持ちを整理し、認めなくてはならない。


 心を落ち着かせたくて、綾は読んでいた小説を手に取った。どこまで読んだかな、とページをめくる。

 タイタナスの古代史を題材にした時代小説だ。タイタナスの歴史でも一、二の人気を誇る英雄が主役で、かつて罪人だった主人公が素性を隠して成り上がっていく。最初は生きる為、自分が豊かになる為だけに戦っていた男が、戦いを繰り返し多くの友を得る内に、配下を率い国の為に戦う誇りに目覚めていく。だがその出自を愛していた者に知られ、彼女からの信頼を失ってしまう。

しかし主人公は行動で自分を示す。数多の難事を乗り越え、敵国の侵略を跳ね返し、ついには国を救って誰もが認める英雄となる。そして最後の戦いに勝利した後、命を落とすのだ。


 人の内面は行動に表れる。正しい行いを続け己を高めてさえいれば、人は何者にもなれる。そういう克己の精神がタイタナス人の心を震わせるのだ。作者の文章は流麗で、血生臭い戦や人の業、生き様もどこか幻想的な雰囲気を漂わせる傑作となっていた。


(読み終わったら大ちゃんにも貸してあげよう)

そう考えながらページをめくっていると、浴室の戸が開いて大が姿を現した。Tシャツに七分丈のズボンとラフな格好で、鍛えられたしなやかな体がよく分かった。


「コーヒー作るけど、綾さんも飲む?」

「ええ、お願い」

 大は台所に向かい、ポットを火にかけながら手早くコーヒーを入れる準備をしていった。ペーパードリップとフィルターを用意して、コーヒー豆を一杯、二杯。沸いた湯を少しずつ注ぎ込むと、魅惑的な香りが室内に広がっていく。


「帰りに病院にも寄ってみたんだけど、デスタッチはまだ目を覚まさないみたい。病室の前でアイの人達や警官が集まって、色々話をしてたよ」

「そう」


 昨夜のアースシェイカーとレリックスマッシャーとミカヅチがやり合った件について、綾達は灰堂に説明し、後の判断を仰いだ。遺物も渡し、現在アイが保管している。既にカーシアが大掛かりな計画を発動させようと考えているのを見ると、警察やアイも意識不明のデスタッチについて、テレパスや魔術による記憶の探査を実施すべきかと考えているようだが、そういった手段によるプライバシーの侵害は法的にも危うい為、手間取っているようだった。

 動けないのはもどかしいが、これからどうしたものか悩みどころだ。


「はい、どうぞ」

「ありがとう」

 大が持っていたカップの片方を受け取り、綾は口をつけた。砂糖はなし、牛乳をたっぷり。綾の好みの味付けだ。居候が始まってからそれほど日も経っていないのに、大は本当に物覚えが早かった。


大も冷房の効いたリビングでのんびりしたかったらしい。綾の隣に座り、コーヒーに口をつけながらスマートフォンを触りだした。

綾は大に気付かれないようにゆっくりと深呼吸した。大が体の熱を感じるほど近くにいると思うと、心臓の鼓動が倍速で鳴っている気がする。あの一夜からずっとそうだ。どう対応すればいいのか、気まずさと気恥ずかしさが全身を這いずり回り、むずがゆくさせていた。


大は何も感じていないのだろうか。大からすれば願いが叶ったのだから問題ないのかもしれないが、今の関係をどう想っているのか、綾にはさっぱり分からなかった。

(大事なのはまずお互いを理解する事)

 そう言い聞かせつつ、綾は小説を読むふりをしながら大を横目にちらちらと観察した。


身長は182センチ。十年前は腰にしがみついてくるほど小さかったのに、あの頃には想像もできないほど大きくなっている。幼い頃は気弱で内向的だったが、今では筋肉質のアスリート体型だ。

幼い頃から学んでいるタイタナスの格闘技術は中々のものだ。元々資質があったのだろう、綾が教えると反復練習にも真摯に取り組み、辛くても簡単に投げ出さない気力があった。


勉学についても同じ事が言えた。分からないことがあると綾の所によく訪ねに来ていて、綾もよく家庭教師の真似事をしてやった。


「天城ちゃんが家庭教師をやると大は一日中でも勉強してくれる」

 とは大の祖父母の言葉だが、本人にやる気がなければそんな事はできないだろう。


大学では生物学を専攻している。卒業したら超人に関わる仕事がしたい、できればアイに入りたいと言っていた。現在大学は夏季休暇の為、大は定期的にアルバイトを入れて定期的に家を空けていた。友人も多く、凜という相棒を得てヒーロー活動にも精を出し、学業も忘れない。充実した大学生活を送っているようだ。


タイタナス文化への理解も深い。数年前にタイタナスの国教である巨神(タイタン)教に改宗すると言い出した時は、どうすればいいか周囲は皆悩んだものだ。


「……」

 心中の驚きを抑えるように、綾は軽く鼻を鳴らした。


克己心が強く、素直で、義に厚い。少々気弱すぎるきらいもあるが、大はタイタナス人の男なら理想とするような好男子に育っている。ずっと近くにいた贔屓目が多分にあるのだろうが、美点以外見つからない。

だというのに、大には浮いた話一つ聞いた事がなかった。これほどの男を周囲の女が目もくれないとは、綾からすれば全く理解できなかった。


「ねえ、大ちゃん」

 綾は思わず尋ねていた。大がスマートフォンの画面から目を離し、顔を向けた。その目が輝いているように綾には見えた。


「何?」

「ちょっと聞いてみたいんだけど、別に深い意味はないんだけど、その」

「だから何さ」

「その、大ちゃんって、他の女の人と付き合った事とかないの?」


 藪から棒な質問に、大が目を丸くした。

(ああ、私の馬鹿)

 あまりに唐突な話だ。一体何を言っているんだと綾の頭の中を叱責と後悔が駆け巡った。大はそんな綾に気付かなかったのか、どう答えるか数秒悩み、ぶっきらぼうな口調で答えた。


「な、ないよ。一度もない」

「本当に?」

「みんな俺の事なんて見てなかったよ。あんまり興味もなかったし。それに」

「それに?」

「……それに、綾さんより素敵な人なんて、同級生に一人もいなかった」


 今度は綾が目を丸くする番だった。冷房が壊れたのかと思う程、顔が熱くなった。まさかそれ程長い間、大が想ってくれていたなど、今の今まで気付かなかった。

昨夜のリタの言葉が思い起こされた。確かに自分は、大の事を理解したつもりでいて、その実理解できていなかった。


「……ありがとう、大ちゃん」

「うん」


 大は顔を真っ赤にして綾から顔を反らした。その反応に少し微笑みながら、綾は大の横顔を眺めていた。いつの間にか先程までの気まずさはなくなっていた。

後から思えばこの日、この瞬間こそが、綾が大を一人の男として初めて意識しだした瞬間だった。


自身の心が急速に大に傾いていくのを感じながら、綾はコーヒーカップに口をつけた。コーヒーの苦味と牛乳の甘味が交じり合い、味覚を刺激する。最高の味だ。大は綾の好みを何でも知っている。

(……あれ?)

 ふと気付き、綾は手を止めた。コーヒーに限った事ではない。料理、洗濯といった家事に関しても、大は綾の好む通りの事をしてくれている。それどころか大が居候するようになって以降、綾は大の生活態度を叱った記憶がない。する必要がなかったからだ。


 妙な考えが浮かんだ。要するに、大は綾の事を何でも知っているのではない。綾の好みに合うように、教えた通りの事をきっちりやっているのだ。ひょっとすると運動、学業、好物に至るまで、大は綾に気に入られる事だけを目的にして、今までの人生を送ってきたのではないだろうか。


 日本の古典文学に、主人公がヒロインを理想の女性に育て上げて自分の妻にするという話があったのを、綾は思い出していた。綾としてはただ大が立派な男に育つよう、できるだけ協力してきただけのつもりだったが、一歩引いて見ればそう取られても仕方ない気がした。


どこか恥ずかしく、申し訳ない気分になってきて、綾は端整な顔を苦々しく歪めるのだった。

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