3-2.出せない答え
市の東西を横断する国道を、西から東に向けて車が猛スピードで走っていた。急いでいるのか、制限速度を完全に無視して走っている。
社内には運転手の男が一人だけだ。歳は五十台、禿頭にやせぎすの体、深い皺の刻まれた面長の顔には、心身共に疲れきった影があった。
男は助手席に置かれたケースに目を剥けた。ボストンバッグほどの大きさのジュラルミンケースの見た目は珍しいものではないが、中身は危険の一言だ。盗み出したこれを、必ず彼らに届けなければならない。それは今夜、あの女が外に出ている今しかない。長年かけてきた脱出のチャンスは、二度あるか分からない。交通事故が起きないように注意してはいるが、焦りが速度を無視させ、暴走させる。
車は橋を渡りきろうとしていた。これを渡りきれば目的地のアイ本部まではすぐそこだ。
道がうねり、男は慌ててハンドル操作に集中した。地震でもあって橋が揺れたのだろうか。今事故など起こしては目も当てられない。
もう一度うねりが来た。男の脳裏に不安がよぎった。ひょっとしたら、そう勘が働き、男は周囲に視線を向ける。
バックミラー越しにそれはいた。先程までいなかったはずの、3メートル程の巨漢が、小柄な男を右肩に担ぎ、走って追ってきている。仮面を着けた悪鬼と小鬼の二人組の姿に、男の顔に汗が流れた。男は全力でアクセルを踏んだ。もう少しなのだ。ここで捕まる訳にはいかない。
瞬間、車が路肩に乗り上げたようにガタガタと縦に揺れた。目の前には何もない。アスファルトの平坦な道だというのに、揺れはどんどん大きくなる。バックミラーに写った小鬼が、こちらに向けて真っ直ぐ右腕を伸ばし、指を鳴らしたのが見えた。
次の瞬間、爆弾が爆発したかのように車が弾け、回転しながら宙を舞った。
食事が終わっても未だに話は続いていた。テンションが高まっているのか、凜の計画は話せば話すほど思いつきが繋がり広がっていくようだった。売っていたフライドポテトを箸でつまみながら、凜が話を続けていく。
「今は人が少ないし、こういうところで話してても問題ないけどさ。人が増えたらどこか本拠地が欲しいよね。かっこいいやつ」
「魔法で作れないの?」
「やれなくはないと思うけど、時間がかかるから今のうちに準備しとかないと駄目だね。でもやっぱり、どこかに秘密基地が欲しいんだよねェ」
「人が集まってから考えてもいいと思うよ。そこはリーダーに任せる」
「ちゃんと手伝ってよ?サブリーダー」
はいはい、と頷いた。凜のヒーローとしての上昇志向が強いのは知りあってからというもの何度も思い知らされている。
(綾さんとはえらい違いだ)
これまであまり考えた事はなかったが、レディ・クロウとしての凜はかなりの目立ちたがりだ。ティターニアやグレイフェザー、大にとてのヒーローの代名詞であるジャスティス・アイの面々は世の為に活動する事だけを考え、人からどう見られているかなどは気にしていなかった。だが凜はそれだけでは足りないと考えているらしい。
「凜はさ」
「うん?」
「なんでヒーローをやろうと思ったんだ?ドクタークロウと知り合いだったのか」
「んー……」
凜が少し視線を上に泳がせた。どう答えるか数秒迷った様子を見せた後、口を開く。
「ボクがお師匠様のドクター・クロウに会ったのはさ、三年前。戦いで大怪我したお師匠様が、ボクの前に現れたの」
偶然彼の正体を知った凜だったが、正体を隠したまま病院に連れて行った後、ほとんど押しかけるようにして弟子になった。目の前でヒーローに出会うという強烈な体験により、彼の使う魔術に興味を持ったのである。よく言えばマイペース、悪く言えば偏屈な事で有名なドクター・クロウも、どこかで凜の才能を感じ取ったのか、弟子として暇を見ては合間合間に師事した。
彼女のセンスによるものか、元々適性があったのか、凜は一年程で目覚しい成長を遂げ、ついには師匠からも実力を認められ、ついには師匠から秩序の法衣を譲り受けたのだった。
「お師匠様はより高位の術を極める為に、秩序の法衣から離れて一人で修行をするって言ってたよ。その間、法衣をボクに預けるって」
「それからレディ・クロウになったってわけか」
「そう。ボクはお師匠様から大事なものを受け継いだんだ。ボクがヒーローをやりたいのは、誰かの役に立ちたいから。それは忘れた事ないよ。でもボクはお師匠様から大事なものを受け継いだ。だからボクがクロウの名に恥じない、立派な魔術師だって事を証明したい。世の中で困ってる人が頼ってくれる立派なヒーローだって、お師匠様にも、世の中の皆にも証明したいんだ」
「へえ……意外とまともな理由だったんだ」
「なにさァ、それ。ひどくない?」
フォークで指差す凜に悪い悪いと返しながら、少しだけ大は感心していた。普段は軽く派手な事と目立つ事以外考えずに行動しているように見えていた凜も、正義感と使命感は強く持ってヒーローとして行動していたのだ。
「そういう大はどうなのさ。ミカヅチとしてボクとヒーローチーム組んでくれるのは嬉しいけど、どうしてヒーローやる気になったの?」
「力を持つ人間が世の為に尽くすのは当然の事だろ」
「模範解答だねェ。別に悪いとは言わないけど、それだけじゃつまんない。他にもなんかあるでしょ。どうしてそう思うようになったとか、そういうのがさ」
「そう言われてもな……」
大は口に手を当てて考えた。自分の楽しみの為に力を使う事はままある。だが間違った事には使わない、力は世界を良くする為に使うもの、という気持ちは常に持っているつもりだ。少なくともこの考えは子供の頃から当然と捉えていたことだし、そのルーツを考えろといわれても中々思い出せない。強いて言えば叔父か、ティターニア達かのどちらかだというのは分かる。大の正義についての価値観は大体この二人が原点だからだ。
「そんなに悩まないでよ。ちょっと聞いてみただけなんだからさ」
凜はコップの麦茶を飲み干すと、空になったポテトの皿を見下ろした。どうやらまだ食べたりないようだった。
「今頃綾さん達はゴーカなご飯食べてるんだろうなァ……。大も行きたかったんじゃない?」
「いいんだよ。今は綾さんのプライベートな時間なんだから。それに、正直言うと酒が入ったリタ姉さんは苦手なんだ。おっかなくてさ」
きっと今頃綾は酔いが回ったリタと談笑している事だろう。綾が今頃どんな話をしているのか、大は少し気になった。
リタの目つきが恐ろしい。普段の知的で優美な姿からはあまり感じ取れない事だが、彼女の美しい瞳は時に凶器となる。特に恐ろしくなるのは、怒りに燃える時と、酔いが回った時だ。
レストランでの食事を終えて、酔いの回ったリタに連れられて、綾は近くの居酒屋で飲みを再開していた。レストランで大との関係について話すよりはましだろうと思って移ったが、移った先では更に人が多かった。店の中央に並んでいるテーブルには、会社の飲み会らしいスーツ姿の男女や大学生の女子会、合コンもあって騒がしい。
(大学生なら勉学に勤しみなさい、まったく……)
壁際のテーブルに座って注文したカクテルを待ちながら、綾は心中で毒づいた。彼らに言っても詮無い事なのだが、家庭内の情事の事情を聞かれるという羞恥を前にしては、理屈や道理などは通用しない。せめて店内にタイタナス語が分かる人間がいない事を祈るばかりだ。
「ほらほら、あんたがレストランで話すのは嫌だって言うから店移ったんだから。さっさと話しなさいよ」
向かいのリタがけしかける。口調も軽くなり、一時間前の落ち着いた姿は見る影もない。結局注文した料理と酒が届くまでに、綾は大との夜の事を話したのだった。
ヒュプノパスと戦い、カーシアとターミナスの影を感じたあの日の夜、帰宅した綾を待っていたのは、体の異変だった。体は肉の内側から炙られているように火照り、肌と粘膜は触れただけで思わず体中が痙攣するほどに敏感になっていた。
文野の体液による影響が、ティターニアの変身を解いた後に一気に襲ってきたのは明白だった。ヒュプノパスは少なくとも文野の改造に関しては、自らの要求を満たす為に完璧なものを作ったと言わざるを得ない。もしあの時変身を解いていたならば、きっと自分から文野を受け入れていた事だろう。
ふらつく頭で風呂に入り、肌に触れれば全身が疼いた。体を洗うだけでも一苦労だった。湯船に浸かっているだけで、湯ではない熱が全身から生まれていた。
そんな快感と熱の狭間で、頭に浮かぶのが大の姿だった。自分の危機を助けに現れたあの姿。共に戦う姿を思い返す度に、綾の体の奥が疼いた。立派に育ったあの姿が、理性の制止を気にも留めず、手が動いていた。思わず大の名前を口走っていた。
そしてそれを、大に見られた。
思い返すだけでも顔が火を吹き、冷や汗が背中を流れた。これを何も感じずにいられる人がいるのならば、土下座をしてでもその秘訣を知りたい程だ。
結局あまりの気まずさに二人とも何も言えずにその場は別れた。後悔と羞恥に体の疼きも一旦は収まりを見せていた。綾は風呂から上がると寝室に行き、眠って心と記憶を落ち着かせようと必死に努力した。
そしてそこに、大が扉をノックした。驚きながらも部屋に招き入れた綾の前で、大は綾への想いを再度口にした。綾も想ってくれている事を信じて。
「で、あなたは勇気を出して寝室に来た大の告白を聞いて、興奮しちゃったからそのまま大を誘惑して、事に及んだわけね」
モヒートで舌を湿らせつつ、リタは口火を切った。
「せめてもう少し穏やかな言い方をしてください……」
俯きながらも綾は精一杯気力を出して抗議した。
「穏やかな言い方しようが事実でしょ。しかしあなたにそんなガッツがあったとは知らなかった」
「誘惑したんじゃありません。それになんとか確認と同意は取りましたし、そもそもあれはヒュプノパスの薬のせいで意識がそちらに誘導されていたからで」
「くっだんない事言わないの。どう言い訳しようが自分から求めて、ヤる事ヤったのは事実でしょうが」
綾の羞恥をリタは意に介さず、あけすけな物言いでさらに羞恥を煽った。
「それはまあ、そうですが……」
「それで、大は想いを遂げられたし、あなたは気持ちよくなれたし、めでたしめでたし。それじゃあ、あなたの気持ちは済まないわけだ。これからどうすんの?」
「……正直どうすればいいか、分かりません」
ここまできたら、考えを相談するいい機会だと開き直るしかなかった。自身の行いが招いた結果について、綾は口を開いた。
「事が大きすぎます。私を信じて預けて下さった、大ちゃんのご家族に申し訳が立ちませんし、これは大ちゃんの将来にも関わってくる問題です」
「別にいいじゃない、所帯持っちゃえば。今も大して変わらないでしょ」
あっさりとリタは口にした。
「いやそんな簡単な話では……」
「何が簡単な話じゃないのさ。男と女が揃って男が好きだって言ってる、女はそれに答える。分かりやすいでしょ」
まさかリタがこうも推してくるとは思わず、綾は苦々しく顔を歪めた。それが不満なのか、リタは新しく酒を注文した後、綾に不満の目を向けた。
「じれったい事言ってるけどさ。アヤ。あなたもう三十でしょ」
「まだ二十八です」
「そこはこだわらなくていいのよ、大台に乗るまであとちょっとなんだから。あなたって顔も体も器量もいい癖に男運ないんだから、このチャンスを逃したらもう機会なんてないんじゃない?」
「私と大ちゃんは十も歳が離れてるんですよ?」
「私とダンナは八つ離れてるけど夫婦円満よ」
「いやその、歳の差が問題なのではなくて、大ちゃんはそんな冒険に出るにはまだ若すぎるという話で」
「自分と付き合うのを冒険って評価する女、私始めて見たわ。あんたと付き合うのが冒険なら誰が相手なら堅実なのよ。ハリウッドスター?」
「褒めすぎです」
「あなたってほんと自己評価低いよね。どうせ私なんて、彼にはもっとお似合いのもっと素敵な人がいますから、なんて昔からよく言ってたっけ。ああもう思い出してきた。あんたが昔男と付き合ってたってのが信じられないわ。あなたほんとめんどくさい」
十年以上前、小太郎との事を相談した時も似たような事を言われたと、綾はぼんやりと思い出していた。確かに昔、リタに猛烈に勧められて背中を押されなければ、恐らく小太郎への告白はなかった事だろう。
だが今問題なのはそこではない、と綾は頭を何とか切り替える。
「ですから、私より大ちゃんの事をですね」
「大体さっきから聞いてればさ、大ちゃん大ちゃんって、あなたはどうしたいのよ」
「え?」
「あなたはどうしたいのか、って聞いてるの。なんであなたの気持ちを無視してるの?」
ずしっ、と胃の辺りに重いものが落ちた。何と答えるか悩んでいる内に、リタが言葉を続ける。
「さっきから何かおかしいと思ってたの。普通こういう話で最初に出るのはコタローの事でしょ?昔の恋人の甥と関係持った、ってめんどくさい話なんだから、困るとしたらまずそこじゃない」
「それは」
「まあそこは自分なりに納得できてる、って事で理解はできるわ。もう十年も前だしね。でもそこからあなたの気持ちは全然話さないじゃない。大ちゃん大ちゃん、大ちゃんが心配なんです。じゃああなたはどう思ってるのよ」
驚愕の表情のまま、綾は硬直した。綾自身はどう思っているのか、それはあの日、大から告白を受けた時からずっと考えていたはずなのに、何も答えることができない。
「私が答えてあげようか?あなたが答えられない理由について」
二杯目のモヒートを一気にあおり、リタは改めて綾を見据えた。
「あなたは答えを出したくないのよ。怖いから。どうすればいいのか分からないから」
「そんな事、ありません」
「そう?あなたはあの子の気持ちについて、本気で受け取ってないし、本気で向かいあってない。大から本当に愛されてるって自信が持てないの。だってそうでしょ?あの子は両親もいない。優しかった叔父ももういない。残った家族は年老いた祖父母だけ。そんな中で、あなたはあの子にとって、両親に代わる愛情を示せる相手。両親への思慕の錯覚から、昔から知ってる叔父の元カノなんてか細い絆にすがり付いてる。少なくともあなたはそうだと思ってる」
「やめてください」
「そのうちあの子もあなたの事なんて忘れるって、あなたは思ってるのよ。あなたも言った通り、あなたと大の歳の差は永遠に変わらない。今体を許してても、数年もすればあの子は飽きて、他の若くて綺麗な子を見つける。あなたはどこかでそうなると思ってる。あの子の自分への愛情は錯覚だって、あなたはどこかで思ってる」
「やめて」
「それなら今のごっこ遊びのほうがいいでしょう?自分が本気になったのに、それがコタローみたいに、突然消えてなくなったら辛いものね?それならおままごとで、愛しているってお互いに言い合ってるほうが気楽だし、それだけで十分満足できるもの」
言葉は無茶苦茶で、話は決めつけと独断が主になっている。だがその内容は的確に、綾の心を貫いた。綾が目を背けていたものを強引にかき出し引っ張り出して、それを眼前につきつける。その瞳は酔いが回っているとはとても思えないほどに真剣だ。むしろ、酒が彼女の知性と感情を研ぎ澄ませているとすら感じた。
「何故向き合ってあげないの?体だけ関係を持ったけど本題からは目を背けたまま、なんて不健全な関係、お互いにいい事ないわ。それこそあの子の為にならないし、第一大がかわいそうよ。あなたは自分の性欲を満たす為に、あの子を食い物にしたいの?」
「そんな事ありません!」
綾の両手が机を叩き、机の上の食器が割れそうな音を立てた。店内が一瞬静かになり、周囲の目が集まっているのが分かるが、どうしようもない。涙もにじんでいた。
何か深刻な話をしている事は分かったのだろう、周囲も関わるまいとして目を反らし、すぐに元の空気を取り戻そうとしていた。
「そんな事、ありません……」
もう一度、涙声になりながら、綾は言った。リタが悲しげに眉を寄せて、軽く溜息をついた。
「もう一度聞くわ、アヤ。あなたは大の事、どう思ってるの?」
「……大切な人です。あの子は私の宝物です。大事な家族なんです」
本心だった。十年前、小太郎が亡くなった後、正気を保っていられたのは大の献身と配慮があったからだ。あの時、一番辛いのは大だというのに、大は必死に綾や他の人々を気遣っていた。
元々気配りのできた子だったが、綾に心配をかけまいとしている事が、当時の綾にも痛いほど感じられた。社会人となって以後、日本での勤務を希望したのも、大の近くにいたいと思ったからだ。
「でも、男として愛しているか分からない?」
「答えられないんです。ずっと近くにいたから。ずっと今までどおりの関係でいるんだと思っていたから」
「そう。ならせめて、大切だって事くらい伝えてあげなさいよ。言わないでも分かる事なんて、世の中そうそうないんだからさ」
綾が嗚咽混じりに頷くのを見て、リタはモヒートを一気に飲み干した。
「ごめんね。色々言っちゃって。さあ、もう深刻な話はお終い。飲みましょう。何注文する?」
「いえ、ありがとうございます。自分でも、気持ちが整理できた気がします」
注文した料理を皿に取り分け、食事に手を付ける。リタはいつも綾が困った時、激を入れてくれる。リタなりの心遣いが嬉しかった。
リタがさらに注文したモヒートをまた空にするのを眺めながら、綾は大の事を思った。今日は食事を作れないと連絡しているが、果たして大はどうしている事だろう?