#05 『人間していられる』
久方ぶりです。
「さ、ついた」
テントのファスナーがグローブのある左手によっていとも容易く開かれ、中から差し込む光明はようやく真紅の視界をまともに映してくれた。
ユラユラと吊るされた水銀灯――どこかで見た記憶のあるランプ。これまで黒夜の景色の中行動をして目が暗闇に馴れてしまった所為か、明るみは普段よりさらに強烈なものに感じられる。その鋭利な眩さと鮮明な白に思わず少年は目を逸らして光圧を避けた。
しかし、何と温かみのある光だろうか。まるで洞窟で宝物を発見したときのような達成感――命からがらセーブポイントに到達した功績と経緯は、心境で失われた活気をじわじわと自然回復させてくれる。
同時に、やっと安心できるような場所に辿り着りつけた解放感というのもなかなか絶大で、意図せず真紅の睡魔と食欲を存分にそそらせてくれるものだった。
愛夏に促され、そそくさとテントの中に入る。
外見以上に広く感じられる内装と空間――特に人の存在は見受けられなかったが、かわりに何か乱雑に切り取られたメモのようなものがテーブルの上にセロハンテープで貼り付けられていた。そこまで丁寧とも言い難い文字と数字が、斜め上に羅列してこちらに強く存在をアピールしている。
〝コンビニ、1時に帰投〟――?
「ああ、例の私の仲間からだよ。別行動で食料調達に向かってもらってるの。ついさっき日を越したくらいだったから……そろそろ帰ってくる頃かな」
真紅に続いて中に入り、愛夏はその置き手紙の内容を確認する。冴えない顔色や重々しい声質からどこか心配気な表情が伺えるが、わざわざ別行動してまで危険なあの地域に任務に向かわせる、といったあたり技術や意気は信頼できるパートナーなのだろう。
ひとつ溜め込んだ息を解放するともう、彼女は残り少ないコーヒーをググッと飲み干し、気が抜けたように小机の近くに腰を下ろした。
くるりとテントの中を見渡せば、非常食の缶詰やカップ麺、大量に水の入ったボトル、そして焦げ目がついたガスコンロなど、衛生面や栄養バランスはともかく数日間は辛うじてこの中で生活はできる程度のアイテムはいくつか備わっていた。恐らくその〝食料調達〟とやらで集めてきた収穫なのだろう。
あまり数に余裕があるとは言えないが、それでもこんな非常事態に生き延びるために用意されたセーブポイントとしてはとても充実しているように感じられる。
――実際地震なんかが起きたらこんな風なのかな。
今日死ぬかもしれないし、明日死ぬかもしれないし、自分がいつ死ぬかも全く予測できない環境。
そんな極限状態で彼女に救ってもらえたのは、不幸中の幸いだったのだろうか。九死に一生を得たとも言うが、何にせよ、真紅は圧倒的に頼りにできる仲間を見つけられたことは間違いないようだ。
無造作に転がった乾パンを両目で見つめながら、改めて少年の心境はより安堵なものへと落ち着いた。
「お腹すいた?」
「!」
見透かされた、のだろうか。片時も他所見せずまじまじと食糧に釘付けになっていたせいか、秘めたつもりの欲望がいとも容易く愛夏に見破られた。
「好きに食べていいわよ。育ち盛りのあなたにはあまり満足できる量ではないかもしれないけれど」
「いえ、別に大丈夫ですよ、そんなお腹減ってないですし」
「餓死されちゃ困るもの。遠慮しないで」
完全に悟られた、らしい。言い訳しようにもそれらしい理由が見つからない。
実はつい先程まで腹時計を鳴らし続けていたのも事実で、ワゴン車に乗っている際にすら緊迫しながらも「普通にあたたかい白米が食べたい」なんて少々呑気な煩悩が混入していた。
感情は行動や言動、表情によく表れやすいとは言うものだが、いざ探り当てられるとまるで自分が自己満足だけを求める欲深い人間みたいに思われてる気がして――とても羞恥に思う。
ただやはり、ここまで極度に大きい空腹には流石の彼も逆らえなかったようで、気恥ずかしそうに真紅は頬を赤らめながら、ありがとうございます、と一つお辞儀してお目当てのそれを手に取った。
袋を両手で丁寧に開いて、微笑ましそうに愛夏に観察されながら少しぎごちなくそれを口に運ぶ。
パクリ、と漫画のように口元から伝わる効果音。その一口は彼にしては随分と大きい。
味が薄いのに、舌は大体満足していた。
***
食べすぎた。やってしまった。気づいたときにはアーミーナイフ片手に大量の空の缶と袋を重ねていた。
愛夏は容認してくれたとはいえ、これだけ貴重な食料をたかが自分だけの食欲を満たすために消費するとは、何とも彼女とそのお仲間さんに申し訳ない話である。
いつもここまで軽率な行動はとらない筈なのに、どうにも今回だけは身体が欲動を抑えてくれなかった。正直今でも胃が次なる獲物を求めているくらいなので、とてもじゃないがこの場に居座ることが息苦しいモノへと変貌している。
仮眠を取る彼女の寝顔は見えないわけではあるが、とりあえず以後自粛するようにと少年は例の手帳のページを進めながら己の気を紛らわした。
――あれから何度か見直した。もしかしたら、恐らくきっと、たぶん――なんて注意深く、見落としていることを前提に繰り返し同じページに目を走らせてはみた。が、それはほとんどただの徒労に終わった。――当然といえば当然だった。
手帳の文字は生きてない。何度眺めたところで隠された文字が浮き上がったり、文面がチラホラ改竄されたり、なんて甘い考えが実現する由もない。不変――そう不変だった。濃厚な脳汁を絞らせ羅列する文字を摘み取ろうとしても、現時点では特に内容に変化が見られる余地はないだろう。
だが、かと言って決して全く進展がなかったわけでもなかった。彼の中ではひとつ既に、確信とも思える考察が密かに添付されていたのだ。
例えばこの手帳の本体――住民票そのものについて。
――たぶんこの住民票――偽物だ。
この結論に至るまでの定義は二つ。
まず第一に、前に発覚したように真紅自身の――はたまた樹やその家族、周囲の知り合いの名義が全て存在していないこと。
これだけ探してものの一人すら発見できない、なんてことはどう考えても不自然すぎる。意図的に消去されただとか市役所側のミスだとかそれ以前に、この資料にはそもそも〝我々の存在が認識されていない〟のだろう。
そして第二に、〝住所や電話番号だけは自身の認知するものがほとんど一致する〟こと。
資料を数ページ進めた先――県上薙市西片橋町23番地――樹の家の住所だ。電話番号や郵便番号も、彼の自宅のものと全く同じ数値が同じ配列で正しく並べられている。
なのに――にも関わらず、やはり家主の姓名は完全に別人のもの。実物(?)の住民票にはそれらしく判子は押されているが、別にその程度多少手間をかければ工作できないこともないだろう。恐らく。
自動的にこの地域は上薙市であることは理解できるし、ましてやタイムラグがあった訳ではないことも頷ける。とにかくこの住民票は偽装されたものであるということはほぼ確定と言えた。
よって同時に。
――この事件には確かに犯人がいる。
それもこれだけの大量の情報をこれだけ〝それらしく〟記載できるあたり、かなりの諜報分野に関してのプロだ。人の手による被害な以上今後も甚大になるのはまず必須ではあるものの、ある意味犯人がいるということは〝このパンデミックには何らかの解決の糸口があるということ〟。
何が目的でこんな隠蔽工作を行っているのかは理解し難いが――いや、大方人間側への混乱への誘導が主であるとは推察できるのだが、今のところその手掛かりを確実に辿る余地も手段も見つかっていない。
何しろここまで大多数が人間として死滅した(?)極限の環境なのだ。当然頭数が少なければ情報も限りなく根底に近くなる。まともに捜査できる警察や政府関係者がバケビト側に陥ってる現状で、〝裏で何者かが情報網を操作しているという事実〟という落とし物から答えに辿り得るキーパーソンは、現状では〝唯一本来の上薙市を知っている〟自分のみ。よってこの状況を打開するために自身には〝死亡してはいけない〟という最低限の義務が課せられる。
そんな自分の身を守る上でも、愛夏とその仲間の存在は有意義であると言えた。
それで、次に。
自身が事件に巻き込まれた原因、および真紅と愛夏の証言の相違について。様々な考察が多種多彩に溢れ出てきたが、とりあえず今は〝一番有り得る可能性〟だけを考慮することにした。
――奇襲された時にしっかり確認した。
――彼等は〝本当の人間が来ない限り人間のままである〟ことを。
少なくともあの中年男性や玄関に迎え出た主婦は自分――真紅の姿を視覚するまでは〝それらしく〟会話をしていたし、外見からも違和感なしに〝それらしく〟一日を生活していた。特に同類で殺しあうだとか野外をゾンビのように彷徨うだとか、そんな〝人間離れした〟様子も伺えない。そこに真紅が存在しなければ彼等は〝人間のまま〟であったのだ。
つまり愛夏やその仲間のような〝普通の〟人間にエンカウントさえしなければ、バケビトらは何の支障もなく毎日を過ごせる――〝人間していられる〟ということ。非日常が目の前に現れるはずがないのだ。
――で、あるならば。
ゴクリ、と少し血の味がする唾を食道に戻した。
――その可能性がもし、自分に当てはまるとしたら?
例えそれまで自分が普通に学校に登校していようが、普通に昆虫を採集をしていようが、はたまた普通に食って働いて寝るを繰り返していようが、その時点で自分がバケビトであったなら、バケビトに紛れて当たり前に〝人間していられる〟。
それが本当であったとするなら、当然〝一年前からパンデミックが起きている〟なんて事実を知り得るわけもない。ましてや、〝バケビトがバケビトである〟とも認知できない。バケビトとして問題なく安全にヒューマン(?)ライフを送れるのだから。バケビトとして誰かを傷つけた覚えはないが、恐らくあの様子だとバケビトが人間を襲う際もその時点の自我や記憶は完全に失われているのだろう。そうでもいなければあんな何事もなかったように〝人間していられない〟筈だ。
――もしかしたら、自分は既に人間ではないのかもしれない。
自分は人間だと思ってる。そう思いたい。けれど、自分がバケビトだという証拠は思い当たらないことに加えて、自分が本当に人間である理由も見つからない。まるでオカルトやホラー染みた洞察をしているが、それを否定する道理もやはり見当たらなかった。
自分は元はバケビトだったのかもしれない。バケビトとして〝人間していた〟のかもしれない。
しかしそれが幸か不幸か、自分は何らかの原因で本当の人間側の方へ立場を移り変えてしまった。思い当たるとすればあの耳鳴り(?)だろう。ターニングポイントとしても一番あり得ていて、かつ最も適している。あれが原因で現状のすべてが狂った(むしろ正常に戻ったのかもしれないが)と思ってもおかしくはなかった。
ただ、その定義が事実であった場合――
そこまで考えて、真紅は自分の右肩に恐る恐る左の手を乗せ、ゆっくりと戒めるように強く握った。
――自分には、あの悍ましい〝第三の腕〟がある。
あの肌が剥け散ったように赤黒い、吐き気を催す程に触れがたいひんやりとした〝腕〟。
無駄に筋肉が発達したような頑丈さのあるフォルムと、噛み殺すためか何かわからない謎の牙が差し込まれた構造。
あの他人事と思えるありえない物証も、実は他人事とは言えないのかもしれない。自分は喧嘩やいじめにほんの一度すらも関わったことがないが、実はそれも〝関わらなかった〟のではなく〝関わっているのに気付かなかった〟のだとしたら。そんな暴力沙汰になるような殺伐とした経験をした記憶がないのはある意味、この事実を裏付けているのではないだろうか。
ゾゾッ、と形容できない戦慄を感じて身震いした。急激に冷静さがどこかに失われたように感じる。同時に隅で仮眠をとる愛夏の安らかな寝顔を横目に見た。
――もしかすれば、これから彼女に危害を加えるかもしれない。
いや、それだけじゃない。
いつまたあの耳鳴り(?)が発生するかも予測できないのだ。今後、恐らく一年も生き延びた彼女なら、もっと多くの生存する人間らと結集して、強大なグループを結成し一つの安全な集落を築くこともあるだろう。
そんな時、この可能性がアテとなるならそのセーフゾーンを壊滅する可能性には確実に自分が食い込んでくるに違いない。もしそうなったら、自分は自分を制御できるのだろうか。彼らは自分を殺しに来るのだろうか。助かるのか。どうなのだろうか。
それに。これまでの定義が正しいなら、自分は今イヅキと敵対していることになる。もしひょんなことからイヅキと思わず対面して、自分からけしかけずとも彼が自分を襲いにかかった時。もしそうなったら、自分は彼を殺せるのだろうか。自分が殺さなくても、愛夏や他の誰かが殺してしまうのだろうか。助かるのか。どうなのだろうか。
――怖い。すごく怖い。
わかってはいる。まだ可能性の段階であることは。それでも――そうと知っていてもやはり、そんな展開が有り得るという時点で彼の背中は氷よりも冷たく凍る。
もし本当にそうだったなら、もしそんな最悪の場面に陥るのなら、どうせならずっとバケビトのままでいて、何も知らないままバケビトのまま死にたかった。別にわざわざ本当の人間になんてならなくても、何も考えずに毎日を過ごせたのだ。
夢オチや妄想症ならどれだけ幸せなことか。今でも死にかけたときの保険としてその可能性を1%でも残してある。それなら何度でもイヅキへと笑い話にして、その不安と恐怖を吹き飛ばしてやりたい。
何よりも、まだどの可能性も確定まで至っていないということ、それが一番恐ろしかった。
最悪の事態を想定していても、そうでない可能性があるが故に逃げの自殺もできないし、ましてや誤って人間として死ぬ可能性があるから何も行動しないわけにもいかない。確定の事実ならすぐにでも意向を決行できたのに、こうも焦らされると本当に目標を見失ってくる。まさに今の状況が最悪とも言えた。
――死にたくない、でも死にたい、生きたくない、でも生きたい――
生死を左右する葛藤――複雑なジレンマが繰り返し彼の心境を狂わせて、より恐怖を掻き立てる。どちらにも傾けない、どちらにも偏れない。希望はあるのに、絶望もある。ようやくこんな安全な場所で安全に事件を推理できていた筈なのに、どうしてか彼の脳内はより危険なものへと発展していた。
「…………ッ」
――窮状に混乱する脳髄が、不意に奇妙な情景を想起する。
そこに映るのは、シェルターの中。とても安全そうな、静かで落ち着いた比較的快適な空間。
そんな部屋の中でだらしなく横たわる、子供、大人、老人、友達、先生、人々人間動物生物――などに被さる赤、赤、赤、赤赤赤赤。そして割れた鏡に目障りに反射した、ぐにゃりとした愛夏と、それを握る自分と――肩に生えた気色の悪い豪腕。
そこにいる自分はまるでほとんど自分じゃない上に、ましてそれに気づいてもいないようで、というより自分がまさにそれと自覚していないだけにも察せられる。もしかして、これはある意味、これからの未来これからの運命これからの予知これからの――
――やばいやばいやばいやばいやばい!!
呼吸が、心拍が、次第に激しく荒く忙しくなる。
そんな最悪の事態になる前に。一刻も早くイヅキの安否を確認しなければ!コンマ一秒でも行動を繰り上げて、彼の安全だけでも確保しなければ!そうでないと、そうしないと絶対にまずい。絶対にいけない。こんなところで思い倦ねてばかりいたら、いずれ絶対取り返しのつかないことが起きて――――
冷や汗と夏に似合わない体温が徐々に効果を広げてきて、最終的に病気にでもかかったように身体の隅々を細かに震わせ始める。
返って冷静さが仇になった。落ち着いて物思いに耽りすぎたせいで、余計に脆弱な恣意ばかりを募らせ、乱雑な柵に囚われて――より彼の精神はゴリゴリと痛々しく削られる。これではもう、取り繕った平常心も全て無駄な老廃物に化すのみ。そうに違いない。
一体どうすればいいんだ――これから何をすればいいんだ――解決しようのない疑問をただただ増やせるだけ増やして、結局後始末は放置する。
パクパクと魚のように開いた口からは、心から溢れた畏怖と鬱屈の入り交じる吐息が、虚しく足元に漏れ落ちるだけだった。
――なんてほざいているあたりで。
「――――――!!!!」
「!」
思考回路がショートした瞬間に合わせ、その虚妄が破裂して弾け飛ぶのを悟っていたかのように、背後で不吉な激しい音がした。
「なっ……」
やけに大袈裟に壮大。聞き間違いではないように思える。まるで既に何が起きたか察していたかのように真紅はゆっくりと首を回し――とは流石にいかず、驚愕のタイミングに一致してほぼ反射的にその方向へと振り向いた。
「…………銃声?」
愛夏もその音に反応したようで、仮眠で眠り込んだ体を早々に起こし、近くにある拳銃を静かに掌握しながら、息を潜めて音のした方向を警戒する。
銃声。確かに真紅もそんな気はしていた。ハッキリとこの冴えた両耳に聞いて取れた上に、かなりその出処もテントの近場からのように思われる。多分、距離にして数百――数十メートルもないかもしれない。
そして、不審がる二人にさらに確信を持たせるように。
「――やっぱり聞こえる。かなり近いね」
繰り返して軽快な破裂音が数回こちらまで届く。これだけの数と頻度。余程白熱した戦闘でないとここまでの連発も考えられないだろう。やはり、どこかで誰かがバケビトと交戦している?じゃあ誰?それは誰だ?例の仲間?別の生存者?それとも――?
――行動に起こさなきゃ結果はやってこない。何事もチャレンジ精神だぞ、真紅くん。
ふと、脳裏に樹のあどけない笑顔と可笑しい台詞が暖かく浮かんで。ついでに殺戮のどよめきを鼓膜でもう一度キャッチして。嫌悪と寒気が肌に付着した少年は、まさに考えるより早く――
「――!?ちょっと!?」
――いや考えこそはしたが。
一足先に――一目散に身体と意識をそちらへと動かしていた。